Jリーガーだった。

つい先日、取引先の人に「前の会社ではどんな業務をしていたの 」と聞かれた。「プロ契約でサッカー選手をしていました。」と言ったら驚かれた。僕はJリーガーだった。でも、かつて所属していたクラブのサポーターですら、僕の名前を聞いてもピンと来ない人も多いだろう。その程度の選手だった。経歴を詳しく書いても、僕のことが分かるのは僕の知り合いくらいだろう。なので書いてみる。

山に囲まれたド田舎に生まれた。7歳で幼馴染とスポーツ少年団に入った。たまたま県選抜に選ばれて、地元の広報に載ったりしてちょっとした人気者だった。小学校6年生の時、県外のプロサッカーチームのジュニアユース入団試験を受けた。もし合格していたら、両親は仕事を辞めて、家族で引っ越す予定だった。ジュニアユースに入っても、そこからトップチームまで昇格してプロになれるのは一握りなのに、仕事を辞める覚悟で応援してくれた。でも僕は落ちた。普通に落ちた。

田舎の中学校に進学した。小さな中学校にはサッカー部はなかった。陸上部に入った。1年生の時に、走り高跳びで県大会入賞した。それでもサッカーをしたくて、1年で陸上部を退部した。放課後は親に車で迎えに来てもらい、片道1時間かけて市外のサッカークラブで練習をしていた。中学校を卒業すると、県内のサッカー強豪校に一般入試で入った。

サッカー部の部員は100人を超え、県外から入ってきたエリートが沢山いた。僕がかつて落ちたジュニアユース出身で、ユースに昇格できずに入部してきたやつもいた。サッカー部も寮生活も上下関係が厳しかった。4人部屋の寮は、自分以外先輩だった。朝は先輩よりも早く起きた。目覚ましの音で先輩を起こしてはいけないので、目覚まし時計を抱えながら寝て、アラームが鳴って1秒で起きた。6時にはグラウンドに行った。掃除や雑用もこなした。なぜか女子マネは雑用をほとんどやらなくて、1年生が雑用係だった。授業が終わるとダッシュでクラウンドに行き、全体練習の後も居残りをして20時過ぎまで練習をした。100人を超える部員の中で埋もれていた。

1年生の秋、部内の身体能力体力テストのとある項目でダントツ1位を取った。テスト全体でもかなりの好成績だった。これがきっかけで、監督が少し目をかけてくれるようになった。3年生が引退したあと、2軍チームに入るようになった。そのあとすぐに1軍チームのメンバーに入った。高校サッカー選手権予選にはプロクラブのスカウトも来ていた。チームのメンバーで声がかかった人もいる。僕は声がかからなかった。3年生になってすぐ、自転車で転んで手首を骨折した。休んでる間に、期待の1年生にポジションを奪われてメンバー落ちした。最後の全国高校サッカー選手権はスタンドで応援した。目立った活躍もできないまま卒業した。

大学生になって一人暮らしを始めた。プロになることは諦めていた。一応サッカー部に入った。サッカーが好きだったし、就職のことも考えて部活はやっておいた方が良いと思ったからだ。自主練はしなくなり、休みの日は日雇いのアルバイトをした。楽しかった。意識が変わったのは、高校時代の1学年上の先輩の近状を知ってからだ。その先輩は高校3年当時、就職も進学も決まってなかった。卒業後は地域リーグのクラブとアマチュア契約をしていた。その先輩が地域リークで活躍し、J2のチームとプロ契約をしたと知った。自分にもチャンスがあるかもしれないと思った。サッカーに真剣に取り組むようになった。3年生の時に、部活の顧問のコネであるJ2チームに練習参加をした。全く練習についていけず、邪魔だから帰れと言われた。なぜか翌年、そこからまた練習参加の打診が来た。手ごたえはあった。これでダメならもうあきらめがついた。そして僕にプロ契約のオファーが届いた。

C契約とよばれるランクの低い契約で、1年契約だった。そのクラプは、J 2 リーグの中でも資金力がなく、歴史も浅く、リーグ下位のチームだった。当時そのチームは、大学から新加入選手を大量に獲得していて、僕もその1人だった。年俸は詳しく書けないけど200万台だった。そこから税金や年金を払うことになる。そんな待遇だけと、一応J リーガーとなった僕に周りはチヤホヤしてくれた。両親や恩師はすごく喜んでくれたし、ずっと連絡のなかった地元の知り合いや親戚からいきなり連絡が来たし、サインを頼まれたし、1度も話したことのない大学の女の子から告白されたりした。

ガラガラの会議室で入団会見をして、住み慣れない土地で寮生活を始めた。J リーガーはチャラいイメージがあるかもしれないけど、田舎だし車もないしで、サッカー以外やることがなかった。チームメイトの車に載せてもらい練習場まで通った。

ここから華やかなプロ生活の話でもしたいけど、僕はほとんど試合に出られなかった。僕がプロとして公式戦に立った時間は、2年間で合計100分に満たなかった。100試合じゃなくて100分。遠くから親が試合を観に来てくれたことがあるけど、結局1回しか試合を見せることができなかった。

その時の出場時間も6分くらいだった。僕は2年で退団をした。トライアウトも受けたけどプロ契約のオファーはなかった。そしてサッカー選手を引退した。引退した時は冷静だった。自分よりも、両親の方が落ち込んでくれた。

プロをしていてうれしかったことは、社会活動の一環で小学校を訪問したことだ。子どもと一緒にサッカーをした。その時に一緒のグループでサッカーをした男の子が、僕の所属するクラプチームのファンだった。その子は僕の名前も顔も知らなかったけど、それ以来僕の背番号のユニフォームを着て応援に来てくれるようになった。全く試合に出ない僕の背番号のユニフォームで応援やイベントに来てくれた。

引退したサッカー選手はただの一般人だ。僕は所属していたサッカークラブからの斡旋で、某民間企業のインターンシップを半年間受け、その後正社員になった。入社した時期は本当にきつくて、こんな仕事すぐにやめてやろうとか、他にやりたいことを探そうとか思ってたけど、なんだかんだで続いている。

サッカーは全くやらなくなった。飲み会で、新しく入ってきた会社の後輩に「ここの会社に入る前はJリーガーをやっていたよ」と言ったら冗談だと思われた。サッカーのことは忘れようとしていた。

昨年末に母が亡くなった。4年ぶりに実家に帰った。実家の片づけをしていたら、母が保存していたスクラッププックが出てきた。小学生の時に県選抜に選ばれた時の広報、高校時代のチームの結果が載った新聞記事、サッカー部員として大学のパンフレットに載った時の写真、退団が決まった時の記事、Webで配信されたニュース記事を印刷したもの、僕の試合を観に来てくれた時のチケットの半券、試合のチラシ、とにかく何でもスクラップしていた。今までのサッカー人生と、母の思いに涙が止まらなくなった。たった2年間でも、プロとしてユニフォームを着られたことを誇りに思っている。

ラグビー日本代表はなぜ“強豪”になったのか

W杯勝利へのマネジメント術

――ラグビー日本代表ヘッドコーチエディー・ジョーンズ氏に聞く

日本のラグビーが躍進している。2014年11月までテストマッチ(国際試合)で11連勝を記録し、世界ランキングは一時9位と過去に例を見ない快進撃を遂げた。

その急成長を引っ張ったのが、2012年から代表のヘッドコーチ(HC)に就いたエディー・ジョーンズ氏だ。日本独自の戦い方「JAPANWAY」を掲げるジョーンズHCは、どのようにして日本を“強豪”に引き上げたのか。2015年にイングランドで開かれるラグビーW杯を前に、そのマネジメント術と、W杯での必勝策を聞いた。
(聞き手/週刊ダイヤモンド編集部 森川潤)

EddieJones/1960年豪州生まれ。96年日本代表コーチ。2001年豪州代表ヘッドコーチに就任し、03年W杯準優勝。南アフリカ代表のアドバイザーも歴任。サントリーGM兼監督を経て、12年より現職。日本人の母と妻を持つ。PhotobyHidekazuIzumi

──まず、11連勝や世界ランク9位入りなど、飛躍の年となった2014年の振り返りを。

もちろん、そうした成果を挙げられたのは嬉しいですが、全ては来年のW杯に向けて、4年間をかけて訓練している過程です。過去にフォーカスするのではなく、未来を見ています。

──とはいえ、W杯に向けて自信が付いたのではないですか?

