斉藤惇(27)ライフワーク

米国で知った企業統治、論文執筆後
20年構想が実現

2015年6月、日本取引所グループの最高経営責任者(CEO)を退任した。最後の定例記者会見で「8年間をふり返ってどうですか」と質問されたので、「コーポレートガバナンス(企業統治)の改革が前進してうれしかった」と答えた。

会見場にいた兜クラブの若い記者の方々は、アベノミクス(安倍晋三首相の経済政策)の一環として東証が15年に採用した「コーポレートガバナンス・コード」のことを思い浮かべたようだ。直接にはその通りだが、言外の意味はもう少し深い。

私にとって「企業統治」はライフワークと言えるテーマだ。その源流は野村証券でのニューヨーク勤務にさかのぼる。最初に赴任していた1974年、米国で「エリサ法」と呼ばれる法律ができた。年金の運用者に対して委託者のために最善を尽くすことを義務づけ、怠ければ罰則を科すという内容だ。

このエリサ法が、米国の株式市場と経済の歯車を好転させる起点となった。静かに株式を買っているだけだった年金が、投資先企業の経営や戦略に注文をつけ始めたのだ。運用を怠けるのは法律違反だから、ファンドマネジャーが投資先の企業価値を上げるのに必死になったのだ。

年金の圧力を受けた企業が不採算部門を切り離したことにより、産業の新陳代謝が進んだ。無駄をそぎ落とした企業の株価は上昇。資産効果で個人の懐が潤い、消費主導で経済は活性化--。90年代の米国繁栄の構図は詳しく説明するまでもない。

日本の90年代はバブル崩壊で経済が停滞し、株価は下がり続けていた。野村の専務になっていた私は米国との差を縮めるにはどうしたら良いかと思案した。出した答えがガバナンス改革だ。株式市場の圧力を使って、企業の経営や戦略を変える手法を日本に広めようと考えた。

94年4月、経団連の関係団体が米国にガバナンス視察団を出した際は、15人ほどのグループの団長も務めた。実際に米企業の株主総会ものぞいてみた。企業側と株主が経営について和気あいあいと議論する距離の近さが、ひじょうに印象的だった。

同じ年には法務専門誌「旬刊商事法務」の7月5日号に「日本のコーポレート・ガバナンス過去・現在・未来」という論文も発表した。経営に外部の視線を取り入れることは企業を鍛え、経済全体のためになるという信念は当時からまったく揺るがない。

あの頃、日本がガバナンス改革に本気になっていれば、日本の経済は今より強く、企業もたくましくなっていたはずだ。野村は隆々たるグローバル金融機関になっていたかもしれない。破綻した山一証券の運命も違ったものになっていたのではないか。

20年余りの時を経て東証がガバナンス・コードを取り入れ、そのトップにいることができたのは、市場に関わる者として感無量であり、幸せだった。記者会見では「大変ラッキーです」などと、珍しく軽口も口をついて出てしまった。

退任に際して、社員が送別会を開いてくれた。私の在職時の写真などを集めた記念アルバムをいただいた。表紙には毛筆で「卒業」。麻生太郎金融担当相が書いてくださったものだった。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)

斉藤惇(26)大証と経営統合

決裂寸前の交渉を前進
オールジャパンで世界に挑戦

グローバル市場の中で証券取引所はナショナルな存在である。お金の流れは国境を越えるが、それを受け止める証取という器は一国の代表として生存競争をくり広げている。複数の主要マーケットが並び立つ米国はむしろ例外の国だ。欧州やアジアでは再編が進み、おおむね1つの国に代表的な証取は1つしかない。

「時差もない日本の中で、東京だ大阪だと言っている場合ではない」と自然と思うようになった。大阪証券取引所の米田道生社長も同じような考えを持っている、と教えてくれる人がいた。

