加賀見俊夫(15)冒険に挑む

「映画」をテーマに始動
新機軸が失敗すれば経営傾く

1988年4月に高橋政知社長が第2パーク構想を公表したとき、社内からも驚きの声が挙がった。すでにディズニー社から提案があったのだが、一部の役員しか知らない極秘事項だった。

「公表するのは時期尚早ではないか」と私は思った。何をテーマにどんなものを造るのか、こちらに具体案はない。ディズニー社との交渉も先の話だ。高橋社長は当時74歳。先々を考え、早めに将来像を固めたかったのだろう。

開園5年目のゲストは1200万人にのぼった。日本で初めてのテーマパークが成長軌道に乗ったのは明かだった。新しいアトラクションをいくつか導入して、そのたびに話題になった。ショーなどエンターテインメントを充実させ、ショップやレストランもリニューアルを進めた。

「よく成長してくれたな」と実感したのがパークで働くキャストたちだ。丁寧でフレンドリーなアメリカ流の対応に繊細で気配りのきいた日本流を加味し、ゲストの方々に高い評価をいただいた。マニュアルだけに頼らない。それぞれがパークという舞台でゲストを満足させるパフォーマンスを自発的に演じている。

さらなる進化を目指す設備投資も決まっていた。90年にはJR京葉線が全面開通する。東京駅と舞浜駅が直結するとアクセスがぐんと良くなる。東京ディズニーランド(TDL)の来園者がますます増えるのは確実だった。

そんな中、もうひとつのテーマパークを造るのは冒険だ。失敗すれば累積債務を一掃し安定してきた会社の経営が傾くリスクさえある。だが我々は冒険に挑む道を選んだ。30万坪弱の未利用の遊園地用地にTDLとまったく違うパークを建設するのだ。

ディズニー社の提案は映画のスタジオパークだった。89年5月、フロリダに新しくできた「ディズニーMGMスタジオ」のオープニングセレモニーに、社長を退いて会長になった高橋、後任社長で日本興業銀行出身の森光明、常務の私が出席した。

華やかさ、華麗さに目を見張った。私の記憶では隣のテーブルにオードリー・ヘップバーンがいた。あこがれの女優だ。私はこちんこちんになった。あの名作「ローマの休日」の印象そのままに見えた。とても美しく神々しい。好奇心旺盛な私も近寄ることができなかった。

夢見心地でセレモニーを終え、パークを見学した。さすがはディズニーで魅力的なアトラクションが次々に現れる。だが「映画というテーマが日本で受け入れられるのかな」と感じた。もちろん日本にも映画ファンはいるが、米国の産業は桁違いに大きい。アメリカの人々にとって映画は特別な存在だ。文化の発信源であり心のふるさとだ。

高橋も森も同じように感じたそうだ。加えて、舞浜とフロリダでは環境が異なる。フロリダは「ディズニーの国」だ。マジック・キングダムやエプコットなどの施設と並んでMGMスタジオがあり、ゲストは長期滞在しながら何度も来園する。舞浜ではそうはいかない。

我々の腹が固まらないうちに90年7月、交渉が始まり、10月にディズニー社からプレゼンテーションを受けた。外堀はどんどん埋まっていく。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

加賀見俊夫(14)新機軸

5周年「第2パーク」発表
運が味方 ゲスト数伸びる

「1千万人によく届いたなあ」。オリエンタルランドの社内には安堵感が広がった。

1年目には休園日が30日もあった。今と比べると、アクセスも悪かった。JR京葉線は開通しておらず、舞浜駅がない。電車で来るゲストは営団地下鉄東西線の浦安駅から専用バスに乗る。

こんな悪条件を吹き飛ばしたのは、時間とお金をかけて本物を造ったからだ。「運も味方してくれたなあ」と思う。ディズニー社との交渉が長引いて足かけ5年を費やしたことで、石油ショックの余波が消えて景気が上向いた。人々の意識が変わる潮目でもあった。政府の意識調査では、1983年を境に物の充足から心の充足に国民の欲求が変わった。安らぎや楽しさや心の満足を求めるニーズに東京ディズニーランドが応えた。

