高村正彦(21)郵政解散

刺客いたらと思うとぞっと
特定郵便局長会と和解折衝

2005年(平成17年)夏、郵政民営化を巡る自民党内の対立は頂点に達した。あくまで民営化を主張する小泉純一郎首相と、全国特定郵便局長会の後押しを受けた反対派は互いに一歩も譲らなかった。

6月下旬、持ち株会社が郵貯会社と簡保会社の株式を継続保有できるようにする修正案が、自民党総務会にかけられた。当時、私も総務をしていた。

四分社化が最善の選択肢なのか。過疎地の郵便局は維持できるのか。議論すべき課題はまだたくさんあった。

私は郵政族ではない。郵政はすでに公社化され、郵貯の自主運用が始まって財政投融資に資金が回る仕組みではなくなっていた。あとは職員を非公務員型にすればよいと思っていた。

総務会は結党以来、ものごとを全会一致で決める慣例だった。ところが、総務会長の久間章生さんが慣例を無視していきなり「議論は出尽くしたようなので、賛成の方は挙手を」と採決に踏み切った。何人かが手を挙げたが、数を確認しないまま、「反対の方は挙手を」。今度は私を含め数人が手を挙げたが、こちらも数えないまま、賛成多数が宣言された。

衆院での法案採決が迫ってきた。高村派の総会で「時期尚早だが、総務会の場で総務会長が賛成多数を宣言した以上は、衆院本会議で私が反対票を投じることはない」と表明した。ふたりの所属議員が「反対もしくは棄権したい」と相談に来た。私は「小泉さんは否決されたら必ず解散する。あなた方は無所属では当選できない。私が右代表で棄権するから、賛成しなさい」と説得した。

そのとき、小泉首相が公認権をフル活用することは予測していたが、刺客を立てるというすごさまでは夢想だにしていなかった。ふたりは賛成票を投じ、いまも現職議員である。

私は採決直前に本会議場の外に出た。法案は5票差で可決されたが、参院では否決された。小泉さんは予想通り、衆院解散に踏み切った。

造反組でも棄権は公認された。公認の件は総務局長だった二階俊博さんに電話したところ、「わかりました。大丈夫ですよ」とのことだった。ありがたかった。

民営化に反対した議員は公認されなかったのみならず、刺客を立てられ、塗炭の苦しみを味わった。公認された棄権組も多くが苦戦したが、私は過去最多の票を得た。それでも、「あのとき、刺客を立てられていたら」と思うとぞっとする。

後日談になるが、全特との和解の折衝は私がした。全特の役員会に単身乗り込み、こんな話をした。「全特ほど地域に根ざした団体はない。自民党ほど地域に根ざした政党もない。互いに親和性があるのに、別れて争っているのはおかしい。主として自民党に原因があると思っている」。率直におわびした。

全特は民営化反対派がつくった国民新党を支持していたが、再び自民党の候補を応援するようになった。

国民新党と組む全特に徹底的にやられた議員の中にはわだかまりもあったようだが、選挙での応援は誰であろうとありがたいものだ。

(自民党副総裁)

高村正彦(20)総裁選出馬

経済政策
路線変更迫る
小泉首相と激しくやり合い

2003年(平成15年)9月、自民党総裁選に立候補した。世論調査では小泉純一郎首相が高い内閣支持率を維持しており、無謀な挑戦との声もあった。なぜ出馬したのかを書いておきたい。

派閥の領袖になり、次代のリーダー候補と目されるようになった。麻生太郎さん、平沼赳夫さん、古賀誠さんと結成した「士志の会」は新聞・テレビに世代交代の波の象徴としてよく取り上げられた。

士志の会に入ったのは、古賀さんに声を掛けられたのがきっかけだ。3人で親睦会をしているので講師をしてほしいとの依頼だったが、終わると「これからは4人でやろう」と誘われた。