2011年2月、野村証券が主催するセミナーで米田さんと顔を合わせた。どちらが最初に声をかけたのかは忘れたが、私が「米田さんと話すことあるよね?」と冗談めかして言ったのは覚えている。まずは食事でもということになり、3月20日に京都での会食が設定された。

3月10日に日本経済新聞が朝刊1面の横見出しで「東証・大証統合協議へ」とすっぱ抜いた。その日の朝、自宅を出ると門の前で記者さんたちがお待ちかねだった。「報道は事実か」とか「東証の上場計画はどうなるのか」など様々な質問を受けた。

私は「似たようなところは1つでいいんじゃないか」と肯定的にコメントした。米田さんも「3カ月以内に基本合意したい」と踏み込み、話がとんとん拍子に進むかと思われた。しかし報道翌日の3月11日、日本を悲劇が襲った。東日本大震災である。我々も非常時の体制をとったため、京都での会食は延期せざるをえなかった。

仕切り直しの会合は4月7日、名古屋だった。名古屋を選んだのは東京と大阪の中間という理由だったが、東証には「地理的には大阪寄りだ」などと言う人もいて、苦笑せざるをえなかった。

名古屋会合の後、双方でプロジェクトチームを立ち上げて交渉に入った。統合比率など細かい条件もさることながら、私が最も気を使ったのは「ぜんぶ東京に集中してしまう」という大証の警戒感を解くことだった。

持ち株会社をつくったうえで大証は大阪に残し、東証の先物やオプション取引も大証に移管。その代わり、現物株式の市場は東証に一本化。こんなすみ分けを前面に出すことで、何度も決裂寸前までいった交渉を前に進めた。

経営トップの肩書を決めるのも難しかった。私と米田さんのどちらかが「社長」、どちらかが「副社長」になると、統合後の主従関係がにじみ出てしまう。そこで、どちらの名称も使わないこととし、私が「最高経営責任者(CEO)」を名のり、米田さんには「最高執行責任者(COO)」に就任していただくこととした。役員フロアでも並びの部屋を構えた。

それでも、私は少し傲慢な存在に映っていたかもしれない。組織の長としては、東証のために有利な条件を勝ち取らなければならなかった。東証の上場計画を期待していた中小証券の経営者の方々に、納得していただく仕組みとする必要もあった。

米田さんは、統合後は社内融和に率先して動いてくれた。世界に挑戦するにはオールジャパンでなければいけない。そんな問題意識は共有できていたのだと思う。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)

斉藤惇(25)英と合弁新市場

1年たっても上場ゼロ
リスクや責任への文化に差

リーマン・ショックの余波がおさまりきらない2009年6月、東京証券取引所は英ロンドン証券取引所と合弁で「TOKYO AIM」という新市場を開設した。歴史の浅い新興企業が株式を公開するための市場だ。

東証にはすでにマザーズというベンチャー向け市場があったが、AIMのほうが格段に基準が緩く、審査を「指定アドバイザー」と呼ぶ証券会社に委ねた点に特徴があった。取引への参加をプロの機関投資家に限ることで、自己責任を貫徹しやすい仕組みも前面に打ち出した。

この構想は金融危機が起きる前の07年ごろ、東証のトップに就任した直後から抱いていた。東京市場を活性化させるヒントを世界中から求めていた私は、英国の経済や市場が米国に負けず劣らず元気なことに気づいた。秘密を探ってみると、その1つがロンドン証取に1995年から開設されている「AIM」という市場だった。

英国のみならず欧州連合全域、さらにはロシア・東欧の企業が競うようにAIM市場に上場していた。証取にかわって「指定アドバイザー」が審査するという柔軟な仕組みが、企業に評価されていた。資本市場の繁栄が国際金融都市ロンドンの魅力を高め、そこに世界中からヒト、カネ、モノが集まる構図は日本にとってもおおいに参考になると思った。

