斉藤惇(18)産業再生機構

トップ就任当初は辞退
官僚自宅に押しかけて説得

住友生命保険の資産運用子会社には社長、会長として3年間ほど在籍した。

企業統治改革をテコに運用のプロ集団をつくる考えに、親会社も当初は理解を示してくれた。しかし、人事ローテーションで理解者が減ると空気が変わった。運用会社に転籍した社員の処遇に対して「親会社の評価はもっと高い」などと口をはさまれるようになった。

社内の公用語は英語から日本語に戻った。運用会社の経営に専念してきた私が、保険営業のためのイベントに出席するよう求められた。投資先企業への議決権行使も、親会社の営業部門には歓迎されていないようだった。

2000年には米国発のネット株バブルもはじけ、肝心の運用成績も決してよくなかった。居心地が悪くなってきたので、私から住友生命の横山進一社長に「辞めさせていただきたい」と申し出た。02年の冬だった。

年が明けて03年。無職の私は東京・町田の自宅で趣味の庭いじりに精を出していた。「これも悪くないぞ。そろそろ休んだらどうだ」。心の声が言い始めていた。

2月のある日、旧大蔵官僚の小手川大助氏から電話があった。「産業再生機構のことですが・・・」。その組織の名前だけは知っていた。不良債権問題を抜本処理するために設立が決まった公的機関で、新聞報道によれば私とは別の証券関係者が社長候補に浮上していた。しかし話を聞くとトップの人選は難航しており、私に引き受けてほしいということのようだった。

「私は公的な仕事をするガラじゃないよ」

「そんなこと言わずに、もう少し詳しい話を聞いてくれませんか」

こんな押し問答をしているうちに、谷垣禎一産業再生担当相にお目にかかることになった。指定の場所に行くと、谷垣大臣は開口一番「このたびはありがとうございます」。もう外堀は埋められているのか。官僚の手はずの良さにあきれ、感心さえもしたが、即答せずに帰宅した。

その日の夜、小手川氏ともう1人の旧知の官僚である大森泰人氏がワイン持参で自宅にやってきて、こんこんと諭された。妻にも「ここまで言って下さるんだから受けたらどう?」などと言われ、ついに内諾した。

すると、玄関から「ピンポーン」の音。人事のにおいをかぎつけた某記者が夜回り取材にやってきたのだ。今、この場のやりとりを知られたら世間は大騒ぎになり、まとまる話もまとまらない。いつもは自宅に記者を上げることが多い私も、この時ばかりは玄関口でぶっきらぼうにあしらってしまった。

2月末、私が産業再生機構の社長になると報じられた。自宅への取材攻勢が始まった。黒塗りのハイヤーだけでなく、テレビ局は放送車を家の前に横付けにした。居間にカメラとライトが据えられ、即席の会見をしたこともある。ワイドショーに追いかけられる芸能人のような気分だった。

拙宅に押しかける記者の方々を前に、私は妙な感慨に浸ることがあった。毎晩、この場所で、証券不祥事について責められながら取材を受けていたのは、ほんの6~7年前のことなのだ、と。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)

斉藤惇(17)資産運用会社に

親会社への従属変える
企業統治進め公用語は英語

1997年4月末に野村証券の副社長を退任し、同じ年の5月から98年10月まで、顧問として野村にとどまっていた。部屋は東京・日本橋の野村ビルから道を1本隔てた第二江戸橋ビルに移った。総会屋親族企業への利益供与や、その後に問題化した過剰接待の取り調べが終わるまで、野村を離れるわけにはいかなかったのだ。

事態が落ちついたら、一日も早く野村を去るつもりだった。OBがぶらぶらしていては経営陣がやりにくいだろうと考えたからだ。それに、そもそも不祥事などに関わりなく、退任した役員はスパッと組織を去るのが野村の伝統であると思っていた。