行政の支援も大きかった。70年代から千葉県は産業の活性化に精力的に取り組んでいた。成田空港、東京湾横断道路、幕張新都心計画、そして東京ディズニーランド。行政のバックアップがなければ、都心に近いフラットで広大な敷地は入手できなかった。

さあ、2年目だ。世間では「パークはそのうち住宅地に変わってしまうだろう」という冷ややかな噂が途切れなかった。あるシンクタンクは2年目の来園者は750万人、3年目は危機的なレベルになるという予測を出した。

85年春から茨城県つくば市で国際博覧会が開かれることが決まっていた。つくば博(国際科学技術博覧会)だ。3月17日から9月16日まで半年間続く長期のイベントだ。

社内には「ゲストを奪われるのでは」との危機感と「イベントの性格が違うから大丈夫」という声があった。私は「共存共栄でゲストは増えるはず」と強気の読みをしていた。つくば博を目当てに全国から来る人たちがパークに立ち寄らずに帰るわけがない。

とはいえ博覧会に対抗する魅力アップの戦略は欠かせない。つくば博の開幕8日前の3月9日、その後長年にわたり人気を博す「東京ディズニーランド・エレクトリカルパレード」を導入した。光と音が彩る夜のパレードだ。

色とりどりの電飾と心が浮き立つ音楽に合わせて歌い、踊るディズニーのキャラクターを乗せたフロート(台車)が次々にやって来る。近くで見ようと、明るいうちから場所取り合戦が起きた。

開園以来、初めてアトラクションも新設した。「マジック・ジャーニー」だ。日本初の70ミリ大型プロジェクターを採用、3D映像が楽しめる。結局、パークも博覧会もにぎわった。やはり共存共栄だったのである。2年目、3年目のゲストも1千万人を超えた。

87年には大型アトラクション「ビッグサンダー・マウンテン」を登場させた。以後もショーの導入や改良を進めるなど毎年のように新機軸を打ち出して、ゲストの数を順調に伸ばした。

88年4月、開園5周年を迎えて開いた記者会見で高橋社長は第2パーク構想を発表した。それが東京ディズニーシーに結実するのだが、2001年9月のグランドオープンまでの道のりは長かった。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

加賀見俊夫(13)目標1千万人

「いける」と「無理」交錯
中傷よそに達成 どっと疲れ

開園の大仕事を終え、ひと安心したのもつかの間、いろいろな批判がわき起こった。まずメディアをにぎわした「お弁当禁止」へのさまざまな意見だった。「お母さんの楽しみを奪うな」との批判もあった。私たちは「お母さんも一緒にパークで楽しみ、レストランで食事を楽しんでください」と呼びかけた。

禁止したわけではない。正面入り口の隣にお弁当が食べられるスペースを用意したが、パークの中ではご遠慮いただくことにした。夢と魔法が彩る非日常の空間に、ビニールシートを敷いてお弁当を広げる日常の光景が現れては、魔法が解けてしまうからだ。

ゲストのみなさんの不満もメディアの批判も間もなく消えた。1度来ていただくと、おにぎりは似合わないと分かるのだ。

なかなか消えなかったのが「数年でつぶれる」との冷ややかな見方だった。「こんな大きな遊園地が長続きするはずがない」「同じ遊園地に何度も行く人なんかいない」との声だ。オリエンタルランドは「開園1年で1千万人」の来園者目標を公表していたので、冷ややかな声はよけいに大きくなった。

レジャー業界では破天荒な数字だ。何しろ当時、首都圏の主要遊園地の年間来園者を足しても1500万人程度。「鉛筆をなめて作った数字だろう」というメディアもあった。もちろん好意的な報道もあったが、広報担当だった私は辛口の批判の方をよく覚えている。

記憶にあるのは開園前の取材。写真週刊誌から高橋政知社長に依頼が来て、私も同席した。辛口の質問はなかった。カメラマンが社長にバンザイをしてくださいという。「開園バンザイ」と記事を締めくくるのだと思った。ところが……。

