遠い記憶

「昔、先生のお父さんを車でひいたのは、うちの親父なんです。」
私が初めて担任をしたクラスが卒業式を迎えた日、クラスの中の一人に告白された。
「俺の親父は元気だから、心配するなって、伝えといてくれ。」と答えるのが精一杯だった。

私の実家は、小さなラーメン屋を営んでいた。父は、よく客からビールを勧められ、酔いつぶれて店の奥で、いびきをかきながら寝ていた。そんな父を母は「また~。もう飲ませないで。ちょっとお父さんを起こしてきて。」と言い、ほとんど母一人で店を切り盛りしていた。

かと思えば、ある日突然父がいなくなり、母に「お父さん、どこ行ったの?」と聞くと、「いつもの病気よ。」と言って笑っていた。父は寅さんの映画をこよなく愛し、学生の頃から放浪の旅が好きだった。父が帰ってくると母は「お帰り。どうだった?」と聞き、父の話す土産話にいつまでも耳を傾けていた。

そんなある日、父が出前の途中でタクシーにひかれた。私はいつも、父のバイクの後ろに乗って、出前についていったのだが、その日だけは、たまたまテレビに夢中になっていて、店のカウンターに座っていた。幸い命だけは助かったが、後遺症が残り、いつも苦しんでいた。その苦しみを酒でごまかすような日々が続き、入退院を繰り返していた。

そんな生活が一年ぐらい続いたある日、「一緒に風呂に入るぞ」と、まだ小学生だった私を抱きかかえて、久しぶりに父と風呂に入った。ものすごい力で父に背中を流してもらった後に、私も父の背中をカ一杯洗ったのだが、その時父の肩が小さく震えていたのが分かった。父の泣いている姿を見たのは、それが最初で最後となった。

次の日の朝、母が泣きながら家の掃除をしていた。
「お父さん、もう帰ってこないよ」と言いながら、前の日に私の寝顔をしばらく見た後、「ちょっと出掛けてくる」と言い残して車に乗り、高速道路を走っている途中で、ガードレールを突き破って崖から落ちたらしい。ブレーキを踏んだ跡がなかった。まだ36才だった。

そんな父を追うようにして、母が子宮ガンでこの世を去った。体の異常を感じていたのだが、私の学費を稼ぐために深夜まで仕事をして、病院に行かなかったのが、手遅れになった原因らしい。中学生の頃、悪いことばかりして、母を困らせた日々が悔やまれた。親のありがたみは死んでからという言葉が、痛いほど身にしみた。それ以来、自分の身を犠牲にしてまで守ってくれる人がいなくなってしまった。

自分の親を邪険にしたり、邪魔扱いする人間を何人も見てきたが、その光景を見る度に、憤りを感じてしまう。一度でもいいから親と話ができるのであれば、全てを失ってもいいと思っているから。他人に迷惑をかけるな、と親から言われた事があると思うが、それは自分の親にも迷惑をかけてはいけないという事だと思う。

社会人として巣立っていく君たちにとっては尚更である。自分の責任は自分で取らないといけない立場になるのだから、そういう意味では、社会人になるという事は、親と他人になる始まりなのかもしれない。

情報技術科担任

パク・ヨンミ 生きるための選択 North Korea Girl’s Implore

NK
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私は、今、話さなければなりません。何故なら私は、私自身のために話しているのではなく、世界に伝えたいことがある北朝鮮の人々のために話しているからです。

北朝鮮は想像を絶する国です。テレビにチャンネルはひとつしかありません。インターネットはありません。人々は歌いたい歌を歌い、話したいことを話し、着たい服を着、考えたいことを考える自由がありません。

北朝鮮は、国に認められてない国際電話を使うと処刑される世界で唯一の国です。北朝鮮の人々は今日も恐怖にさらされています。

私が北朝鮮で育った頃、一度も男女のラブストーリーに関するものを見たことはありませんでした。恋愛の本はなく、歌もなく、雑誌もなく、映画もありません。ロミオとジュリエットのようなものはありません。全ての物語は、独裁者キム達に関する洗脳をする単なる思想の宣伝しかありませんでした。

1993年私は生まれましたが、生まれたとともに拉致されたも同然でした。自由、人権といった言葉を知る前にです。

北朝鮮の人々は、今、この瞬間も自由を求めながら死んでいます。私が9歳のとき、私の友人の母親が人前で処刑されるのを見ました。彼女の罪は、ハリウッドムービーを見たことでした。

政治体制に関して考えを述べることは、3世代全ての家族を投獄、もしくは処刑されることになります。
私が4歳のとき、私は母に言われました。
決してささやくこともしてはいけない、と。
森、そしてネズミさえも私の声を聞いている、と。
私は北朝鮮の特栽者たちが私の心を読むことさえできると考えていました。

私の父は、私たちが北朝鮮から逃げたのち、中国で亡くなりました。そして私は夜中の3時、隠れて父を埋めなければなりませんでした。私は14歳でした。私は泣くこともできませんでした。私は北朝鮮に送り返されるのが怖かったのです。

私が北朝鮮から逃れた日、私は母がレイプされるのを目にしました。レイプした人は中国の密入国仲介人でした。彼は私を襲おうとしました。私は13歳でした。北朝鮮にはある言葉があります。たとえ自分が弱くとも母は強い。私の母は、私を守るためにレイプされることを許したのです。

北朝鮮難民、約30万人達は、中国でとても弱い立場にあります。その70パーセントの北朝鮮の女性、10代の女の子達は、時にたった200ドルのために犠牲になります。

コンパスを頼りに、モンゴルに向かってゴビ砂漠を歩いていました。コンパスが止まったとき、自由のために、星を頼りに歩きました。私は、星だけが私たちと一緒なのだと感じました。

モンゴルは私たちの自由な時間でした。死か尊厳か、もしも北朝鮮に連れ戻されそうになったら、私たちはいつでも自殺する準備が出来ていました。私たちは、人として生きたかったのです。

よく聞かれます。どうやったら北朝鮮人達を救えますか?と。多く方法が存在します。しかし、今、3つの方法を言いたいと思います。

一つめ。あなたが自分自身を気にかける様に、北朝鮮で起こる人道危機の認知を上げることができます。

二つめ。北朝鮮難民を助け、支援してください。自由のために、彼らは逃げようとしているのです。

三つめ。中国による北朝鮮人本国送還を止めるよう、申し立てをすることです。

この世界で最も暗闇となっている場に、私たちはライトをあてなければなりません。これは単なる北朝鮮人の人権の話だけではありません。これは70年もの間、北朝鮮独裁者たちが私たちから奪い続けてきた人間としての権利の話です。

私たちには、中国の本国送還をためるために圧力をかける、世界中の政府達が必要です。
特に、ここ One Young World に参加している中国代表の皆さんは、声を発することで役割を果たすことが出来ます。

北朝鮮は、説明不可能な国です。生まれた場所が理由で、人間は迫害されるべきではありません。

私たちは政治体制よりも、今もなお忘れ去られてしまっている人々に目を向けるべきです。One Young World の皆さん、私たちが彼らを人々の目に見えるようにするのです。各国代表者のみなさん、どうか仲間に加わってください。これを北朝鮮の人々を開放する、世界的なムーブメントにするのです。

私がゴビ砂漠を渡っていたとき、常に恐怖を感じていました。世界中の誰も気にしていないのだと思いました。星々だけが私と共にいてくれるようでした。

けれど、あなた方は私の話に耳を傾けてくれました。
目を向けてくれました。

本当にありがとうございました。

日本の治安が最高なのは共同体パワーのおかげ

私の知る限り、大都市なのに安全な街は東京だけだ。東京にいるときは昼も夜も安心し切っている。04年に今の家に引っ越したが、引っ越し早々に家の鍵をなくしたので鍵は掛けず、ノックすらせずに出入りしている。スクーターを駐車してその場から離れるときもヘルメットはシートに置いたままだ。「泥棒が怖くないのか?」と聞くフランス人の友人には、私のヘルメットを盗むほど切羽詰まっている日本人がいたら、同じ人間としてヘルメットくらいくれてやるさと答えた。自転車にも鍵を掛けない。それでも無くならないのだから本当にうれしくなる。

私は今では3人の子供の父親だ。フランスより麻薬がはるかに手に入りにくく、子供たちが盗まれる側にも盗む側にもなる心配が少ない国に暮らせて幸せだと、毎朝しみじみ思う。

オレオレ詐欺のような犯罪はあるが、フランスに比べればまだましだ。フランスではみんな、いつか盗難や強盗や詐欺に遭うだろうと思っている。私は学生時代、1年に1回は通学途中で襲われた。そんな話、日本では聞いたためしがない。フランス人にとって盗難に遭うのは人生の避け難い事実であり、日本人がいつか地震で命を落としてもおかしくないと考えながら日本を離れないようなものだ。

フランスにいる私の家族がこの6カ月間でどんな目に遭ったかを紹介しよう。パリ郊外にある両親の家に強盗が入った。私が昔使っていた子供部屋の窓から侵入したらしい。同じ通りにある家は全部、強盗の被害に遭っている。ノルマンディーにある両親の別荘の前では、チンピラがおばあさんから指輪を奪った。パリにある祖母の家の近所では白昼堂々、泥棒が車で銀行に突っ込んで金を盗んだ。祖母の行きつけの薬局も襲撃された。

私はパリではスクーターに乗れない。乗れば盗まれるか壊されるか、あるいはその両方だから。パリの人間は、レストランに入るときはたいてい自転車のサドルを外して席まで持っていく。ファッションの一部なのかと思っている日本人の友人がいたが、そうじゃない。盗まれるからだ。見掛けない奴だから身分証を見せろ、とギャングから言われるほど物騒な界隈も存在するのがフランスだ。