チームには自信が生まれました。私が就任した2012年には、選手は世界で一番良いチームになれるとは心からは信じていなかったはずです。というのも、日本の選手たちはこれまで大学やクラブでの「日本一」にしか興味がなく、それで満足する、ドメスティックな考え方でした。私はそうした選手たちのマインドセット(考え方の枠組み)を、世界で通用するように変えようとしたのです。

三年間で、選手の考え方も変わり、今は世界の誰に対しても怖がることはありませんし、世界レベルの戦い方ができています。

これはビジネスも同じです。日本の国内市場は縮小していますが、企業は海外に出るのに苦労しています。それを変えるには、行動やふるまい方も含め、マインドセットを新しくしないといけません。

──思考の根本を変えるのは簡単ではないですよね。

何よりまず、大きな目的がないといけません。我々が取り組んできたのは、日本人が誇りに思えるチームを作ることです。

他の国のコピーではなく、日本独自の戦い方を作り上げることです。それは日常の全ての行動を通して、変えていくものです。単に「マインドセットを変える」と言うだけでは何も産まれません。

取り組んだことの一つは朝5時に練習を始める「ヘッドスタート」です。世界の誰もが寝ている時間に仕事に取り組み、前に進むという意味があります。それが結果につながり、自信になっていきます。

スペインのサッカーと似ている

──日本独自の戦い方とは?

例えばiPodはビジネスで成功していますが、それは製品がすごくユニークだったからです。だから、みんながコピーをしたのですが、それではiPodより良いものは生まれません。ラグビーでも同じで、一番良いものを真似てコピーするのではなく、今ある資源を最大限活用するのが大事です。

例えば、日本人は身体が小さいので、パスの回数を増やし、スペースを作ることが大事です。それが、私が提唱する「JAPAN WAY」というスタイルの根本です。

もう一つ「モダン武士道」という準備方法も取り入れました。ハードワークと規律を重要視し、スポーツ科学も取り入れています。要は1日に5時間も6時間も練習するのではなく、もっとスマートにトレーニングをするのです。

最後に大事なのは「価値観の転換」です。私が目指すラグビーでは、自陣の一番底からでもアタックする勇気が必須です。ところが今、日本のほとんどのチームでは「自陣の後方4分の1ではキックする」などと、チェスのように戦術が決まっています。

私はこれを変え、どこにボールがあってもスペースを作り、所有率を高める方法を目指しています。これは一時代を築いたスペインのサッカーと似ています。

日本はこれまで、1試合で最大225回のパスを回しました。世界では、1位のニュージーランド代表オールブラックスのパス本数が平均175回で、2位の南アフリカ代表は90回と、スタイルの違いが歴然です。パスの回数は重要なわけではありませんが、プレースタイルの違いは顕著です。

──サッカーでいうと、先日、独バイエルン・ミュンヘンの監督にアドバイスを求めたそうですね。

勝つ文化を作り上げるには、学ぶことが必要です。どのチームももちろん敗北を経験しますが、勝敗に関係なく学ぶことはできます。ヘッドコーチとして、自分より知識が豊富な人に会うことは、自らの知識を改良していくためにも、重要視しています。

50年間“鎖国”を続けた日本

──直接の知り合いではない人にも教えを請うのですか?

はい。もしかすると例えば、一人からは一つのことしか、学べないかもしれないが、それは貴重なのです。

特に、日本のスポーツは閉鎖的な側面がありました。外に開かれていなかったことで、ラグビー選手とコーチは50年前のことと同じことをやっても、国内で成功することはできる環境でした。

ですが、例えばトヨタは50年前のカロ—ラは作り続けていませんよね。なぜなら、欧米の自動車メーカーが新たに攻めこんでくる中で、新しい製品を持って対抗するのが競争だからです。スポーツも同じです。国内で完結していれば、変える必要がなくなってしまう。日本のラグビーはそういうことが起きてしまったのです。

そして、今テストマッチで、初めて、変わらないといけないと思い始めています。今、日本は全W杯に出場していますが、24年間勝てていません。日本のラグビーは孤立していたのです。

──世界の進歩から取り残されていたということでしょうか。

間違いなくそうでした。例えば柔道では、日本は世界で一番成功してきた国です。ですが、フランスなど大きくて強い選手がいる国が良いトレーニングをしてきたことで日本人は勝てなくなりました。柔道も変わらないといけないのです。

──日本企業の「ガラパゴス化」とそっくりですね……。

スポーツは一つだけ違いがあります。週に1回、試合という“株主総会”があり、全てがみんなに一般公開されることです。

原辰徳監督からも教えを請う

──“日本型”のチームを作る中で一番参考にしたスポーツは?

まず、日本で成功しているスポーツか何かを調べました。まず、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で優勝した原辰徳監督に会いにいき、女子バレーボールと女子サッカーの監督にも、教えを請いにいきました。

特にバレーとサッカーは、体格的なハンディを、頭を使い、運動量を上げることで補って、勝っていました。そして、この3人に共通していたのが、日本の「強み」を見つけていたことです。

それを参考に、私も、日本のラグビーの「強み」は何か考えました。ラグビーは、一番似ているアメリカンフットボールと比べてもさらにフィジカルが要求されるスポーツですが、だからといって身体の大きさがないと勝てないといけないわけではありません。

3年間でそれは証明できてきましたし、それが一番試されるのはW杯という、最も大きい“株主総会”と言えるでしょう。

代表の“背骨”は日本人で

──ラグビーでは、外国人も代表に入れますが、日本人との調和はどう考えているのでしょうか?

今やろうとしているのは、チームの背骨になる意思決定を担うポジションを日本人がやるということです。そして、それに加え、外国人のパワーも必要です。日本には195センチ、110キロ級のバックロー(フランカー、No.8)がいませんので、そこで外国人が必要になのです。

何もこれは恥ずかしいことではありません。ニュージーランド代表でも50%がサモア人です。彼らのパワーが必要なのです。オーストラリア代表でも、重要なポジションがトンガ人やフィジー人だったりします。

もちろん、各国とも本音は自国民で固めたいのかもしれません。ですが、世界の流れは、色々な国民をミックスする方向を強めています。ニューヨークやロンドンなどの大都市が人種のるつぼとなっているのと同じです。

ただ、日本人が外国人選手に圧倒されないことには気をつけています。スタイルは日本的であってほしいから、意思決定者は日本人でありたいと思っています。

──将来、日本人が外国の代表でプレーすることはあり得ますか?

選手たちが上達すれば、可能性はあるでしょう。例えるなら、テニスの錦織圭がアメリカ代表で大会に出たければ、私が監督ならきっと選ぶでしょう。彼は十分な力を持っていますから。

同じようにサッカーの本田圭佑選手をイタリア代表に選べるなら、きっとするでしょう。そういう形で、日本人が世界最高のチームに入れれば良いですよね。

W杯、五輪でブームに!

──日本では野球やサッカーよりもラグビーの認知度はまだ低いですが、解決策はありますか?

