ポーランド語のテキスト ピーター・フランクル(4)

強い動機あれば上達早く

僕は12カ国語くらい、人と議論できるレベルで話せる。簡単な会話なら30カ国語くらい使ったことがある。よく「外国語をマスターするにはどうしたらいいか」と聞かれるが、強い動機があれば上達は早いものだ。このポーランド語のテキストを買った時も、ある女性と話したいという思いから、習得に時間はかからなかった。

それは1977年、大学を卒業してハンガリー科学アカデミーの研究員になった夏のこと。ハンガリーにある外国人向けのディスコに潜り込んだら、そこに美しいクリスティーナという女性がいた。ドイツ人かと思って、ドイツ語で「踊りませんか」と誘ってみたが通じない。

ポーランド人だった。やむを得ず、同じスラブ系の言葉でかなり似ているロシア語を使った。きちんとした会話ができなくて、いらいらした。軽い気持ちで接したつもりだったのに、彼女が帰ると心にぽっかりと穴が開いた。

そこで僕はポーランド語のテキストを買い求めた。自由な時間のほとんどはこの本に没頭して2カ月。ポーランド語で文通し、彼女が住む町の近くで会う約束をとりつけた。

出国許可を申請し、汽車での長旅の末、なんとか待ち合わせの場所にたどり着いたが、彼女は現れなかった。電報も打ったがダメだった。今になってこの本を見ると当時の切ない思いよりも、これをきっかけに、短期集中型の外国語習得法を身につけたことが頭に浮かぶ。

97年、中国のテレビで孫悟空と一緒に、子どもに算数を教える全26回の番組に出ることになった。中国語で話さなければいけないわけだから、やはり懸命に覚えた。台北と北京へ1週間ずつ留学をしたことを含め、勉強に本腰を入れた。

たくさんの言語に触れたが、一番難しいのは日本語だと確信している。この世界一難しい言語をマスターできた日本の人たちが本気になれば、英語の習得は簡単ではないか。もしそうでないなら学習姿勢か勉強方法に問題があるのだろう。

国際数学オリンピックの賞品 ピーター・フランクル(3)

最優秀者に選ばれ進路決める

縦1メートルはあるだろう。この大きな木彫り作品で描かれているのは、チェコスロバキアの民俗衣装を着た女の子だ。1971年、同国で開かれた国際数学オリンピックにハンガリーの高校生チームの一員として出場し、1位になった。その時にもらった思い出の品だ。

国際数学オリンピックは59年から高校生を対象にして毎年行われている数学の祭典。各国から高校生チームが出場し、2日間かけて問題を解く。一人ひとり解いて、チームの合計点数で競う。第2次世界大戦後、旧共産主義国を中心にして始まり、現在では日本を含め、約100カ国が参加している。

僕が出場した年は15カ国が参加。各国6人のチームで争った。2日間のコンテストの後はチェコスロバキアの観光地を全員で旅行し、高校生同士、数学の問題を出し合って仲良くなった。会場に戻ってくると、ハンガリーチームは、僕を含めて全問正解が続出という。ソ連などに大差をつけて1位になった。

さらに僕は、最も見事な解き方をした最優秀者に選ばれ、この木彫り作品をいただいた。野球でいえば、最優秀選手(MVP)だ。夜にはパーティーが開かれ、新聞やラジオの取材も受けた。これを機に、数学者になろうと決心した。両親は、僕を医師にしたがっていたが諦めてくれた。

数学の魅力は政治などに一切左右されず、純粋に真実を探るところにある。それに紙とペンさえあれば、どこにいても研究できる。後年、フランスに亡命した時、僕はフランス国立科学研究センターに職を得ることができた。同センターからインドや英国などに派遣してもらい、今は日本で研究を続けている。これは数学だから実現できたことかもしれない。

98年、僕は長年の研究成果を評価され、母国の最高科学機関である「ハンガリー学士院」の会員に選ばれた。亡命して国を捨てる思いを味わっただけに、ブダペストで記念講演をした時は感無量だった。今、東京・渋谷にある僕の事務所には、木彫り作品とハンガリー学士院の会員証を大切に飾っている。

大道芸の衣装 ピーター・フランクル(2)

ド派手なパジャマ、笑顔呼ぶ

「こんにちは、ピーターでーす」。街角で、後ろ向きになってお辞儀し、お尻をヒョイッと突き出す。衣装には、お尻のところに「ぴ」「い」「た」と大きな飾りが付いている。集まってきた人たちが、自然と笑い出す。

この衣装は大道芸を本気で始めた1989年ごろにこしらえた。実はこれ、ただのパジャマだ。友達に飾りだけ縫ってもらった。バブル真っ盛りで日本全体が明るかったから、百貨店ではこんなド派手なパジャマをいくらでも売っていた。

前年、僕は勤めていたフランス国立科学研究センターから2年間の予定で日本に派遣されてきた。すでに何回も短期滞在して日本にぞっこんだったので、2年が過ぎても、ここで暮らしていこうと決めていた。

研究の合間には、代々木公園で独り、ボールや棒をお手玉する「ジャグリング」の練習に励んだ。高校時代からの特技で、いつも試験を受けている感覚で完璧を目指していた。服装も普通だった。ところが、あまりにも明るすぎるバブル全盛の空気に化学反応し、僕の中の何かが変わった。

「なんで歩行者天国でやらないの」。独りで練習していたら、いろんな人が声をかけてくる。歩行者天国では、竹の子族と呼ばれる若者たちが踊っている。僕より下手なパフォーマンスでも拍手喝采を浴びている外国人がいる。楽しそうだった。僕も勇気を出してカラフルな衣装に身を包み、おしゃべりをしながら街頭にデビューしていった。

大道芸は、完璧である必要はない。もし失敗しても、例えば無言で10回腕立て伏せをして、「お仕置きでした」とやれば、笑いがとれる。みんなに笑ってもらえるのが何よりだ。

今、僕は日本各地に呼ばれて数学などの講演を続けている。そんな中でも大道芸を取り入れ、一緒に楽しいひとときを過ごしている。医師で博識だった僕の父は、町の名士で、行く先々で様々な人に声をかけられ、会話を弾ませていた。父はユーモアがあって、話を聞く人たちは笑顔で輝いていた。僕は、父のように、人を喜ばせて生きていきたいと思っている。

強制収容所で死んだ祖父の遺品 ピーター・フランクル(1)

ユダヤ人差別、無念さ尽きず

高校生の時、父が古ぼけた小さな紙片を見せてくれた。僕の祖父アーロン・フランクルの名前が書いてある。彼が極貧の医学生だった若い頃、慈善団体の貧民食堂でご飯を食べられるように発行してもらった許可証だ。その後、祖父は開業医になって活躍した。だが第2次世界大戦中、ナチスの強制収容所で殺された。