だから、盗難なんてないも同然の日本に来ると本当にびっくりする。私のところに遊びに来た弟が京都のゲームセンターに財布を置き忘れたときは、数時間で警察が見つけてくれた。新幹線に置き忘れた絵はがきも誰かが親切に投函してくれたらしく、フランスの宛先にちゃんと届いた。12年版犯罪白書によれば日本では03年以降、9年連続で犯罪が減少している(フランスでは毎年増加している)。

■真に孤独な人間のいない社会

要するに、日本は本当に治安がいい。誰もがその恩恵に浴している。出身国に関係なく外国人はみんなそのことを実感する。日本の警察の初動捜査が遅れがちなことは国内外で知られているだけに、なおさら意外だ。日本が安全なのは警察のおかげじゃない。では、日本にあってフランスにないものは何だろうか。

治安というのは何かの「結果」としてもたらされるもの。経済が上向けば治安は総じて良くなるだろう。日本では経済は低迷しているが深刻な失業問題はなく、貧困もフランスほど過酷ではない。しかし最大の強みは、自分もコミュニティーの一員だという意識の強さだろう。

日本には真に孤独な人はいない。1億2000万人の一人一人が「安全網」をつくり上げている。フランスでは誰かが盗みを働けば当人だけの問題だが、日本では家族や、その人間が属している集団の評判まで傷つく。この共同体意識は日本の「資産」だ。値段は付けられないし、土地や債券のように資産台帳に記載されるわけでもない。それでも日本はこの意識を失わずに前進を続けるべきだ。

Newsweek 2013.1.8
レジス・アルノー(Regis Arnaud)
1971年、フランス生まれ。仏フィガロ紙記者、在日フランス商工会議所機関誌フランス・ジャポン・エコー編集長を務めるかたわら、演劇の企画なども行う。

こんなに政治家がダメでも日本が機能している理由

アメリカの作家ポール・セローはかつて、東京があまりに効率的なのに感服して「これは都会じゃない、機械だ」と評したことがある。

確かに東京は最高に効率的な都会の1つだ。しかも人間に頼らず、自力で機能しているらしい。13時24分に到着予定の電車は13時24分ぴったりに到着するし、荷物は指定した時間にきちんと届く。忘れ物をしても、たいていは戻ってくる。この街に「想定外」はない。

東日本大震災が発生した3月11日も、東京で印象的だったのは混乱ではなく秩序だった。あれがパリなら略奪が起きていただろう。アメリカ人も、大型ハリケーン「カトリーナ」がルイジアナ州を襲ったときは大混乱に陥った。

だが日本は違った。外資系の銀行に勤める友人は、3月11日の午後4時に金融庁に電話して、いつもどおりに営業終了後の報告が必要かと聞いたそうだ。すると金融庁の職員から「何を言っているんですか。当たり前でしょう!」と怒鳴られたという。「最初はどうかしていると思ったが、今になって思えば彼は正しかったのだろう。普段どおりに業務を進めたことが、金融パニックを防いだのかもしれない」と友人は言う。

日本政治の現状を考えると、東京の効率性はますます素晴らしいものに思える。「Politics(政治)」の語源は、ギリシャ語で都市国家を意味する「Polis」。政治は都市運営というアートなのだ。

日本の政治家には、いわゆる2世議員がやたら多い。その経歴は俳句並みに短くて、「誰それの跡継ぎ」の1行で終わり。質はアフリカの中流国家の政治家と大差ないだろう。なのに東京はこんなにもうまく機能している。もしも巨大地震で永田町が壊滅しても、ジャーナリスト以外は気付きもしないだろう。

かつては私も、ジャーナリストとして日本の政治家たちに取材を試みた。しかし今は、そんな気にもなれない。彼らには意見がない。彼らはこの国がどこに向かっているのかを知らないし、そんなことを気にしてもいないようだ。

■びっくりするほど完璧な集団

私が日本に来た95年当時から、政治家たちは移民の受け入れ拡大や、出生率改善のための女性の地位向上などの改革を議論し続けている。なのにほとんど何の進展も見られない。私が死ぬ頃(たぶん今世紀の半ば)になっても、きっと同じ議論が続いているだろう。

フランスは違う。政治が重視されているし国民の関心も高い。フランスの政治家は権力を好み、権力を行使したがる。政治家にとって、女性にもてることは「力」の証しであり、セックスは政治の妨げとは見なされない。ナポレオンには大勢の愛人がいたが、彼がつくった制度の多くは今も機能している。

フランスでは、政治家は愛人が多いほど有能だとさえ言える。ベッドで誰かを魅了できれば、少なくとも選挙で一票を確保できるのだから。前IMF専務理事ドミニク・ストロスカーンの性生活は過剰なまでに奔放だったようだが、それが職務に支障を来すことはなかった。

そう考えると、疑問が生じる。政治が都市運営のアートならば、なぜパリの街は汚いのに東京の街はこんなに美しいのか。パリでは日常的に略奪などの犯罪が起こっているのに、なぜ東京では暴動が起きないのか。アフリカの中流国家並みの政治家しかいない国が、なぜ世界3位の経済大国でいられるのか。

私が思うに、日本人は自分たちの特異性を強く意識している。だから全員の利害に関わるときはきょうだいのように一致団結する。この集団はびっくりするほど完璧で、自ら運営していけるからリーダーなど必要ない。だがフクシマのような異常事態では違う。ここ一番というときに政治が政治らしく機能できなければ、「機械」もいずれは壊れるだろう。

Newsweek 2011.8.1
レジス・アルノー

発展と巨大な代償 ~中国共産党の歴史~

現代世界の歩き方(13)
東工大講義録から

中国共産党の党大会は5年に一度開かれます。今年の秋に、その党大会が開かれ、現在の胡錦濤総書記が引退。後任に習近平氏が就任する予定です。

■9人が13億人を動かす

中国の人口は13億人。この中国を統治する中国共産党の党員数は8260万人です。

党の方針を決める大会が5年に一度しか開かれないということは、大会は単なるセレモニーであることがわかります。実際の党の運営は、党員から選ばれた中央委員会が行うのです。ところが、この中央委員会も年に一度しか総会が開催されません。そこで、さらに上の中央政治局が実権を握ります。中央政治局の委員は25人。しかし、25人では数が多すぎて、迅速な意思決定ができません。そこで、この25人のうち9人が常務委員となって日常の方針を決定しているのです。

13億人の国民をたった9人が統治する構造です。中国の国内政治に詳しい遠藤誉さんは、自著の中で、これを「チャイナ・ナイン」と名づけました。

この9人にも序列があります。トップはもちろん胡錦濤総書記。総書記は国家のトップである国家主席にも就任します。2番手は呉邦国氏、3番手が温家宝首相です。胡錦濤国家主席と並んで温家宝首相がよく表に出てきますから、温家宝氏がナンバー2かと思いきや、実はナンバー3なのです。

呉邦国氏は全国人民代表大会常務委員長。日本でいえば衆議院議長のような立場です。全国民の代表が集まるのが全国人民代表大会であるという建前ですから、そこのトップが国家主席の次に高いポストに位置するというわけです。実際は名誉職に近い存在です。

今年秋の党大会で、9人のうち7人が引退します。中国共産党の常務委員には定年制があって、68歳を超えている人は引退する慣習になっているからです。

残る2人は、序列6位の習近平氏と7位の李克強氏。そこで、習氏が総書記となって来年春の全国人民代表大会で国家主席に就任し、李氏が首相になるだろうと見られています。

さらに、残り7人の枠に誰が入るのかに注目が集まります。ただ、常務委員9人の枠は、かつては7人だったので、この数に戻すべきだという主張も党内にはあるようです。もしそうなると、「チャイナ・セブン」になりますが。

中国共産党の内部にも派閥があります。大別して「太子党」と「団派」です。

太子党の「太子」とはプリンスのこと。つまりは二世です。親が共産党や軍の幹部だったことで出世した人たちが太子党と呼ばれます。習近平氏は、父親が元副首相であり、そのつながりで父親の友人たちの幹部によって引き上げられてきましたので、太子党に色分けされます。

これに対して団派の「団」とは共産主義青年団のこと。共産党の青年組織です。若くして共産主義青年団での活動ぶりが評価されて共産党に入党。そこで着実に実績を積み重ねて出世した人たち。つまりは実力派です。胡錦濤氏も温家宝氏も、このタイプです。李克強氏も団派で、胡氏は李氏を自分の後継者にしようとしましたが、太子党に抵抗され、李氏は序列で習氏の下になったといわれています。

■「事実上の」一党独裁

中国は中国共産党による「事実上の」一党独裁と表現されます。なぜ「事実上」という言葉がつくのでしょうか。それは、建前として共産党以外に8つの「民主党派」があるからです。

「一党独裁ではない。共産党以外に8つも党がある」というわけです。共産党はこの8つの党と共に政治を進めています。8つの政党は政治に参加する「参政党」だというのが中国の言い分です。

ところが、これら8つの政党はいずれも綱領に「共産党の指導を受ける」と明記しています。他の政党の指導を受けるような党は独立した党とはみなされませんから、「事実上の」一党独裁と表現するのです。

他の政党は設立すら認められていません。たとえば、1998年3月に結成された「中国民主党」の場合、米国のクリントン大統領の訪中に合わせる形で創設されましたが、クリントン大統領が帰国後、全員逮捕されてしまいました。

中国共産党はあらゆる場所に存在しています。役所はもちろん、新聞・放送などマスコミの中にも共産党の組織があります。中国の各大学にも共産党の支部があり、ここの支部長は大学の学長より序列は上なのです。