そうした中での立候補だった。小泉政権の経済政策には問題が多いので、路線変更を迫る機会にしようと思った。

とりわけ疑問視したのが、国債発行額を30兆円未満に抑制する方針だ。税収が低迷する中で、国債を一気に30兆円に抑え込めば、日本経済は奈落の底に落ち込むが、小泉首相ならば本気でやりかねない。財政再建のためにもよくないと危機感を抱いた。

立候補に必要な20人の推薦人集めは苦労した。その頃の高村派は私を除くと15人。そのうち法相の森山真弓さん、総裁選挙管理委員長の谷川和穂さんは中立であるべき立場だ。谷川さんが「選管委員長としての立場をとるか、高村さんとの友情をとるか」と迫られて、「友情をとる」と答えたという話を伝え聞いて、森山さんと谷川さんは絶対に推薦人にするわけにはいかないと固く決意した。

何とか他派や無派閥から7人を確保し、出馬表明した。

「経済を再建して日本の未来の安心をつくるため、ひた向きに政策を訴えていく」

「いつかやらなければいけない社会資本の整備を厳しいチェック体制のもとで前倒してする」

「少子化対策のため、児童扶養手当を金額、期間とも抜本的に拡充する」

これらを公約の柱に据えて訴えた。ある朝、テレビをつけたら、評論家が「高村は外相狙い。すでに毒まんじゅうを食べたという人もいる」としゃべっていた。冷や飯覚悟で応援してくれている同志に申しわけない。誤解されないように、小泉首相に激しく迫ることにした。

国連安全保障理事会の常任理事国入りに後ろ向きだった小泉首相は「常任理事国5カ国はみな原爆を持っている。国益のために戦争をすることを辞さない国だ。日本がそういう国になりたがっていると誤解されるのはよいことではない」という。

私は反論した。「常任理事国に失礼な話だ。国連憲章は国益のための戦争を禁止している。そんなことも知らないんですか」。テレビを見ていた人によると、小泉首相の顔はこわばっていたそうだ。評論家の言葉に反応して、総理・総裁に失礼な態度をとったのは若気の至りだった。

私に入った議員票は47票だった。基礎票の3倍もの獲得に場内は大きくどよめいた。

「派閥は壊れた」。小泉首相はこのとき、こんな感想を漏らした。

総裁選後、小泉首相は国債発行30兆円枠という公約を実行しなかった。私は小泉政権が終わるまで閣僚や党の枢要ポストには就かなかった。

(自民党副総裁)

高村正彦(19)派閥継承

「旧河本派と呼ばれたい」
伝統の経済政策で勝負

2000年(平成12年)7月、番町政策研究所(旧河本派)の会長に就任した。河本敏夫先生が96年に政界を引退されてからは、谷川和穂さんを代表世話人にしたベテラン議員による集団指導体制をとっていた。そろそろ会長職を復活させてはどうかという声が出ていた。

いちばん据わりがよいのは谷川さんだが、もう少し若い人に派閥を引っ張っていってもらいたい、という雰囲気が広がっていた。

前月にあった衆院選の少し前、現衆院議長の大島理森さんがやってきた。私か臼井日出男さんが会長にふさわしいという話だった。同期の臼井さんは「高村、おまえがやれよ」と勧めてきた。

正直いうと、首相になりたいと思ったことはあっても、派閥の領袖になりたいと思ったことはそれまでいちどもなかった。

私は誰とでも横並びでつきあうタイプなので、誰かと親分子分の関係になるつきあいは、子供の頃からしたことがなかった。

所属する派閥がじり貧になっていくのではないか。若手は心配していた。結局、「臼井さんと大島さんが手伝ってくれるならば」とお願いして引き受けた。

河本先生と同じにできるわけがない。派閥は会長名で呼ばれるのが普通だが、総会で選ばれたとき、わざわざこういった。

「旧河本派と呼ばれることを期待したい。河本派伝統の経済政策で自民党を引っ張っていきたい」

翌年、名誉会長の河本先生が亡くなられて、高村派と呼ばれるようになった。

領袖になったからには、勢力の拡大に努めなくてはいけない。その頃は派閥にひとりもいなかった参院議員を確保する。これを目標にして動いた。

法相のとき、中央大の先輩の沖村憲樹さんが山東昭子さんを大臣室に連れてきた。96年の衆院選に落ちてからは選挙に出ていなかったが、まだやれる人だ。かつて田中~竹下派に所属していたので、橋本龍太郎さんに話を通したうえで01年の参院選の比例代表に擁立し、国政に返り咲いてもらった。