故郷ハンガリーで、僕らユダヤ人はずっと差別されてきた。大戦中は父も母もナチスの強制収容所に入れられ、銃殺寸前の恐怖を味わった。戦後、結婚し、僕が生まれた時、父は僕に祖父と同じ名前をつけたがったが、母は猛反対した。名前だけでユダヤ人とわからないように平凡な「ピーター」にしたそうだ。

両親は医師で、僕は“箱入り息子”だった。幼い頃、祖父らの悲劇は知らされていなかった。だが7歳の時、知り合いに「ばかなユダヤっ子」と罵られた。母に話したら「差別はなくならないのね」と泣かれてびっくりした。「私たちはユダヤ人だから、あなたにはおじいちゃんもおばあちゃんもいない。殺されたのよ」。そう説明され、しばらくはショックで銃殺される夢ばかり見たものだ。

ある時、親戚の女性と市場に買い物に行ったら、いかにもユダヤ人らしい顔つきの彼女に、店の人が「ユダヤ人?」と聞いた。彼女は否定した。後で「この国ではユダヤ人だと言う勇気がない。もしニューヨークにいたら堂々と言い返せるのに」とつぶやいた。僕が亡命を望むようになった出発点はこの体験にある。

大学で数学を専攻し、フランスに留学してからは当時の西側諸国の人がまぶしく見えた。政府の許可がなくても国を行き来できる自由が僕もほしかった。だが西側へ亡命すると両親が失職する恐れもある。2人が退職した後に実行した。

日本に定住を決めたのは1988年だった。特定の宗教などが絶対視され、信じない人が差別されるような理不尽は日本ではない。仏教も神道もキリスト教も受け入れてしまうこの国の寛容さに救われる思いがした。父も母も、亡くなるまでに何度か来日し、日本を好きになってくれた。

父はよく「もし神がいたら、あんな残酷なことを許していない」と言い、無神論者で通した。この紙片を手にすると祖父の無念、父の悲しみが伝わってきて、今も胸を締めつけられる。

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ピーター・フランクル(数学者・大道芸人 1953年ハンガリー生まれ。ブダペストのオトボス大学卒。79年フランスへ亡命、フランス国立科学研究センターの研究職に就く。87年に同国籍を取得。翌年から日本に定住。子どもに算数を教えるテレビ番組などで人気を得る。ハンガリーの最高科学機関であるハンガリー学士院会員。)

震災が生んだ異才 考現学の祖、今和次郎に脚光

東北の農村歩き生活改善に尽力

同時代の人々の暮らしや風俗を観察する「考現学」の創始者、今和次郎の再評価が進んでいる。初の本格的な回顧展が開かれ、関連書籍が相次ぎ刊行。災害や東北と関係の深い多彩な業績も、東日本大震災を経て改めて脚光を浴びる。

昨年10月、青森県立美術館で始まり、3月25日まで東京・汐留のパナソニック 汐留ミュージアムで開催中の「今和次郎 採集講義」展は、考現学にとどまらない幅広い分野の仕事を網羅的に紹介する。

1920年前後に全国の家々をスケッチや写真に収めた民家研究、考現学の端緒とされる25年の「東京銀座街風俗記録」。30年代以降に行った東北の農村調査、それを踏まえ、寒村の生活改善のために設計した家や倉。

23年に東京で関東大震災に遭遇した和次郎は、被災者が手づくりで再建したバラック(仮家屋)の様子を記録する一方、デザイナーらと「バラック装飾社」を立ち上げ、ペンキで建物の外観に絵を描く活動もした。

都市の混乱注視

多岐にわたる活動に通底するのは「移ろい消えゆくもの」へのまなざしだ。青森県立美術館の板倉容子学芸員は「昨日まで当たり前にあったものが一瞬にしてなくなる。そんな体験や感覚が和次郎の根底にあった」とみる。今回の震災前に企画された展覧会だが、街が津波で消失した東北の光景と照らし合わせると、和次郎の温かみのあるスケッチが深く胸に迫る。

「震災が異才を花開かせた」と語るのは建築史家で工学院大学教授の藤森照信氏。「和次郎は焼け跡で、生きることの原型を目の当たりにした。被災者が自らトタンで住まいを造り、拾ったものを売って暮らす。バラックは人間の原始的な力にあふれていた。彼は悲惨を悲惨として受けとめながらも、心底興奮していたのではないか」

和次郎の影響を受けて「路上観察学会」などの活動を展開してきた藤森教授は「ころころと移り変わる都市のわい雑さや混乱の面白さに初めて気が付いた人」とも評する。「家を調べる場合でも、肥だめとか妙なものに視線を向けている」

出版も続く。多摩美術大学特別研究員の畑中章宏氏が昨年11月に出した「柳田国男と今和次郎」は、生い立ちや民俗学との関わりから和次郎の核心に迫る。青森県弘前市出身の和次郎は冷害や雪害の過酷さを肌で知っていた。民家研究は柳田の薫陶を受けて始めたものだった。

「日本の近代にとって東北をどうするかは大きな課題だった」と畑中氏は言う。災害が多く、相対的に貧しい東北の生活を向上させることは、明治以降、国レベルで解決を迫られてきた問題だ。「まさに和次郎は東北と向き合い続けた」

例えば村々の備蓄倉庫を調査し、気候条件にあった標準設計を提案した。娯楽の少ない農村のため演劇や映画の施設として設計した大越娯楽場(福島県田村市)は現存し、2007年に国の登録有形文化財になった。

無名の人に関心

国の委嘱を受けた研究も少なくないが「和次郎の本質は主流から距離をとった批評的視座にある」と畑中氏はみる。中央より地方。建築も有名な社寺などには目もくれず、名もない人々の住居に関心を寄せる。「いつも背広ではなくジャンパーを着ていたのも象徴的」

そうした和次郎の姿勢をよく表す民家研究に光を当てるのが、近く刊行予定の「今和次郎『日本の民家』再訪」だ。建築関係者らのグループ「瀝青(れきせい)会」が、和次郎の1922年の著書「日本の民家」に登場する全国の民家の現状を再調査した。中心メンバーである早稲田大学の中谷礼仁准教授は「何の変哲もない普通の家ばかり。彼の足跡をたどることで日本の日常の移り変わりを追うことができる」と説く。

再訪の過程で発見もあった。対象の家は無秩序に散らばっているように映りながら、実はそのときどきの交通網の終着点付近にあることが当時の地図との照合で突き止められた。「つまり和次郎は都市化によって、その後に変容してしまうであろう地域の民家を選んでいた。失われていく“地方”を記録にとどめようとしていた」

中谷准教授らは東日本大震災を受けて新たな研究にも乗りだした。災害の多い東北で数百~千年続く伝統的集落を「古凡村(こぼんそん)」と名付け、防災の観点も交えて地形や住民の暮らしを今後10~20年かけて調べる。「地方を歩く和次郎の方法をもっと発展させたい」と中谷准教授は意気込んでいる。