ラグビーは、人気を得るのが難しいスポーツです。理由は、スポーツとして複雑だからです。野球が単純だと言っているわけではありませんが、少なくとも私が見ても試合が理解できます。

一方、ラグビーはボールが見えたり、見えなかったり、レフリーのジャッジの意味が分からない場合すらあります。とはいえ、眠っている人気はあるでしょう。

まず、日本代表チームが成功することが人気につながります。例えば、来年のW杯で準々決勝にいければ、その後4年間、人々の関心は高まるでしょう。

ラグビーW杯は世界で3番目に規模の大きなイベントですが、19年に日本で開催されますし、その翌20年のオリンピックも見据え、勢いをつけたいですね。

──ラグビーファンは熱狂的な人が多いですよね。

“病気”みたいなものです(笑)。一回はまると、抜けられなくなる。その代わり、すぐ感染する類の病気ではありません。

──来年のW杯の目標は?

日本が優勝するのは難しいけれど、大会の目玉となるチームにはなれます。とんでもなく素晴らしいラグビーをして、みんなが日本のラグビーを話題にするようなチームにはなりたいですよね。

──準備は順調ですか?

物事には必ず最終コーナーがあり、確実なことはありません。ですが、計画を立て、柔軟性を持って、細かく訓練することで対応していきたいと思っています。

──W杯の一番の見どころは?

最初の南アフリカ代表との試合ですね。日本は今まで南アフリカと対戦したことがありません。

彼らは世界で最もサイズが大きく、逆に日本は最も小さいチームです。勝つためには、戦い方を徹底しないといけません。9月11日、4万人が入る美しいブライトン(イングランド)のスタジアムには多くの南アフリカ人が来るでしょう。そこに、日本人のファンも大勢集まれば嬉しいですね。

「都立の星」の甲子園 国立高・元ナインに聞く 二塁手・村松氏 監督・市川氏

「都立の星」の甲子園国立高・元ナインに聞く

二塁手・村松氏「甲子園、試合出られず悔しい思い。今は輝く宝物に」

都立国立高校で背番号「4」をつけた村松一樹さん(53)の高校最後の夏は、予選の都大会3回戦で終わった。次の試合からレギュラーを外れ、甲子園ではベンチ入りしたものの一度も出番がなかった。この経験は野球少年だった村松さんが30歳をすぎるまで野球を観戦することができないほどのつらいものとなったが、帯広日産自動車の社長となったいまは「あの経験があったからこそ、経営者として自信がもてる」と語る。

――二塁手のレギュラー背番号「4」をつけながらも甲子園ではベンチを温めていました。

「監督から『代打の用意をしておけ』と言われ、三回からベンチ裏でずっと素振りをしていて試合を見ていない。結局、代打の機会はなく、夢の舞台は実感がないままに終わってしまった」

「高校最後の夏は予選の1回戦と3回戦に出たっきりで、その後は一度も試合に出ていない。あの夏は自分に対する反省の気持ちしかない。一時は寝ても覚めても思い出していたくらい強烈な記憶だ」

■前向きさ欠き、気持ちで負けていた

――負傷をしたわけでもなかった。

「問題は努力を怠ったこと。小学校からリトルリーグに入り中学でも野球部だったので入部当初はそこそこの自信があった。2年時から背番号『4』をつけ幸先がよいスタートだったが、その後(市川)武史らと同じ努力とをしたかといえば決してそうではない。前向きに目標へ向かって熱く進む思いにおいて武史らと自分とでは確実に差があった」

――そんなに差がありましたか。

「私は甲子園に行けるとはまったく思っていなかったが、武史は自分の机の前に『目指せ甲子園』と書き、本気で甲子園を目指していたと聞く。雨天の練習で校内の階段を上り下りしたとき、私は嫌で嫌でたまらなく苦渋の一歩だったが、武史はトントンと跳びはねるように一歩一歩積み上げていった。下から見上げたその後ろ姿はまるで天に昇っていくようにも見えた。その光景はいまでもよく覚えている」

「もちろん自分も毎日練習はしていたから、見た目には差はなかったかもしれないが、自分を鍛錬する気持ちや技術を上げようとする気持ちは、最後までレギュラーになった選手に負けていた。これは当時はわからなかったが、その後メンバーと話して違いに気づいた」

――夏の予選でチームは勝ち進んでいきました。

「武史のピッチングも良かったが運の良さもある。決勝相手の駒沢大学高はシード校ではなかった。予選直前の練習試合で14点も取られた日大二高のような優勝候補といわれた強豪が途中で負けていたことは運が良かった。決勝でも九回表に武史の失敗にみえたスクイズを駒大高のピッチャーが捕れなかったなど、予選を通じて運がいいと思える場面が何度もあった」

「私がスタメンから外れた4回戦でシード校の錦城に勝ったあたりから、試合に勝つごとにバッテリーや野手の実力が着実に上がっていった。どんどんと自分の手の届かないレベルに選手がいってしまい、レギュラー選手以外のメンバーが入る余地がなくなっていた。ただ、守備はできなくても代打にでることはできただろうし、やりたかった」

――悔しい高校野球人生の締めくくりでしたね。

「甲子園出場後もレギュラーから外れたことを引きずり勉強に身が入らなかった。結果、大学受験に失敗し取り残された気持ちでいっぱいだった」

「しかし浪人中に『このままでは本当に俺はダメになってしまう』と気づき、『それでいいのか。俺もあの素晴らしい仲間の中にいたことがあるじゃないか』と自分を鼓舞した。問題は皆のように熱くなれなかったこと、努力を怠ったことにあるわけで、逆に自分も熱くなれば、努力すれば、また仲間に入って生きていけると思えるようになった。大学に入り社会復帰した感じだ」

――進学した早稲田大では野球はやりましたか。

「やっていない。とにかく、あの夏のことを思い起こすとつらかった。プロ野球や甲子園も30歳を超えるまで見られなかった」

■「武史らに追いつこう」で35年間努力

――甲子園出場は、その後の35年間の人生にどのように影響しましたか。

「あの夏が私の人生の原点だ。あの悔しい思いを二度としたくないと思って努力してきた。手を抜いたり要領よくやろうとしたりすると必ずしっぺ返しがくる。だから毎日前向きに頑張ろうと。いまの座右の銘は『前向き』だ」

「武史が幹事役を務めてくれている正月の野球部の同期会と、夏の予選前のOB会に出席することが、私のモチベーションの根幹になっている。彼らに堂々と向き合えるように1年間頑張る――という繰り返しだった」

――結果、いまでは北海道でも有数の自動車販売会社の社長になりました。

「車好きが高じて日産自動車に入社した。販売会社の代表になることが目標だった。社長公募に応募し合格し、2年前から家族と一緒に帯広で暮らしている」

「武史らに追いつこう、来年も彼らと笑顔で会おうという気持ちで35年間努力を続けてきた結果、自信をつけた自分がいる。努力していない高校時代の私は、いざ試合になると不安があるボールは飛んでこないでほしいと願ったものだが、いまなら自信をもって『さあ、来い』という姿勢になれる」

「逆に謙虚さを忘れないようにしないといけないと思うほどだ。高校時代にレギュラーのままだったら人生を甘く見て勘違いしているてんぐになっていたかもしれない。また、問題を抱えている社員のことを少し優しく、少し包容力をもって受け止めることができるのも、自分がつらい経験をしたからではないかと思う」

――カルロス・ゴーン社長からはどのような影響を受けていますか。

「ゴーンさんが1999年に日産に来たとき『皆さんを信じています』と語ったのが印象的だ。ゴーンさんは社員のモチベーションを上げて組織を動かすことにたけている」

「いま私も社長として、アンテナを高く張り経営環境をとらえて現場の状況も踏まえながら方向性を出し、320人の従業員のモチベーションをそのベクトルに持っていくことに注力している。その際に、ゴーンさんのやり方を一生懸命に思い出しながら対応している」

――あす6日から始まる夏の甲子園大会に出場する球児に向けてひと言。

「熱い気持ちで野球に心底打ち込んでほしい。そうすれば、どんな結果であっても時間がたったら、その経験は必ず一生の輝く宝物になる。高校野球をやっていて成功する人はごく一部だ。私のように試合に出ていない人間もたくさんいる。しかし、どんな人にとっても宝物であることには変わりない。ただ、私はきちんと頑張らなかったから、野球体験をうまく消化できず宝物となるまでに時間がかかってしまった」