同じく応援した有村治子さんも同じ比例代表で無事当選した。何とか領袖としての面目を保った。

12年9月、自民党副総裁を拝命し、党役員は派閥を抜けるという慣例に従い、会長は大島さんにお任せした。大島さんは15年4月に衆院議長に就いて自民党籍を離れた。後任は山東さんだった。

山東派は先月、麻生派などと一緒に新派閥「志公会」に合流した。中堅の江渡聡徳さんらが、麻生派の松本純さん(前国家公安委員長)らと交流するうちに始まった話で、最後は山東さんが決断した。麻生太郎さんに頼まれた私が決めたと思っている向きがあるようだが、必ずしも正確ではない。

志公会の顧問になってほしいと頼まれたので、お引き受けした。

河本先生が派閥を創設してから37年。番町の名前が消えたのは少し寂しかったが、保守本流と保守清流が一緒になった。

清い大きな流れとなり、国民のために貢献していきたい。

(自民党副総裁)

高村正彦(18)イラク戦争

「私がブッシュならせず」
収束後、現地で復興支援探る

2001年(平成13年)9月の米同時多発テロは、国際情勢を激変させた。ブッシュ米大統領はテロ掃討のため、アフガニスタン、続いてイラクでの戦いに踏み切った。小泉純一郎首相は支持を表明し、戦闘が収束すると復興支援のため、イラクに自衛隊の施設部隊を派遣した。

米国はイラクに攻め込む理由を「フセイン大統領は大量破壊兵器を隠し持っている」と説明した。それが間違いだったことで、米国の威信は大きく傷ついた。戦争を支持した英国、スペインなどの首脳も批判にさらされた。

イラク戦争についてコメントを求められると、こう答えることにしている。「もしも私がブッシュだったらやらなかった。私が小泉首相の立場でも『支持する』という」

ドイツの議員団が来日したとき、「我々はブッシュを支持しなかった。日本はどうして支持したのか」と尋ねられた。「ソ連の中距離核ミサイルSS20がドイツに照準を合わせていた頃でも支持しなかったのか」と聞くと、一転して「自国民の安全を最優先するのは政治家として当たり前だ」と納得してくれた。

小泉首相がブッシュへの支持を表明する前、戦争を回避するため、日本としてできる限りの努力をした。どうすれば国際機関による査察をイラクに受け入れさせることができるのか。02年秋、首相特使をイラクの周辺国に派遣することになった。

中山太郎元外相がイランに、茂木敏充外務副大臣がヨルダン、シリア、トルコに向かった。私の担当はエジプトとサウジアラビアだった。この2カ国は私でなければ首脳との会合がセットできないとのことだった。

エジプトではムバラク大統領に会い、イラクが査察を受け入れるように影響力の行使をお願いした。万が一の場合の邦人の待避への協力も要請した。ムバラクは「できるだけ努力しよう」といった。

サウジアラビアでは病身のファハド国王に代わって政権を掌握していたアブドラ皇太子に「日本は平和的解決を希望しており、イラクへの働き掛けをしてほしい」と頼んだ。皇太子は「努力する」と答えるとともに「米国は日本占領の成功に倣い、イラクを間接統治したいようだが、イラクには日本の皇室のような中心がない。失敗するのは目に見えている」といった。私も同感だった。