「TOKYO AIM」は東証とは別の会社が運営することとし、社長には派生商品部の村木徹太郎氏をあてた。村木氏は産業再生機構でいっしょに働いた仲間で、カネボウ再建で腕をふるった。こういうこともあろうかと、お願いして東証に来てもらっていたのだ。

東証に着任し、社員に「営業マインドを持て」とくり返し言っていた私は「TOKYO AIM」をもり立てるために自ら証券会社を回った。審査を担当する彼らの目利き能力や意欲が、新市場の成否を握っていたからだ。

しかし、残念ながら結果は芳しいものではなかった。1年たっても上場件数はゼロで、やがてロンドン証取の事情で合弁を解消せざるを得なくなった。現在は名称を変えて存続している。

「TOKYO AIM」が苦戦を余儀なくされたのは、いくつかの要因が重なったからだ。リーマン・ショック後、企業も投資家も慎重な姿勢を強めたという事情は大きい。しかし、何よりもリスクや自己責任に対する日英の市場文化の差に埋めがたいものがあった。

AIMでは上場後の企業に問題が発覚すれば、指定アドバイザーの責任や評判にはね返る。「だからこそ証券会社が真剣に企業を発掘し審査をする」と考えるのが英国流だが、日本では「責任が重すぎて割に合わない」と尻込みする向きが多かった。

国際的な企業の上場誘致で英国に押され気味だった米国では、「JOBS法」をつくり上場や資金調達の規制を緩和した。米系の法律事務所はすかさず「ナスダックに上場しやすくなりました」と日本で売り込みを始めた。

激しい国際市場間競争と、時間がのんびり流れる兜町の現実との落差に、私の危機感は募っていった。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)

斉藤惇(24)リーマン破綻

名門証券をつぶした市場
特殊な会計操作を見抜き圧力

東京証券取引所の社員に向けて強く打ち出したのは「世界の中の東証」という考え方だ。すでに株式会社となり上場を目指してはいたが、競争に勝つという意識がまだまだ希薄な組織だった。競争とは世界中から企業の上場を誘致し、投資マネーを呼び込むグローバルな市場間競争にほかならなかった。

私自身も少し遠ざかっていた海外市場の動向を知る必要性を感じていた。そこで、社長に就任してからあまり時間をあけず、積極的に海外出張に出るようになった。

2007年7月、米国のシカゴに足を運んだ。コモディティーや金融派生商品の取引の現場を見たかったからだ。現地の取引所では、野村証券でニューヨークに駐在していた頃に知り合った友人がいた。

「東証もやっとマーケットの言葉を話す人がトップになったね」などと言われ、複雑な気持ちにもなった。東証トップは旧大蔵省の天下りが長らく続き、その後は東証プロパーや財界人が就いてきた。海外の市場にも視察に来たのだろうが、市場の機微にふれる深い会話はしてこなかったのかもしれない。

08年3月にはニューヨークを訪れ、ウォール街の空気を吸った。「なんだか妙に気ぜわしい」と思ったのは、単に街のにぎわいや人混みといった理由だけではなかっただろう。すでに証券化商品のリスクが顕在化しており、街のあちこちで投資銀行の信用不安が語られてもいた。

そんな中で、リーマン・ブラザーズの最高経営責任者(CEO)をしていたディック・ファルドを訪ねた。ディックも私が米国野村にいたときの知己の1人。ゴールドマン・サックスのジョン・コーザインやソロモン・ブラザーズのジョン・メリウェザーらとともに、米国債の取引をしていた仲間だ。

顔を赤らませたディックの口をついて出たのは、株主へのいら立ちだった。彼らは何かにつけて我々をゴールドマンやモルガン・スタンレーと比べ、四半期の利益が予想を上回るかどうかしか関心がない。ウォール街はいつからこんなことになってしまったのだ……。今でいう「短期主義」(ショートターミズム)への批判だった。