村松一樹(むらまつ・かずき)1962年5月4日生まれ。早稲田大学商学部卒業後、日産自動車入社。広報部、海外や国内のマーケティングなどを担当。東海日産自動車執行役員を経て、2013年4月から現職。家族は妻と娘1人、息子2人。

監督・市川氏「基本繰り返し、1球1打に集中。野球への姿勢よかった」

公立高校野球部の女子マネジャーが経済学者ドラッカーのマネジメント本を読んで甲子園出場を目指す人気小説『もしドラ』の中で、進学校として甲子園に出場した例として都立国立高校が紹介されている。しかし、捕手だった川幡卓也さんは「勉強の偏差値と野球の頭の良さは違う」とも語っていた。とかく頭でっかちになりがちな「偏差値の高い高校生」が「体育会系クラブの中の頂点に立つ」ともいわれる高校野球で甲子園出場までなし得たのには、指導者の力が大きい。とりは野球部OBで本業を持ちながら監督を務めた市川忠男さん(82)に飾ってもらった。

――甲子園に出場したチームはほかの教え子たちと違っていましたか。

「甲子園に出場したのは国立の野球部の監督に就任してから11年目だった。特にあの代のときだけ変わった練習をしたというわけではない。技術的には基本の繰り返し。ランニングにキャッチボール、トスバッティング、フリーバッティング、シートノックを繰り返して体で覚させた。体で覚えたことは忘れない」

「毎年、新入部員が入ってくると、在校生の2年と3年の選手の力をかねあわせて、今年のチームは守りで勝つチームか打力で勝つチームかある程度判断する。甲子園に出たときのチームは守りで勝つチームだった。もともと国立の場合はピッチングマシンもなく全部手投げでバッティングの練習をしていたから、1人3本しかフリーバッティングをしないというときもざらにあり、打撃練習にかける時間は極端に少なかった」

■投手市川、あんなに練習した選手は初

――それでも甲子園に行けた要因は。

「一番は集中力。3球しか打てなくても1球1打に集中する。スポーツも勉強も向上するのに共通しているのはそこではないか」

「あと、あの当時のメンバーは野球に対する姿勢がよかった。引退するまではとにかく野球漬け。休みも年末と正月三が日くらいしかなかったように記憶している。勉強面が心配で、練習を終えて帰宅後、居眠りしてからでもいいから机に向かえといった覚えがある」

――メンバーに聞くに、エースだった市川武史さんの練習量はかなり多かったようですね。

「アマチュアの試合は投手の出来不出来が勝負の7割を決める。武史はもともとコントロールがよかったが、努力していた。あんなに練習した選手は見たことがない。先発イコール完投という指導をしていたから、毎日250球以上は投げ込んでいた。黙っていると300球も投げそうだったから私がストップをかけたほどだ。そのおかげで夏の予選から甲子園まで、ノーシードで再試合を含めて完投できるほどの肩の筋肉ができあがった」

――ほかのメンバーはどうでしたか。

「中学のときに野球をやっていなかった部員も多く、ハンディがあったはずだが一生懸命に練習していた。武史は打たせて取るタイプのピッチャーだったが、バックがほとんどエラーをしない。とにかく野球が好きな部員ばかりだった」

――夏の予選会で印象的な試合はどれですか。

「一番きつかったのは初戦の都立武蔵村山高校だ。2年生のピッチャー(ヤクルトに入団した西沢浩一投手)には練習試合でシャットアウトをくらっていた。しかし当日は3年生がでてきた」

――選手は4回戦でシード校の錦城に勝つことを目標にしていたようでした。

「もともと私はバント攻撃は好きではなかったが、あのチームは錦城よりも打力が落ちるから足を使った攻撃を入れないといけないと思っていた。初回に4点を取った際には2回もスクイズして得点した」

――初回で勝負が決まり、結局4―0で勝ちました。その後、佼成学園との再試合などを経て決勝に進みました。甲子園は意識しましたか。

「まったく意識していなかった。決勝の駒沢大学高を格上だとも思わなかった。同じノーシードで上がってきたんだから。データなんか一切調べもしなかった。たとえ相手の4番打者がインコースが得意といったデータをもっていたとしても、そこに投げられないと仕方ない。しかも、そこを意識して投げたボールは逆に打たれることもある」

「部員らも決勝だと意識して硬くなっていなかったと思う。ミーティングらしいミーティングもしなかった。とにかく試合前に帰りの切符を買わせなくてはと思っていた。しかし優勝し急きょ祝勝会のためにバスで地元に戻ることになり、その切符は使わなかったが……」

■立派な監督のいる箕島と対戦でき誇り

――甲子園球場よりも神宮球場が印象的だったと言っている選手もいます。

「予選ではそれまで昭島球場など市営球場ばかりで大きな球場は初めてだった。私は足を触ってサインを出していたが、神宮球場のベンチに座ったら前のネットで選手らがサインが見えないことがわかった。後ろにふんぞりかえって足を高くしてサインを出したりしてくたびれた。とはいえ、バッテリーを信頼して任せてあったからあまりサインを出す機会もなかった」

「ただ、捕手の川幡の肩がもともと弱かったことが気がかりだった。相手はおそらく走ってくるだろう。武史はクイックモーションで投げられるし、一塁へのけん制もうまい。川幡には、武史はそう簡単に一塁走者にスタートを切らせることはないだろうから、おまえがいくら山なりのボールを投げても、走者の足よりはボールのほうが速い。ちゃんとベースに投げればアウトをとれると繰り返し言った。駒大高はやはり走ってきて一度はセーフとなったが、2度目に走ったときには川幡が指した。そうしたらもう走ってこなかった」

――戦略勝ちでしたね。甲子園での箕島はどうでしたか。

「箕島が前の年の優勝校だけに選手らは『甲子園はコールドゲームがない』『何点とられたら終わるのかな』などと話していたのを聞いた(笑)」

「敗因は、箕島のような甲子園が自分の庭のようなチームと違って甲子園のグラウンドが初めてだったことで勝手がわからないことが多かったこと。たとえば甲子園風。風を読めずに守備で失敗した場面もあった」

「試合前に箕島の尾藤公監督と話す機会があった。尾藤スマイルとマスコミではいわれていたが、練習では逆で鬼の尾藤といわれているといっていた。私のような初めての、しかも都立の監督に対しても対等に接してくれた。あのような立派な監督のいるチームと対戦できたことは誇りだ」

――部員が少ないながらも、ベンチ入りできない3年生や出場できなかった控え選手もいました。

「甲子園メンバーは予選の18人から15人に絞らないといけない。一番つらいところだった。また甲子園では先発メンバーを1人も代えなかった。あとから控えの選手に気の毒なことをしたと思った」

「代えなかったのは信頼感があったからだ。たとえば、センターを守っていた2年生の関(現在、西武ライオンズ専務)は大会を通じてほとんどヒットはないが信頼感や期待感で使い続けた。足が速くて守備がいい。選球眼がよくフォアボールで結構出塁していた」

■強い相手、声大きく気力で負けない

――国立のように決して環境にも恵まれていないチームが勝利するためのアドバイスはありますか。

「強いチームと対戦するときには気力で負けてはいけない。試合前のランニングやキャッチボールなどで相手を意識しすぎると声がでない。しかし相手は声が大きいとなると、そこでハンディができてしまう。できるだけ大きい声を出す。さらに行動が伴わないといけない。だらだらしながら大きい声を出しても意味がない」

――国立では19年間、監督を務めました。

「私のように教員ではない監督の場合は高校が理解してくれることが大きい。ちょうど甲子園に出た年の3月に国立の校長を辞めた岡本武男さん(後に東京都高校野球連盟会長)が『とにかく徹底的に部員を鍛えてくれ。その結果、もし何かあったら全部私が責任をもつ』と言ってくれたことはうれしかった」