あなた方は、学会のセミナーなどで中国の大学を訪問することもあるでしょうが、表に出て来る学長より表に出て来ない共産党支部長の方が力を持っているのです。

■上海で生まれた中国共産党

これだけ巨大な組織に発展した共産党でも、発足時は小さな秘密結社のような存在でした。

中国共産党が設立されたのは1921年7月のことでした。上海の高級住宅地の一角を借りて、中国共産党の第1回大会が開かれました。このとき党員は全国にわずか53人(57人の説も)でした。このうち代表12人が出席しました。毛沢東氏もそのひとりでした。

当初は、世界革命をめざすソ連共産党の指導を受けたコミンテルン(世界共産党)の中国支部として発足しました。ちなみに日本共産党の発足は翌年のことです。

中国共産党は五四運動の盛り上がりの中から生まれました。1919年、山東半島を支配していたドイツが第1次大戦で敗北します。中国の人たちは、「これで領土が中国に戻る」と期待していましたが、日本のものになってしまいます。これに抗議する学生たちが立ち上がったのが5月4日。なので「五四運動」と呼ばれます。帝国主義列強による植民地支配に反対する五四運動の盛り上がりの中から共産党が生まれました。当時の運動の中心は学生を中心とした都市部のインテリでした。インテリの党として発足したのです。

■8万6000人の逃避行

モスクワのコミンテルンは、中国の事情に疎いまま、ロシア革命の方式を中国共産党に押しつけます。1927年、コミンテルンの指示を受け、中国共産党は武装蜂起を試みますが、国民党軍により壊滅させられます。これを見た毛沢東氏は、さっさと山岳地帯に退避します。都市部で武装蜂起しても勝ち目がないと悟った毛沢東氏は、農村に革命の根拠地を建設するのです。「農村が都市を包囲する」というゲリラ戦略を確立しました。

その後、1929年、新たな根拠地を建設しますが、国民党軍に敗れ、逃避行を始めます。これは後に「長征」と呼ばれます。8万6000人が1年にわたって実に1万2000キロメートルも逃げ回ったのです。最終的に山岳地帯の延安に到着したときには、8000人にまで減っていました。ここに革命根拠地を築きます。

長征の途上で毛沢東氏が共産党のトップに立ち、周恩来氏が毛沢東氏に忠誠を誓いました。

革命根拠地の中で、毛沢東氏は自己の権力を確立させるため、1942年には「整風運動」を発動します。数千人の党員を処刑したのです。こうして1943年5月、毛沢東氏は中国共産党中央委員会主席に就任しました。現在は総書記ですが、当時は主席という呼び名でした。

1945年8月、日本が第2次世界大戦で敗北し、日本軍が中国大陸から引き揚げると、中国では蒋介石率いる国民党と毛沢東の共産党が内戦に突入します。国共内戦です。

この内戦で共産党が勝利し、中華人民共和国が建国されました。

1949年10月1日、天安門に立った毛沢東氏は中華人民共和国の成立を宣言します。中国の国旗は五星紅旗です。大きな星は共産党、4つの小さな星は労働者、農民、知識階級、愛国的資本家を象徴しています。共産党が主導することが国旗に表現されているのです。

■70万人の「反革命分子」

中国が建国されると、直ちに70万人が「反革命分子」として公開処刑されました。処刑されないまでも、「思想傾向が悪い」と判断された人間は、強制労働収容所(労改)に入れられました。この制度はいまも存在しています。共産党に逆らうとひどい目にあうということを国民に徹底したのです。

建国後の中国では戸籍制度が導入されました。全国民の戸籍を都市戸籍と農村戸籍に分けたのです。農村に生まれた人は農村戸籍となり、都市に住むことができなくなりました。膨大な農村人口が都市に集まって来ることを毛沢東は恐れたからです。

また、人々は所属する「単位」で管理されます。全国民ひとりひとりについて「档案(とうあん)」という身上調書が作成されます。先祖が貧農であったか資本家であったか、「出身」が記録されています。「出身が悪い」つまり資本家であったりすると、出世できなくなるという状態が続くことになったのです。

建国後の中国では、指導者・毛沢東によって国民が翻弄される事態が続きます。その最初は、1957年2月の「百花斉放・百家争鳴」運動でした。これは、国民に対して、共産党の間違いに対して自由に批判しなさいと呼びかけたものでした。

これを真に受けて、共産党を批判した人たちには大変な仕打ちが待っていました。

4か月後の6月、毛沢東氏は突然、「反右派闘争」を開始します。共産党を批判した人たちを「右派」と断じ、徹底した批判を浴びせたのです。右派とされた人たちは職場を追われ、投獄される人たちも相次ぎました。全国で55万人が右派とされて職場を追われ、うち11万人が投獄されました。

毛沢東氏が、「右派は人口の5%程度だろう」と発言したことから、職場によっては、無理やり機械的に5%の人間を選び出して解雇する事態にまで発展しました。

これ以降、人々は共産党や指導者のことを批判できなくなってしまいました。間違いが正せなくなることで、中国にはさらに巨大な悲劇が襲います。「大躍進政策」の失敗です。

1958年、毛沢東氏は「大躍進政策」を開始します。東西冷戦が激化する中、中国の兄弟国家であったソ連は、「米国に追いつき、追い越せ」をスローガンにしていました。ソ連より経済力で劣る中国は、米国より経済力の小さい英国に「追いつき、追い越せ」を目指しました。

■「大躍進政策」の悲劇

英国は鉄鋼生産で世界有数の能力を誇っていました。英国に追いつくには、鉄鋼生産を拡大することだと毛沢東氏は考えたのです。全国の農村地帯で、鉄鋼生産を義務付けました。

技術力のない農村部で、農民手製の炉を使っての鉄鋼生産が繰り広げられました。品質のいい鉄などできるわけもなく、生産物は使い物になりませんでした。炉のための燃料として森林伐採が進み、中国の農村部から森林が消えていきます。

農業の生産性を向上させるためといって、中国では人民公社の設立が進みました。農地はみんなのものであり、みんなで生産し、みんなで食事するという集団農場でした。

しかし、「みんなのもの」は、誰のものでもなくなります。農業は自然相手。雨や風、霜などに備えての24時間労働の側面がありますが、農民たちはサラリーマン化して、時間外労働はしません。生産性が低下しました。

さらに農民たちは鉄鋼生産に夢中になったものですから、農業生産は一段と低下したのです。

また、素朴な階級闘争論を農業に当てはめました。「労働者は団結して資本家と階級闘争を戦うのだから、同じ階級の植物も協力して成長するだろう」と考え、稲の密植が奨励されました。

稲を密植すれば、風通しが悪くなり、水も栄養も足りなくなります。稲の生産量が激減するのです。

また、稲の大敵である雀(すずめ)を退治しようと、全国で人海戦術が展開されました。これは成果を上げ、雀が姿を消しました。結果は、害虫の大発生でした。害虫を食べていた雀がいなくなったからです。

こうして農村部の極度の食糧不足に陥りますが、地方の幹部は、毛沢東氏の指導に従わなかったとして処罰されるのを恐れ、中央には「大豊作」というウソの報告を上げました。

この結果、1959年から飢餓が始まります。全国で4300万~4600万人が死亡したと推定されています。とてつもない悲劇でした。

「百花斉放・百家争鳴」で、共産党や政府を批判した人たちが投獄されただけに、人々は「大躍進政策」の失敗を報告できず、被害が広がったのです。

しかし、さすがに餓死者の激増が問題になり、毛沢東氏は責任をとって、国家主席の座を劉少奇氏に譲りました。しかし、国家主席の座は譲ったものの、権力の源泉である共産党主席は保持し続けました。

劉少奇氏は、トウ小平氏と共に、疲弊した中国経済の立て直しに成功します。こうなると、毛沢東氏が保持していた共産党主席の座も危うくなります。劉氏、トウ氏に対する憎しみが芽生えます。

■文化大革命という名の権力闘争

当時、毛沢東氏に次いでナンバー2だった林彪氏は、後継者の座を狙い、毛沢東氏へのごますりを始めます。毛沢東氏の発言などをまとめた『毛沢東語録』を発行し、毛沢東氏の神格化を進めたのです。

毛沢東氏を取り上げる時、国営メディアは、「偉大な指導者」「偉大な教師」「偉大な統帥者」「偉大な舵(かじ)取り」の4つの形容をつけるようになったのです。

毛沢東氏は、この個人崇拝の動きを利用します。共産党主席の座を守り、失われた国家権力を奪回するため、共産党の外の勢力を利用したのです。こうして引き起こされたのが、「文化大革命」でした。

1966年6月、清華大学付属中学校(日本の高校に当たる)の生徒たちが、体制を批判する壁新聞を貼りだし、自らを「紅衛兵」と名乗りました。「紅」つまり共産主義を守る衛兵と名乗ったのです。

8月、毛沢東氏は生徒たちに「造反有理」の言葉を贈ります。「造反することはいいことだ、意味がある」という意味でした。これが報じられると、全国各地で、若者たちが紅衛兵を名乗り、体制批判や共産党幹部に対する批判を始めます。「いまの体制は、革命の精神を忘れて堕落した。新たな革命が必要だ」というものでした。

『毛沢東語録』を振りかざした若者たちは、街に繰り出し、街を「革命化」します。北京の銀座と呼ばれる「王府井大街」(ワンフーチン)は「人民路」へと改名させました。

成都の「陳麻婆豆腐店」は「文勝飯店」(文化大革命の勝利)という名前にされてしまいました。

女性のパーマは「ブルジョア的だ」とされて、パーマ姿の女性たちは街中で髪を切られてしまいます。また、スカートはズボンにさせられました。

紅衛兵たちは宗教を一切認めず、寺院は破壊されました。

信じられない行動にまで出ました。交通信号の赤が止まれの印であることに文句をつけたのです。「赤は共産主義の色であり、前に向かって進めという意味だ。赤で止まれはおかしい」と主張し、交差点の赤信号で止まらないように指示を出します。このため交通事故が相次ぐようになりました。