リーマンは決算を良く見せるために特殊な会計操作をしている、という噂もささやかれていた頃だ。「どうなんだい?」と真偽を確かめると言下に否定された。

その年の9月にリーマンは破綻。一報を耳にした私が思い出したのは、あの日のディックの赤ら顔だ。ゴールドマンに負けまいとリスクの高い取引を増やしすぎ、一種の飛ばし取引のようなこともやっていた。それを見抜いた市場の圧力に名門の証券会社が押しつぶされた様子は、日本の山一証券の破綻と相似形を成していた。

米国だけでなく欧州やアジアにも積極的に足を運んだ。全世界で急速に存在感を高めていたのは、1秒間に何千回もの取引注文を日本に出すHFT(超高速取引)会社だった。兜町の人びとはHFTを攻撃的で市場を壊す存在と批判していた。しかし、日本だけが世界の流れに背を向けることがいかに高くつくかを身をもって経験している私は、彼らもれっきとした株式市場のお客様だと思った。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)

斉藤惇(23)再び証券界

「お役所」の東証社長に
傍流のIT部門、陣容を拡大

2007年になると、3カ月後に解散を控えた産業再生機構は人が減り、カネボウやダイエーの再生に向け合宿のような熱気に満ちていたオフィスも静かになった。

仲間たちはそれぞれにファンドやコンサルティング会社を立ち上げる準備を始めていた。「斉藤さんも一緒にやりませんか」と言ってくれる人もいた。その時の私はすでに67歳。自宅で畑仕事をしようと本気で思っていた。

そんな時、野村ホールディングスの会長になっていた氏家純一氏が訪ねてきた。「東京証券取引所の社長を引き受けてくれないか」との依頼だった。当時の東証社長だった西室泰三氏の後任を探しているが、適任者が見つからずに困っているという。

最初は受けるつもりはなかった。野村証券を辞した時に証券界との縁は切ったつもりだったし、再生機構でやるべきことはやりきったという気持ちが強かった。

野村の役員時代、東証が設置した委員会などに出席したこともある。雰囲気はお役所そのものだった。自分には合わない場所というイメージもずっと抱いていた。

しかし、2度、3度と氏家氏や西室氏に会いその度に断っても、先方は「好きにやっていいから」の一点張り。そこまで言われて固辞するのも申し訳ないと思い「何をするか分かりませんよ、いいんですね」と念押ししたうえで、受けることにした。

社長になってまず始めたことは、全社員の声を聞くことだった。5~6人の小グループをつくり、夕食にお弁当を取り寄せ、1週間に1度くらいのペースで社内で会合を開いた。特に若手や女性の声が聞きたかった。東証のカルチャーに染まっていないと思ったからだ。

社員とのミーティングを通じて、いろいろと興味深いことが分かった。

当時すでに世界の証券取引所は、大量の売買注文を処理するシステムの性能を競うようになっていた。しかし、社員の声を聞くと、東証ではまだITが傍流扱いされているようだった。本流と考えられていたのは市場のルールをつくる規制部門や、上場申請に対応する審査部門。お役所の合わせ鏡のような仕事だった。

また、先物やオプションなどの派生商品が、一段低く見られているところがあった。バブル期に現物株市場の時価総額が世界一になった成功体験が忘れられず「東証は現物株、大阪証券取引所は派生商品」という、妙なすみ分けにこだわっていた。

「これではまずい」。産業再生機構で企業が衰退した例をいくつも見てきた私は、直感した。環境の変化に合わせて人の配置と戦略を変えられない組織は滅ぶ。

理系の大学院を出ているような人材を優先してIT部門に回し、陣容を拡大した。派生商品については、世界の市場の主流になっていたETF(上場投資信託)を100本上場させるという目標を打ち出した。当時の東証は10本くらいしかETFがなかったから、高いハードルだったのではないか。

社長就任から4年目の11年3月に、東証で100本目となるETFの売買が始まった。担当者にはどんとボーナスをはずんだ。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)

