山中氏ノーベル賞:「難病治したい」繰り返した挫折、再起

「人間万事塞翁(さいおう)が馬」(人生の幸・不幸は予測できない)

8日、今年のノーベル医学生理学賞に輝いた山中伸弥・京都大教授(50)は、この言葉を心の支えに研究に力を注いできた。人工多能性幹細胞(iPS細胞)の開発を発表してからわずか6年。50歳の若さで最高の栄誉を手にした。しかし、開発までの半生は挫折と再起の繰り返しだった。

◇夢は整形外科医

最初に目指したのは整形外科医だった。中学、高校で柔道に打ち込み、足の指や鼻などを10回以上骨折した経験からだ。スポーツ外傷の専門医になろうと、神戸大医学部を卒業後、国立大阪病院(大阪市、現・国立病院機構大阪医療センター)整形外科の研修医になった。

しかし、直面したのは、治すことができない数多くの患者がいるという現実だった。最初に担当した慢性関節リウマチの女性は、みるみる症状が悪化し、痩せて寝たきりになった。山中さんは「枕元にふっくらした女性の写真があり、『妹さんですか』と聞くと『1〜2年前の私です』という。びっくりした」と振り返る。手術も不得手で、他の医師が30分で終わる手術に2時間かかった。「向いていない」と痛感した。

◇基礎研究に転換 

有効な治療法のない患者に接するうち、「こういう患者さんを治せるのは、基礎研究だ」と思い直した。病院を退職し、89年に大阪市立大の大学院に入学。薬理学教室で研究の基本を学んだ。「真っ白なところに何を描いてもいい」。基礎研究の魅力に目覚め、実験に没頭した。論文を指導した岩尾洋教授は「彼の論文は完成度が高く、ほとんど直さなくてよかった」と語る。

大学院修了後、米サンフランシスコのグラッドストーン研究所に留学。当時のロバート・メイリー所長から、研究者として成功する条件は「ビジョンとワークハード」、つまり、長期的な目標を持ってひたむきに努力することだと教えられた。マウスのES細胞(胚性幹細胞)の研究に打ち込んだ。

しかし、96年に帰国すると、再び苦しい時が訪れた。研究だけに没頭できる米国の環境との落差に苦しんだ。「議論する相手も研究資金もなく、実験用のマウスの世話ばかり。半分うつ状態になった」。研究は滞り、論文も減った。やる気を失っていった。

◇救った出来事

「研究は諦めて臨床へ戻ろう」。思い詰めた山中さんを、二つの出来事が救った。

一つは、98年に米の研究者がヒトES細胞の作成に成功したこと。大きく励みになるニュースだった。

もう一つは、奈良先端科学技術大学院大の助教授の公募に通ったこと。「落ちたら今度こそ研究を諦めよう」との思いで応募した。「研究者として一度は死んだ自分に、神様がもう一度場を与えてくれた」。99年12月、37歳で奈良に赴任した。

翌春、山中さんは大学院生約120人の前で、「受精卵を使わないでES細胞のような万能細胞を作る」と、研究テーマを語った。学生を呼び込むために考えた「夢のある大テーマ」だった。現在、京都大講師の高橋和利さん(34)ら研究室に入った大学院生との挑戦が始まった。

◇患者に役立つ技術に

03年には科学技術振興機構の支援を受けることが決まり、5年間で約3億円の研究費を獲得した。面接した岸本忠三・元大阪大学長は「うまくいくはずがないと思ったが、迫力に感心した」。研究は当初、失敗の連続だったが、今度は諦めなかった。「学生や若いスタッフが励ましてくれたから、乗り切れた」。マウスの皮膚細胞を使ってiPS細胞の作成に成功したのは、その3年後だった。

今は「この技術を、本当に患者の役に立つ技術にしたい。その気持ちが研究の原動力」と言い切る。新薬の開発、難病の解明、再生医療など、今や幅広い分野でiPS細胞の研究が進む。「10年、20年頑張れば、今治らない患者さんを治せるようになるかもしれない」−−。抱き続けた夢がかなう日は、もう遠い未来ではない。

◇交流の難病と闘う少年も涙「すごい先生です」

筋肉が骨に変形する難病と闘う兵庫県明石市立魚住中3年の山本育海(いくみ)さん(14)は、山中さんと交流し、iPS細胞を使った治療法の確立の夢を託してきた。「iPSが世界中に広まって研究が進み、薬の開発が早くなると思うとうれしい」と受賞を喜んだ。

育海さんは小学3年の時、「進行性骨化性線維異形成症」(FOP)と診断され、支援団体「FOP明石」の署名活動などで07年3月に国の難病指定を受けた。iPS細胞が難病の治療に役立つ可能性があると知り、09年11月に山中さんに面会。10年2月には「一日も早く薬を開発してほしい」と体細胞を提供した。今年もシンポジウムの会場やテレビ番組で山中さんと面会した。

この日、山中さんの受賞が決まると、明石市内で記者会見。母智子さん(39)と手を取り合って「本当に良かった。すごい先生です」と目に涙を浮かべた。智子さんは「3年前に初めてお会いしてから、本当に優しく接していただいている。今回の受賞でFOPの研究に、もっともっと光が当たってほしい」と話した。

【南良靖雄】

ノーベル賞研究のために 退職届を内容証明で

半導体のPN接合に電圧をかけると、逆に電流が減少する。この不思議な現象の裏にある電子が壁をすり抜ける「トンネル効果」を確かめ、江崎玲於奈氏は昭和四十八年にノーベル物理学賞を受賞した。原子レベルの「量子の世界」を誰よりも先に「応用の世界」に結びつけた「世紀の大発見」の原動力はどこにあるのか。

