斉藤惇(28)山一自主廃業

問題明らかだったが・・・
欠けていた決断力 破綻招く

連載も終わりに近づいた。1人の証券人として、やはり山一証券のことは書いておきたい。私が野村証券の顧問に残っていた1997年5月~98年10月、日本の金融の風景が大きく変わった。なかでも忘れられないのが山一の経営破綻である。

97年11月24日、山一は旧大蔵省に営業休止を届け出た。いわゆる、自主廃業だ。「社員は悪くありません」と号泣した野沢正平社長の記者会見をご記憶の方は、今も少なくないだろう。

「とうとう、この時が来てしまった」。会見をテレビで見た時の、私の率直な感想だ。四大証券の一角を占めていた山一の突然の破綻劇は、世間的には衝撃的なできごとだったに違いない。しかし、私のように証券会社の経営にかかわった経験を持つ者にとって、山一は常に不穏な気配が漂う存在だった。

その根源は「飛ばし」だった。顧客である企業の財テクの損失を特別目的会社などに飛ばして表面化を避ける取引に、山一は長らく手を染めていた。いつかは株価が上がり損失も消えるはずとの甘い見通しが外れ、隠していた損失を本体で処理せざるを得なくなったため、経営が行きづまったのだ。

飛ばしの概要は破綻の記者会見で初めて公表されたが、その存在は折にふれささやかれていた。11月3日に準大手の三洋証券が倒産すると、金融機関全体への市場の見方が厳しくなった。特に、飛ばしの噂があった山一は短期の資金調達が難しくなった。決算や財務をみた経験もある私のところには、他の証券会社の資金繰りに関する情報も入っていた。

山一の短期の調達レートはぐんぐん上がっていた。銀行が資金を出し渋っているとの噂も耳にした。「大丈夫か、君のところお金がとれていないんじゃないのか」。業界の集まりを通じて懇意になった山一の企画担当役員にそう問いただした。人柄がよく紳士然としていた彼は、もはや肯定も否定もせず、ほほ笑みを浮かべるだけだった。

生き馬の目を抜く証券界にあって、彼に限らず山一は穏やかで親切な人が多かった。商売を離れれば良いひとたちだったのだ。

1897年(明治30年)に兜町に誕生した山一は、証券界の名門中の名門だ。1925年(大正14年)に大阪で創業した野村は、長らく「関西の成り上がり」扱いだったと聞く。私が入社した63年もそういった雰囲気は残っていた。最初に赴任した長崎では、近くの山一の支店の看板がとりわけ派手だったことをよく覚えている。

山一は65年不況で破綻し、日銀の特別融資で救済された。旧日本興業銀行などと近かった当時の山一は、金融システムの中で重要な役割を負っていたのだ。時代が昭和から平成に変わり業績の面で見劣りするようになっても、自分たちは特別という意識があったのかもしれない。給料が野村と同水準だと知り「それじゃ、もたないだろう」と懇意の山一役員に忠告したことがある。「そうだと思う」と彼は答えた。

問題の所在も、とるべき手だても明らかだった。運命に導かれるように破綻していった山一に欠けていたものは、ただ一つ。決断するということではなかったか。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)

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