市場相手の商売をする者として、部下には日ごろから「マーケットでビッドがかかるようになれ」と言ってもいた。ライバル会社から引き抜きの誘いがくるプロフェッショナルを目指せという意味だ。

間もなく59歳になろうかという私は、野村マンとして言行一致の引き際を見せたいと思っていた。自分で履歴書を書いて、管理職専門の人材あっせん会社の面接を受け、転職の紹介が来るのを待った。けれど、意外に話は少なかった。不祥事を起こした野村という会社への警戒感がまだ強かったようだ。

そんな中で、住友生命保険からお話をいただいた。系列投資顧問会社のトップとして、高い運用力を売り物にする組織を作りあげてほしい、という内容だった。

バブル崩壊により、「ザ・セイホ」と呼ばれた日本の生命保険も運用力の立て直しが急務になっていた。系列運用会社のテコ入れはそうした試みの1つだった。

資産運用という仕事が経済の中でいかに重要な役割を果たしているか、私は米国勤務を通じてよく理解しているつもりだった。組織づくりや運営などを任せてくれることを先方に念押ししたうえで、お話を受けた。

住友生命と野村は、企業同士の関係が決して深いほうではなかった。私が野村グループの外に転身すると知って、驚かれた方も多かったようだ。「右も左も分からないところで、斉藤は本当にやれるのかい」。そんな声も耳に入ってきた。

今はかなり改善されたようだが、当時の日本の大手運用会社は親会社である銀行、証券、保険の影響力を強く受けていた。私の目には独立したプロ集団ではなかった。

親会社への従属を変える切り札の1つが、企業統治だった。独立した社外人材を取締役会に迎えたり諮問委員会を作ったりして、経営に外の目を入れた。

親会社から出向していたファンドマネジャーには転籍をお願いした。さらに運用の統括責任者にピーター・イードンクラークという英国人を他社から引っ張り、社内の公用語も英語とした。世界で勝負する専門集団になるためには、これくらいやって当然だと思っていた。

「社会のニーズにプロとして応える会社になりたい」。社長就任前後のメディアの取材や社内向けスピーチでは、こんな抱負をくり返し語ったものだ。

一連の改革は私の後に運用会社の社長になった住友生命の井上恵介氏が大変サポートしてくれた。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)

斉藤惇(16)総会屋事件

「野村が倒れてしまう」役員退任
「宇宙人」に再生託す

「エクイティ担当の役員が証券取引等監視委員会に調べられているらしい」。そんなささやきを社内で受けたのは、1996年の秋だったと記憶している。「え、何があったの?」と聞き返すと、「何もないと思いますけどね・・・」と歯切れの悪い答えしか返ってこなかった。

やがて、一部の報道が先行し始めた。野村証券が総会屋の親族企業との間で一任勘定取引の契約を結び、利益供与をしている---。伝えられる内容が事実だとしたら、商法や証券取引法の違反は明らかだ。背筋に寒けが走る思いだったが、正直言って「さすがにそこまでは」という気持ちもあった。

わずか5年前に損失補填の事件を起こし、営業や内部管理などあらゆる面で改革を進めてきたという自負が、私を含めた経営陣にはあった。お客さんとのトラブルがあるなら早く解決して、致命傷になるのを避ければ良い。そう言う同僚もいた。

「朝日新聞が書くようだ」という情報が伝わったのは、96年暮れ。新年元旦かと思ったら、大みそかの朝刊1面アタマに「野村証券、総会屋親族企業に利益供与か」の横見だしが躍った。

97年の新年ほど、大発会を重い気持ちで迎えたことはない。改めて本格的に調べようということで4人の調査チームが結成され、副社長の私がヘッドになった。疑わしい役員は2人いた。休日に彼らを呼び出して詰問すると、結果はクロ。3月6日に東京証券取引所で急きょ会見し、調査内容を報告した。