これにはさすがに困った周恩来首相が、「赤は止まれは国際的なルールなのだから守るように」と指示を出して、ようやくおさまりました。

共産党の古参幹部たちは、「堕落した」と紅衛兵たちから糾弾されます。毛沢東氏に批判的だった幹部たちは、次々に投獄され、あるいは自殺を強要されました。こうして毛沢東の権威が再び高まり、奪権闘争に勝利します。毛沢東氏の完全な独裁が完成します。

毛沢東氏は奪権闘争に勝利すると、紅衛兵たちが邪魔になります。各地で勝手な行動をとり、国家の統治に支障を来すようになったからです。そこで毛沢東氏は、「知識青年は農民に学べ」と号令をかけます。「大学生や高校生のようなインテリは頭でっかちだから、農民たちから真の革命精神を学べ」という趣旨でした。実際は、体のいい地方への追放でした。この結果、都市部から2000万人の若者が地方の農村部に追いやられました。これを「下放」といいます。

文化大革命時代、学校はほとんどすべてが閉校となり、当時の若者たちは勉学の機会がありませんでした。読み書きを覚えることなく成長した人も多く、現在の50代以上の年齢の人たちは、「失われた世代」と呼ばれることもあります。

1976年9月、毛沢東氏の死去で文化大革命は終息しました。しかし、この間に300万人が投獄され、50万人が処刑されたというデータもあります。毛沢東氏の奪権闘争は、とてつもない被害をもたらしたのです。

とりわけ文化大革命後期には、「批孔」つまり孔子=儒教思想を徹底的に批判しました。礼儀作法を守ることは「ブルジョア的だ」と批判されました。これによって、中国の人たちの社会的モラルが大きく損なわれたとの指摘もあります。

■毛沢東「7分の功績と3分の過失」

1977年になると、毛沢東氏によって迫害され、地方に追いやられていたトウ小平氏が復活します。共産党の副主席つまりナンバー2で、中央軍事委員会主席の座を確保します。国家の要職には就かず、共産党の軍隊である人民解放軍を指導・監督する中央軍事委員会主席として、中国の最高指導者になるのです。

毛沢東氏亡き後、共産党は毛沢東氏の功績について、「7分の功績と3分の過失」があったと評価しました。中華人民共和国を建国したのが「7分の功績」で、大躍進政策と文化大革命で多数の死者を出し混乱させたことが「3分の過失」に当たるというのです。「毛沢東の党」であった以上、過失を厳しく追及することはできなかったのです。

その結果、いまになって、毛沢東時代を懐かしむ人たちが出て来ています。どのような「過失」を引き起こしたのか、中国の歴史教科書ではほとんど扱っておらず、革命運動ばかりが教えられるため、貧しくても平等だった当時に憧れるというわけです。

最近になって失脚した重慶市の共産党書記だった薄熙来氏は、毛沢東時代の革命歌を歌うキャンペーンで人気を高めましたが、文化大革命の暗黒時代を体験している胡錦濤国家主席や温家宝首相が激しく嫌悪。これが薄失脚の一因にもなりました。

実権を掌握したトウ小平氏は、1978年には日本を訪問し、発展した日本経済を見て、中国経済の立て直しを進めます。徹底した実利主義者の彼は、社会主義のイデオロギーにとらわれることなく、資本主義経済を大胆に導入します。「改革開放政策」です。先に豊かになれる地方から豊かになればいいとも主張しました。これが「先富論」です。こうした経済政策は「社会主義市場経済」と名づけられました。要するに、政治は共産党、経済は資本主義、というものでした。

また、農村地帯の人民公社を解体します。農家は生産した農産物を自由に処分できるようになり、農業生産性は飛躍的に向上。食糧不足が解消しました。

■天安門事件が起きた

経済が発展してくると、人々は自由に発言を始めます。政府や共産党による言論統制に不満を持った学生たちは、民主化運動を始めます。この運動が弾圧されたのが、1989年6月の天安門事件です。

この年の5月、当時のソ連のゴルバチョフ書記長が訪中するのに合わせて世界のメディアが中国に集まります。世界のメディアの監視下なら共産党も勝手なことはできないだろうと考えた学生たちが、天安門広場に泊まり込み、民主化を求めました。

しかし、トウ小平氏はこれに激怒。軍隊を使って学生たちの運動を弾圧しました。

トウ氏は若者たちの行動を見て、「愛国心が足りない」と判断。江沢民氏を共産党の総書記兼国家主席に据えて、「愛国教育」を徹底させます。実際は「共産党を愛そう」というキャンペーンでした。

中国共産党は反日運動の「五四運動」の高まりの中から生まれ、日中戦争の中で勢力を拡大しました。つまり、「共産党を愛そう・尊敬しよう」というキャンペーンは、結果的に「反日教育」になっていったのです。

こうして中国には反日的な若者が増えることになりました。共産党の過去の都合の悪い歴史は教えず、功績だけを称(たた)える。この手法が使われ続けているのです。

日本から見ると、よくわからないことが多い中国。過去にこんな歴史があり、それが、いまの中国を形成しているのです。

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いけがみ・あきらジャーナリスト。東京工業大学リベラルアーツセンター教授。1950年(昭25年)生まれ。73年にNHKに記者として入局。94年から11年間「週刊こどもニュース」担当。2005年に独立。近著に「池上彰のやさしい経済学」(日本経済新聞出版社)。長野県出身。62歳。

中国の世界地図が北方領土に塗った色

現代世界の歩き方(2)
東工大講義録から

2回目の講義は、国際情勢です。

日々目にしたり耳にしたりする国際ニュース。それぞれの国や地域には、領土や国境線をめぐって、それぞれの言い分があります。そんな主張の違いを知る方法のひとつとして、世界地図を見るという手法があります。

実は私は世界各地に取材に行った際、それぞれの国や地域で発行されている世界地図を買い求めるのが趣味なのです。それぞれの政府がふだんは声高には言わない建前や主張が、地図の表現に込められているからです。

私たちがふだん目にしている世界地図は、日本が中心に描かれています。でも、世界の人々は、こうした形の地図を見ているわけではありません。

■世界を英国から見れば

たとえば英国の世界地図。欧州中心の世界地図です。日本は右端つまり東の端にあります。日本周辺のことをなぜ「極東」と呼ぶか、この地図を見れば明らかです。英国にとって日本は、「極端に東」にあるのです。

かつて「極東」の範囲が国会で問題になったことがあります。それは、日米安保(日米安全保障条約)の中の「極東」の範囲が問われたからです。安保条約の第6条には、次のような条文があります。

「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリ力合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」

日本に駐留する米軍は、日本を守るために駐留するという理解の人が多いと思いますが、これを読むと、「極東における国際の平和及び安全の維持」のためにいるんだということがわかります。つまり、もし「極東」で国際紛争が起きた場合、在日米軍は出動するのです。

そこで、「極東」とはどこであるか、が問われたのです。1960年2月、政府は統一見解を発表しています。それによると、「大体において、フィリピン以北並びに日本及びその周辺の地域であって、韓国及び中華民国の支配下にある地域もこれに含まれている」となっています。つまり、台湾海峡で中国と台湾が衝突したり、朝鮮半島で紛争が発生したりした場合、日本にいる米軍が出動することもあると規定されているのです。

極東の範囲がわかったら、次は中東です。私たちが「中東」と呼ぶ地域は、日本から見ると西に位置しています。それなのに、なぜ「東」という文字が入っているのか。英国から見ればわかりますね。英国から見て「中くらい東」にある地域だからです。

では、極東でも中東でもない、ただの東はあるのか。英国にとっては、インド周辺が「東」に該当するのです。かつてインド周辺(インド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ)は、英国の植民地(英国領インド)でした。英国から見れば、インドのあたりが東の基準になっているのです。

かつて英国は「大英帝国」と呼ばれ、世界の海を支配していました。このため、国際情勢を語る上でのさまざまな用語が、英国からの発想で生まれたのです。

■イランや台湾から見ると

イランの世界地図を見ると、イスラエルが存在していません。イスラエルの場所には「パレスチン」と表記されています。パレスチナです。イランは、イスラエルを国家として承認していません。対立関係にあります。イランとしては、「イスラエルの建国によって多数のパレスチナ難民が生まれた」という思いがあり、イスラエルを認めていないのです。

イランのアハマディネジャド大統領が就任したとき、「イスラエルを一刻も早く世界地図から抹殺しなければならない」と発言して世界を驚かせましたが、イランの世界地図では既に“抹殺”されているのです。

そんな立場のイランには、核開発を進めているという疑惑があります。これはイスラエルにとって脅威です。このため、イスラエルは、イランの核開発を阻止するため、空爆など何らかの手段に出るのではないかと国際社会は心配しているのです。

地図は、時代によっても変化します。私が持っている古い台湾の地図には、「中華民国全図」と書いてあるのですが、中国大陸もモンゴルも含まれています。実際に「中華民国」を名乗っているのは台湾だけなのに、中国大陸もモンゴルも入っているのです。

これは、かつて大陸に中華民国が建国されたとき、モンゴルもその一部になっていた経緯があるからです。その中華民国は、支配政党だった国民党が中国共産党との国共内戦に敗れ、大陸に存在しなくなりましたが、国民党は台湾に逃げ込んで、中華民国を名乗り続けました。その当時の地図なのです。

しかし、これはフィクションです。実際にはモンゴルは第2次世界大戦後、独立国になったのですから。そこでフィクションはやめようということになり、現在の台湾の地図では、モンゴルは別の国になっています。

一方、大陸にある中華人民共和国の地図を見ると、中華民国は存在していません。台湾島と表記してあります。「中国はひとつ」というのが中華人民共和国政府の方針ですから。

■中国の「敵の敵」は味方

あなたの家の世界地図帳で、中国とインドの国境線を見てください。ブータンの東側です。二重の点線が引かれているはずです。中国とインドは国境線をめぐって戦争をしたことがあります。中印戦争です。国境が確定していないので、第三者の日本では、点線で表示しているのですが、中国の地図ではインド側に入ったところが国境になっています。

このように国境線が国によって異なるということになりますと、では、北方領土はどうなっているのか気になります。

北方領土とは、国後(くなしり)、択捉(えとろふ)、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)の4島ですね。日本の領土ですが、旧ソ連に占領された後、いまもロシアに占領されています。この北方領土が、中国の地図では、どちらの国の色に塗られているでしょうか。学生諸君に聞いてみましょう。どうかな?