発売された週刊誌を開いて「うわっ」と叫んた。バンザイ写真とともに紙面に躍ったキャプションは「倒産宣言」。両腕を持ち上げてお手上げというわけだ。社長は面白がったが、私は激怒して発行元の出版社に抗議に行こうとして止められた。

その社長も取材の甘い批判記事を載せた経済誌の取材には二度と応じなかった。ゆえなき誹謗や中傷に対しては闘うぞ、と私は燃えていた。

4月15日の開園からにぎやかな夏休みが過ぎ、秋が来た。来園者数は順調に伸びて、9月には500万人目のゲストを迎えた。アトラクション32、レストラン27、ディズニーのキャラクターグッズなどを扱うショップ39。コンテンツには自信があった。だが1千万人は非常に高いハードルだ。社内では「いける」との観測と「無理かな」という弱気な見方が交錯した。目標に届かないと、どんな批判を浴びるか分からないし、パークの先行きに暗雲が垂れこめる。

年が明けて84年になった。年末年始のイベントが終わり、寒さが厳しくなった。目標達成は微妙だった。

実を言うと私は社内の役職者に「休みを取ってお金を払って入場して」と呼びかけようと思っていた。ゲストの来園状況を日々確認しながら、じりじり、はらはら、緊張が続く。そして4月2日の午後、1千万人目のゲストが来てくださった。緊張が緩み、どっと疲れが押し寄せてきた。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

加賀見俊夫(12)TDL開園

「本物を造れ」の大号令
人材、資金、技術全て総動員

米国での交渉は1週間続き、張り詰めた空気の中、さまざまな項目に関して緊迫したやり取りがあった。

合意に至ったのは1979年4月30日である。パークの設計、建設、運営に関する詳細な契約だ。プロジェクトの開発、メンテナンス、宣伝、商品、飲食、エンターテインメント、スポンサーなどについて、ディズニー社のノウハウ提供を柱とする全32項目に及ぶ。

ディズニー本社でカードン・ウォーカー社長とオリエンタルランドの高橋社長とが基本契約に調印した。後ろで正装し蝶ネクタイをしたミッキーマウスが「良かったね」という表情で見守っている。舞浜に決まってから4年5カ月が過ぎていた。長かった。

それから83年4月15日の開園までの4年間、今度は短く感じた。忙しすぎたのだ。私は81年6月に取締役総務部長兼人事部長、83年2月には総務部長兼開発部長になった。仕事は次々にわいてきた。

開園までにディズニーのあらゆる運営ノウハウを吸収しようと社員が1年から1年半、米国で研修した。日米両社で10人の社員を選抜した。実はそのなかに、私も入っていたが最終段階で外れた。高橋社長の意向だった。「私の考えを代弁できる人間をそばに置きたい」と待ったをかけたのだ。研修に赴いた9人を社内で「オリジナル・ナイン」と呼ぶ。私は落胆せず、かえって「日本にいて準備万端整えるぞ」と奮い立った。

中途採用などで社員もどんどん入ってきた。レジャー施設で働いたことのある人材は採らなかった。かつていた施設の接客のクセが顔を出し、ディズニーのスタイルをおろそかにしがちになる。白紙から育てたかった。

パークの建設も順調に進んでいた。ディズニー社のクリエーターやスタッフが来日して、日米協働で入念に造り込んでいく。彼らの想像力に目を見張った。高橋社長が「金を惜しむな、本物を造れ」と大号令をかけ、当初1千億円を見込んでいた総工費は結局、1800億円になった。

アトラクションには随所に日本メーカーの先端技術が生きている。形状、作動、快適性など多様な注文に見事に応えてくれた。ハイテク施設を懐かしいローテク設備に装うのも技術なのだ。

83年3月の竣工式で司会をした際、パーク建設に汗を流してくれた十数社の建設会社の代表者のうち、お二方の名前を読み飛ばしてしまった。翌朝一番に両社に謝りに行ったが、陰で支えてくださった方々への感謝を忘れるな、と肝に銘じた。