戦闘が収まった03年夏、衆院イラク復興支援特別委員長としてイラクに入り、日本ができる復興支援は何かを調査した。駐留米軍のサンチェス司令官らから話を聞いた。

「同盟国の日本が軍隊を送って戦闘に参加しないのはおかしい」。サンチェスは日米安保体制をよく知らないようだった。日本は憲法の制約があること、世界で最も改正しにくい憲法であることを説明し、「占領中に憲法をつくらせる場合、改正しやすい憲法にすべきだ」と話した。

人道復興支援のため、自衛隊を派遣する法案はすでに成立していた。どこならば安全か。サンチェスは「米軍への攻撃の85%はバグダッドから北西に広がるスンニ派イスラム教徒地域に集中している。それ以外の地域は比較的安全だ」と教えてくれた。

政府が自衛隊の派遣先をサマワに絞り込んだのは03年11月だった。

(自民党副総裁)

高村正彦(17)対外援助

自ら立つ力養う、日本流
アジアの成功をアフリカに

2001年(平成13年)2月、愛媛県の高校生が乗った練習船「えひめ丸」がハワイ沖で米原潜と衝突して沈没する惨事が起きた。事故後も森喜朗首相がゴルフを続けたことが批判され、内閣支持率は急落した。

法相として開く記者会見でも、政策課題よりも内閣の先行きについて聞かれることが増えた。

「人気はなくても任期がある。民主主義はルールと手続きだ。任期中にほかの人が森おろしをするという手続きはない。森おろしができるのは自身だけだ」

私はそう答えた。前年の加藤の乱のとき、「ラグビーに例えれば、『ボールをこっちへ回せ』と声を掛けるまではよい。だけど、ボールを渡さないからと味方が味方にタックルしてはだめだ」と話したことがあった。

同じ話をしたつもりだったが、その日の夕刊に「高村法相、首相辞任促す」という記事が載った。結局、森さんは4月に自ら政権を去った。後継を選ぶ総裁選は「自民党をぶっ壊す」とぶち上げてブームを巻き起こした小泉純一郎さんが勝利した。

小泉政権では02年、自民党の対外経済協力特別委員長に就いた。改革開放路線が軌道に乗り、経済規模を拡大させつつある中国にいつまで政府開発援助(ODA)を供与するのか。党内に打ち切り論が噴出していた。

私も同じ問題意識は持っていた。国ごとのODA供与額は1年ごとに決める仕組みなのに、中国向けだけは数年単位で総枠を定めていた。98年に外相になると、他国と同じく1年単位にさせ、額も徐々に減らさせた。

とはいえ、いきなりゼロにしたら、小泉さんの靖国参拝でこじれていた日中関係がさらに悪化しかねない。「中国は08年に北京五輪、10年に上海万博を開く。日本も韓国も五輪や万博の頃に国際社会からの援助を卒業できた」。私はそう発言し、段階的に終了する道筋をつけた。対中円借款は08年が最後になった。

ここでODAについて書いておきたい。日本の対外援助は理念がなく、単なるばらまきだ、との批判がある。

これまで米国は主に中南米に、欧州はアフリカに、日本はアジアに援助してきた。どの地域が最も発展したのか。答えは明らかだ。

貧しい人に施しをする欧米流の援助は一見すると美談だが、それで貧困はなくならない。戦後の日本は世銀などから借金をし、それを返そうと皆で必死に働いて高度経済成長を成し遂げた。

そうした経験を伝えるのが日本流の援助だ。魚を与えるのではなく、釣りざおを貸して釣り方を教える。皆が自力で釣れるようになれば、社会全体が豊かになる。

アジアの成功体験をアフリカにも広げる。日本が主導して93年から6回開いているアフリカ開発会議(TICAD)はとても重要だ。私は98年と08年の二度、外相として会議を切り盛りした。

TICADのキャッチフレーズは「オーナーシップとパートナーシップ」である。

この理念はいまでは世界の援助の主流になりつつある。要するに、日本はお手伝いしますが、自分でやらなければだめですよ、という意味だ。

(自民党副総裁)