「私が国立で野球をしていたときの監督は軍隊帰りの体育教師で非常に厳しかった。自分が監督になった際には、中途半端を排して徹底的にやろうと思った。だから毎日練習をすることを課した」

――いまは中学生に野球を教えています。

「孫のような年代。野球だけを教えるのではなく、野球以前のこと、あいさつや返事といったことから教えている。監督やコーチがアドバイスしたらきちんと跳ね返ってくるものを持っている選手として育てたい」

市川忠男(いちかわ・ただお)1932年8月24日生まれ。都立国立高校(旧制東京府立第19中学校)在校時に野球部に所属しエースとして夏の大会でベスト4に。51年に卒業後、社会人野球の東京鉄道管理局野球部(現在、JR東日本硬式野球部)に入り投手として活躍。その後、家業の市川洋服店を継ぐ。69年から88年まで国立高野球部監督。一橋大学野球部監督を8年間務め、現在は国立中央リトルシニア野球協会監督。

甲子園でサヨナラボーク 林清一氏

宣告した審判の心中語られなかった敗戦投手への“心配り”

青春のすべてを甲子園という夢の舞台にかける球児たち。勝負である以上、どんなプレーにも判定が伴う。大舞台だからこそ、ではなく甲子園に縁のない高校同士の練習試合も、日本中が注目する場面でも、普遍のジャッジがあってこそ高校野球は成り立つ。1998年夏の甲子園大会2回戦。豊田大谷と宇部商は延長十五回、史上初のサヨナラボークによる豊田大谷の勝利という幕切れとなった。主審を務めた林清一氏(59)に試合を振り返りつつ、高校野球の審判哲学を語っていただいた。

100年の歴史で今のところ唯一のジャッジは、異様な雰囲気の中、“究極の当然”を求めた結果の産物でもあった。

人によるかもしれない。ただ、林氏は「下調べをしない」をモットーに、ゲームに臨んでいた。

「コントロールがいいとか、三振記録を持っている、という予断が入ると際どい球のジャッジがぶれるかもしれません。人間には弱さもありますから」

完璧でないことを認め「見たまんまで判断する」。長年、自らに言い聞かせてきたことだった。

第2試合。グラウンドは38度。直後に横浜・松坂大輔(現ソフトバンク)の試合が控えており、「あの時点で超満員でした」と振り返った。

五回終了時、水を飲んだ。試合は延長へ突入。「水分、差し入れを期待したんですが、来なくてねえ」と笑うが、その時は笑い事ではなかった。塁審もバテて、打球を追い切れなくなっていた。しかし「早く決着をつけたい、と思ったら、ジャッジが雑になる」と、必死の判定を続けた。

十五回裏。豊田大谷は無死満塁の絶好機を迎えた。200球を超える球を投げてきた宇部商のエース・藤田修平はこの場面で、林氏の想定になかった動きをした。

「審判として一番いけないのはビックリすること。そうならないように、あらゆることを想定するのですがあの時、ボークだけは考えてもなかった」と振り返る。

「ふらふらで、汗もすごい勢いで流れていた」という林主審の眼前で、プレート板に足をかけた藤田はセットに入ろうとした手を「ストン、と落としたんです」。

林氏は迷わず「ボーク」を宣告、サヨナラゲームとなった。「5万人のスタンドが一瞬、静まりかえって、そこからざわざわする声に変わりました」とその瞬間を振り返った。

もし藤田が足を外していれば、ボークではない。「だんだん不安になりました。(ミスなら)やっちゃった、審判人生、終わりだな」とも思った。もちろん現場やテレビなどを見た同僚、関係者から「間違いなくボークだった」の確認が入った。

それでも直後の会見では、報道陣から「なんであんなところでボークを取るんだ」、「注意で終わらせられないのか」といったヒステリックな声も飛んできたという。

この場を収めたのは、ベテラン審判員の三宅享次氏。「審判は、ルールの番人です。以上!」と制した。

当時は、四角四面の冷徹なジャッジと感じる向きもあったかもしれない。しかし-。

通常、試合終了時は野手のミットやグラブに送球(投球)や、サヨナラなら打球が収まる。しかしこの試合は、投手・藤田の手にボールが握られたままだった。

甲子園の、暗黙のルールとして、ウイニングボールは目立たないように、勝利校の主将にプレゼントされる。が、林氏は2年生投手の藤田が渡そうとしたボールを「持っておきなさい。そして来年、また甲子園に来なさい」と、受け取らなかった。勝った豊田大谷にはポケットから出した試合球を手渡した。

試合を2時間以内で終わらせるため、ひっきりなしに選手を急がせ、機械的に判定を下すのが審判員ではない。

とっさに、ウイニングボールを敗戦投手に手渡した林氏。他の試合中にも、さまざまな隠れたやりとりはある。

終盤、つるべ打ちに遭った投手。投球数は増え、何度も三塁、本塁のバックアップに走り肩で息をしている。本塁付近にいれば「頑張れ」と声をかける。

大敗の終盤、代打に背番号「18」の選手が出てくる。明らかに足が震えている選手も少なくない。こっそり「深呼吸しなさい」とささやいて、汚れてもいない本塁ベースを掃き、時間を取ってやる。

「甲子園は、誰にとっても一世一代」。少しでもいいプレーをさせてやりたい。林氏は「そういう時のために、通常は無駄な時間を省いて“貯金”をしておくんです」という。

血の通ったルールの番人があればこそ、甲子園で球児は躍動する。

この敗戦はチャンス。日本代表とは何かを今一度考えよ

ブラジル・ワールドカップのグループリーグ第3節が24日に行われ、日本代表とコロンビア代表が対戦。コロンビアが4-1で勝利し、3連勝でグループリーグ首位通過を決めた。敗れた日本は1分2敗のグループ最下位で2大会ぶりにグループリーグで姿を消すこととなった。
 
チームはもちろん、多くの人にとって思い描いていた結果ではなかったであろうが、一方で日本代表の現在地、現実を知らされる結果と内容でもあった。サッカーキングの取材に対し、解説者のセルジオ越後氏は次のように語った。

「自分たちがいかに井の中の蛙であったのか、みんなが気が付いたのではないかな。この4年間の歩みを改めて考えれば、1分け2敗という結果はなるべくしてなった、という印象だ。井の中の蛙状態になってしまったのは、選手だけの責任ではない。いまや日本代表は純然たるサッカーの代表チームではなく、興行的、ビジネス的な役割を大きく担わされている。選手は必要以上に持ち上げられ、弱い相手に対する親善試合で虚構の代表チーム像が作られていく。コンサート会場のような代表戦の雰囲気は、本当にサッカーを後押しするものだったかね」

「協会、メディア、スポンサー、ファン。それぞれが、日本代表というものを、もう一度見直すべき時がきているということじゃないかな。この敗戦は、変わるチャンスなんだ」

「本当に優勝を目標にするのなら、そこまでにどれだけの距離があるのか、真摯に見つめ、分析しなければならない。コパ・アメリカに招待されたら、参加しなければならない。興行よりも強化を第一に考えなければならない。負けたからこそ得られるものがある。ここで変革することが、このブラジルW杯に出場した意味だ」

セルジオ越後 SOCCER KING

短い野球人生飼い殺しは罪だ

「飼い殺し」という言葉がある。人に対して使うのはためらわれる言葉だが、そういうことが実際に起こってきたのがプロ野球だ。限られた人材、せっかくプロに入った才能を腐らせることなく、育てていくにはどうすればいいのだろう。

■大家を横浜から米国に送り出す

メジャーで活躍した大家友和という投手がいる。先ごろブルージェイズとマイナー契約したというニュースが流れたので、思い出した方も多いだろう。騒がれて米国に渡ったわけではないので目立たなかったが、メジャー通算51勝は野茂英雄、黒田博樹、松坂大輔に次ぐ4位。