「会社ぐるみではないのか」「91年の損失補填事件の反省はどこに行ったのか」「経営責任は」。東証兜クラブの記者の質問は殺気すら帯び、一つ一つ心に刺さった。

3月14日には酒巻英雄社長が辞任。25日に東京地検特捜部と証券取引等監視委員会が、日本橋の野村本社に強制捜査に入った。

捜査は深夜に及び、本棚や引き出しの資料が乱雑に段ボール箱に詰められていく。地検の方から帰ってよいと言われても、メディアはまだ本店を取り囲んでいた。めったに使わない裏口から出て、川沿いを社員に懐中電灯で誘導され、大通りに待たせた車に乗り込み帰宅した。日付は変わり、午前2時を回っていた。

翌朝。台風の直撃を受けた後のように荒れて散らかった社内で、役員が顔を合わせた。野村が倒れてしまう。だれもが危機感を抱いていた。

結局、私を含む5人の副社長と4人の専務を含む合計15人の取締役が退任し、新しい社長に氏家純一常務が就任する人事が決まった。

シカゴ大学大学院経済学博士という異色の経歴を持ち、野村で主に国際畑を歩んだ氏家常務を、周囲は「宇宙人」とか「火星人」と呼んでいた。彼なら野村の古さを一掃してくれる。そう期待する向きは多く、私も彼を推した。

折しも、日本版ビッグバンが始まろうとしていた。氏家社長は攻めの戦略にも力を尽くしたが、法令順守などにも労力を割かざるを得なかったようだ。

野村の苦境を見計らうかのように、米ウォール街の金融機関が日本に攻勢をかけてきた。退任後の私はもはや見守るしかなかった。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)

斉藤惇(15)失われた10年

損失補填
噴き出す批判
会社の体制整えまだやれる…

1990年代を「失われた10年」と言うことがある。野村証券にとっては、経営の古層に堆積した矛盾や古さが一気に噴き出し、手が届いたかに思えた世界との距離が再び開いた歳月だった。

若い方々のために、当時の野村と証券業界の状況を少し語りたい。

91年に損失補填問題が発覚した。公的年金や共済の運用基金、さらに営業特金と呼ばれる企業向けの財テクファンドで発生した損失を、野村をはじめとする証券会社が肩代わりしていたのだ。

バブル期には企業も個人も財テクに飛びついた。証券会社は企業の大口取引に熱心で、せっせと営業特金をつくった。しかし、さすがに不健全ということになり、当時の大蔵省が営業特金を投資顧問会社に移すことにより解消するよう指導を始めた。問題となった補填は、このファンド移管の際に起きた。

当時、損失を補填することの可否はあいまいなまま放置されていた。証券会社は企業との関係をおもんぱかり補填した。バブル崩壊後の株価下落で同じように損失を抱えたのに企業だけ補填されるのは、個人の目に不公平と映って当然だった。

ほぼ同時期に野村では、系列ノンバンクによる反社会勢力への融資が発覚。さらに野村の筋書き通りに株価を上げようとする強引な営業も批判されるなど、逆風は強まる一方だった。そこで、田淵節也会長と田淵義久社長が退陣し、経営の一新を図った。

バブル期前後の私は、債券の取引や、証券化商品などを開発する部門を担当する役員だったので、企業向けの営業特金を巡る損失補填問題では外野の立場だった。けれど、株式営業の実情は支店の経験でだいたい分かった。大口注文を出してくれるお客さんと親密になり、先方から運用を半ば託されるようなこともないわけではなかった。

基本的に株価は右肩上がりだったから、大きな問題はなかった。それと同じことを法人向けに大々的にやり過ぎてしまったのだ。

92年には外債の不適切販売問題も起きた。

野村は89年と90年に、米国不動産の賃貸収入をもとに証券化商品をつくり、国内のお客さんに外債として販売した。最初は法人向けだったのだが、売れ行きが良いので個人営業の部門も売らせてほしいと言ってきた。