高村正彦(16)司法制度改革

法科大学院構想に懸念
「予備試験」の道確保に目配り

2000年(平成12年)12月、森喜朗首相に法相に任じられた。半年前に旧河本派を継承したばかりだったので、閣僚経験のない若手を押し込もうとしたが、森さんは「あなたにぜひ、入ってほしい」と譲らなかった。

加藤紘一さんの反乱があった直後の人事だったので、重量級の顔ぶれにしたかったようだ。宮沢喜一財務相と河野洋平外相の留任に加え、橋本龍太郎氏が新たに入閣し、自民党総裁の経験者が3人も顔をそろえた。新人の入閣は4人だけだった。

森内閣は行政改革に力を入れていた。翌年1月の省庁再編に向けて、霞が関のスリム化が課題だった。

職員削減は官僚の不満を抑えるため、どの省庁も一律に減らしがちだ。法務省は人的な役所であり、削減余地が少ない。入国管理局や公安調査庁があまりにも手薄だった。「各省ごとでなく、政府全体でメリハリを考えなくてはいけない」と声を上げた。入管は世界標準の半分の約2000人しかいなかった。グローバル化時代に、これでは治安は守れないと危機感を抱いた。

公務員の定員を管理する総務省行政管理局長に掛け合うと「政治家は増やすことばかりいって、減らすところをいってくれない」と応じない。「だったら、まず行政管理局を廃止しよう」と迫り、次年度以降の定員増を勝ち取った。いま入管の職員数は当時のほぼ2倍になった。外国人観光客を増やすには入国審査官などをもっと増員しなくてはならない。

その頃、司法制度改革審議会は司法試験の合格者の増員に取り組んでいた。私の頃は年500人程度だった合格者を一挙に3000人に増やす構想が進んでいた。

私は合格枠を広げるべきだと考えていたし、司法研修所の定員を増やそうと、日弁連会長だった中坊公平さんと大蔵省に要請に行ったこともあった。その私から見ても、3000人は全く現実離れした感があった。

弁護士はオン・ザ・ジョブ・トレーニングで一人前になる。私もなって3年は先輩弁護士の事務所に居候した。急に弁護士を増やしたら、引き受ける事務所が足らず、勉強の場がないまま、放り出される。私の懸念はその後、的中した。

それ以上に問題だと思ったのは、新設する法科大学院に通わないと司法試験が受けられない仕組みだった。「経済的、時間的に余裕のない人も弁護士になれる制度が必要だ」。大学院を出ていなくても司法試験に進める予備試験というルートを残した。

法相退任後も「法曹養成と法曹人口を考える国会議員の会」の会長や顧問として、予備試験の門が狭まらないように目配りしている。

法相がいちばん話題になるのは死刑を執行したときだ。就任時の記者会見で「命令書にはんこを押しますか」と聞かれた。

「日本は法治国家です。裁判所が決めたことを精査し、間違いがなければ判を押すのは当然でしょう。特別の信念があって押したくない人がいてもよいが、そういう人は法相を受けるべきではない」と明言した。

在任中、いちども死刑事案は上がってこなかった。2001年4月、森さんが首相を退き、法相は5カ月弱で終わった。

(自民党副総裁)

高村正彦(15)周辺事態法

首相答弁
さりげなく修正
「スーパー政府委員」と呼ばれ

「日本の外交は、日本の国益を守るために行う。平和と安全を守る、豊かな国をつくる、そして世界から尊敬される日本にする。それらをひっくるめて外交を行う」

外相に就任した直後、こんな演説をした。当たり前のことをいったつもりだった。外務省内に話が広まると、若手の職員が次々とやってきて、「大臣、ありがとうございます」と感謝された。

国益という単語を口にすると、戦前日本に結びつけて批判する勢力があったせいか、いいにくい雰囲気があったらしい。外交とは、相手とただ仲良くすればよいわけではない。目標を定め、実現するにはどう押し、どう引けばよいのかを考える仕事だ。