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戦争は人間に大きな影響を与えます。満州事変は私が六歳のとき、日中戦争は十二歳、太平洋戦争開戦のときには高校受験勉強の最中でした。自我中心、自国よかれと感情主導の主観と他国の主観がぶつかり合うのが戦です。その中で私は、誰もが理性で理解し合える客観的な「真実」を強く求めて、サイエンスに関心が向かいました。小中高と京都で過ごしましたが、晴れて入った旧制第三高校には生徒の知性に刺激を与える土井虎賀寿のような優れた先生もいて、受動的な知識の詰め込みでなく、能動的な「自己発見」の時間が過ごせました。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」をはじめ、科学の精神について、更に、彼が求めた確実性に思いを巡らせました。

私は親元を離れて独立し、サイエンスの本質を突き詰めたいという思いから、東京帝国大学に進みます。そこでニュートン力学では説明できない、原子レベルでの現象を解明する「量子力学」に出会います。この新しい革命的自然観に私達、物理の学生は大いに感動しました。当時、この分野の歴史はまだ浅く、研究者は一部の若い理論物理の先生に限られていました。

東大物理学科を卒業する時には、敗戦から二年が経っていました。多くの学生は、何時に変わらず、大学や国立研究所に進みましたが、そこでは現在の延長線上の研究が多く、イノベーション(技術革新)やブレイクスルー
(突破口)は生まれない。例えば、二十世紀最大の発明と言われるトランジスタは、それまでの真空管をいくら研究して改良しても、決して生まれません。これにより、将来は現在の延長線上にはなく、創造されるものであることを教えられました。事実、トランジスタは民間のベル電話研究所で誕生したのです。

大学に残る方がリスクは少ないけれど、私は誰もやらなかった人生のシナリオを書く思いに駆られました。リスクを取ってでも、日本の産業界に「量子力学」の洗礼を浴びせたかった。敗戦後の日本にもたらされた「民主主義」の本質は、「自分の将来は自分が決める」ことだと解釈しました。

その頃、私の兄を結核で亡くし悲嘆に暮れる母が心配だったので、地元の
近くで働くことにしました。指導教授の紹介で川西機械製作所(後に神戸工業)に就職し、半導体を中心に研究を始めました。当時半導体研究は全く新しい分野で、青二才でもいろんな面白い成果を挙げることができた。私には、たとえ二流の企業家や科学者でも、人が手をつけていない新しい分野では一流の仕事ができるという確信がありました。ごうして、半導体研究者としての地位を固め、有力な特許も取り、会社にも貢献できました。

ところが会社が経営難に陥り、研究費が削られました。研究活動という私の人生のシナリオ通りにことを運ぶため、昭和三十一年、ソニーへの移籍を考えます。その頃は東京通信工業という品川の小さな町工場でした。これもつぶれたら困ると思ったのですが、井深大社長や盛田昭夫専務と話してみると、彼らのカリスマに触れ、「この会社を試そう」と入社を決めました。

ところが神戸工業に辞意を伝えると、拒まれた上、研究課から営業課に異動させられました。漁船第五福竜丸がビキニ環礁で被曝する事件があって以来、神戸工業では製品の販売不振の中、放射能を測定するガイガlカウンターだけが飛ぶように売れていました。広島・呉港の漁船まで商品を運んだりしましたが、私のシナリオには「営業マン」とは書いていなかったので、退職屈を内容証明郵便で送りました。結局、八万円の退職金を得るとともありませんでした。

半導体研究はソニーで順調に続け、翌三十二年、ついに「エサキダイオード」が生まれ「トンネル効果」の検証に成功しました。ところが日本で成果を発表するも、反響はあまりありません。三十三年、ブリユツセルの国際会議において、トランジスタの発明者ショックレー博士から賛辞をいただき、ようやくその真価が認められたのです。さらに三十四年、米コーネル大学で催された半導体デバイスの研究会で「エサキダイオード」は一躍脚光を浴び、私はアメリカの企業からいろんなオファーを受けます。私は三十五年にニューヨークのIBM中央研究所に移ります。「エサキダイオード」発見によるノーベル物理学賞は四十八年に受賞しました。

アメリカでは全く新しい思想に基づく研究を始めました。それは自然の物質を越える前例のない特性を具えた「半導体超格子」を設計し、人工的に作成するというアンピシャスな取組です。これは「トンネル効果」研究を越えるインパクトを世界の学界に与えることになりました。これにより平成十年度の日本国際賞受賞の栄に浴しました。

私はリスクを恐れず、研究のためによりよい環境を求めて日本とアメリカ、三つの会社を渡り歩きました。後に帰国し、筑波大学、芝浦工大、現在、横浜薬科大学学長を務めているのは若い人材育成の思いからです。日本は昔から、大学卒業後、一つの会社に勤め、会社が一生面倒をみる終身雇用、年功序列の世界です。集団志向の強い日本では個人が個性を生かして生きることが難しいのです。私が会社を移ろうとする度に、周りから意外に強い抵抗や反対に合い、柳か苦労もしましたが、自分の書いた人生のシナリオに従いました。結果的には大いにチャンスに恵まれ、大学生の私が書いたシナリオ以上の「結び」になりそうです。

江崎玲於奈(横浜薬科大学学長)

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2010年9月文藝春秋
「勝つ日本」40の決断
真のリーダーは、たった一人で空気を変える!