中国の地図では北方領土が日本領として色分けされている(池上氏提供)

学生A「ロシアの色」

どうしてかな?

学生A「中国とロシアは仲がいいから」

ほかには?

学生B「日本の色」

ほう、どうして?

学生B「日本人としては、日本の領土が広いほうがいいから」

おっと、願望と事実を混同してはいけないよ。実は答えは、「中国の世界地図で北方領土は日本の色」なのです。答えは合っていたけど、答えを出すまでの経過が違っていては、正解とは言えないね。

しばしば反日の姿を見せる中国が、なぜ北方領土に関しては、日本の言い分を認めているのか。それを理解するキーワードは、「敵の敵は味方」という言葉です。

かつての東西冷戦時代、中国とソ連は厳しく対立していました。国境線をめぐって軍隊同士の衝突もあり、死傷者が出たこともあります。中国は、本気で核戦争を覚悟していたこともあります。こうした危機感のもと、双方とも、相手の国の包囲網を築こうとしていました。ソ連にとって、敵である中国は、インドと敵対していました。ということは、中国の敵であるインドは、「敵の敵」だから味方になります。ソ連はインドと手を結ぶことで中国を包囲しました。

一方、中国はインドの敵であるパキスタンと結び、インドを包囲しようとしました。世界規模のオセロゲームが繰り広げられたのですね。

では、ソ連を包囲するには、どうしたらいいのか。ソ連と対立する米国、日本と関係を改善すればいいと中国の毛沢東は考えました。1972年、当時の田中角栄首相が中国を訪問し、日中友好ブームが巻き起こりました。これは、中国がソ連包囲網を築く一端だったのです。中国の敵であるソ連と北方領土問題で対立している日本との関係を改善するためには、北方領土を日本のものと認める。これが中国の当時の戦略であり、それがいまも地図の上に残っているのです。

お隣の韓国の地図を見ると、日本海という名称が見当たりません。そこには「トンヘ」(東海)と書いてあります。

朝鮮半島は、かつて日本に支配されていました。その間に、自分の目の前の公海に日本海という、まるで「日本の海」であるかのような名前をつけられてしまった。韓国は、そう考えているのですね。そこで韓国は、世界各国や国際機関、地図会社に対して、「Sea of Japan」ではなく、「East Sea」と表記するように働きかけています。その結果、「Sea of Japan」の後にカッコで「East Sea」と表記する地図が登場しています。

さて、朝鮮半島の首都はどこでしょうか?

変なことを聞くなと思ったでしょうね。韓国の首都はソウル、北朝鮮の首都はピョンヤンだと思いますよね。では、韓国の地図を見ましょう。朝鮮半島に首都はひとつ。ソウルとなっています。

では、北朝鮮の地図ではどうなっているのでしょうか。

■北朝鮮から見ると

北朝鮮の地図では、朝鮮半島の首都はひとつ、ピョンヤンです。韓国も北朝鮮も、自分たちの首都が、朝鮮半島全体の首都であると主張していることが、これでわかります。

北朝鮮の世界地図を見ると、面白いことに気づきます。日本と米国だけ、国の色が塗っていないのです。

日本と米国は、北朝鮮と国交を結んでいません。国交を、結んでいないということは、建前としては、相手を国家として承認していないということになります。日本や米国の地図では、北朝鮮を独立国家として色を塗ってありますが、北朝鮮は建前にこだわり、色を塗っていないのです。

これをどう見るか。北朝鮮は日本や米国を敵視している表れなのでしょうか。私のような意地の悪いジャーナリストは、そうは見ません。「北朝鮮は、それほどまでに日本や米国と国交を結びたいのだな」と読み解くのです。

米国の地図を見ましょう。世界の中心は米国。それがよくわかる地図です。子どもの頃からこうした地図を見て育てば、そんな意識にもなろうというものです。米国は、世界中のことに口を出す「世界の警察官」気取りと批判されることがありますが、この地図を見ると、「さもありなん」、という気になってきます。

私たちがふだん見ている、日本が中心の世界地図では見えてこないもの。それは、米国と欧州の近い関係です。

日本が中心の地図ですと、米国は右の端、欧州は左の端です。でも、米国の地図を見ると、米国と欧州が非常に近いことがわかります。この関係を頭に入れておきましょう。

ただし、米国中心の世界地図を作ると、インドシナからインド、パキスタン付近が分断され、右と左に分かれ、位置関係が不明確になります。米国人の中には、アフガニスタンやイラクの場所がよくわからないという人が意外に多いのではないかと思わせられる地図なのです。

ちょっと変わった地図もお見せしましょう。オーストラリアの南北逆転の世界地図です。

もちろんオーストラリアの子どもたちが、この地図で勉強しているというわけではありません。パロディーの世界地図です。

これまで見てもらったように、世界各国・地域は、自国中心の世界地図を作製しています。だったら、オーストラリアを“世界の中心”にするには、どうすればいいのか。南北逆転の地図を作ればいい、というわけでした。

■宇宙から見ると

でも、この地図を見ると、日本列島が不思議な格好をしています。実に新鮮な視点です。こういうのを「逆転の発想」と呼ぶのでしょうね。たまには地図を逆さや横から見てみましょう。見慣れた世界とは一味違った地図が出現するはずです。こうした柔軟な発想が大切なのです。

では、宇宙から見ると、わが地球は、どのように見えるのでしょうか。

宇宙から人工衛星で撮影した写真を組み合わせて世界地図にしたものがあります。これを見ると、当たり前なのですが、国境線などありません。私たち人間は、地球の上で勝手に線を引いているのだということを改めて感じます。

宇宙から見た地球に国境線はありませんが、地球ははっきり2つに分かれることがわかります。それは、「緑の地球」と「砂漠の地球」です。

南米アマゾン川流域に広がる緑。最近は熱帯雨林の伐採が問題になっていますが、アマゾン川流域は、「地球の肺」と呼ばれる理由がわかります。

一方、アフリカのサハラ砂漠は、緑がまったくありません。この砂漠地帯は、アラビア半島まで広がり、中国内陸部にも拡大しています。春先日本に飛来する黄砂が増えているのも、中国内部での砂漠化が進んでいることをうかがわせます。環境問題は国際問題でもあるのです。

そして、日本。宇宙から見ると、日本列島は緑一色です。宇宙から見た日本列島は美しい。それを知っておいてください。

■ドイツの児童用地図では

最後にドイツ、オーストリアで現在使われている児童用の世界地図をご紹介しましょう。児童用ですから、かわいいイラストで世界各国の様子が描かれています。この地図で、日本はどう描かれているのでしょうか。

なんと、芸者、忍者、お相撲さんに広島にはキノコ雲です。

これが、現代のドイツ、オーストリアの日本認識なのかと思うと愕然(がくぜん)とします。

でも、ちょっと待ってくださいね。あなたは、ドイツというと、どんなイメージを持つでしょうか。「ビールとソーセージ」なんてことはありませんか?

これが、ステレオタイプなモノの見方ということなのです。現地を自分の目で見たことがないまま、「あの国はあんなもんだよ」と思ってしまいがちなのです。

若い皆さんは、固定観念やステレオタイプな発想に汚染されてはいけません。自分の目で見て、自分の頭で判断する。この力を、ぜひ身につけてください。

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第2次大戦後の主な国際政治・紛争に関する出来事

1945年 国際連合成立
46年 インドシナ戦争
48年 イスラエル成立。パレスチナ戦争(第1次中東戦争)
49年 北大西洋条約機構(NATO)発足
50年 朝鮮戦争
51年 日米安全保障条約調印
53年 朝鮮休戦協定成立
55年 ワルシャワ条約機構発足
56年 スエズ地帯の動乱(第2次中東戦争)
60年 日米安全保障新条約調印
61年 東西ベルリンの境界封鎖
62年 キューバ危機。中国とインドの国境紛争激化
65年 米国、北ベトナム爆撃開始
67年 イスラエル、アラブ諸国と交戦(第3次中東戦争)
69年 中国とソ連の国境紛争激化
71年 国連、中国の中国代表権を承認。台湾が国連脱退
72年 日中国交正常化
73年 ベトナム和平協定調印。米国、南ベトナムから撤兵完了。イスラエル、エジプト・シリアと交戦(第4次中東戦争)。東西ドイツ国連加盟
79年 中国とベトナムの国境紛争。エジプトとイスラエルが平和条約調印。ソ連、アフガニスタンへ侵攻
80年 イラン=イラク戦争
(池上教授の講義録、山川出版社『世界史総合図録』など参照)

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いけがみ・あきらジャーナリスト。東京工業大学リベラルアーツセンター教授。1950年(昭25年)生まれ。73年にNHKに記者として入局。94年から11年間「週刊こどもニュース」担当。2005年に独立。近著に「池上彰のやさしい経済学」(日本経済新聞出版社)。長野県出身。61歳。