開園の日、1万8千人のゲストを迎えた。オリエンタルランドができてから23年の歳月が流れていた。晴れがましい笑顔が並ぶ来賓席で涙ぐんでいる初老の男性がいた。川崎千春さんだ。

夢と魔法の国の誘致の発案者である。高橋さんとともに幾多の難局を必死で乗り越えてきた功労者だが、実現を待たずに社長の座を退いた。私を京成電鉄に採用してオリエンタルランドに導いた恩人でもある。川崎さんの胸中を思って胸が熱くなった。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

加賀見俊夫(11)基本交渉

難局に「こんちくしょう」

高橋社長、米帰り私に漏らす

 

やっとディズニーランドの誘致が決まったものの、第1次石油ショックの大波をかぶって日本経済は一気に不況のどん底に突き落とされた。親会社の京成電鉄と三井不動産の経営状況も大きく変わり、結果として弱小会社のオリエンタルランドがテーマパーク建設という大事業にほぼ単独で立ち向かうことになった。

 

米国ディズニー社との交渉は何度も困難にぶつかった。中でもロイヤルティー料率と長期の契約期間については、社内外からいろいろな意見が飛び交った。

 

不動産事業部長だった私は45年間の契約期間は決して長いとは思わなかった。契約期間中、ディズニー社は常に新しいノウハウで次のコンテンツを生み出す。それを吸収できるメリットは大きいからだ。テーマパークのように進化し続ける事業には長期的な関係が必要だ。

 

社内外の反対をクリアして交渉を前に進めなければ、これまでの苦労が水の泡になってしまう。「日米両社が納得できるまで粘り強く交渉をして、パーク建設を前進させよう」。消極論は次第に薄れ、社内では、そういう空気が優勢になってきた。

 

そんな折、衝撃的な出来事が起きた。ディズニーランドの誘致に情熱を燃やしていた川崎千春がオリエンタルランドの社長を退き、京成の経営に専念することになったのだ。1977年8月のことだ。巨額の投資が要るうえ、当座は利益を生まないテーマパークの建設より、京成の経営に専念すべき状況だった。「夢と魔法の国」の建設も大切だが、本業を立て直すのが先決だった。

 

これを受けて社長は当面、空席にして、専務の高橋政知が代表取締役に就きディズニー社との交渉に当たることになった。漁業補償交渉と埋め立て事業の調整を終え、高橋さんは「お役御免だよ」と話していた。しかし難局を打開できるのはこの人しかいない。「浦安の海を埋め立てて国民の幸せに貢献する素晴らしいものを創る、と僕は漁民たちに約束したからね」と言って面倒な役回りを引き受けた。

 

すでに77年3月に東京ディズニーランドの名称だけは決まっていた。だが交渉は暗礁に乗り上げたまま。高橋さんは事態の打開に向けて精力的に動き出した。社長に就いた翌月の78年9月、米国に交渉再開の打診に赴いたが、話はまとまらない。羽田空港に戻ったところを出迎えると「加賀見、飲もうよ」と誘われ帝国ホテルのバーで看板まで飲んだ。酒が無類に強い高橋さんが酔いを発して「こんちくしょう」とうめくのを聞いた。

 

契約条件などを巡って日本側の意見はまとまらず、ディズニー社からは優柔不断にみえたのだろう。一本気の高橋さんには耐えがたいことだった。社長は孤立無援に近かった。ここが東京ディズニーランド実現か断念かの分かれ目だ。調整の後、高橋社長に一任することでようやく日本側の対応がまとまり、実現に向けて舵が切られた。ロイヤルティーの範囲や45年の契約期間など交渉のテーブルに載せる条件が整ったのだ。

 

79年1月、日米両社がカリフォルニア州バーバンクにあるディズニー本社で最終的な詰めの交渉に臨んだ。緊迫した会議だった。

 

(オリエンタルランド会長兼CEO)

 

 

加賀見俊夫(10)ディズニー誘致

ライバル富士山に勝つ

上空から立地条件アピール

 