(震災現地取材班 舘野真治)

今和次郎 (こん・わじろう) 1888~1973年。東京美術学校(現東京芸術大学)卒。古民家保存を目的とする柳田国男らの「白茅(はくぼう)会」に参加して民家調査を開始。その後、政府の委嘱で東北地方や朝鮮半島などの調査を重ねる。早稲田大学教授、全日本建築士会初代会長、日本生活学会初代会長などを歴任。

震災バラック調査スケッチ「商店バラック」(1923年、工学院大学図書館今コレクション)

世界一安全新幹線を生んだ特攻機「桜花」設計者の十字架

開業以来、死亡事故ゼロ。
世界一安全な乗り物である新幹線を開発したのは、戦時中、特攻機桜花を一人で設計した技術者三木忠直氏だった。その苦悩と夢を愛娘の棚沢直子さんが語る。

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東海道新幹線を最初に走ったO系も、渋谷駅前に展示されている東急5000系電車も、初代ロマンスカーの小田急3OOO形電車も、父が設計した電車のデザインには共通していることがあります。それは、先頭部分が飛行機の機首にそっくりなのです。

父は、東京帝国大学工学部を卒業後、海軍航空技術廠(神奈川県横須賀市)に入りました。そこで、急降下爆撃機「銀河」の設計主務をし、特攻機「桜花」はほとんど一人で設計しました。

桜花は、機首に爆弾を搭載した有人誘導式のミサイルでした。母機の爆撃機に吊り下げられて運ばれ、空中で切り離されてからはロケットやジェットエンジンを点火して敵艦を目指します。車輪もなく、生還するための装備は一切ありませんでした。

当初、父は、「技術者としてこんな特攻機は承服できません」と、大反対だったそうです。それでも、海軍は強行し、父は従うしかありませんでした。

戦後の父は、桜花設計者としての重荷を背負っていましたが、ある日、聖書の一節に出会いました。
<すべての労する者・重荷を負ふ者、われに来れ。われ、汝を休ません>(マタイによる福音書より)

父は、みずからの重荷をキリストに預け、洗礼を受けたのです。
父が、戦後、鉄道技術者として生きるようになったきっかけを、NHKに語っています。

「(桜花によって)亡くなっていった若人に対して、非常につらい思いをしたわけです。鉄道は、今は平和産業ですから、もう戦争に関係がない。」

こう思って父は、陸海軍の優秀な技術者たちとともに、鉄道技術研究所に勤務しました。

その父が、「平和産業」のために動き出したのは、1957(昭和32)年5月30日に聞かれた「東京-大阪間三時間への可能性」という鉄道技術研究所創立50周年記念講演会がきっかけでした。就任したばかりの篠原武司所長が後押しし、父は講演しました。

「飛行機の形を列車に持ち込みたいと考えている。車体を流線型にし、軽量化すればスピードは向上する。最高速度は200キロを超えます」

講演が大盛況だったのは、戦後の復興も終わり、日本人が、何か新しい目標を求めていたからかもしれません。

この講演が、十河信二国鉄総裁の耳に入り、あらためて父は、「夢の超特急」構想を総裁や国鉄幹部の前で話しました。そして、「おれが引き受けた」という十河総裁の鶴の一声で、GOサインが出たのです。

しかし、超特急の実用化には、173もの技術的な課題があったそうです。開発の中心になったのは三人。父は車体の設計を担当。海軍航空技術廠で父の同僚だった松平精さんは、ゼロ戦の改良を担当した方で、高速走行に
よる車輪の振動を空気パネを採用して解決しました。陸軍科学研究所で通信技術の専門家だった河辺一さんは、自動列車制御装置ATCを開発しました。

63年3月30日、走行実験で当時世界最高の256キロを達成。しかし、その一年前、父は鉄道技術研究所を退職し、実験の様子を自宅のテレビで見ていました。

退職の理由を、NHKにこう語っています。
「自分の技術はすべて出し尽くした。実験には絶対の自信がある。私は、あとのことは全然、心配しませんでした」

その後の父は、湘南モノレールから千葉都市モノレールに転職し、90歳まで勤務しました。2005年、96歳で天に召されました。

生前、桜花のことは忘れられなかったようです。父が、アメリカの宇宙開発計画を描いた映画『ライトスタッフ』(83年公開)を観て、不思議に思っていたことがありました。その中に、世界で初めて音速を超えた「X-1」というロケット飛行機が登場します。X-1が空中で母機から切り離される方式が、まるで桜花だったのです。

桜花も銀河も、終戦直後、アメリカ軍に接収されていました。終戦から2年後の47年、X-1は音速を超えました。その時、操縦したチャック・イェーガーさんが、75年に退役後、80年代になってから来日し、父に会いに来てくださいました。

父はたずねました。
「映画を観て、私がした設計と同じことをアメリカ軍がしているのが不思議でした」
すると、イェーガーさんは、「桜花も銀河も、当時、世界の最高技術でした。アメリカ軍が、三木さんの技術を参考にした可能性があります。」

最近になって、桜花に採用されなかった図面があることが、ニューヨーク州立大学の西山崇准教授の調査でわかりました。それは、桜花に操縦席を緊急脱出させる装置が考えられていたというのです。父は、可能な限り、海軍に逆らってでも、命を大切にしようと考えていたのでしょうか。

新幹線は開業以来、45年以上、乗客の死亡事故はゼロ。新幹線は、現時点で、世界で一番安全な高速鉄道といえるでしょう。父は生前、世界一安全な新幹線を、とても誇りにしていました。

棚沢直子(東洋大学教授)
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2010年9月文藝春秋
「勝つ日本」40の決断
真のリーダーは、たった一人で空気を変える

ずっと書きたかった私からの手紙 – Peter Frankl

子から親へ
ずっと書きたかった私からの手紙

世の中で切っても切れないもの・・・それは”親子の絆”
世代を越えて、受け継がれてきた自分の中の親のカタチ、
そんな子から親への心の伝言。

人の話にじっくりと耳を傾ける父でした。

「父に教わったことは山ほどあります。子供にとって一番大事な無条件の愛、それは母に教えてもらった。何よりもすごく両親に愛されて育ったという実感が、僕は非常に強い」

ピーター・フランクル

1953年ハンガリー生まれのユダヤ人、18歳で国際数学オリンピック金メダル獲得。1977年数学博士号取得。1979年フランスに亡命。1987年フランス国籍取得。1988年より日本に在住。大学の講師、大道芸披露、講演、執筆等、多忙な日々を送る。

僕は、カポシュパールという、ハンガリーの人口が5万人ぐらいの地方都市に生まれました。町の県立総合病院の皮膚科は、ベッド数が60以上あり、父はその皮膚科の院長でした。母もまた、同じ皮膚科に務める医師でした。