担当役員だった私は「リスクの高い商品だからきちんと説明するように」と念を押す立場だった。残念なことに見通しが外れ、米国の不動産市況が悪化して外債の値段も下がったため、営業部門に苦情が相次ぐようになった。

点検してみると、リスクの説明が十分ではなかったという結論になった。そこで200億円を超える賠償をすることにした。その責任をとる形で私は92年の12月、専務から常務へと降格された。

損失補填や外債販売でメディアや世論の厳しい批判を浴びた。反省すべきは反省し、時代に即応して体制を整えれば、まだまだ野村はやれると信じていた。実際、90年代の半ば以降、ITの刷新や管理会計の整備などを進めた時には、効率的で透明な組織になったと手応えを感じていた。

まさか、さらなる不祥事があるとは思わなかった。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)

斉藤惇(14)バブル

注文多く作業終わらず
利益日本一でも「倍増目指せ」

野村証券は1987年9月期の決算で4937億円の経常利益を上げ、利益日本一になった。野村元会長の田淵節也氏はかつて「私の履歴書」欄で当時に触れ「今考えれば間違っていたが、その時点で世界一の金融機関になったと思った」(2007年11月24日付)と語られた。

あの頃の野村が本当に世界一だったかどうか、よく分からない。しかし翌88年も4000億円超の利益を上げ、少なくとも日本市場では圧倒的な存在だという自信が、社内に満ちていた。

私は債券のほかに、株式と債券をかけあわせた「転換社債」や「ワラント債」という商品の売買も目配りしていた。野村というと株式の会社というイメージを持つ方も多いだろう。しかし、債券や転換社債、ワラント債の売買も株式と並んで大きな収益を上げていたのだ。

はたから見ていると、株式部門の人たちが「債券に負けるな」と営業にまい進する様子が分かった。バブル期の野村を活気づけていた1つの要因は「株式対債券」の社内競争だったと思う。

そうした中で、株式グループから出てきたのが、東京湾岸に土地を持つ企業の含み益を企業評価に反映させる「ウオーターフロント銘柄」だ。東京・兜町の本屋で、どの企業が土地を持っているかを記した地図が売れている。そんな話も耳にした。

「何をむちゃな」。私は冷ややかに見ていた。だが、債券グループの実情も今考えれば、決して褒められたものではなかった。

野村の債券部門が得意としていたのは、生命保険会社や長期信用銀行、全国津々浦々の農林系金融機関などを巻きこんだ、大がかりな回転売買だった。野村の動きと異なる売買をしかけてくる一部の大手証券や銀行に対して、資金量と動員力で立ち向かって撃退する。そんな興奮もしばしば味わった。

バブル期には転換社債やワラント債の売買も活発だった。あまりに注文が多くて事務作業が追いつかず、関連部署の社員が午前2時、3時まで働くこともしばしば。「ウチの娘が帰ってこないんだが」と心配した親御さんの電話を受け、「ええ、まだここで働いています」と答えて絶句されたこともある。

ある時、野村の某首脳が私のところにきて「1兆円くらいの利益を目指せないか」と言ったことがある。4000億~5000億円の利益を出せるなら、それを倍増させようという、分かりやすくて威勢の良い話。現場にハッパをかけていたのだ。

「さすがにそれは」。自信満々だった私も言葉につまった。普通の債券取引は徐々に稼げなくなっていた。ワラント債の債券部分を外したワラントだけの売買は収益を上げていたが、取引価格の設定は透明性に欠け長続きしそうになかった。「現状は利益の質が良くないですね」。某首脳にそう答えた。

日経平均株価は89年の大納会で史上高値をつけた後、90年から下落基調をたどった。壮絶なバブル崩壊の物語の始まりだった。株価は経済の先行きを実によく示している。野村の株価は日経平均に先立ち、87年4月に5990円の史上最高値をつけた後、下げ始めていた。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)