ディズニーランド誘致の準備は手探りで進めていたが、肝心の米国ディズニー社との交渉はまだ白紙だった。誘致の発案者の川崎千春が、オリエンタルランド創設の翌1961年に、京成電鉄社長として初めてディズニー社を表敬訪問した。だが、誘致構想はまだ夢のような話で、ビジネス交渉などできるはずもない。

 

当時、日本はビジネスパートナーとして認識されておらず、高度経済成長を経ても、著作権など権利関係に厳しいディズニー社は日本の会社を相手にしてくれなかった。

 

その後、埋め立て工事や都市計画策定など、誘致の準備は次第に整ってきた。オリエンタルランドなりの施設概要を固め、海外視察にも熱心だった。欧米の遊園地やレジャー施設を精力的に見て回った。だが「これだ」という候補は見当たらなかった。

 

例えばデンマークのチボリ公園は素晴らしいレジャーランドだ。昼間は親子連れの来園者の笑みがあふれる場所。だが、夕方以降は大人のパークに表情を変える。どの施設も日本に持ってくるには難点があると私たちには思えた。

 

やはりディズニーランドの魅力が圧倒的だった。第一、明るくて健康的だ。家族で楽しめる夢があふれるテーマパーク。でもディズニー社は振り向いてくれない。

 

潮目が変わったのは71年、フロリダのウォルト・ディズニー・ワールドが開園してからだ。ロサンゼルスのパークとの両輪が動き出して、やっと日本に目を向けてくれたのだ。

 

社内は「さあ、やるぞ」と勇み立った。ところが、強力なライバルが現れた。大手のデベロッパーが富士山の裾野にディズニーランドを誘致する計画という。「富士山じゃ、かなわないな」と社内に一転、悲観論が漂った。

 

74年12月にディズニー社のドナルド・テイタム会長、カードン・ウォーカー社長らの視察団が来日、まず富士山の裾野を見て翌日、浦安地区に来た。川崎社長、高橋専務らが午前中、帝国ホテルでプレゼンテーション。大型バスで舞浜にお連れした。

 

「都心から至近距離」がセールスポイントだが、まだ京葉道路はなく、昼間の一般道は渋滞する。何とか短く感じさせようと車中に豪華なサンドイッチを用意した。

 

私は舞浜にいて何日か前から浜辺の清掃に励んでいた。埋め立ては終わっていた。きれいな海を見てもらいたい。だが、波に吹き寄せられた瓦礫やゴミが浜辺を覆っていた。社員は当時50~60人。肩書に関係なく総動員で真冬の寒さの中、清掃に励んだ。

 

ヘリコプターで舞浜上空を飛び、立地の良さをアピールするなど懸命だった。後で分かったことだが、ディズニー社はすぐに「舞浜」と決めていた。

 

その決定要素の一つを知り「さすがだな」と思った。日本人にとって富士山は特別の山だ。パークに来ても富士山を見てしまう。見えないとがっかりする。富士山ばかり気にしてディズニーの魔法にかかりにくいのだ。

 

決め手はやはり立地条件。都心から約10キロ。可処分所得が多い人々が大勢住むエリアにある。決定の報に社内は沸き立ったが、それから開園までが長かった。

 

(オリエンタルランド会長兼CEO)

 

加賀見俊夫(9)再入社

「本当に行くんですね」
気丈な妻も転身を案じる

浦安沖の埋め立てが始まってしばらくは、オリエンタルランドでの仕事は主に雑用。京成電鉄では経理部の主計課から傍系課に移り、関連会社の経理をみた。

千葉県柏市に京成が造った藤ケ谷ゴルフ場の経理システムの作成を担当し、しばしば通った。コースの造成は終わっていたが、クラブハウスはまだない。グリーンの上で弁当を広げ、安いゴルフクラブを買って練習したりした。それがゴルフとの出合いだ。コーチ役もいなかったから私のゴルフは今もって我流のままだ。

振り返れば、長い会社生活で最ものんきな時期だったが、長くは続かなかった。まずは資金集めのための銀行回り。オリエンタルランドの収入はない。人件費をはじめとする当座の運転資金の融資をお願いして回る。銀行ではベンチで1時間以上待たされることもあった。つらくて、みじめだった。「会社は収益を生まないとダメなんだ」とつくづく実感した。