父は興味と関心を持って人の話を聞き、それを診断に生かす医者でした。家の机には、内臓の病気が皮膚に症状として現れる例を記載した本が置かれていたのを覚えています。

皮膚病として現れた患部だけで判断をするのではなく、その人がどんな環境に住み、どんな暮らしをしているのか。父は人の話にじっくりと耳を傾け、その皮膚病の原因は何かを論理的に考える人でした。

父より19歳年下の母は、父が大学の教壇に立っていたときの教え子です。だから、そんな父の影響をすごく受けていて。例えば後年、僕の皮膚に、湿疹のようなものができて、なかなか治らなかったとき、母は「2年前に風邪を引いたときも、同じような症状が出たじゃない」と。

母のアドバイスで、飲んでいた薬を控えたら、それからは一切湿疹のようなものが出ない。ある抗生物質に対するアレルギーだったんです。

単なる現象だけで物事を見るのではなく、その現象がなぜ起こるのか、本質的なところをじっくりと考える。そんな両親の気質を僕は受け継いだ。だから数学者になったのかもしれません。

父のことを知っている町の人は、たくさんいました。朝、学校に行くとき、病院に向かう父と一緒に家を出る。5分も歩かないうちに、「先生」と誰かしらに声をかけられる。

「実はうちの誰々の具合が悪い」とか、立ち話は終わりそうもないから、「僕、先に行きます」というのが、常でした。「善と知は違う」これも僕が大事にしている父の言葉です。「たくさん物を知っていて頭がいいからといって、その人がいい人で、ためになる話を聞けるかといったら、それは違う」と。

父が本当に仲良くしていた中には、無学の農家の人もいました。日曜日にはその人の家に遊びに行き、ものすごく歓迎された覚えがあります。

小学校時代は病弱で、家で本を読んだりすることが多かった僕だけど、このときはわんばく振りを発揮して、農家の庭で木登りをやったり。遊びに来たついでに、父はそこの家の親戚の皮膚の悪いところを見てあげたりして。

その意味では、人にまったく垣根を作らない両親でした。

一番大切なのは家族、次に仕事と価値観がはっきりとした親でした。

思い出深いのは、バラトン湖という湖の湖畔の小さな別荘で過ごした夏のひととき。小学生時代から、夏は土曜日の午後、そこに出かけ、日曜日の午前中は遠浅の湖で父と泳ぎ、母はランチの準備をする。

家にいるのが好きな母は、レストランに行くのも苦痛に感じていて、自分の料理のほうがレストランよりもおいしいという自覚がありました。そんな母が作る別荘でのランチは、チキンの料理が多かった。

当時の社会主義体制のハンガリーで、医者の収入は高くなかったけど、父は患者さんに人気がありましたから。よく病気が治った患者さんから、チキンや魚とかの差し入れがあった。そんなチキンを丸ごとなべに入れ、その中にニンジンや大根、たまねぎやスパゲテ
ィーを入れて作ったスープとか、別荘で母が作ってくれた料理は、今もまぶたに残っています。

学校の勉強をおろそかにしてはいけない、それが唯一、親の厳しかった点でした。父は僕以上に記憶力がよく、ギリシャ語、ラテン語、へプライ語、ドイツ語に英語も、かなり話せた。

僕も記憶力がよかったから、先生の話を聞いているだけで大体覚え、申し分のない成績は取っていた。成績さえよければ多少のいたずらをしても文句は言わないという親の態度が、僕を勉強に向かわせたとも言えます。親に叩かれたりした記憶は、まずありません。

将来は僕を医者にしたかった父。
でも僕は数学の魅力に・・・

僕は、4歳のときに3つ離れた姉が九九や掛け算をやっているのを見て、二桁の掛け算を自然に覚えた。こんなに小さい子が暗算で二桁の掛け算を解くと、近所の人や患者の問で話題になって。いろんな人が家に来て、問題を解くたびにお菓子やチョコレートをもらった覚えがあります。

数学が特別できることに、父があまり関心を示さなかったのは、医者になるのにそんなに高度な数学は必要ないという考えがあったからでしょう。

息子は医者になるものと、父は思っていました。父は第一次世界大戦、その後の全体主義の時代、第二次世界大戦、戦後のスターリン主義の時代をユダヤ人として生き、この職業がいかに大事か、思い知っていたことでしょう。

医者はどんな時代でも普遍性がある。この職業につけば、自分の身を守り、食べていくことができるだろうと。人助けの仕事に意義を見出す一方、父は医者という職業にそんな考えを持っていたに、違いありません。

でも、数学の魅力を知った僕は、数学者になりたいと思い始めた。18歳のときに隣国の旧チェコスロバキアで開かれた数学オリンピックに優勝して、父と母は話し合ったらしい。

その結果、「フツーの医者になるより、世界的な数学者になるほうがこの子にとっていいんじゃないか」と、医者にならないことを認めてくれました。

もとより父は、人の考え方を受け入れる寛容な人でしたから。ルールもほどほどに守ればいいと。

僕が高校1年の頃、父と母がアメリカに移住をした知人宅に遊びにいくことになり、お土産に何がほしいかと聞かれ、友達に聞いて知っていた「PLAYBOYという雑誌がほしい」と、ねだった。すると、当時ハンガリーには持ち込み禁止だったPLAYBOY誌を6冊持ち帰ってくれて。

もう、うれしい限りで、それは僕の英語の勉強に、大いに拍車をかけました。

数学者を目指して、オトポス大学に進学した年のこと。数学が天才的にできる学友と出会い、僕の家にその彼が泊まりに来たことがありました。
「彼は僕より数学が出来るんじゃないか・・・」あるとき、母の前でそんなことを口にすると、
「私はおまえが賢いから愛しているんじゃない、おまえは私の子供だからだよ」そんな母の言葉は、僕をものすごく安心感に包んでくれた。よし頑張ろうと思ったことがありました。

父は詩や御伽噺を書くのも好きでヨーロッパでフクロウは賢い鳥されていますが、これは、中学のときに読んだ、父の作ったお話です。

親フクロウと子フクロウが出てきて、子フクロウが「人間は何歳までが若いのか、何歳から年をとったというのか」と親フクロウに聞く。すると、親フクロウは、こう答える。

「人間には過去や経験や思い出がある。また同じように夢や希望や計画がある。。両方を天秤に乗せて、夢、希望、計画が重たい人は若い人、逆に過去、経験、思い出が重たい人は年を取った人だよ。若いか年を取っているかは年齢ではないんだよ。」

父も母も子供とは別れたくなかったでしょうけど、僕は79年にフランスに亡命をして。僕は祖国を捨てたわけですけれど、それから父が元気だった10年くらいは、毎年必ず1ヶ月くらい良心とイタリアやイスラエルとか、いろんなところを旅行しました。