斉藤惇(13)89回債巡る発言

「公定歩合市場が決める」
日銀「野村から始末書一筆を」

証券会社の業務は大きく分けて2つの市場に足場を置いている。株式(エクイティ)と債券(デット)だ。

一般に、景気が良いときは株式相場が活況となる。しかし、景気が過熱してくると日銀が金融を引き締めるので債券相場は崩れ、利回りは上昇する。景気が良くて株価が上がっているのに、債券も買われて利回りが下がる状態は長くは続かない。

だから、証券会社の中で株式関連の部署が威勢が良い時、債券の人たちは収益を上げにくくなる。もちろん、逆のことも言える。証券マンといってもエクイティ系とデット系に分かれ、昔は同じ会社の中で収益などを張り合っていたものだった。

支店にいた頃の私はどちらかと言えばエクイティ系で、2度の米国勤務を経た後は「デットの人」などと呼ばれることが増えた。

しかし、三つ子の魂も何とか、である。1985年に公社債部長になってからも、債券をどこか株式のように見ていたようだ。値段は下がるより上がるほうが良いだろう、という感覚だ。

この年は日本経済にとって大きな節目だった。9月22日のプラザ合意で円高・ドル安が急速に進んだ。円高不況に対抗するために日銀は公定歩合を引き下げ、金融緩和であふれた資金が株式や不動産などに流れ込んだ。これが常軌を逸した株価と地価の上昇を招き、時代はバブルへと突き進んでいった。

カネ余りは株式だけでなく債券の相場も支えた。87年1月に日経平均株価が初めて2万円台を突破したが、債券市場でも指標銘柄の89回国債が値上がりし、利回りはジリジリと下がった。

株高と債券高。どちらかが理屈に合わないのだが、当時の野村の見解は「どちらも正しい」。「英国のような経済が成熟した国では景気が良くて低金利だったことがある。日本もようやくその域に達したのだ」。私は講演会でくり返し語った。

87年の4月から5月にかけて、表面利率5.1%の89回債の利回りが3%を割り込んだ。長期債の利回りが2%台になったのは当時としては初めてで、2.5%の公定歩合に急接近してきた。市場参加者からは「公定歩合が高すぎるのではないか」という声が出るようになった。

そんなある日、業界紙の記者がふらりと現れ「斉藤さん、公定歩合はどこまで行きますかね?」と聞いてきた。忙しかった私はやや乱暴に「知らないよ、金利は市場が決めるんだ」と答えた。

翌日の紙面に「野村証券債券部長『公定歩合は市場が決める』」と出たものだから、日銀が大騒ぎになった。公定歩合を決めるのは日銀だけであり、証券会社の一介の部長が偉そうに何を言うのだ、というわけだった。

現在と違って、日銀の公定歩合操作は景気調節の手段として、とても重要な意味を持っていた。景気過熱とインフレの進行を心配していた日銀は、利下げを催促するかのような89回債の動きに神経をとがらせていた。

そんな折の「市場が決める」発言。当時の澄田智日銀総裁が「野村から始末書を一筆とれ」と怒っているという話も伝わってきた。今考えれば、野村も私もちょっとやり過ぎだった。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)

斉藤惇(12)2度目のNY

手数料の自由化に衝撃
自己資金で株・債券収益源に

2度目のニューヨーク勤務となった1983年からの約2年半は、日本からの投資資金が米国で注目され始めた時期だ。ジャパンマネーの時代が始まろうとしていた。

当時の米国はレーガン政権下で財政赤字が拡大し、国債の発行額も膨らんでいた。米国野村証券は現地の業者に日本からの注文を取り次ぐだけだったが、やがてニューヨーク連銀での入札にも参加するようになる。

ニューヨーク連銀1階のブースに行って購入希望の札を入れるわけだが、インターネットも携帯電話もない当時は、相場の動きやお客さんの動向を知るためにかなりの体力勝負をしていた。