この投手を横浜(現DeNA)から米国に送り出したときの監督が私だ。飼い殺しはいけない、という私の信条はあのときの体験からきている。

1997年2月1日のキャンプイン。横浜のバッテリーチーフコーチになった私はブルペンでとんでもない素材をみつけ、小躍りしそうになった。すべての球が低めに制球され、抜ける球がない。これは先発ローテーションに入るどころか3本柱の1本になる、と思った。それが入団4年目の大家だった。

抜群の仕上がり具合だった大家はシート打撃登板、紅白戦と実戦段階に入っても期待通りの投球をみせる。しかし、いよいよオープン戦が始まるという2月下旬になってあやしくなってきた。1、2軍の振り分けに入る大事な時期、あれだけ順調だった大家が、制球を乱し始めた。引っかけては低投、すっぽ抜けては高投の繰り返し。結局2軍行きとなった。

■周りにいびられ毎年開幕前に失速

大家に未練があった私はいろいろ周辺を取材した。2軍の打撃投手ら裏方さんたちに聞くと、どうも人間関係がうまくいっていないらしい。

周りにいびられ、コーチには「そろそろいつものアレが出てくるだろう」と、毎年開幕前に失速してしまうという嫌な“過去”をほじくり返されていた。この種の記憶は勝負の世界に生きる者にとって、一番呼び覚ましてはいけないものだ。それなのに、コーチがまた傷口を開けるようなことをするとは……。大家にとってシーズンイン前の失速はすっかりトラウマになっていた。

いっそ大家にはトラウマのもととなっている準備期間を与えず、いきなり4月1日からチームに合流させたらいいのでは、と私たちは半ば本気で話し合ったものだった。

このままではダメだと私は思った。日本の球団は何せ組織が小さい。トップチームの下に3A、2Aと、4つも5つもチームがぶら下がっているメジャーと違い、日本は基本的に2軍だけ。変わりばえのしないコーチ陣と年がら年中顔をつきあわせて、野球をする以前に人間関係で疲れ果てているようではどうしようもない。

■日本球団へトレードにはためらい

かといって日本の球団へのトレードに踏み切るのもためらわれた。対戦のないパ・リーグならまだしも、セ・リーグのライバル球団には出せない。先ごろ、たまたま当時巨人のフロントにいた山室寛之さんにお会いし「実はうちも大家に目をつけていたんだよ」と言われて、やはりと思ったものだった。2軍戦で大家をみて、どうしてこの選手が下にいるのだろう、と思っていたのだそうだ。それくらいすごい投手だったのだ。

私は球団に頼み、横浜と親密な関係にあったレッドソックスへの移籍を提案した。レッドソックス傘下のマイナーから頭角を現した大家のその先はご存じの通りで、エクスポズ(現ナショナルズ)などで勝ち星を重ねた。

大家を放出(私からすると解放)した横浜の決断はかなり異例といえるだろう。

■全くの新天地で一からのびのびと

大家は93年のドラフト3位だった。高い契約金を出して取った選手を簡単には出せないというのが球団側の理屈だが、もっといえばメンツの問題がある。

簡単に放出して、よそで活躍されたら面目まるつぶれ、という心理が球団フロントや首脳陣に働くのだ。「いったい選手のどこをみていたのか」と笑われるのが怖い。せこい話だが、球界に限らず、人間の集まりにはつまらないプライドやジェラシーに動かされている部分が必ずある。会社勤めの方ならわかるだろう。

日本は組織が小さいから、2軍でだめなら3軍でというわけにもいかない。そもそも試合数が少ないから、実戦で実力を証明する機会すら乏しく、身動きがとれなくなる。こうして「飼い殺し」の状態が生じる。

米国のマイナーでは飼い殺しの前にクビになる。これも厳しいが、解雇も一種のフリーエージェント(FA)だから、先行きの見えないまま塩漬け、というよりはいいかもしれない。

私が大家の米国行きを提案したのは全くの新天地なら、一からリセットできて、戦う気持ちがわいてくると思ったからだ。そうすればあの力なら通用すると確信していた。あれほどやるとは思わなかったが……。今では私など、おいそれと「おい大家」と気楽に声をかけられないような高いところに行ってしまった。

それにしてもうれしかった。決断してくれた当時の大堀隆球団社長に「今ごろ日本にいたら間違いなく埋もれたままでしたよね」と言うと、彼もうれしそうにうなずいていたものだった。

陰湿な人間関係が米国に全くないとはいえないが、少なくとも先入観のない状態からリスタートできたのがよかったのだろう。マイナーには何チームもあって選手、コーチの異動も激しいから、そりの合わない指導者とずっとにらめっこすることもなかったはずだ。

■埋もれた才能に道探してやる必要

横浜でだめだった投手がメジャーで活躍したと、のちに世間では騒がれた。「なぜあんな逸材を放出したのか」という非難まじりの声も聞こえてきた。しかし、私は彼のためになったのだからよかったと思っている。

大金を払って契約する以上、球団が簡単に選手を自由の身にしてやれないのは当然だし、選手としても何千万円、満額なら1億5000万円という契約金をもらうことの意味を知らないわけはない。

しかし、球団は誘うときだけ「いらっしゃい、いらっしゃい」で、入ったあとは知らない、でいいのだろうか。

せっかくプロに入ったものの、人間関係に縛られたり、環境になじめなかったりで、才能を埋もれさせているケースは少なくないはずだ。

「自由契約になるまで我慢しろ」と言ったって、そうなったときにはもう遅い。契約をタテに縛るばかりでなく、本人にとっていい道を探してやることも、時には必要ではないだろうか。

■一度しかない現役生活こそ大事に

日本の球団はなんだかんだ言っても面倒見がよく、選手としてダメだった場合でも球団職員とか打撃投手という形で、引退後の手当てもしている。

それは確かだが、私が言いたいのは一度しかない現役生活こそ、大事にしなくてはいけないということだ。「ダメだったけれど、やることはやり尽くした」と選手が思えるような環境を整えなくてはいけない。人生は短い。野球人生はもっと短い。周囲の思惑だけで囲い込んでいたら、あっという間に終わってしまうのだ。

(権藤博・野球評論家)

楽天優勝の立役者は、42歳の元外資金融マン

チームを変えた、新社長の「巧みな戦略」と「熱き思い」

球界に参入した2005年、レギュラーシーズンを制したソフトバンクに51.5ゲーム差をつけられ“史上最弱”とも言われた楽天イーグルスが、今季、悲願のリーグ初優勝を果たした。過去にAクラス入りしたのは野村克也監督に率いられた2009年の1度のみだったチームが、なぜ、8年という短期間で栄冠を勝ち取ることができたのだろうか。

開幕22連勝を飾ったエースの田中将大、超大物メジャーリーガーとして鳴り物入りで来日したアンドリュー・ジョーンズ、若手の成長を見事に引き出した星野仙一監督がチームを牽引した“表の顔”とするなら、影で尽力したのが球団社長の立花陽三だ。

昨年8月、楽天グループの三木谷浩史会長に誘われ、メリルリンチ日本証券執行役員から転身。慶応大学を卒業して以来、ソロモン・ブラザーズ、ゴールドマン・サックス、メリルリンチで輝かしいキャリアを歩んできた元外資系証券マンは、球界でも見事な手腕を発揮していく。

立花がまず行ったのは、チームを徹底的に分析することだった。成蹊高校時代にラグビーの高校日本代表、慶応大学でもスタンドオフとして活躍したが、野球に関しては素人だ。そこで求めたのが、誰もが納得できる数字的根拠だった。

「マネーボールではないが、数字的なアプローチのほうがわかりやすいし、ロジカルだと思う。他球団と比べてうちはどこが強いのか、弱いのか。それらを数字的に判断して、『じゃあ、ここを強くしよう』とアプローチした」