1970年代に入ると、オリエンタルランドの仕事の比率がどんどん高まり、大事なミッションが増えてきた。代表が「オリエンタルランド商住地区開発基本計画1973」。埋め立て後の浦安の都市計画の基本方針だ。京成電鉄と三井不動産から社員が参加、学識者を交えて議論を重ねて、数年をかけて73年にまとめ上げた。

まだクレーンが林立して埋め立て工事が続く開発予定地を高層、中層、低層の3つのエリアに区分けし骨格を決めた。ルーフラインと呼ぶ当時としては新しい計画手法も取り入れた。

新浦安エリアに高層ビル群を配して、舞浜が近づくにつれて建物の高さを制限し、パークができるエリアには低層を集める。園内からの眺望を妨げない工夫で、今のレジャー施設整備のベースになっている。不動産業務の勉強は必須。私は猛勉強して宅地建物取引主任の資格を取った。仕事に夢中だった。

72年10月に京成電鉄を退社してオリエンタルランドに再入社した。兼務のままではディズニーランドの誘致に失敗しても、京成に戻ればいいのだ。どうしても顔を出す、そんな気持ちの「甘さ」を断ち切ろうと決意した。

安定した電鉄会社から、実現するかどうかも分からないテーマパークの経営会社への転身。周囲からは「大丈夫なのか」と声をかけられた。大学時代の親友たちも心配してくれた。

私は「夢に賭けよう」と決めていた。安定よりも草創期の苦悩や苦難、醍醐味や喜びを味わおうと、むしろ奮い立っていた。仕事のことには口を挟まない妻が「本当に行くんですね」と言った。1年ほど前から会社を変わるかもしれないと伝えていた。

結婚して6年。一人息子は4歳だった。彼女は「思い切り仕事をしてください」と話した。気丈な妻だが、心の中では心配だったに違いない。再入社して最初の肩書は不動産事業部次長。兼務時代から引き続き都市計画を担当した。細かい就業規則が定められ、福利厚生も充実して、オリエンタルランドは日本で初めてのテーマパークという一大プロジェクトに向けた態勢を整え始めていた。超多忙だった。だが張りのある日々だった。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

加賀見俊夫(8)大風呂敷の人

追加40万坪「買ってやれ」
川崎社長の本気舞浜の礎に

 

浦安沖の漁業補償交渉が決着して、いよいよ埋め立て工事だ。だがオリエンタルランドに資金はない。そこで千葉県から埋め立て工事を委託してもらい、造成予定の土地を担保に銀行から資金を借りることにした。これがのちに千葉県方式と呼ばれる整備手法だ。

埋め立て業者に工事費用を立て替えてもらい、埋め立てた土地を担保に融資を受けてから返済するという窮余の一策。県は当時、産業活性化のために成田空港と東京湾横断道路の実現に熱心で、ディズニーランド誘致にも期待をかけていたので許諾に向けて成算はあった。

予想通り県議会は埋め立て工事の委託契約を承認した。しかし友納武人知事が首を縦に振らない。「前例がない」という。高橋政知専務が知事室に談判に行ったが、「県政の責任は一身に知事の私にある。私がノーならだめなんだ」と頑なだ。

激怒した専務は「そんなくだらない返事を聞くために来たんじゃない!」と怒鳴ってドアを「バシーン!!」と力任せに閉めて出て行った。ものすごい音だったらしい。

会社に戻ってきた高橋さんは顔を紅潮させて、まだぷりぷりしている。私が「喧嘩してきましたね」と聞くと「うん、しちゃったんだ」。

面倒なことになったなあ、と心配したが、知事と専務の関係は川崎千春社長の取りなしで修復した。2人は東京帝大法学部の同期生だったことが手打ちの宴席で分かった。憲法や民法で同じ授業を取っていたという。対立はひとまず解消、工事委託は承認された。