「学際的教養」のすすめ ~原子力の開発を巡る日本と世界の動き~

現代世界の歩き方(1)
東工大講義録から

東京工業大学で教えることになりました池上彰です。フリージャーナリストとして取材に飛びまわっていた私が、なぜ東工大教授のオファーを受けたのか。講義の前に、まずは私の問題意識から話しましょう。

■科学技術は敗北したのか

きっかけは、去年の3月11日です。大地震や大津波の危険性を専門家たちが警告していたにも関わらず、なぜそれが政治や行政、そして東京電力の安全対策に生かされなかったのか。科学や技術が、ある意味で敗北したことを意味するのではないか。そう考えたのです。

また、東京電力福島第1原子力発電所で事故が発生した後、記者会見やテレビで解説する専門家たちの発表や説明が、視聴者や読者にとって理解不能であったのは、どうしてなのか。専門家たちに、「わかりやすい伝え方」の能力が欠如していたからではないか。

さらに、東工大の卒業生だった総理は、危機に際して、十分な指揮が取れなかったのはなぜか。そこに、理科系特有の「狭い視野」に捉われた問題がなかっただろうか。そのような感慨に捉われました。

理科系の専門家の発言が、文科系の国民に伝わらない。世の中が、あまりに「文科系」と「理科系」に分かれてしまい、大きな断層が生じているのではないか。これは、今後の日本にとって看過できない問題ではないか。

私に、こんな問題意識が芽生えていたときに、「東工大の学生たちに、社会科学的な教養を身につけるお手伝いをしていただけませんか」とのお誘いをいただき、決断したのです。あなたたち東工大の学生たちは、やがて科学者や技術者となって、日本を支える人材です。あなたたちに、視野の狭い専門家になって欲しくないと考え、私はこの教壇に立つことにしたのです。

■大学で学ぶ意味

さて、では大学で学ぶ意味とはなんでしょうか。それは、一言で言えば、「教えられるのではなく、自分で学ぶ」ことだと思います。

あなたたちは、高校まで、「正しいこと」を教えられてきたはずです。これから大学では、「正しいこと」を自分で見つけていくことが求められるのです。

高校までの学習課程には、学界の多数派が「正しい」と認めた内容が盛り込まれています。学界で定説になっていない理論や学説は入っていないのです。しかし、大学や大学院では、最先端の研究に触れることになります。その中には、そもそも多数派理論が未形成の分野の学問もあります。多数派になっていない理論を研究している先生もいます。こうした理論や研究に接することができるのが、学問の醍醐味なのです。

となると、教室や研究室で教わることを、そのまま頭から信じ込んだり、記憶したりということはすべきでないでしょう。「これは仮説にすぎない」と考えながら聞くことも必要でしょう。物事を批判的に受け止めること。これが大切なのです。いま池上が話していることも、そもそも批判的に受け止め、自分なりに考えてみる習慣を身につけてください。それがやがて、あなたを研究者に育てることにつながります。

日本の大学の先生たちは、教育より自分の研究を大切にしがちだと批判されます。学生にしてみれば、「なんで教育にもっと力を入れてくれないのだ」と不満に思うかもしれません。その気持ちはよくわかります。私も学生のとき、同じ思いがしました。

しかし、大学というのは、研究者の“後ろ姿”を見て学んでいくという方式をとっています。先生の講義を受けることを通じて、「学び」や「研究」の手法を自ら盗み取り、自分の力にしていくことが求められるのです。

多くの大学の先生は、教えるプロではありません。そもそも教員免許がいらないのです。その点で、小学校から高校までの先生たちとは異なるのです。その点を承知しておきましょう。東工大の先生たちは、あなた方を「研究者のタマゴ」として遇することが多いはずなのです。

■理系・文系の境界を越えて

大地震や原発事故を経験して、私は「学際的教養」の大切さを痛感しています。狭い専門分野に限定された知識の限界を感じます。学者も研究者も技術者も、社会と無縁では生きられません。地震や津波の研究を進めても、それが人命を救うことにならなければ意味がありません。原子力発電の研究開発は、安全性の向上に寄与するものでなくてはなりません。社会の中で、科学や技術が果たす役割を考えていかなければならないのです。

あなたたちの中には、将来、企業に就職する人もいるでしょう。企業の中での研究者、技術者は、コストとの戦いにも直面するはずです。原子力発電所の建設でも、安全性とコストとの関係が問われました。コスト削減のために安全性を損なってもいいのか。この問題に直面したとき、あなたは、どんな判断を、下すべきか。いまから考えておいてほしいのです。

ハイゼンベルクの不確定性原理の誤りを見つけ、「小澤の不等式」を生みだした名古屋大学の小澤正直教授は、実は東工大の御出身です。在学中、東工大の哲学の先生の研究室に入り浸ったそうです。その結果、量子力学の研究の道に進み、世紀の発見をされました。東工大では哲学の勉強もできるのです。これが東工大のユニークなところであり、誇れる特徴なのです。

私が所属する東工大のリベラルアーツセンターとは、そのような教養を学生諸君に身につけてもらうための組織として発足したのです。

北朝鮮の核開発問題で揺れるアジア。それを考えるとき、そもそも日本は外からどう見られているかを知っておきましょう。「唯一の被爆国」として、世界に平和を訴え続けてきた平和国家。そんなイメージを持ってきた学生が多いのではないでしょうか。果たして、その通りなのでしょうか。

■原爆を開発していた日本

世界で最初に原爆の製造に成功し、それを日本に対して使用したアメリカ。日本は一方的な被害者として語られることが多いのですが(そして、それはその通りなのですが)、日本も実は原爆製造の研究をしていたことは、あまり知られていません。

アメリカが、「マンハッタン計画」として知られる原爆開発プロジェクトを発足させたのは、1942年8月のこと。それより2年以上も前の1940年4月、日本では、陸軍航空技術研究所所長の安田武雄中将が、部下の鈴木辰三郎中佐に対して、原爆製造が可能かどうか調査するように命じました。ドイツの学者がウランの核分裂を発見したことが科学雑誌への発表で知られるようになり、これを応用すれば、莫大なエネルギーが得られるのではないかと考えたのです。

鈴木中佐は、東京帝国大学の学者に相談しながら調査を進め、この年の10月、原爆は理論的に製造することが可能であるとの報告書を提出しました。日本の科学技術の水準も、このレベルには達していたのです。

これを受けて安田中将は、当時の陸軍大臣である東条英機の同意を得た上で、1941年4月、理化学研究所に対し、原爆製造に関する研究を依頼しました。アメリカのマンハッタン計画より1年も前のことでした。

理化学研究所の仁科芳雄は1943年1月、「原爆製造は可能であり、ウラン235を濃縮すればいい」との報告をまとめます。研究依頼から報告まで2年もかかっていました。この間にアメリカでは、大規模な開発が進んでいました。研究開始時期には日米にそれほどの差があったわけではないが、この時点で、日米の差は決定的になっています。細々と個人的な研究に終始した日本と、大規模な国家プロジェクトとして推進したアメリカ。日米の研究方式の違いが特徴的です。

この報告にもとづき、日本でも陸軍航空本部の直轄研究として原爆製造が開始されます。これが1943年5月から始まった「ニ号研究」です。この秘密コードのカタカナの「ニ」は仁科の頭文字でした。1944年7月からは、六フッ化ウランを用いてのウラン濃縮実験が始まりました。

しかし、1945年3月10日の東京大空襲で、実験施設が焼失し、実験は中止に追い込まれます。

一方、海軍は海軍で、独自の研究をしていました。1941年11月、海軍艦政本部が、京都帝国大学の荒勝文策教授を中心とするグループに研究を依頼していたのです。これは1945年になって「F研究」として本格化します。Fはfission(分裂)の頭文字でした。こちらは、ウラン濃縮の設計段階で敗戦を迎えました。

陸軍は理化学研究所、海軍は京都帝国大学。それぞれが別個に研究をしていました。すべては縦割り組織の下で進められていく。大規模な統一プロジェクトとして推進されたアメリカとは、ここでも大きな差がありました。もちろん、日本が原爆開発を早く進めればよかったと言っているわけではありません。物事の進め方において、日米でこうした差が出たということを言っておきたいのです。

戦後、日本を占領した連合国軍は、占領下の日本に対して、原子力研究を全面的に禁止します。日本の原子力研究が解禁されるのは、1952年4月に発効したサンフランシスコ講和条約で日本が独立を果たしてからのことでした。

■アメリカの原子力政策に乗った日本

1953年12月、アメリカのアイゼンハワー大統領は、国連総会で演説し、「Atomsforpeace」(平和のための原子力)という政策を明らかにします。原爆を生み出した原子力を平和目的のエネルギー源として使用しようという呼びかけでした。

原子力の平和利用を望む国にはアメリカが技術を供与するというのです。そこにはアメリカの思惑がありました。マンハッタン計画で作り上げた原子力産業をビジネスとして成功させること、原爆製造技術が世界に拡散することのないようにアメリカが技術を一括管理しようという目論見だったのです。

これが日本で熱狂的に支持されました。

原子力の平和利用にとりわけ熱心だったのは、当時の読売新聞の正力松太郎社主でした。

1924年、部数5万5000部の弱小新聞だった読売新聞社を買い取って社主となり、1954年には206万部にまで発展させる天才的経営者です。

彼は1955年2月、衆議院富山2区から立候補して当選します。スローガンは「原子力の平和利用」でした。議員当選後は「原子力平和利用懇談会」の代表世話人となり、1956年1月には、新設された原子力委員会の初代委員長に就任します。総理大臣への野望から「原子力の平和利用」を使ったと評価する人もいます。彼の行動から「原子力の父」との呼び名がつきました。