入札の日はニューヨーク連銀の建物の前に、日本の証券各社が用意した高級ハイヤーが並んだ。入札担当者は車載電話でウォール街の自社トレーダーと連絡をとる。トレーダーは日本の本社と相談して入札条件を決め、それが再びハイヤーで待機する入札担当者に伝達される。

ぎりぎりのタイミングで車から飛び出た担当者は、連銀に全力で走り込み札を入れる。競争ならぬ競走入札。某証券の担当者が急ぎすぎて階段で転び入札できなかった、といったことも起きた。

日系証券の奮闘が徐々に話題となり、我々のお客さんである日本の機関投資家の存在感もウォール街で増すようになった。ジャパンマネーが米国の不動産や企業買収に流れ込むようになるのは、もう少し後のことである。

2回目の米国勤務では、自由化が市場にもたらす影響の大きさも痛感した。米国では75年に株式委託手数料が完全に自由化されていた。それは私の1回目の米国勤務の時の出来事だったが、少し間を置いて戻っただけに、変化の大きさがよく分かった。

お客さんから株式の売買注文を取り次ぎ、その金額に応じて手数料をいただく仲介ビジネスだけでは、もはや稼げなくなっていた。証券会社の新しい収益源は自己資金で株や債券を売買する、トレーディングやディーリングと呼ばれる業務だった。

ソロモン・ブラザーズという証券会社が、数理モデルを駆使した証券取引を拡大していた。「ウォール街の帝王」と呼ばれるソロモンの取引フロアにも足を運んだ。「人間工学に基づいて人と人の向き合う角度や、音響まで計算されています」。そんな説明に日本の金融業の近未来を見る思いだった。後年、野村は東京・大手町にディーリングルームをつくった。その時、念頭にあったのはウォール街のソロモンだ。

先物やオプションなど金融派生商品の取引も活発になっていた。トレーディングで損失が発生するリスクに対して、デリバティブで保険をかける必要性が高まったからだ。

デリバティブの本場であるシカゴにもよく行った。そこでオコーナーという会社を知る。数学や物理学に通じた若者の集団で、先物・オプションを使った新しい株式取引が新鮮だった。

実は、私が2度目の米国勤務から帰国した後、野村はこの会社の買収を検討した。グローバル競争に勝ち抜く戦略の一環だったが条件が合わなかった。92年に当時のスイス銀行、今のUBSがオコーナーを買収した。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)

斉藤惇(11)初の東京勤務

斉藤惇(11)初の東京勤務
ロクイチ国債が大暴落
世界飛び回り円債ビジネス

1978年12月、米国から帰国して、東京都中央区にある野村証券本社の公社債部に配属された。日本橋のたもとにデーンと居を構え、首都高速からもよく見えるれんが色のビルだ。テレビでも時々映されるのでご存じの方も多いのではないか。

長崎、堺、ニューヨークと渡り歩いた私にとっては、入社16年目で初めての東京勤務だった。しかも、あまり経験のなかった債券市場にかかわる業務だ。緊張して初歩的な知識を勉強しつつ、外国債券を日本の投資家に売る業務から始めた。

78年から79年にかけて発行された表面利率6.1%の国債、いわゆるロクイチ国債が、79年から80年にかけて大暴落する局面にも立ち会った。そんな中でも野村はしぶとかった。だぶつき気味の日本国債を外国に売ろうという話になり、拠点課という専門部署が新たに設けられた。

外債担当だった私は新設部署の課長に回され、「円の国際化」「世界の中の日本」をセールストークに各国政府に円債への投資を勧めて回った。

円債ビジネスの延長として、各国中央銀行の方々を東京に招き、日本の経済や金融を知ってもらう「中央銀行セミナー」が始まったのもこの頃からだ。ぜひ、日本へ。私を含めて3~4人の拠点課のメンバーが手分けして、参加を募った。

第1回の中銀セミナーは80年1月28日に開催され、23カ国から27人の中銀幹部に参加していただいた。あまり予算をかけられなかったので、資料は手作り、場所も日本橋のビルの一室というこぢんまりとしたものだ。