1964年9月に埋め立ては始まったが、まだ難題があった。その代表が埋め立てた土地の払い下げである。工事の途中で県と調整を始めた。埋め立て予定の面積は260万坪。オリエンタルランドは100万坪の払い下げを求めたが、県は驚いた。想定していた面積よりずっと大きく、米国のディズニーランドより広いのはおかしいと難色を示した。これも揉(も)めたが結局、75万坪で決着した。

75万坪と専務が報告すると、社長は不機嫌そうだったという。テーマパークだけではなく、将来ホテルなども整備する腹づもりだから、もっとほしいと不満だったのだ。

その後、県が県営住宅用地として確保していた40万坪を「売りたい」と言ってきた。社長は金もないのに「買ってやれ」と即決した。

今になってみると115万坪の土地の効用は計り知れない。2つのテーマパークと周辺ホテルなどからなる東京ディズニーリゾートも75万坪では開発にかなりの制約を受けたはずだ。事業家の構想力のスケールは大きくなければいけない。私はかねて川崎社長を「大風呂敷の人」と思っていたが、その大風呂敷のおかげで舞浜の今がある。

その間に「土地転がし」という批判もわき起こり、国会でも追及された。こんなに大きな遊園地はあり得ないというのだ。「遊園地計画は本気ではなく、どうせ後で売り払って儲(もう)けるつもりに違いない」。そんな疑惑が広がった。

そう勘繰られても仕方がないほど、東京ディズニーランドの構想はスケールが大きい。すでにある遊園地を物差しにすると理解不能なのだ。だが、私たちは切ないほど本気だった。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

加賀見俊夫(7)補償交渉

酒酌み交わし漁民説得
豪放な高橋専務信頼絶大

 

「オリエンタルランド兼務を命ず」の辞令を受けたのは入って3年目の1960年7月。同社は浦安沖を埋め立てて商業施設、住宅、大型レジャー施設を整備するため、京成電鉄と三井不動産、船橋ヘルスセンターを運営する朝日土地興業(のちに三井不動産に吸収合併)が出資した。

新会社と言っても社屋はおろか部屋さえない。京成本社3階の部屋の片隅を衝立で仕切って机と椅子を3つ並べただけ。電話はない。かかってくると隣の株式課の社員が「オリエンタルランドさん、電話だよ」と声をかける。

私は5階の経理部主計課から「出社」する。定款づくりに加わったのが初仕事。事業目的や役員構成などを文書にした。オリエンタルランドに「初めの一歩」から携わったことになる。埋め立てるための漁業補償交渉は始まっておらず、やることは雑用ばかり。

1年後の61年7月に補償交渉を担当する高橋政知さんが専務で入社した。川崎社長が「こいつが加賀見、帳面をつける(経理を担当する)からね」と高橋さんに言った。大柄でちょっと強面な感じがした。

噂は聞いていた。お父様は貴族院議員を務めた内務官僚で愛知県をはじめとするいくつかの県知事、警視総監、台湾総督などを歴任。高橋さんも東京帝大法学部を出たが、父に反発して官僚の道を選ばずに産業界へ。出征、復員の後、日本石油(現JXTGエネルギー)の特約店の役員時代に三井不動産の取締役営業部長だった江戸英雄さんと懇意になったという。

無類に酒が強く、腕っぷしも強い。漁民たちとの交渉では酒を飲みながら胸襟を開いて誠心誠意ぶつからないと埒があかない。酒豪で豪放磊落な高橋さんがうってつけ、と社長になっていた江戸さんが白羽の矢を立てた。

オリエンタルランドに収入はなく、出費のほぼすべては高橋さんが毎晩、漁民たちと酌み交わす飲食代である。その費用は京成が出した。

高橋さんに領収書の束を渡されて伝票に起こすのだが、仰天したのが、その金額。ひと晩に私の月給の何倍にもなる。名前だけしか知らない高級料亭の領収書があるかと思えば、2軒掛け持ちした領収書もしばしば来る。

私が恐縮することではないのだが、恐る恐る伝票を社長室に持って行ってサインをもらう。川崎さんも傑物だ。いつも、ろくに金額を見ずにさっとサインする。社内で温泉マークと呼ぶ独特のサインだ。