■なぜ右打者に補強を絞ったのか

立花は自身の球団社長としてのスタンスについて、「私の仕事のやり方は、他球団の社長とは明らかに違うと思う」と言う。たとえば前任者の島田亨は楽天グループ本隊の仕事もあり、仙台に来る日が限られていた。一般的な球団社長は、彼のように経営面に尽力し、グラウンドの話は編成担当や現場に任せることが多い。

一方、戦力強化も担う立花は仙台に常駐し、毎試合観戦してチームが勝利する方法を考え続けている。そうして昨季終盤、見えてきた課題が「右打者の長距離砲不在」だった。

「チームの投手力はそんなに悪くないが、得点数が低い。その課題を見つめ、『得点を取れる選手を取ってこよう』となった。ドラフトで新人を取っても、戦力になるまでに年数がかかる。われわれがオプションで持っているのは外国人を取ること。その中で必要なのは長打なのか、単打か。右打者なのか、左打者なのかと考えた」

2012年の楽天は、総失点がリーグで3番目に少ない467だったのに対し、総得点は4位の491。チーム本塁打はリーグ最少の52本だった。新シーズンに向け長打力アップが求められた中、なぜ右打者に補強ポイントを絞ったのだろうか。

「うちの主力には左打者が多いので、左打ちの外国人を加えると打線に左打者ばかりが並ぶ。左打者=左投手を打てないという因果関係は、いいバッターを見ているとあまり感じられないが、うちにはあまり打てない左打者もいる(苦笑)。そのバッターが左投手をぶつけられることが多くなって打てなくなると、チームの総力が低下する。それならば、右打者を取ったほうがいいとシンプルに考えた」

今季、楽天で大きく飛躍を遂げたのが銀次、枡田慎太郎の左打者だ。前者は主に3番、後者は6番を任されている。2人をつなぐ4、5番打者がジョーンズとケーシー・マギーの右打者だ。

実は昨季終了後、楽天がリストアップした外国人選手のトップ評価はある左打者だった。しかし、個の能力のみに目を向けるのではなく、「この選手がチームに最適なのか」「この外国人選手が打てなかったとしても、周りが打てばいい」と多角的な視点で議論し、右打者の補強という結論が出た。

そうして獲得に動いたのが、メジャーリーグで通算434本塁打、1998年から10年連続で外野手としてゴールドグラブ賞を獲得した実績のあるジョーンズだった。実力はもちろん、ジョーンズは楽天に必要な要素を備えている可能性があると立花は考えた。

「うちは若いチームだから、つねに試合に出る野手の中に本当のリーダーが必要。打つこと、いいプレーをすることはもちろん重要だけど、チームのコアになる人間がもっと重要になる」

2012年末、立花は米国に飛んだ。テネシー州ナッシュビルでウインターミーティング(メジャー関係者がトレードやFA〈フリーエージェント〉選手の交渉などを行う場)に参加していた担当スカウトと合流し、ジョーンズと直接交渉すべく、アトランタまで車を4時間走らせた。

夕刻、現地のレストランで席に着くや、立花はジョーンズに言った。

「私は元証券マンだ。君とディールをしに来た。わざわざお茶を飲みに来たわけではない」

前交渉で金銭面は双方の合意ラインにあったが、立花はジョーンズの熱意や人間性を直接確かめたかった。過去に来日した大物メジャーリーガーの中で、傲慢な態度が災いしてすぐに帰国した選手も少なくない。ジョーンズが上から目線なら、立花は断るつもりだった。

しかし、大柄なオランダ人は人格者だった。ひざを付き合わせて4時間、ブレーブス時代に10年連続で地区優勝した経験や野球への情熱を聞くにつれ、ジョーンズの自信みなぎる態度に立花は魅了されていく。

「正直、ジョーンズが打つか否かは、来日してみないとわからない。でも、あの自信がチームに必要だと思った」

社長自ら交渉に来たことに感激したジョーンズは、鳴り物入りで来日した。真摯な態度で日本球界に溶け込もうとし、前向きな姿勢で周囲の尊敬を勝ち得ていく。

■ジョーンズの同志にマギーを選んだ理由

ジョーンズがすぐにチームになじめた背景には、立花の打った手も関係している。彼とアトランタで入団交渉を行った際、「もうひとりの外国人選手は誰がいい?」と尋ねていたのだ。そうして獲得したのがマギーだった。楽天がリストアップしていたマギーはヤンキースでジョーンズとともにプレーし、「右の長距離砲」という補強ポイントにも合致していた。異国に来る外国人にとって、同じ言語で話せる友人の存在は心強い。立花は証券マン時代に米国勤務の経験があり、外国人の気持ちを理解していた。

マギーにとっても、ジョーンズは頼れる同志だ。2010年にメジャーで104打点を挙げたことのあるマギーは、ジョーンズの偉大さをよくわかっている。未知なる新天地で、尊敬できる選手と共にプレーできることは、マギーのモチベーションになった。2人はチームを牽引し、ジョーンズがリーグ4位タイの24本塁打を放てば、マギーは同3位の28本塁打、同2位の90打点と打線の核になっている(今季の成績は9月25日時点)。周囲は「チャンスで2人に回そう」と出塁し、得点パターンが構築されていった。

優勝を争う夏場、チーム全員で出掛けた食事の場でマギーが言った。

「俺は楽天でジョーンズと一緒にプレーできることを誇りに思う。ここまでいい成績を残せているのも、彼のいるおかげだ」

マギーだけではない。高卒8年目の今季、首位打者を争うまでになった銀次は、飛躍の理由をこう話している。

「ジョーンズと一緒にプレーして、自信になった部分があります。野球をよく知っているし、試合の流れをすごく知っている。技術、精神面でいろいろとアドバイスをくれますしね。今シーズン、一緒にプレーできたことはすごく大きいですよ」

打線に核ができ、それぞれの役割が明確になった。ジョーンズやマギーの堂々たる態度を見て、周囲は触発されたものがあったはずだ。大物メジャーリーガーの持つ自信がチームに伝播し、徐々に勝者のメンタリティが育まれていったのだろう。

優勝マジック3で西武ドームに乗り込んだ9月24日の試合前、2007年から10年まで楽天でプレーしていた渡辺直人(現・西武)は古巣の変化を感じていた。

「勝つことでチームは変わります。勝利することでチームワークや団結力が出てくる。若い選手は試合で使われ、レギュラーの自覚が芽生えてきたのでしょうね。僕がいた頃にレギュラーでなかった選手が、今季はたくさん出てきています」

■「成功できる」という自信

負けが込めば込むほど、人は自信を失いがちだ。立花はそんなチームを一気に変えるべく、ジョーンズとマギーを米国から連れてきた。そして彼らが最大限に力を発揮できるよう、裏で環境を整えた。

マギーが言う。

「ヨウゾウは英語がとてもうまく、よくコミュニケーションを取っているよ。ラグビーやビジネスで成し遂げてきた話を聞いたが、彼は戦略性を持って動ける人だと感じている。当然、球団の経営をうまく行おうとしているが、いちばん考えているのは、チームをどうやって勝たせようかということがよく伝わってくる」

楽天で1年間戦い、マギーは周囲の変化を感じている。

「チームには、成功できるという自信が増している。それが日々の勝利につながっていると思う。イーグルスはここまですばらしい戦いをしてきたが、われわれにはポストシーズンがあるし、勝ち続けなければならない。イーグルスがなすべきことは、まだ始まったばかりだ。チームと共にこういう状況にいられて、本当に幸せだよ」

■優勝に続く、もうひとつの使命

強力な“助っ人”外国人が起爆剤となり、初優勝を飾った楽天イーグルス。実は、選手への総年俸は今季、昨季ともに約23億円で変わっていない。推定年俸でジョーンズに3億円、マギーに1億円+出来高の契約を結んでいるものの、活躍していなかった5人の外国人選手と昨季限りで契約を打ち切り、戦力として見込める有力選手にしかるべき報酬を払うように変えたのだ。今季のチーム総年俸は広島、DeNAに次いで少ないが、的確に補強すれば十分に戦えることを示している。