北海道から沖縄まで、日本を3人で旅行したのは、86年。日本で生活を始めたのは、88年からでした。

日本人は一生懸命に仕事に取り組む。あおの父と母に育てられた僕は、アメリカとは違いお金がある人より、一生懸命やっている人が認められる、そんな日本の社会が気に入ったのです。

「遠くなりますね・・・」僕が日本で暮らすと知った父の感想は、その一言でした。

85歳の父が、僕の生まれ故郷のシュバールで亡くなったとき、家も賃貸の市営住宅で、相続する遺産は、一銭もありませんでした。

「あなたの財産は頭と心だけだ」という父の言葉を思い出します。

人は生まれてくる国や時代を選ぶことはできない。そのことをブツブツ言う前に、一回きりの人生だから、前向きに楽しく生きるべきだ。それがたいへんな時代を生きた父の結論だと僕は思っています。その精神を日本の若者たちにも考えてもらいたい。

Big comic original presents

採用は先着順でいい – 松浦元男

どうして「先着順採用」?
技術者にとって重要なのは才能よりトレーニング
最高級の設備とチャンスを与えればやる気は引き出せる
この手で、指先で世界に挑め!
どんな若者も未知の可能性を秘めている

1935年、名古屋市生まれ。68歳。60年、愛知大学法経学部卒業後、サラリーマン生活を経て、65年、樹研工業を投立。極小部品にこだわり、99年に10万分の1gの歯車、2002年には100万分の1gの歯車を発表し、注目を集める

次ページの写真、テレビで見覚えのある人も多いのではないか。
顕微鏡でなければ見えない、米粒よりも小さな歯車。プラスチック部品メーカーの樹研工業(愛知県豊橋市)は、99年、10万分の1gの歯車を開発したのに続き、昨年、100万分の1gの歯車を発表。年商27億円と小粒ながら、研究開発と技術力の高さに定評ある優良企業だ。
そんな最先端企業の技術者は、どんな厳しい選抜を経て採用されるかと思いきや、これが「先着順」である。
ほとんどが工業高校卒で、かつてパンチパーマに太いズボンという典型的な″ツッパリ″スタイルで応募してきた‥若者達だ。それが今や、三次元CAD(コンピュータによる設計)や最新鋭の工作機械を駆使して、世界を驚かす極小部品を作り出す。
なぜ、先着順なのか?松浦元男社長は、「元々、応募者が殺到することなんてない会社でしたから‥‥‥」と頭を掻くが、そもそも入社時点での社員の能力に関心がない。「うちがやるのは学問じゃなくて、あくまでテクノロジー(技術)。これはトレーニングで決まる世界」だからだ。
もちろん、やる気は必要だし、相性もある。しかし、「そんなこと一日二日で分からないから、テストするだけ時間も手間も無駄。それに、やる気だったら誰からでも引き出せますよ」と自信たっぷりに蒙譜する。
社員に与えるべきは、チャンスとモチベーション(動機付け)。具体的には、最高の設備と高い目標だ。
だから、設備の轡人は現場に任せる。条件は一つ。「三流品は絶筆っな。一流品を買え」。最近も、社員が購入を提案した工作機域を、「もっと精度が高いのがあるじゃないか」と却下して、約3倍の値段の機械に変えさせた。
それで痛い目に遭うことも多い。850万円した機械が小さな穴を二つ開けただけでお蔵人り、2700万円の機械が歯車一つ作って用済みに、といった具合だ。「『買いたい』と言い出した奴には、『騙したなあ!』と言ってからかいますが、失敗はあっていい。学ぶものがある」と鷹揚に構える。

歯車一つ2700万円!最高の設備がやる気の源

何より、最高の機械を手に入れた途端、目を輝かせて研究開発に励む社員の姿は、何物にも変え難い。
「仲間の社長から一世代前のパソコンを安く買って喜んでいるようじゃダメですよ。オンポロの軽自動車をもらって、Flレースに出ようと思う若者はいない。しかし、スポーツカーを買い与えれば、早く走りたい気持ちが昂ぶり、自ずとマシンも研究する」
可愛い社員に″贅沢″を満喫させる一方、松浦社長の生活は至って地味だ。ゴルフもしなければ、酒も飲まない。″豪遊″と言えば、平日の昼、社員を引き連れ自腹で飯を著ること。そんな社長の姿を知ればこそ、高い機械のありがたみも増す。「ケチケチするな」と言いながら、自己資本比率40%を堅持するのも社長の務めだ。
先着順採用にこだわるのには、ほかにも理由がある。
第一に、試験や面接をすると、同じフィルターを通して、似たような社員ばかりが揃ってしまう。それでは、新しい発想は生まれない。個性を重んじるため、入社後も「ルールなし」が大原則。出勤簿もタイムカードもなく残業も自己申告制と徹底している。
第二に、社員との間に信頼関係を築きやすい。「『入りたい』と言って来た気持ちが、一日坊主で終わるか、三日止巧主で終わるかはさておき、まずはその心意気を信じてやろう、と」。そんな信頼感から雇用関係が始まることを重視する。
「周囲の人の信頼を感じ、周囲の人に愛情を持てば、社会の中に自分の役割を探す。職人ならば技術を磨く」
どこまでも″人″の可能性を信じる松浦社長の心の広さこそ、樹研工業の技術を底辺で支える柱だ。

松浦元男樹研工業社長

気に入らない取引先は切る – 中里良一

どうして「客を切る」?

下請けを見下す顧客を切ることで社員の自尊心を満たせる顧客企業に緊張感を与える
下請けよ、誇り高くあれ!

三流会社とは、働く人の心が貧しい会社

写真の男性が手にしている一枚の紙。ただの社内文書のように見えるが、その内容は突拍子もない。文書のタイトルは、「取引先担当取り下げ申請書」-。社員が「気に入らない取引先があるので、取引を打ち切ってほしい」と申し出るための書類だ。こんな奇抜な書類を用意しているのは、バネメーカーの中里スプリング製作所(群馬県高崎市)。写真の男性は、同社の中里良一社長だ。

下請け中心のメーカーが、こんな書類を用意していることだけで驚きだが、社員が挙げている「取り下げ理由」を読むと、さらに驚かされる。「自己の都合のみを押し付け、仕事を出してやっているんだというような態度がありありと感じられる」。そんな理由で取引先を切っていいのか?しかし、この書類に中里社長が付したコメントは、「お客様の規模ならびに取引金額の大小に関係なく、尊敬出来るお客様だけとお付き合いさせて頂くというのが、会社としての方針です」。こうして取引は打ち切られた。

取引先を切る「権利」は、誰にでも認められるわけではない。中里社長が「一番頑張っている」と認め、表彰した社員に与えられる特典の一つだ。加えて、中里社長自身が「恩着せがましい態度が鼻に付くなど、どうしても尊敬できない」と感じ、取引を断ることもある。この25年程の間に切った取引先は、実に50社近くに上る。