しかし、セミナー出席者の中から、日本国債をまとまって買っていただく中銀がいくつか現れた。

これは面白い。それまで冷めたところもあった社内の目も一気に好意的なものへと変わった。特に、当時の副社長だった伊藤正則さんや、私が長崎に赴任した時の支店長で常務になっていた森茂さんなどが応援してくれた。

野村の中銀セミナーは2回目以降、回を重ねるごとに規模が大きくなり、延べで100を越える中銀の関係者が参加するほどになった。中銀総裁が直々に参加してくださることもあった。

バブルはもう少し先の話だったが、東京が国際金融都市へと徐々に近づいていく実感があった。私はといえば、セミナー参加者を募ったり日本国債を買ってもらったりするために、世界を飛び回る日々だった。数えてみるとこの時期、40余りの国・地域に足を運んでいる。

原油価格が上がり、金融市場でオイルマネーの存在感が高まった時代でもあった。南米の産油国を回っていたところ、本社から「ロンドン経由で中東筋が日本の債券を買い始めた」と電話でたたき起こされ、英国に急きょ向かったこともある。

「斉藤君、もう一度アメリカに行ってくれ」。83年3月、伊藤副社長から2度目のニューヨーク駐在を命じられた。今度は米国野村の収益を高めよ、とのことだった。私の本音は「参ったな」だった。日米は制度や考え方が異なり、米国駐在は現地のお客さんと東京本社の間の板挟みで苦しむことを、経験として知っていたからだ。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)

斉藤惇(10)ボストンの会社

日本時間の夜中に注文
価格リスク覚悟、交渉し取引

会社が私のような国内営業畑の社員を米国に送り出したのは、米国人に日本株を本格的に売り込むという経営戦略の一環だった。逆に言えば、私がニューヨークに赴任した1972年当時、日本株に投資してくれる機関投資家はまだ多くはなかった。

米国市場では投資家保護の観点が何よりも重視された。米国に上場せず、情報開示も米国水準に達しない企業は、年金運用を託されている機関投資家が危なっかしくて手を出せない、との考えが強かった。その点で彼らの基準をクリアしていた日本企業は、ニューヨーク証券取引所に70年に上場したソニーと71年上場の松下電器産業(現パナソニック)くらいだった。

しかしその後、日本経済の勢いに乗ってニューヨークに上場する日本企業もぐんと増え、米国人投資家の見方も徐々に変わった。日本企業の側も米国に足を運び、投資家への業績説明会などを数多く開くようになった。

ソニーと松下だけでなく、ホンダや日立製作所、イトーヨーカ堂、TDK、京セラなど、多くの日本企業が米国の投資家の間で知られるようになるのは、日本人として素直にうれしかった。

私は有力な機関投資家が多く集まるボストンに足しげく通い、親しい顧客を増やしていった。キーストンという運用会社もその1つだ。

ある時、キーストンのファンドマネジャーをしていたチップ・エルフナーさんが、数十銘柄の日本株の注文を出してくれた。時間は米東部の午前11時だ。日本は夜中で株式市場は閉まっているのに「すぐに値段と手数料を決めてくれ」と言う。

日本の株式担当者に連絡をとると「日本の取引が始まるまで待ってもらえ」の一点張り。キーストン側は「すぐに決めてくれなければ注文は米国の証券会社に出す」と言う。悩んだすえに米国野村の社長とも相談し、買い注文に対する野村からの売値と手数料をキーストンと交渉のうえで取引した。

もし、翌朝の日本市場で株価が米国野村の売値よりも上がってしまうと、我々は高く買ったものを安く売ったことになり、損をするところだった。実際には逆に、株価が暴落したので野村は安く仕入れたものをキーストンに高く売った計算となり、利益を上げることができた。