彼がまだ国会議員に立候補する前の1954年元日から読売新聞は「ついに太陽をとらえた」という大型連載を開始します。

「原子力は平和利用できる。そのエネルギーを使えば地上に太陽を作り出すこともできる。人類は無限のエネルギーを手にしたのだ」と謳い上げたのです。敗戦からわずか9年。原子爆弾という負の面からしか原子力を見ていなかった読者にとって、原子力エネルギーこそが復興の救世主となるという主張は新鮮で、むさぼるように読まれました。この連載によって初めて原子力を知ったという読者も多く、原子力に好意的な世論を形成しました。

■突然の原子力予算

1955年度予算で、原子力研究予算が突然に認められました。その額は2億3500万円という巨額です。現在なら300億円以上の金額というところでしょう。

この予算を認めさせたのは、当時保守系野党の改進党の中曽根康弘代議士です。少数与党の自由党だけでは予算を衆議院で通過させることができなかったため、自由党は改進党に協力を依頼。エネルギーの自給体制を整備するには原子力発電が必要だと考えた中曽根氏は、「原子力予算を認めるなら協力する」と答え、予算を認めさせたのです。

なぜ2億3500万円だったのか。原子力開発に必要な金額を積算したところ、これに近い金額になったため、「原子力発電のためにはウラン235を濃縮させる必要がある。どうせなら235で行こう」と決まったそうです。なんともアバウトな時代だったようです。

突然の原子力予算出現に、原子力の専門家たちが当惑したそうですが、これをきっかけに、全国の国立大学に原子炉工学に関する学科や大学院のコースが設置され、原子力技術者の養成が始まります。

国の機関として1956年に原子力委員会が設置されます。ノーベル物理学賞受賞の湯川秀樹氏も委員に選ばれます。湯川氏は、「原子力発電は慎重に。基礎研究から始めるべきだ」と主張しますが、委員長は、国会議員になった正力氏。彼は、「外国から開発済みの原発を買えば済むことだ」と主張します。科学者の発言より政治家の発言が優先され、日本は性急ともいうべき速度で原子力発電に邁進することになります。湯川氏は1年で委員を辞任しました。

■「自衛のための核兵器」

日本は国家として原子力の平和利用に進みますが、その一方で、政治家には別の思惑もありました。それが明らかになるのは、1957年5月の岸信介首相の参議院での答弁です。彼は、「自衛権の範囲内であれば核保有も可能である」と語ったのです。

さらに1959年3月にも参議院で、「自衛のための必要最小限度を超えない戦力を保持することは憲法によっても禁止されておらない。したがって、右の限度に止まるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わずこれを保持することは禁ずるところではない」と発言しているのです。

もちろん「だから核兵器を保有しよう」というわけではありませんが、核兵器保有は合憲との判断を政府見解として確立したのです。この見解は、その後の政府も踏襲しています。2009年の麻生内閣の答弁書でも、日本政府としては自衛のために核兵器を持つことができるが、「政策上の方針」として「一切の核兵器を保有しない」と答えています。

岸首相は1958年1月、茨城県東海村の原子力研究所を視察した後、「日本は核兵器保有の潜在的可能性を高めることによって、軍縮や核実験禁止問題について国際的な発言力を高めることができる」と考えたことを、その後明らかにしています。

1968年、核兵器を持つ国を増やさないための国際条約である核拡散防止条約(NPT)が調印され、2年後の1970年に発効します。このとき日本はどのような態度をとったのでしょうか。

1968年、当時の内閣調査室(現在は内閣情報調査室)が、『日本の核政策に関する基礎的研究』を密かにまとめました。これは、1994年になって新聞報道で存在が明るみに出ました。

この研究は、日本の技術力で実際に核兵器製造が可能かどうか、核兵器を保有した場合に予想される国内外の影響などについて調査・研究したものです。

当時は、1964年に中国が核実験を成功させたことを受けて、日本政府内部に日本への脅威だという受け止め方が広がっていました。もし日本が核拡散防止条約に参加すると、核保有の選択肢を失うことになるからです。

この研究の結果、日本は原子力発電所から出る使用済み核燃料から原爆の材料であるプルトニウムを取り出せること、核弾頭を積むミサイルも技術的には製造可能であると判断しています。しかし、もし実際に核兵器を持とうとすると、周辺の国々が警戒し、日本が世界で孤立すること、日本国内で賛否両論渦巻き、国内政治が不安定になることなどから、実際問題としては、核兵器を持つことはできないと結論づけました。

日本が、真剣に核保有を検討していたのです。

さらに1969年、外務省は「わが国の外交政策大綱」をまとめ、この中で、「核兵器については、NPTに参加すると否とにかかわらず、当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともにこれに対する掣肘(せいちゅう)を受けないよう配慮する」と記しています。

これが、「唯一の被爆国」日本の国家意思だったのです。

■「核燃料サイクル」にこだわる

2012年4月に北朝鮮が打ち上げに失敗したミサイル。国際社会はミサイルと断じましたが、北朝鮮は「ロケットの打ち上げだ」と強弁しました。しかし、ロケットの打ち上げ技術は、そのままミサイル発射能力に転用できます。

ただ、それを言うなら、日本の人工衛星打ち上げ用のH2型ロケットも、大陸間弾道弾と同じ能力を持っています。周辺国家から見れば、「日本はミサイル発射技術を持っている」ということになるのです。

日本は、「核燃料サイクル」を推進しています。使用済み核燃料を再処理して、プルトニウムを取り出し、再び核燃料として使おうという構想です。

しかし、青森県六ヶ所村に建設中の再処理工場は、トラブル続きで、なかなか稼働できません。再処理に費用がかかりすぎるから、断念すべきではないかとの声もありますが、歴代政府は、推進の方針を変えていません。それは、民主党政権になっても変わりません。

なぜか。プルトニウムを独自に生産できれば、いつでも核兵器を製造する能力を保持することができます。核兵器製造能力だけは持っておこう。そんな国家意思が見え隠れするのです。

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原子力の開発を巡る日本と世界の動き

1940年 日本陸軍、原爆製造の可否に関する研究を開始
1941 陸軍、理化学研究所に原爆製造に関する研究を依頼。海軍、京都帝国大学へ原爆製造に関する研究を依頼
1942 米国が原爆開発プロジェクト「マンハッタン計画」を発足
1943 理化学研究所、陸軍に「原爆製造は可能」と報告、製造開始
1945 米国が原爆完成、広島と長崎に投下。日本がポツダム宣言を受諾、連合国に降伏。降伏文書に調印
1949 ソ連が原爆実験
1950 朝鮮戦争勃発
1951 日本がサンフランシスコ講和条約に調印(52年発効)
1952 米国が水爆実験
1953 米アイゼンハワー大統領、国連総会演説で「Atoms for peace」(平和のための原子力)政策を表明。ソ連が水爆実験
1954 米国の水爆実験による第五福竜丸被爆事件
1955 日本の55年度予算に初めて原子力研究予算2億3500万円。第1回原水爆禁止世界大会
1956 日本政府が原子力委員会を設置(委員長に正力松太郎氏、委員に湯川秀樹博士ら)
1962 「キューバ危機」、米ソが対立し世界が核戦争の脅威にさらされる
1964 中国が原爆実験
1967 中国が水爆実験
1968 核拡散防止条約(NPT)が調印される(70年発効)
1969 日本の外務省「わが国の外交政策大綱」
1970 日本が核拡散防止条約(NPT)に調印

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いけがみ・あきらジャーナリスト。東京工業大学リベラルアーツセンター教授。1950年(昭25年)生まれ。73年にNHKに記者として入局。94年から11年間「週刊こどもニュース」担当。2005年に独立。近著に「池上彰のやさしい経済学」(日本経済新聞出版社)。長野県出身。61歳。

君が日本の技術者ならサムスン(Samsung)に移籍しますか

現代世界の歩き方(東工大講義録から・池上彰)

日本というのは、過去、終身雇用にあぐらをかいていた面があるんですね。会社は社員に「最後まで面倒見るから、言うことを聞け。最後まで働け」みたいな関係だったんですね。忠誠心を出せ、会社に文句があっても我慢すれば「退職金も出すよ、企業年金もあるよ、グループ会社へ天下りポストもあるかもしれないよ」という、それなりの幸せの仕組みがあったわけですね。

ところが、2008年のリーマン・ショック以降、経済環境が厳しくなってくる中でリストラが激しくなり、企業が終身雇用を維持できなくなってきたのです。そこで、社員たちは「それなら考えがあるぞ」と会社を飛び出していくようになってきたわけです。

かつて企業は、優秀な人材を米ハーバード大学やスタンフォード大学などへMBA(経営学修士)を取らせるために留学させたんですね。ところが、帰国後に外資系金融機関などへ相次ぎ転職していくような事態になったわけです。会社のお金で教育していたのにです。そこで、社員から帰国後5年以内には転職しないという誓約書を取ったり、転職する場合には学費を全額返還してもらったりといったことを求めるようにもなってきています。

これは不幸な関係なんだろうと思います。会社はなぜMBAを取らせるのか。本来ならMBAを生かせる仕事を任せればよいのだろうと思いますが、必ずしも活用し切れていません。単なるハク付けの場合が多いのです。だから社員は会社を飛び出していくわけです。終身雇用制度が崩れた今、自己実現を求めていくのは当たり前なのだと思います。企業は技術者をきちんと処遇しないと、退職していってしまうことにようやく気付いたのです。

ある意味で、皆さんは就職にあたって、幸せなのかもしれません。皆さんの先輩の世代には歯車として使い捨てられたケースもあったからです。人材を使いこなす企業なのか、会社の考え方をしっかり見極めることも、判断の基準になってくると思います。

先ほど、日立製作所からパナソニックへ転職するのはどうだろう、たまたまサムスンという外国籍企業だからナショナリズムという問題が出てくるけれど、どうなんだろうという議論がありました。日本企業で日本のために働くのか、それとも自己実現のために技術力を発揮するのか、世界で勝負していくのか。それぞれの生き方があるのだと思います。