決めたのが社員であれ社長であれ、取引先を切るとなつたら、社長自ら「3カ月以内に10社の新規客獲得」を目指し、営業活動にいそしむことになる。「嫌なお客さんを切ってしまう快感ったらないですよ。それが営業のエネルギー源」と、中里社長は笑う。

中里社長が、「嫌なお客さんを切る」のに固執するのは、従業員満足のため。町工場で職人との軋轢に悩み抜いた末に編み出した、社員の自尊心を守る秘策だ。その本質を理解するには、中里社長が味わった「小さな会社の悲哀」を振り返る必要がある。中里社長が入社した76年、父親が創業した中里スプリング製作所は、深刻な経営危機に陥っていた。石油ショック後、受注が激減。得意先の倒産も相次いでいた。大学卒業後、東京で商社に勤めていた中里社長は、父親の会社を立て直すために帰郷した。しかし、業績の厳しさ以上に中里社長を苦しめたのは、社員の「やる気のなさ」と「二代目に対する当てつけ」だった。

徹夜の猛特訓で職人の反発を跳ね返す

やっとのことで注文を取ってきても、「バネは、そんなに簡単に作れないんだよ」と、現場の反応は冷ややか。なかなか仕事に取り掛かってもらえない。幼い頃の中里社長を知る古参の職人達から見れば、いつまで経っても「良ちゃん(=良一)」で、時に、「良ちゃんが大学を出られたのは、俺らが働いてやったからだからね」といった″本音″が飛び出す。

いつまでも職人達にバカにされてはいられない。意を決した中里社長は、ひそかにバネ作りの修業を始めた。夜の7~8時、工場から自宅に帰ると、「ちょっと酒でも飲んでくる」と言って、工場に引き返す。それから朝7時過ぎまで、一人でバネを作り続け、社員が出社する前、いったん工場を出て、素知らぬ顔で、また出勤。そんな連日徹夜の生活を約3年間続けた。

ある日、いつものように新規の受注に、「そんな、すぐには出来ないよ」と言った職人を、中里社長はキッと睨みつけ、こう言った。「ちょつと、そこに座っていろよ」。中里社長は、目の前でバネを作ってみせ、職人にとうとうと説いた。「入社3年の私だって、こうやって作れるんです。ましてあなたは、この道何十年のベテランでしょう?何でそんな簡単に、『出来ない』なんて言うんです?」。その日から現場の反発はやんだ。

悔しいことは、もう一つあった。それは、しばしば垣間見た取引先の傲慢にも思える態度だった。「父は、納期が厳しい仕事を格安で引き受けてしまう。そういう得意先の無理を聞くことが、職人としての誇りだったんです。しかし、僕には、得意先におだてられ、いいように使われているとしか見えなかった」。そんな不信感と屈辱感が頂点に達したある日、中里社長は思い切った決断を下した。

下請けの屈辱感が従業員を卑屈にしている

大の得意先に、取引の中止を申し入れたのだ。当時、売り上げの半分以上を占めた大口取引先に、である。この得意先が、中里スプリング製作所に「切られた」取引先の第一号になる。人知れずバネ作りの腕を磨いていた、入社2年目のことだ。減った売り上げを新規顧客で埋めるのには、約1年掛かった。しかし、「嫌なお客さんを切っても、頑張れば何とかなる」と確信した。それ以上に、「『中里は下請けを見下す取引先とは付き合わない』と宣言したことで、社員の意識と取引先の見る目が変わったことが収穫だった」。こうして、「嫌な取引先を切る中里流の経営術」が生まれた。

中里社長は、自分自身がかつて、職人との関係に悩んだ経験を振り返り、「町工場の社員は、小さな会社の社員であるということだけで劣等感にさいなまれ、仕事に愛着を感じにくくなっている」と話す。 有名な大企業であれば、会社の知名度だけで、ある程度、社員の自尊心は満たされる。だが、小さな町工場にはそれができない。だからこそ、「中小企業の社長は、”名”ではなく”実”の部分で、社員の幸せを追求しなくては」と中里社長は力説する。

「多くの経営者は、何の疑問も感じずに右肩上がりの利益計画を立てる。しかし、利益の使い道、もっと言えば、どう利益を社員に還元するかまで考えないと、社員に苦しみだけを強いてしまう。それでは社員はついて来ない」だから、時には利益を度外視しても、社員にメッセージを送り続ける。「嫌なお客さんとは、無理して付き合わなくたっていいんだよ」、と。

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1952年、群馬県高崎市生まれ。51歳。74年、立正大学経営学部を卒業後、商社勤務を経て76年、父親が創業した中里スプリング製作所に入社。石油ショック後、業績不振にあえいでいた同社の再建に奔走する。85年、社長に就任。84年に開発を始めた自社製品の売り上げが、今では半分近くを占め、「脱下請け」にも成功している。30年前、約20杜だった取引先が今や1000社以上。社長室に日本地図を掲げ、麒客を開拓できた都道府県を塗りつぶす。目標は全国制覇だ

会社の資材で自由に作った社員の「作品」が、工場の一角を飾り、来客の目を楽しませる。これも社員のやる気を引き出す策だ
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中里良一・中里スプリング
製作所社長

nikkei venture 2003.11

才能とは情熱の継続 – 羽生善治

今年5月、7期ぶりに「名人」に復位して4冠となった。
日々研究を重ね、将棋の中に常に新しい発見をしようと努力を続ける。
同じ情熱を傾け続けられるのが才能と言う。
(聞き手は本誌編集長、原田亮介)

■創造的な世界に進むには1回全部、手を壊してまた作り直す感覚が必要

【問】名人位に復帰されたのは7期ぶり。やはり、ほかのタイトルとは違う重さを感じますか。
【答】もともと将棋の世界は家元制度で、家元の名前は名人でしたから、棋士も関係者もファンの中にも、名人位は特別という意識を持つ人は結構多いようです。私自身は基本的にほかのタイトルと全く同じつもりでやっていますが、周りの人たちの思いはいろいろな形で出てきますね。対局する際の雰囲気などは若干違っている感じです。

【問】6年間、名人位だけなぜ取れないのかと悩みませんでしたか。
【答】毎年、あと一歩のところで逃していたら、多分そういう思いになったでしょう。けれど名人位への挑戦者を決めるリーグ戦は6月から翌年3月まであって、6年間とも12月の年越しの時点で「今年も駄目か」という感じだったんですよ-。名人位に近づいているというよりも、だんだん遠ざかっているような(笑)。逆に今年、挑戦者になった時は少し戸惑いました。