ただ、近年は目先の国益ばかり強調する政治家や官僚が増えている。冒頭の演説では「守るのは、目先の国益でなく、中長期の国益である」とも指摘した。何が国益かをよく考えて、振り子がいずれかに振れすぎたら、素早く真ん中に戻すことが大事だ。

現在に続く日米同盟の強化の出発点は、1997年の日米防衛協力の指針(ガイドライン)の改定である。日本の平和と安全にかかわる「周辺事態」に両政府が連携して対処することなどで合意した。

それを受けて周辺事態法を制定することになった。政務次官当時の困難な交渉によって「トラブルシューター」と呼ばれたが、法的論争はもっと得意だ。

野党は自衛隊がいまにも戦争を始めるかのようにいい、審議はかなり紛糾した。外務省幹部ら政府委員の答弁を聞いていて、正確ではあってもわかりにくい答弁が多いことに気付いた。

多国籍軍への武器・弾薬の輸送を巡り、「憲法に抵触しているから、あり得ないということか」と聞かれた小渕恵三首相が何気なく「その通り」と答えたことがあった。米軍への後方支援の拡大を進めるとき、この答弁は支障になりかねない。私はすぐに「政策判断としてケース・バイ・ケースである」と軌道修正を図った。

政府委員として出席している外務省や防衛庁の幹部よりも、私の説明の方がわかりやすい。政府委員の答弁をたびたび私が整理した。それで「スーパー政府委員」とあだ名がついた。

当時は不愉快だったが、皆の記憶に残ったという意味で、そう呼ばれてよかったかなと思っている。

1度目の外相時代の仕事として、最後にイラン訪問に触れたい。外務政務次官時代にも訪れた国だ。ところが、米国から横やりが入った。オルブライト国務長官が「マサ、行かないで」というのだ。

オルブライトは私が頑固なことを知っていたので、言葉を続けて「どうしても行くならば、米国のイランへの懸念を伝えてほしい」といった。特にイランではユダヤ教徒がスパイ容疑で拘束されていて、心配だというのだ。

99年8月、テヘランでハラジ外相に会った。大量破壊兵器を保有していないかを問いただしたあと、ユダヤ教徒の扱いも聞いてみた。「弁護士はきちんとつける」「平時のスパイ容疑に死刑はない」などの回答を得た。

米国に伝えるとオルブライトは大層喜んだ。

(自民党副総裁)

高村正彦(14)インドネシアで

紛争解決屋
三たび奔走
通貨危機、東ティモール…

「日本のトラブルシューター」。難題があるたびに引っ張り出される私にそんな呼び名をつけてくれたのは、国連大使をしていた小和田恒さんだ。翻訳すれば「紛争解決屋」である。

1997年(平成9年)夏にタイで始まった外国為替相場の激変は、脆弱だったアジア経済に打撃を与えた。国際通貨基金(IMF)のミシェル・カムドシュ専務理事が腕組みをして、合意文書に署名するスハルト大統領を見下ろす姿にインドネシア国民は憤激した。大統領は国民世論の前に合意の実行を渋っていた。

世界規模の金融恐慌に発展させるわけにはいかない。98年1月、外務政務次官だった私は橋本龍太郎首相の特使としてインドネシアに飛んだ。現地通貨ルピアは日々、暴落していた。

「約束したことは実行すると、いま言ってほしい」。懸命に説得した。スハルト大統領は最後に「IMFとの40項目合意を断固実施する」と述べた。会談後に世界に伝わるようにテレビカメラに向かって、その旨を話した。1ドル=1万6000ルピアまで下落していたのが、1万2000ルピアへと戻った。

外相になっていた99年、再びインドネシアに世界の注目が集まった。東ティモール問題である。国連監視下の住民投票で独立賛成が78%を占めたのに、反対派の民兵らが住民を虐殺する暴挙に出た。

開催中だったアジア太平洋経済協力会議(APEC)の場で、議長国ニュージーランドなどは国際部隊の派遣を主張した。拒否すればインドネシアが国際社会で孤立することになるのは必至だ。