斉藤惇(22)「時代の申し子」

再生機構 憎まれ役徹す
1年早く活動終了 収益生む

5年間の時限組織として2003年4月に設立された産業再生機構は、07年3月に解散した。予定よりも1年早く活動を終えることができたのは、景気や株価などの外部環境にも恵まれ、再生計画が順調に進んだからだ。

再生機構が支援した全41件の企業は、総額で4兆255億円の借入金を抱えていた。当時の日本の不良債権の約1割に相当する金額だったという。銀行に債権放棄を求めるとともに、必要に応じて資本を注入。事業の立て直しを進め転売などにより投資を回収するというやり方で、740億円の通算純利益を上げた。国庫には432億円を納付することができた。

03年の3月頃、役所や銀行の関係者と顔合わせの会合を持った時のことが、改めて思い出される。政官財の思惑がすれ違いトップ人事が難航した再生機構の船出は、決して明るい雰囲気ではなかった。この新組織にどこまで本気で関わるべきか、誰もが間合いの取り方をはかっていたようなところもある。

そんな中で事務方から聞いたひと言を、私はずっと忘れられなかった。「国のお金を使うわけですから、再生に失敗したら国民の負担になります」。負担どころか、収益を上げ国庫にお返しすることができたのは、本当に良かったと思っている。

後に私は、あるところで再生機構について「時代の申し子だった」と記したことがある。どういう意味か。

バブル崩壊で金融システムが傷み、産業競争力の劣化が進むなか、なすべきことは明らかだった。すなわち、融資の担保を適正に評価しなおすとともに、企業には新たな資本を入れてガバナンスを変える。これにより企業を成長の制約要件から解き放ち、金融も蘇生させるということだ。

すべて机上では十分に論じられ、あとは実行するのみ。再生機構が登場したのは、そんな時代の空気の中だったような気がする。

再生機構が金融界に定着させた新常識もある。

例えば、不動産の評価だ。将来見込まれる家賃収入を現在価値に割り引いたものが、不動産の適正な現在価値である。アタマでは分かっていても一般的でなかった手法を、あつれき覚悟で推し進めたのは私たちだ。

ダイエーの支援が取り沙汰され始めたころ、福岡のドーム球場を視察にいったことがある。シーズンオフで内部は真っ暗。防空壕さえ思い起こさせた。いかに巨費が投じられているかを、ダイエー関係者はくり返し説明した。

私は言った。「収益を生まなければ、これは単なるコンクリートの塊にすぎないんですよ」。先方は釈然としない様子だった。かかった費用がすなわち物件の価値だと思っていたのかもしれない。

銀行、特に地方銀行の貸し出し姿勢にも、再生機構は影響を与えたのではないか。ある案件で第二地銀に債権放棄を求めに行った時のこと。「貸し手責任があります」と言っても、先方は納得しない。「親密なメガバンクが貸したのだから協力するのは当然」という感覚だったようだ。

そんな場合も再生機構は負担をお願いした。誰かが憎まれ役になる必要があった。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)

斉藤惇(21)ダイエー

支援巡り経産省が抵抗
地方の店舗閉鎖 政治と攻防

2004年12月に産業再生機構が支援を正式に決めたダイエーは会社の大きさだけでなく、再生機構に持ち込まれるまでの混乱などを含め、忘れられない案件だ。

ゼネコンと並び過剰債務企業の代表企業だったダイエーは、00年から2回にわたって金融支援を受けた。04年8月、3度目の金融支援を巡って再生機構の活用を迫る銀行団と、渋るダイエーとの攻防が始まった。

経営難とは言え全国に営業網を持ち知名度も高いダイエーには、商社や国内外の小売業、投資ファンドなどが支援に名乗りをあげていた。そうそうたる顔ぶれを見て、再生機構が出て行く必要はないとの意見も耳にした。しかし、銀行は3度目の金融支援ということもあり、公的機関を利用して迅速に支援を進め、不良債権を確実に減らしたい意向が強かった。