【問】竜王、王将、王位と合わせて4冠です。1996年2月に達成された7冠をもう一度狙いますか。
【答】体力的な部分において、恐らく20代から30代前半でないと7冠は成し遂げられない。だから自分にとって7冠は、20代の時に課せられたテーマの1つという意識はありました。しかし、以前はタイトルを失うことはほとんどなかったんですが今は結構、失うこともあるし、取ることもある。いい方向に進めればいいとは思っていますが、逆の結果になっても全然おかしくない。その意味では以前ほどのこだわりはないですね。

【問】タイトルを取ること自体が最終目標でないならば、羽生さんにとって将棋を続ける動機は何なのですか。
【答】子供の頃は、それこそ将棋が好きだったからですね。プロセスが非常にエキサイティングで結果もはっきり出るし、のめり込んでやっていた。今もそういう面はかなりあるんですが、動機は何かと聞かれれば、何か発見があるということだと思います。もう公式戦で1000局を超えていますが、それでも1つの対局に、新しい発見が1つなり、2つなりある。それが自分自身にとって非常にやりがいを感じる部分ですね。

■損な戦法でも就してみる

【問】以前、谷川浩司さんと対戟された時、初手に歩ではなく、いきなり銀を動かしました。羽生さんは新しい指し手を作ってみたいという気持ちが強いようですが。
【答】あれは昔から損な手だと言われていたんですけど、どれぐらい損な手か誰も分からないんですね。やってみないと分からないじゃないですか。自分で検証してやっぱり損だと実感することと、ただ知識で損だと理解していることの間には、違いがあるんじゃないかと私は思っています。ただ、あの手は最近、全くやらないですね。明らかに損だと自覚できたので(笑)。

【問】そういう手を指すと、段位が上の方や先輩に失礼だという批判はないのですか。
【答】将棋の世界は礼節を重んじます。私はそういうことは、非常に大事だと思っています。ただ、盤上で将棋を指す時は、創造的な世界に進むと言いますか、1回全部ガシャンと壊して、また違うものを最初から作るぐらいの感覚でいた方が、内容的にも深いものができるんじゃないかと思っています。ですから、ちょっとやり方を変えることはよくあります。あと私は、同じ形を何度も繰り返していくと結局、将棋を狭い世界に押し込めていく感覚がして、息苦しさを感じてしまうんですね。新しい手を試すことで、可能性がどんどん広がる方がやっていて楽しいし、長い目で見ればいい結果が出ると思います。

【問】そうした冒険をしなかったら、勝率はどうなっていますか。
【答】毎回冒険していたら勝率は確実に下がりますね(笑)。やってうまくいくのは半分もありません。7割ぐらいは失敗している感じがします。それでも、それは理解が深まったということですから、前進できたという実感はあります。

■地位や肩書は問係ない。若手は研究熱心で、アマが伸びる環境も整った
価億ある一手は非常に少ない

【問】羽生さんが名人になられて以降、勝負の序盤の段階で非常に動きの激しい、新しい将棋のスタイルが急激に広がりました。これは羽生さんの影響ですか。
【答】というより、将棋に対する捉え方が変わってきたということなんです。将棋は非常にたくさんの可能性がある。人間の力では、全部解明することはとても不可能です。でも今は、全体は把握できないとしても一部分なら、時間をかけて綿密に調べれば解明できるというアプローチに変わってきた。実際、この局面ならばこう指せばこういう結果になると、かなり分かってきているものがあるんです。その分かってきている部分を既に知っているとか、あるいは研究していることが、今の将棋では非常に大きなアドバンテージになる。多くの棋士の人たちはそこに時間を割いています。もちろん、勝負が進めば必ずいつかは机上の研究から離れたところでの戦いになります。そうなると、昔と同じように棋士の力比べですよね。これは間違いないんですけれど、棋士の中で、研究にかける比重が昔よりも随分重くなってきたのも確かです。

【問】先日、「将棋というのは、ある局面に至るまでマイナスの手を指さないということが極めて重要なゲームである」と言われていました。これが今の将棋の本質なんですか。
【答】将棋の場合、ある局面で平均80通りぐらい指し手の可能性があるけれど、恐らく半分以上はやらない方が良い手なんです。ルール上の可能性はたくさんあるんですが、実際に価値のある一手というのは非常に少ない。迷う時は、手の候補がたくさんあるからというより、有効な手が見つからないという理由の方が多いんです。ですから、できるだけ可能性を広げて、しかも自分にとってマイナスにならないように、うまく相手に手を渡す。ここが一番苦心をしているところです。将棋には、ある場面でAという手を指すと相手にA′で返される、Bという手をやるとB′で返ってくるという場合が結構あります。一番最初にAもBも使ってしまうと、返されてしまうんですね。だから、第3のCという手をやっておいて、相手に先に選択させる。自分がこういう構想で臨むと考えるのではなく、相手がやってくることに対してどのようにでも対応できるように準備しておくことが、大切になってきています。

【問】序盤は研究の対象になって、いろいろな手が出てきている。では、中盤や詰めに行く終盤は、研究のしようはないんですか。
【答】序盤の研究といっても、最後の詰みの形まで研究して、それで結論が出ているものもあるんです。この形はこの手順で詰むから、こっちが勝ちだと。逆に言うと最先端の流行の形は、一瞬でバッと切り合って、それでもう終わっちゃうことが多いんですよ。駒がぶつかってチャリンとなった瞬間に、もうどっちかが切られている。

【問】居合みたいなものですね。
【答】そうなんです。もちろん、そういう形ばかりではないのですけれど、形によっては最後まで分かっているというのは、やる方からすればかなり緊張感が必要です。もしかしたら相手はこの形の詰み方を最後まで知っているかもしれないという、そういう怖さをお互いが持ってやっているんですね。

【問】ところで、プロとアマの実力差は縮まっているのですか。
【答】縮まっていますね。将棋の世界では肩書はあまり役に立ちません。地位や権威は、非常に通用しにくくなっています。それは今の時代と関係していると思います。今はプロもアマもネットで将棋をやっているんですね。するとある程度高いレベルのアマの人は、プロの技術を学ぶことができるんです。以前はそういう環境がなかったので、アマで強くなった時、もう相手がいなくなってしまってそこから伸びなかった。今はネットのおかげでそこから伸びる環境ができたんですね。