「ランチに行こう」。ハビビ大統領の代理で出席していたギナンジャール経済調整相を誘い出した。彼は東京農工大に留学した際、少林寺拳法を習っていたので、以前から友人だった。

国際部隊を受け入れるように説得すると、彼は苦渋の表情を浮かべた。

「血を流して守ってきた領土を切り離すのだから、国内的な根回しが必要だ」
「どれくらい」
「1週間」
「国際社会はそんな雰囲気ではない。すぐ受け入れろ」

私は友人として本音で話した。その晩遅く、ギナンジャールからハビビが同意したとの連絡があった。

インドネシアとの縁は続いた。2001年、法相のときだ。食品大手「味の素」の現地法人の幹部が逮捕された。イスラム教徒が食べてはいけない豚から抽出した酵素が味の素に含まれているというのだ。

直後のインドネシア訪問でマヘンドラ法相に事件解決を迫った。本来の訪問目的である法制度の整備支援は脇に置いた。

「内政問題だ」
「日本の法相が日本人の安全や人権に関心を持つのは当たり前だ」

会談は平行線に終わり、次に予定されていたワヒド大統領への表敬もなかなか始まらなかった。ようやく部屋に招き入れられると、そこにマヘンドラもいた。ぎりぎりまで相談していたのだろう。

ワヒドは「味の素はイスラム教徒が食べてもよい。私も毎日、食べている」と明言した。トラブルシューター冥利に尽きる出来事だった。

(自民党副総裁)

高村正彦(13)日中韓

江氏訪日延期に胸騒ぎ
態度硬化
歯車狂わせた洪水

外交は最善を尽くしても、想定外の結末を迎えることがある。

1998年(平成10年)7月、参院選で自民党が敗れ、首相は橋本龍太郎さんから小渕恵三さんに交代した。私は外相に起用された。1週間ほど前、マニラで会った中国の唐家璇外相に「今度の外相、おたくでしょ」と予言された通りになった。

就任直後、国会で竹下登元首相にばったり出会った。「小渕が訪中するはずだったのに首相になってしまった。高村さんが行くのも一案と思うがな」。新米外相でも、すぐ行った方がよい。そう思っての助言だったのだろう。外務省に戻ると、柳井俊二事務次官らを集め、訪中を決めた。

北京で再会した唐外相との話し合いは順調に進み、9月の江沢民国家主席の来日時に「21世紀に向けた長期的な協力関係」を示す共同文書を発表することを確認した。「過去にしがみついて、おたくに迷惑はかけません」。唐外相の言葉にほっとした。

他方、10月に韓国の金大中大統領の来日が予定されていた。金大統領はしきりに「20世紀に起きたことは20世紀のうちに終わらせましょう。いちど文書であやまってもらえば、二度と過去のことを持ち出すことはありません」といってきていた。

金大統領は日韓関係の改善に本気で取り組んでいる。そう判断した小渕さんは「韓国にはいちど文書であやまろう」と決断した。

8月下旬、江主席の来日が急に延期になった。揚子江流域などで水害が起き、江主席が救援の陣頭指揮をとることになったのだ。

事情が事情であり、延期を了解したが、内心では「神様のいたずらではあるまいか」と悪い予感がしていた。

10月の金大統領の来日は大成功だった。首脳会談で、小渕さんは「過去の一時期、植民地支配により、多大な損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受け止める」と謝罪した。金大統領は「今後、過去の問題を持ち出さないようにしたい。将来についても自分が責任を持つ」と答えた。共同宣言には、日本の「痛切な反省とおわび」が盛り込まれた。

日韓が新時代を迎えたのと裏腹に、中国は態度を急変させた。「先の戦争での中国の被害は韓国より何百倍も大きい」として「おわび」の表現を求めてきた。11月の江主席来日の前日に到着した唐外相は「韓国との文書におわびを入れて、中国とのには入れないのは納得できない」と迫ってきた。