掛け持ちのわけを聞いて感動した。浦安には漁業協同組合が2つある。仲が良ければ分裂はしないわけで、お互いに反目し合って面倒な交渉をよけいに厄介にした。高橋さんは2つの組合の幹部を同日同時刻に隣接する2軒の料亭に別々に呼んで接待した。一方に漁業補償の条件を提示すると、間髪を入れずにもう一方に同じ条件を提示する。漁民たちの信頼は絶大だった。

一升瓶を下げて「夜討ち」に同行したことがあるが、尊大さは微塵もなく正直で誠実。「高橋さんに言われたら仕方がない」というわけで、3年はかかるとみられた補償交渉が半年足らずで決着した。

「加賀見、交渉っていうのは腹を据えて本気でやるんだ」。高橋さんは私の人生の師になった。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

遠い記憶

「昔、先生のお父さんを車でひいたのは、うちの親父なんです。」
私が初めて担任をしたクラスが卒業式を迎えた日、クラスの中の一人に告白された。
「俺の親父は元気だから、心配するなって、伝えといてくれ。」と答えるのが精一杯だった。

私の実家は、小さなラーメン屋を営んでいた。父は、よく客からビールを勧められ、酔いつぶれて店の奥で、いびきをかきながら寝ていた。そんな父を母は「また~。もう飲ませないで。ちょっとお父さんを起こしてきて。」と言い、ほとんど母一人で店を切り盛りしていた。

かと思えば、ある日突然父がいなくなり、母に「お父さん、どこ行ったの?」と聞くと、「いつもの病気よ。」と言って笑っていた。父は寅さんの映画をこよなく愛し、学生の頃から放浪の旅が好きだった。父が帰ってくると母は「お帰り。どうだった?」と聞き、父の話す土産話にいつまでも耳を傾けていた。

そんなある日、父が出前の途中でタクシーにひかれた。私はいつも、父のバイクの後ろに乗って、出前についていったのだが、その日だけは、たまたまテレビに夢中になっていて、店のカウンターに座っていた。幸い命だけは助かったが、後遺症が残り、いつも苦しんでいた。その苦しみを酒でごまかすような日々が続き、入退院を繰り返していた。

そんな生活が一年ぐらい続いたある日、「一緒に風呂に入るぞ」と、まだ小学生だった私を抱きかかえて、久しぶりに父と風呂に入った。ものすごい力で父に背中を流してもらった後に、私も父の背中をカ一杯洗ったのだが、その時父の肩が小さく震えていたのが分かった。父の泣いている姿を見たのは、それが最初で最後となった。

次の日の朝、母が泣きながら家の掃除をしていた。
「お父さん、もう帰ってこないよ」と言いながら、前の日に私の寝顔をしばらく見た後、「ちょっと出掛けてくる」と言い残して車に乗り、高速道路を走っている途中で、ガードレールを突き破って崖から落ちたらしい。ブレーキを踏んだ跡がなかった。まだ36才だった。

そんな父を追うようにして、母が子宮ガンでこの世を去った。体の異常を感じていたのだが、私の学費を稼ぐために深夜まで仕事をして、病院に行かなかったのが、手遅れになった原因らしい。中学生の頃、悪いことばかりして、母を困らせた日々が悔やまれた。親のありがたみは死んでからという言葉が、痛いほど身にしみた。それ以来、自分の身を犠牲にしてまで守ってくれる人がいなくなってしまった。

自分の親を邪険にしたり、邪魔扱いする人間を何人も見てきたが、その光景を見る度に、憤りを感じてしまう。一度でもいいから親と話ができるのであれば、全てを失ってもいいと思っているから。他人に迷惑をかけるな、と親から言われた事があると思うが、それは自分の親にも迷惑をかけてはいけないという事だと思う。

社会人として巣立っていく君たちにとっては尚更である。自分の責任は自分で取らないといけない立場になるのだから、そういう意味では、社会人になるという事は、親と他人になる始まりなのかもしれない。

情報技術科担任