■個人と企業、社会の「幸せな関係」

今日のこの議論をきっかけにして、皆さん一人ひとりが技術者としての生き方を考えてくれたらと思います。

皆さんは、イチローの決断をどう受け止めたでしょうか。日本で活躍した後、シアトル・マリナーズで活躍して一番になりました。しかし彼は、一度はメジャーリーグで一番のチームで勝負したいと考え、ニューヨーク・ヤンキースへ移ったのです。

劇的だったのは、移籍直後の最初の試合がマリナーズ戦だったわけですね。しかもマリナーズの本拠地球場だったんです。日本だったらどうでしょう。阪神甲子園球場での阪神対巨人戦に、巨人へ移籍したばかりの元阪神選手が出場したとしましょう。観客はどのように迎えるでしょうか。拍手で迎えるでしょうか?それともブーイングとなるのでしょうか。イチローはマリナーズのファンからスタンディング・オベーションで迎えてもらいました。声援、祝福を送ったわけですね。私は「こういう風土の国は強いなあ」と感じました。

翻って日本の産業界。韓国のサムスンへ移籍した技術者が帰国して迎え入れる時、日本の企業はどのような受け入れ方をするでしょう。「ライバル企業ではどうだったんだい」「よく頑張ったね」と、皆で受け入れてくれるような企業であってほしい。またはライバル企業へ祝福して送り出してくれるような会社であれば、再び戻った時に「また頑張ろう」と思ってくれるかもしれません。個人と企業、社会の「幸せな関係」とはどうあるべきなのかを考えてほしいと思います。この「幸せな関係」を築けない企業は、グローバル化の中で衰退していってしまうのだと思います。

そういう中で、皆さんがよりよい生き方を見付けて下さい。これが私からの15回の講義の締めの言葉です。15回ありがとうございました。

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いけがみ・あきら ジャーナリスト。東京工業大学リベラルアーツセンター教授。1950年(昭25年)生まれ。73年にNHKに記者として入局。94年から11年間「週刊こどもニュース」担当。2005年に独立。近著に「池上彰のやさしい経済学」(日本経済新聞出版社)。長野県出身。62歳。

ニッポンの企業力「ガラスの天井」壊せ

国籍不問、世界にライバル
人財を生かす

中国の北京と上海で11月、来夏に卒業を控えた清華大学など一流大学の4年生と、日本企業の「集団面接会」が開かれた。企画したのはリクルート。日本からNTTや京セラ、花王、三菱商事など42社が参加した。

就職活動から世界との競争は始まっている
中国人採用に殺到

「志望動機は?」
「自分の力が海外で通用するか、御社で試したい」
面接に来た中国人学生1000人の多くは英語はもちろん、流ちょうに日本語を操る。4日間で約150人に内定が出た。
中国の大学1学年の人数は700万人と日本の10倍強。リクルートは1万人の応募者の中から日本企業の求人に適した学生を事前に絞り込んだが、中国も就職難。優秀な人材には事欠かない。「将来、現地法人の経営を任せられるような幹部候補を採りたい企業が殺到している」。リクルートのアジア人材事業責任者、伊藤純一(46)は話す。
2020年に本社社員の半分を外国人に――。イオンは今年、こんな目標へ大きく踏み出した。大学新卒採用の説明会は国内で1回のみ。あとは海外行脚に費やした。来春の採用内定者は2000人のうち400人が外国人だ。
同社は今年度以降、北京に中国本社、クアラルンプールにアセアン本社を順次設立し出店を加速する。グループ人事最高責任者の大島学(47)は「海外では日本のイオンの常識は通用しない。国籍や性別を問わず、現地法人にはその国情に精通した人を増やす」。今年6月にはマレーシアの現地法人トップに生え抜きの女性社員、メリー・チュー(50)を抜てきした。
海外に拠点を築いても日本人が幹部ポストを占拠していた日本企業。生産拠点ならコストを削減できても、商慣習やニーズの異なる消費市場の攻略には通用しない。日本人しか昇進できない「ガラスの天井」を壊し、現地の優秀な外国籍社員を取り込めるか。製造業でも改革が始まった。

「このポストには本当に日本人が必要ですか?」

日立製作所グループの白物家電子会社と日立建機は今年、海外拠点幹部の総点検を始めた。販売競争が激しい新興国を中心に、報酬と成果をもとに最適人材を配置するのが狙いだ。
日立は今年、37万人の連結社員の人事をデータベース化し、課長級以上の評価の格付けを統一した。「地域やプロジェクトに応じて世界中から最もふさわしい人を選ばないと海外勢に対抗できない」。社長の中西宏明(65)は語る。
米IBMや米P&Gなどは1990年代から本格的なグローバル化を推進。優秀な現地社員は世界で情報を共有し、幹部に登用する仕組みが浸透している。行き着く先は経営陣の多国籍化だ。スイスのネスレは9カ国の人材で構成する。こんな仕組みがない限り「日本企業に優秀な社員は来ない」。スイスのビジネススクールIMDの教授を兼任する一橋大大学院教授の一條和生(53)は断言する。

日本を鍛え直す

ライバルは世界中の同僚。それは日本人というだけで昇進が保証される時代の終わりを意味する。
フィリピンやオーストラリア、ブラジルなど07年から1兆円超を投じてビールや食品など海外企業を買収してきたキリンホールディングス。常務の小川洋(56)は「国際感覚に優れた人材育成が急務」という。
中堅社員を選抜し英語で1年間、企業経営を学ぶ研修を3年前から始めた。卒業生は85人。今春には海外に11人派遣した。東南アジア統括会社で販売戦略部長を務める佐藤哲彦(40)もその一人。国内営業畑が長く英語も不得手だったが、今では買収企業との連携に奔走する。「キリンは日本で有名でも海外では無名。成功するまで帰らない」
社長の三宅占二(63)は「外国人から刺激を受け、内なる国際化を進めることも必要」と指摘する。切磋琢磨(せっさたくま)がニッポンの企業力を高める。

(日本経済新聞朝刊1面)

TPP、首相の背中押した人物

首相、野田佳彦は韓国の光景に思いを強くした。22日、米韓自由貿易協定(FTA)の批准同意案が可決した韓国国会の本会議場。野党議員が催涙ガスをまき散らし、怒号が飛び交う異様な雰囲気のなかでハンカチで鼻を覆った与党議員らが涙をふきつつ採決を強行し、国家の懸案に決着を付けた。主導した与党ハンナラ党を率いるのは大統領、李明博(イ・ミョンバク)。李もまた野田を利用した。

約1カ月前、国際会議を除く初の外国訪問先の韓国に降り立った野田は、米韓FTAに抵抗する野党勢力が委員会室を占拠し、審議を開けない韓国国会の姿を目の当たりにした。しかし、翌日会談した李は揺らいでいなかった。その直前の訪米時に、米国が関連法案を可決した米韓FTAの意義を説明し、貿易を自由化しなければ生き残れないという韓国の強い決意を野田に説いた。

李は苦学して大学を卒業し、35歳で現代グループ・現代建設の社長に抜てきされ、100人ほどの会社を大企業に育てあげた。そんな経歴を持つ隣国首脳の自由貿易への覚悟に接した野田は「日本は韓国の3周遅れだな」と周辺に漏らした。

元来、野田は自由貿易論者だ。千葉県議時代、農産物の輸入自由化に抗議する県議会の決議にただ1人反対した。国会質問で環太平洋経済連携協定(TPP)問題を最初に取り上げた議員としても知られる。一方で、農家出身の両親のもとで育ち「美しい農村の風景は断固守る」と訴えてきた。

「競技場の最後のホームストレッチで、選手に声をかけるコーチのようだった」。首相周辺には、野田と李の関係がそうみえた。「大統領と信念を共有できた」。野田はこう言い残し、韓国から戻ったあと、TPP交渉への参加方針を表明した。

ライバルの存在を自らの政策のテコにしたのは李も同じだ。

貿易自由化のスピードでは日本を圧倒していると自負していた韓国では、野田の決断に政界や経済界に衝撃が走った。野田の記者会見の3日後、李はラジオ演説で「野田政権発足後、日本はTPPを国家の第一目標にしている」と日本への警戒感をあらわにした。翌日には自ら国会を訪れて与野党の党首らに米韓FTA批准同意案採決を要請した。首相が内政を束ねている韓国で、大統領が個別政策で国会に出向くのは極めて異例のことだ。

調査会社リアルメーターによると、最新の李の支持率は28%。2008年2月の就任直後の76%はおろか、1年前と比べても20ポイント近くも下落した。サムスン電子や現代自動車など国際競争力のある輸出企業の陰で、韓国内では貧富の格差拡大や若者を中心とした雇用難が解消されず、国民の不満は募る。就任直後に「CEO(最高経営責任者)型大統領」との異名をとった李がいまでは逆に経済で足を引っ張られている。

だからこそ、反対派の抵抗を押し切ってまで米韓FTAにこだわった。「世界最大の単一市場である米国でのシェア拡大に加え、韓米関係を軍事同盟と経済同盟の両面でさらに強化する契機となる」。韓国外交通商省の解説だ。

気の置けない仲間を前に、野田は「アジア太平洋に『楽市・楽座』をつくりたいんだ」とよく口にする。楽市・楽座は、16~18世紀ごろ、特権を持つ商工業者を排除し経済の活性化を狙って、織田信長らが各城下町につくった自由取引市場だ。天下統一をめざした信長は強烈なリーダーシップを発揮し、その後、側近の謀反に倒れた。

李に続き、野田の覚悟が試される。=敬称略

10月19日、ソウルの青瓦台で開かれた日韓首脳会談を前に握手する韓国の李明博大統領(右)と野田首相=共同