■将棋界にも国際化の波が来る

【問】子供たちの間では囲碁が流行っています。一方、子供が将棋を指す機会はそれほどありません。将棋は今後、どのように普及していきますか。
【答】人気の囲碁漫画を読んで、間違えて将棋教室に来たという人もいるんですよ(笑)。囲碁が流行っているからどうだというわけでなく、私たちは私たちなりに将棋を広めていくことを考えればいいのではないでしょうか。昔は縁台将棋があって、日常生活の中に将棋が定着していました。今は、将棋盤のある家の方が少ない。明らかに昔とは環境が違う。将棋教室に来ている子供たちでも、強くなるために来ている子もいますが、大多数は礼儀作法を教えたいとか、落ち着きを持たせたいとか、少し考える力をつけさせたいとか、お稽古事のような感じでいますよね。ですから将棋を普及させていく側、例えば日本将棋連盟や私などは、将棋を覚えて強くなってくださいというより、ルールを知っているだけでも長い人生の中で損はしませんよ、という感じで子供たちに普及を進めた方がいいのかなと思っています。実際、将棋連盟とは関係ないNPO(非営利組織)で、将棋を海外に広めようという団体もあるんです。こういう団体が活躍することなど、一昔前は考えられませんでした。将棋は世代を超えられますから、棋士だけではなく、将棋の好きな人たちがやりがいを感じながら教えていく方が、お互いにプラスでしょう。

【問】海外の人にもっと将棋を理解してもらいたいと考えますか。
【答】例えば海外の人が日本を知りたいと思った時、将棋のルールを知っていて、しかもやったことがあるとなると、それは日本を理解しやすくなるのではないでしょうか。将棋は、日本の伝統とか文化が色濃く反映されているものなので、そういう形で海外に広まっていけばいいなとは思っています。 【問】中国をどう見ますか。将棋の競技人口が増えつつあると聞きますが。
【答】指しているのは子供ばっかりなんです。現地の中国人が教えて精力的に広めていますね。上海では競技人口2万人と言われています。まあ、1万人、2万人なら大した数ではないですよね、向こうでは。でもこれから先、国が奨励してやるようになったらすごい脅威ですね。囲碁の世界みたいな感じになっても、全然不思議ではない。

【問】大相撲の世界では外国人力士が非常に強くなり、日本人の横綱がいないということが起きている。将棋の世界でも将来、日本人以外のプロ棋士やタイトル保持者が出てきてもおかしくないとお考えですか。
【答】私はあってもおかしくないと思っています。遅いか早いかという問題だけですね。仮にせき止めても、10年や20年は遅くなるかもしれないけれど、最後はそういう方向に進んでしまうでしょう。だったらどんどんやってもらった方がいい。ただ、そうなってしまったら、感覚としてですけれど、日本人がずっとタイトルを守ることは、恐らくできないでしょうね。

【問】若いとはいえ、羽生さんも32歳。若手が台頭してくる中、この勝負の世界で今後は何を目指しますか。
【答】若手で優秀な人はたくさんいます。ただ、誰かが1人飛び抜けているという感じはないですね。私自身はこれから鋭さを増すことは多分できないので、深さを増すことができたらいいなと思っています。もう1つ、戦う姿勢や積極性というんですか、自分から打って出るんだという姿勢は、いくつになってもずっと持ち続けていられたらいいと思っています。

【問】今の若手と羽生さん世代の違いは何なのですか。
【答】私なんかは、将棋の中で知識や情報が重きをなしていくのは、あるプロセスを経てからという感覚ですが、今の若い人たちは最初からそういう(知識)指向なんです。そこが違います。若い人は突き詰めて考えていくのが当たり前ですから。研究もどんどん進んでいますしね。ウソみたいな本当の話なんですが、将棋会館の4階でよく公式戦をやります。そこで記録を取っている奨励会の子がいるんですけれど、プロの棋士が対局を終えてその子に意見を聞くことがあるんです。

【問】羽生さんもですか?
【答】私はあまり聞きませんが、ほかの人が「この形どう?」って。つまりその奨励会の子の方がプロより深い研究をしていることがあるんですね。実際、ある特定の形では、奨励会の子の方がプロよりエキスパートだということもあり得る。そういうことは別に不思議ではなくなっているんです。

■考える幅は7冠時代より広い

【問】仮に7冠当時の羽生さんと今の名人の羽生さんが対戦したら、どちらが勝ちますか。
【答】とても難しい質問ですね。多分、今の自分が勝つとは思いますが、勢いとかもあるので(笑)。考える幅とか選択の範囲とかは今の方が明らかに広いと思いますね。だからといって7冠当時の自分に絶対勝てる自信があるかと言われたら、そうとは言えない。

【問】では、棋士にとって努力はどれほどの重みを持つものでしょうか。
【答】うーん、これも難しい質問ですね。ちょっと違う答え方をしていいですか。努力の逆は才能ですよね。私は以前、才能は一瞬のきらめきだと思っていました。けれど今は、10年とか20年とか30年とか、同じ姿勢で同じ情熱を傾け続けられることが才能なんだと思っています。確かに、直感でどういう手が浮かぶとか、ある手をばっと切り捨てることができるとか、個人の能力差はあります。でも、そういうことよりも、継続できる情熱を持てる人の方が、長い目で見ると伸びるんじやないでしょうか。だから、答えとしては努力の重みは50%以上ということになりますね。ただ、突き詰めて考えていったらどうなるかというのは、ちょっと私にも分からないです。

【問】今まで最も悔しい局面はどんなものでしたか。
【答】1手詰めをうっかり見落としていた時です。2年前の9月です。普段なら1手詰めを読むのに1秒かからないのに、その時はずっと分からなかった。相当慌てたというか、相手も慌てていましたけれど。まさかこんな手を指してくるとは思っていないから。そういう時は、よく手が見えているんです。1分間で60手、70手と読んでいる。ただ、その手だけ見えなかったんですね。

【問】今までの経験の中で、そういうことは初めてですか。
【答】いや、2回目です。前は3手詰めをうっかりしていた。まあ、これ以上はないでしょう(笑)。

傍白
ひょうひょうとした話しふりには科学者を思わせるものがあります。一局の将棋には、10の220乗の持し手の選択があると言われています。その中から必勝の手順を選んでいくのは本来人智の及ばない作業ですが、羽生名人は少しずつ「発見」を積み重ねて、人智の限界を広げることに情熱を傾けています。プロ棋士であってもほんの一握りしか手にできないタイトルすら、その結果と割り切っている風です。
敗れるリスクを冒しながら常に新しい手がないかと探求するには、自らにたゆまぬ変化を課す厳しさが欠かせません。成功に安住すると足をすくわれる、という企業軽営の誓諦に通じるものを感じました。

羽生善治(はぶ・よしはる)氏
1970年9月、埼玉県生まれ、32歳。82年に二上達也九段の門下に入り、85年、15歳で四段に昇級しプロ棋士となる。89年、竜王戦で初タイトルを獲得。94年史上初のタイトル6冠、96年には7冠王(竜王、名人、棋聖、王位、王座、棋王、王将)を達成する。7冠王を達成したのは、これまで羽生氏ただ1人で、通算勝率7割4分台を誇る。今年5月、森内俊之名人(当時)を破り、7期ぶりに名人に復位し4冠に。元女優の妻・理恵さんとの問に2女。

NikkeiBusiness 2003年7月7日号
編集長インタビュー 羽生善治氏[棋士]