再生機構は案件が持ち込まれるのを待つ立場だったが、企業の関係者と非公式に話すことはあった。ダイエーの方々のお話も聞いた。彼らが最も気にしていたのはカネボウの場合と同じく、経営責任だった。「中内さん(ダイエー創業者)まで処分されてしまうのか」といった質問も受けた。企業再生が経営者の苛烈な処分を伴うという警戒感は、結局最後までついて回った。

支援に備え、私たちも予備的にダイエーの資産内容の査定を始めていた。しかし、銀行団とダイエーの協議がいっこうに終わらないため、04年10月12日までに決断するよう最後通告した。すると、中川昭一経済産業相が「聞いてない」と怒り、私が経産省に呼びつけられるはめになった。「再生機構は民間スポンサーを排除していない」などと説明することで、何とか矛を収めていただいた。

結局、期限は1日延び、13日にダイエーの高木邦夫社長が再生機構に支援を要請することを決めてくれた。本当は当日の正午頃に連絡が来るはずだったのだが、深夜までずれ込んでしまった。

その日は、高木社長が数時間、誰も連絡がとれなくなるという事件があった。側聞したところ、経産省幹部が都内ホテルで高木社長に翻意を促していたという。流通業の監督官庁として、銀行と再生機構がダイエー再建を主導することに抵抗感が強かったようだ。ダイエーに振り回された長い夏は、霞が関の思惑が深い影を落としていた。

支援が決まってからは政治との攻防が始まった。ダイエーが店舗を構える地方自治体の首長から「ウチのところのダイエーは閉めないでくれ」と陳情が相次いだ。店舗の閉鎖となれば地域の雇用を直撃しかねないからだ。

選挙区のダイエー店舗の扱いについて、国会議員の訪問を受けたこともある。「私たちは税金で仕事をしています。採算の合うお店はつぶしませんが、不採算店はいろいろ検討させていただきます」。私は判で押したような答えをくり返した。

全国に店舗用の不動産を抱え、その含み益をもとに多額の借り入れをしていたダイエーは、日本経済の土地本位制の象徴でもあった。再生機構が収益性をベースに算定し直した不動産価格が従前の見積もりを大幅に下回り、ダイエー側にショックを与えることもしばしばだった。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)

斉藤惇(20)カネボウ

日本的経営 目の当たり
上場廃止の処分、釈然とせず

2004年3月に支援を決めたカネボウは規模などの面で、産業再生機構にとって初の大型案件だった。1960年代に社会に出た私のような世代には、ぴかぴか輝いていた頃の記憶が鮮明な名門企業でもあった。

今となっては認識不足も甚だしいのだが、個人的にも特別に悪い印象は持っていなかった。そのイメージは支援の過程でことごとく覆されることになった。

当初、カネボウは化粧品部門を花王と統合することにより、苦境を乗りきろうとしていた。その計画が必ずしも順調に進んでいないとの噂が耳に入り始めたころ、当時のカネボウ社長だった帆足隆氏と会ってみた。

話題は多岐にわたったが、先方の関心はもっぱら「再生機構に支援されたら経営責任は問われるか」という点に向けられていた。私は「社長は辞めていただかないと・・・」程度のことはにおわせたがあくまで一般論の域にとどめておいた。今考えれば、粉飾決算が明るみに出た場合のことが念頭にあったのではないだろうか。

1887年に創業し、戦後に多角化で成長を遂げた名門カネボウは、日本的経営を体現していた。独特の労使協調路線はかつては強みだったが、意思決定の遅さという弊害を伴った。先輩のやったことを否定できないので古い事業が積み上がり、雇用調整につながる事業の撤退や縮小が難しかった。