ここで私は考えた。利益は野村の努力ではなく単に市場が変動して得た不労所得のようなものだから、先方に返すべきではないか、と。しかし、先方に意向を伝えると「それはプロフェッショナルなジャッジではない」と丁重に断られてしまった。

キーストンと取引をした時点で米国野村は価格リスクを覚悟したのだから、結果として得た利益は正当なものであり返還に及ばず、というわけだ。資産運用にたずさわる人たちの洗練された発想の一端を知った瞬間だった。

その他の点でもキーストンとの取引は示唆深い。まず、日本株が米国時間に合わせて取引されるようになったということ。さらに、当時の米国では株式委託手数料の自由化が進み、日本株の手数料も交渉で決まるようになっていたことだ。固定手数料制で売買されていた日本市場とは異次元のダイナミズムがあった。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)

斉藤惇(9)ウォール街

日本流の営業通用せず
証券分析学びに夜間学校へ

ワン・ハンドレッド・ウォールストリート(ウォール街100番地)。私が赴任した時、野村証券が米国の本社を構えていた場所だ。野村創業者、野村徳七の「ウォール街に野村の旗を立てる」という夢を実現する場所だと先輩が教えてくれた。

日本での約10年の支店勤務で、営業の自力には多少の自信もあった。多分に付け焼き刃とはいえ、上北沢とウィニペグの特訓を経て英語力も向上した。「さぁ、やるぞ」と気合は十分。しかし、頭を使わない人間はウォール街では受け入れられないと、ほどなく思い知らされた。

そもそも日本でのお客さんは主に個人投資家。米国で相手にするのは、投資信託などのファンドを運用するプロの機関投資家だ。そこからして違った。プロの投資家に「ソニーなんてどうですか」と薦めると「発行済み株式数はどれくらいか」と聞かれ、返答につまるといったことが何度もあった。

発行済み株式数は、株式投資で最も重要な1株利益を計算するための土台となる数字だ。株式の営業マンなら即答すべき基礎も私は頭に入っていなかった。そもそも、そんなことは日本では聞かれなかったのである。

米国の機関投資家と接するうちに、日本流のやり方では太刀打ちできないということが分かってきた。

日本でもデタラメを言って株を薦めていたわけではない。経済の先行きを見通し、どの企業がどの程度収益を上げそうかを調査したうえで、個別銘柄を買って頂いていた。しかし、その場合の調査というのが新聞や雑誌に載っているような定性的な物語であることが多く、客観的データに基づく科学的な予測とは必ずしも言えなかった。

「銅の市場価格が5%変化すると、この企業の原価は何%変動するか」。こんな質問に即答できるのが米国の機関投資家を相手にする営業マン。必要とされるのは日本流の気合や社交力ではなく証券分析の知識だった。

どうしたら証券分析を学べるのか。日本びいきのお客さんに尋ねると「セキュリティー・アナリシス・プリンシパル・アンド・テクニークス」という本を推薦してくれた。さっそく購入し、仕事の合間を縫って昼夜を問わず読みふけった。分からないことは知識のありそうな人たちに聞いて回った。

当時、ウォール街の近くには、金融の知識に飢えた若者に財務や会計、証券取引の基礎などを教える夜間学校のようなものがあった。その中の1つに私は通った。

昼間の仕事をこなしてから通うのだから、当然、疲れている。年齢も30歳を越えており、長崎や堺でお客さんの間を駆け回っていた時のような体力もない。ついつい眠くもなる。だが、回りを見渡せば目をぎらぎらさせたアジア人やヒスパニック系、あるいはアフリカ系の米国人。彼らの熱気が私を睡魔から引き戻した。

なんだかここ数回の連載は勉強の話ばかり書いている気もする。確かにそうなのだ。私にとって米国勤務、特に1972年~78年の1回目の赴任は「あらゆることが日本と違う」と思い知らされることの連続だった。今日のウォール街は明日の東京。そんな感じをばく然と抱いていた。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)