私は「韓国と結んだ基本条約は過去に触れていない。中国とは国交正常化の際、共同宣言に『多大な迷惑をかけた責任を痛感し、反省する』と書き込んだ」と反論し、文書化に応じなかった。小渕さんが口頭でおわびすることで決着した。

翌日、中国元首として初めて来日した江主席は不満だったのだろう。日本批判を繰り返した。韓国よりも中国が嫌いという日本人が急増した。

その後、韓国も政権が交代するたびに歴史問題を蒸し返すようになった。中韓との摩擦にはさまざまな要因があり、あの夏の洪水がなければ万事うまくいったとは言えない。外相就任から4カ月、国益を守ることの難しさを痛感した。

(自民党副総裁)

高村正彦(12)ペルー人質事件

カストロに説得役依頼
拒否直後、夕食会で関係築く

1996年(平成8年)10月、6回目の当選を果たした。加藤紘一幹事長から呼び出しがあった。橋本龍太郎首相が大蔵、外務、農水3省の政務次官に閣僚経験者を起用するという。「外務をやってくれないか」と頼まれた。

官房副長官以外の政務次官に閣僚経験者を起用した例はなかった。私は外交・安全保障がライフワークなので、格下げ人事は気にならなかった。

だが、河本敏夫先生に命じられ、番町政策研究所(河本派)の事務総長への就任が既に決まっていた。「今回は遠慮させていただきます」と断ると、すぐに梶山静六官房長官から電話があった。「もう派閥の時代じゃないだろ」。結局、河本先生の了解を得て政務次官になった。

12月17日、ペルーの日本大使公邸で事件が起きた。左翼系の反政府ゲリラMRTAが襲撃し、天皇誕生日の祝賀レセプションに来ていた各国からのゲストを拘束したのだ。

池田行彦外相がペルーに飛び、フジモリ大統領に人命最優先で臨むよう要請した。ペルー軍はいまにも実力行使に踏み切る構えだった。

フジモリがMRTAに屈するとは思えないし、ゲリラがやすやすと投降するとも思えない。ゲリラが尊敬するキューバのカストロ国家評議会議長の説得以外に道はない。事件発生直後、私はそう提言し、自らキューバに行くといった。

実は私は政務次官になってすぐ、「キューバ、イラン、ミャンマーに行くからな」と宣言していた。いずれも米国と疎遠だ。世界から孤立して戦争に突き進んだ戦前日本の経験を伝えることで、世界平和に貢献したいと思っていた。全く違う目的でキューバに行くことになった。

フジモリに仁義を切るため、まずペルーに向かった。会うと意外な言葉があった。「カストロに説得を頼んだら断られた。日本のいうことは聞くかもしれない」。そうしてよいかと聞こうとしていたことを、フジモリの方から頼んできたのだ。すぐにハバナに向かった。

革命宮殿で会ったカストロは説得役を引き受けてくれなかった。「電話など世界中に聞かれてしまう」とけんもほろろだった。ところが、日本大使公邸で開いたラヘ副議長との夕食会に突然、カストロも姿を見せた。さっきと同じ話はしなかった。ワインの話、野球の話。すっかりうち解けたカストロは「これから仕事がある」と帰って行った。

4月22日、ペルー軍が公邸に突入し、事件は終わり、日本人は全員、無事救出された。カストロからMRTAに宛てた「キューバはよいところだから来い」という内容の手紙が見つかった。仕事とはこのことだった。射殺されたゲリラはサッカーごっこに興じていたそうだ。カストロが乗り出してきたので、もう突入はないと気が緩んだのだろうか。

事件のさなか、ワシントンにある日本大使館から報告があった。「公邸近くの家にトラックが来る。行きは普通だが、帰りはタイヤがへこんでいる」。だから、特殊部隊が地下にトンネルを掘って突入する選択肢も追求していることを私たちは知っていた。

情報を聞き込んだのは藤崎一郎という公使だった。私が2度目の外相を務めていた2008年、駐米大使に起用した。

(自民党副総裁)