日本全国の拠点に足を運んでみると、各地で政治の影を感じた。地元選出議員とのつながりがあるため、切るに切れなかった小さな事業がたくさん見つかった。

要するに、しがらみの固まりのような会社だった。機動的に事業の再構築をしていれば、米国の名門化学会社デュポンのようにもなれたのではないか。支援の過程でそんなことも思った。

カネボウは再生機構の支援を受けるのと並行し、過去の決算も再調査した。旧経営陣による2150億円の粉飾が判明したので速やかに開示すると、東京証券取引所から上場廃止処分を受けた。東証の措置には正直言って釈然としないものが残った。

カネボウの決算が怪しいという噂は、かねて株式市場で広がっていた。

再生機構が支援を決めた頃、古巣の証券界にカネボウ担当のアナリストを紹介してくれるよう頼んだ。しかし、きちんと調査している人が少なかったため、どういうわけかと尋ねたことがある。返ってきた答えはちょっと衝撃的だった。「カネボウは粉飾の可能性が高いので、まともに分析して投資家に薦める銘柄ではないんです」

それほどの情報が流布していたのに市場管理者としての東証は何をしていたのか。私が釈然としないと言ったのは、そうした気持ちを禁じ得なかったからだ。

実際、東証の担当者とかなり激しくやり合った。表向きは東証の決定について「プロフェッショナル・ジャッジメントを尊重する」などとコメントしていたが、内心では「上場廃止の制度が少しおかしいのではないか」とも思い始めていた。

そんな私が後年、東証の社長に就くことになったのだから、迎える側は心中穏やかではなかっただろう。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)

 

斉藤惇(19)再生機構発足

銀行救済の組織にせず
支援第1弾の評価は「小粒」

2003年4月、産業再生機構が発足した。私が社長に就任した経緯は前回書いたとおりだが、本当はもっと大物の財界人を据えるべきだとの声が強かったそうだ。

再生機構の役割も、当初の構想では公的資金で銀行から不良債権を買い取るところに主眼が置かれていたという。産業再生というより銀行救済のための組織だ。

だから、水面下で人事が二転三転したあげくに証券会社の出身者がトップに座り「市場の力を活用して産業をよみがえらせる」などと言い始めたものだから、周囲はおおいに慌てた。良い意味で、私は金融ムラの空気を読むつもりはなかった。

業務の力点を買い取った債権管理ではなく企業再生に置く以上、スタッフにも特別の知見や技量が必要となる。準備段階の再生機構には銀行から多くの出向者がいたが、「これは違うな」と直感して銀行に帰っていただいた。そのかわりに、コンサルティング会社や監査法人、法律事務所などから幅広く人材を募ることにした。

ピーク時には200人をゆうに超える人員が、様々な再生プロジェクトを抱えて働いていた。再生機構は5年間で活動を終了して解散することが決まっていた。しかも、公的な組織なので給料もたいしてはずめない。そんな所に年俸1億円ともされる専門家が結構、来てくれた。

「一体、なぜ?」。何度か尋ねたことがある。「国が大変な時なのだから、プロフェッショナルとして力を尽くすのは当然」。彼らの答えはほぼこんな感じだ。私心というものがなかったのだ。

しかし、再生事業の知見や経験が豊かな人ばかりでは必ずしもなかった。そこは再生機構の最高執行責任者(COO)だった冨山和彦氏が実にうまく取りまとめて、先生役を務めてくれた。

寝袋を持参して机の上で仮眠しながら、幾晩も業務を続けた人もいた。「斉藤さん、横になる場所くらいつくってくれませんか」と懇願され、からだを伸ばせる電動マッサージ機を購入したことがある。良い思い出だ。

銀行との関係でしっくりいかない部分を抱えたまま始動したこともあり、当初は銀行が案件を積極的には持ち込んでくれなかった。再生機構は企業や銀行の要請を受けて支援を検討する立て付けだった。しかも、債権の買取決定期間は機構発足後の当初2年間に限られていた。無駄にできる時間は1秒もなかった。

そこで私は比較的、懇意にしていたメガバンクの頭取を訪ねた。「いろいろ経緯はあったけど、国がせっかく器を作ってくれたのだから、使ってみようよ」。膝詰めで何度も訴えると、向こうの気持ちも徐々に変わった。

03年の夏も盛りを過ぎつつあった8月28日、再生機構は支援の第1弾として九州産業交通、ダイア建設、うすい百貨店の3社を選んだ。企業の知名度や支援規模の面から、メディアの評価は「小粒」「低速発進」などと高いものではなかった。

しかしこの頃から、再生機構に米国の投資家から問い合わせが入るようになった。地味ではあるが、何か重要な変化が日本で始まっているのかもしれない。海外勢の目にはそう見えていたようだ。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)

斉藤惇(18)産業再生機構

トップ就任当初は辞退
官僚自宅に押しかけて説得

住友生命保険の資産運用子会社には社長、会長として3年間ほど在籍した。

企業統治改革をテコに運用のプロ集団をつくる考えに、親会社も当初は理解を示してくれた。しかし、人事ローテーションで理解者が減ると空気が変わった。運用会社に転籍した社員の処遇に対して「親会社の評価はもっと高い」などと口をはさまれるようになった。

社内の公用語は英語から日本語に戻った。運用会社の経営に専念してきた私が、保険営業のためのイベントに出席するよう求められた。投資先企業への議決権行使も、親会社の営業部門には歓迎されていないようだった。

2000年には米国発のネット株バブルもはじけ、肝心の運用成績も決してよくなかった。居心地が悪くなってきたので、私から住友生命の横山進一社長に「辞めさせていただきたい」と申し出た。02年の冬だった。

年が明けて03年。無職の私は東京・町田の自宅で趣味の庭いじりに精を出していた。「これも悪くないぞ。そろそろ休んだらどうだ」。心の声が言い始めていた。

2月のある日、旧大蔵官僚の小手川大助氏から電話があった。「産業再生機構のことですが・・・」。その組織の名前だけは知っていた。不良債権問題を抜本処理するために設立が決まった公的機関で、新聞報道によれば私とは別の証券関係者が社長候補に浮上していた。しかし話を聞くとトップの人選は難航しており、私に引き受けてほしいということのようだった。

「私は公的な仕事をするガラじゃないよ」

「そんなこと言わずに、もう少し詳しい話を聞いてくれませんか」

こんな押し問答をしているうちに、谷垣禎一産業再生担当相にお目にかかることになった。指定の場所に行くと、谷垣大臣は開口一番「このたびはありがとうございます」。もう外堀は埋められているのか。官僚の手はずの良さにあきれ、感心さえもしたが、即答せずに帰宅した。

その日の夜、小手川氏ともう1人の旧知の官僚である大森泰人氏がワイン持参で自宅にやってきて、こんこんと諭された。妻にも「ここまで言って下さるんだから受けたらどう?」などと言われ、ついに内諾した。

すると、玄関から「ピンポーン」の音。人事のにおいをかぎつけた某記者が夜回り取材にやってきたのだ。今、この場のやりとりを知られたら世間は大騒ぎになり、まとまる話もまとまらない。いつもは自宅に記者を上げることが多い私も、この時ばかりは玄関口でぶっきらぼうにあしらってしまった。

2月末、私が産業再生機構の社長になると報じられた。自宅への取材攻勢が始まった。黒塗りのハイヤーだけでなく、テレビ局は放送車を家の前に横付けにした。居間にカメラとライトが据えられ、即席の会見をしたこともある。ワイドショーに追いかけられる芸能人のような気分だった。

拙宅に押しかける記者の方々を前に、私は妙な感慨に浸ることがあった。毎晩、この場所で、証券不祥事について責められながら取材を受けていたのは、ほんの6~7年前のことなのだ、と。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)