昨年8月に立花が就任したとき、求められた使命は優勝と球団経営の黒字化だった。前者は達成した一方、後者はまさに取り組んでいる最中だ。昨年はスポンサーが15社増え、観客動員数が1万7000人以上増加したにもかかわらず、約9億5000万円の営業損失を計上した。球場改修に伴う減価償却費=約9億円が大きく響いた格好だ。

今季はチームの好調が最大の要因となり、観客動員数は昨季比で1試合平均7%アップしている。チケットが完売した試合は昨季の5度から、今季は8月までに9度を数えた。勝つことでチームを魅力的にし、ファンを引き付けようというのが立花の描く黒字化への道筋だ。
「『優勝できるようにチームが強くなる』=『ファンが増え、球団の収入がアップする』のスピード感が一緒でなければ、経営的にうまくいかない。そうしたプロスポーツの永遠の課題を、乗り越えていかなければならない」

リーグ初優勝を決める1カ月前、社員たちから就任1周年記念でプレゼントされたエンジ色のネクタイを締めた立花は、クリネックススタジアム宮城でこんな話をしていた。

「自分は今までの土台にトッピングしているだけ。私がやったのは1〜2%。5年後に私の真価が問われる。まだ始まったばかりだと思う」

2013年の秋、現場の選手や監督、コーチ、裏方と勝利の美酒を味わった立花は、すでにもうひとつの使命達成に目を向けている。

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立花陽三(たちばな・ようぞう)
楽天イーグルス社長 1971年東京生まれ。1990年、慶応大学総合政策学部に入学し、ラグビー部で活躍。卒業後、ソロモンブラーズ証券に入社。ゴールドマン・サックス証券を経て、メリルリンチ日本証券にて、債券営業統括本部長として活躍、11年に常務執行役員に就任。12年8月より現職
中島大輔:スポーツライター

東洋経済新報社

楽天・田中 鉄腕稲尾との共通点

楽天・田中将大は“鉄腕”の境地に達しつつあるのだろうか。昨年から始まった連勝記録は稲尾和久さん(西鉄)らが持っていた「20」を超え「22」に。「負けない投手」である2人の共通点を探ってみよう。

20連勝の記録を持っていたもう一人の投手、松田清さん(巨人)は上の世代で、私もよく知らないが、同世代である稲尾さんが記録を作ったときのことは覚えている。

■エースを超えてスペシャルな存在

稲尾さんが20連勝をマークした1957年、私は佐賀県の鳥栖高校を卒業して、社会人のブリヂストンに入った。稲尾さんは大分の別府生まれで、出身地が近いこともあり特別な存在だった。稲尾さんのようになりたいという一心で私は野球を続けていたといってもいい。

私の1級上にあたる稲尾さんは新人の年に21勝を挙げて新人王となった。迎えた2年目に20連勝というとんでもないことをやってのけた。

ブリヂストンのチームがあった福岡・久留米の地で、「私もいつかはプロに」と思いながら、稲尾さんの背中を見つめていた。連勝が伸びていくのを報道で知り、稲尾さんが出たら勝つのが当たり前というように、すっかり思い込んでいた。連勝が止まったとき「稲尾さんでも負けることがあるんだ」と思った記憶がある。

そのときにはもうただのエースではなく、鉄腕という代名詞がつくようなスペシャルな存在になっていたのだ。

■小さく、鋭く曲がる稲尾のスライダー

稲尾さんといえば伝家の宝刀、スライダー。田中の場合はこれにスプリットというフォーク系の球が加わるが、やはりスライダーがその負けない投球を支えているのには変わりない。

2人のスライダーの球筋は若干違う。田中のスライダーがカーブのように大きく曲がりながら、落ちていくのに対し、稲尾さんのスライダーは小さく、鋭く曲がる。ベース板のところにまるで透明なガラス板が斜めに立てられていて、それにボールがぶつかって、カクッと曲がるというイメージだ。

稲尾さんと対戦した南海の広瀬叔功さんに聞くと、ギリギリまで曲がらないスライダーを外角のストライクゾーンに入れたり、外されたりするだけで「もうガタガタにされる」とのことだった。

■打者との駆け引きを楽しむかのように

スライダーでカウントを取られるから打ちにいくと、ストライクゾーンからボールになる球が来て、泳がされる。次はちゃんと見極めようと思って慎重に構えると、気持ちを見透かしたようにストライクを投じてくる。すっかり混乱しているところに、最後はストレート。どうせまた外角に逃げていくのだろうと思っていると、曲がらずにズドンと真っすぐきてストライクアウト、となる。

「たいしたピッチャーじゃないと思うんだけれど、あの出し入れがなあ」と広瀬さんはぼやいていた。打者との駆け引きを楽しむかのようだった稲尾さんのスタイルがわかる話だ。

楽しむところまで達しているかどうかはわからないが、田中も投球に微妙な強弱をつけることで打者を牛耳るというピッチングの奥義をつかんだのかもしれない。

■ピッチング覚えた田中、直球で空振りも

走者のいないときなど、稲尾さんは決してしゃかりきには投げていなかった。それでも三振が取れた。

直球で空振りをさせられない、三振を取れないということが悩みの種だった田中も、昨年ぐらいから、直球で空振りを奪うシーンが増えてきた。それは球威が増したとかということではなく、要するにピッチングを覚えたのである。

これは前にも書いたが、楽天の監督だったノム(野村克也)さんが、春のキャンプのときに取材で訪ねた私をつかまえて言ったことがある。「マー君(田中)はこのままでは変化球投手や。まっすぐで空振りを取れるようでなければ本格派とはいえん」。そして田中に「教えてやってくれ」という。

そのとき私はノムさんに「黙ってみていても、じきに空振りが取れるようになりますよ」と言ったものだった。

田中本人とも話をし「ノムさんはああ言ってるが、気にしちゃ駄目だ。真っすぐ、真っすぐといって気にし出すと、せっかくのスライダーも駄目になって、虻蜂取らずになるよ」と言った。そして「打者というのはちょっとしたタイミングのズレを嫌うものだから、キャッチボールのときに相手が一瞬、ギクっとするような投げ方をして遊んでみたらいいよ」とアドバイスした。

■全力投球一辺倒でなく遊び心も必要

同じ直球でもリリースのタイミングなどを微妙に変えることで、打者の感覚を狂わすことができる。それにはちょっとした遊び心が必要で、これは全力投球一辺倒ではできない。全球を全力で投げるということは結局、一本調子となり、どんなに速くても打者の目が慣れてくる。

以前の田中の投球には一生懸命汗をかいて投げている割には三振がとれない、という傾向が確かにあった。それはこうしたコツをつかみ切っていなかったからだ。今回の快挙はそうしたステージから田中が脱し、もう一段上の境地に至ったことを示す。

22連勝となった23日のロッテ戦、六回に2死二、三塁のピンチを迎えた田中は代打の福浦和也を最後、自己最速の156キロのストレートで空振り三振に仕留めた。

■ここぞのスライダーに「必殺」のすごみ

手抜きというわけではないが、カウントを整える段階では適度に力をセーブして投げ、ここぞというところですごい球を投げる。このときは直球を決め球にしたが、ピンチを迎えて、カーっと熱くなったときのスライダーもまさに「必殺」のすごみが出てきている。

稲尾さんが右バッターの外角の出し入れによってつけていた投球のメリハリを、田中も身につけたようである。

たぶん田中はどこかの時点で、決して全力で投げなくても「あ、空振りが取れるんだ」と気がついたはずだ、と私はみている。今度会ったら、その辺を取材してみたい。

“目覚めた”田中の直球とスライダーの組み合わせは鬼に金棒で、それはたぶん打席の打者に対して、横浜(現DeNA)の大魔神こと、佐々木主浩の直球とフォークの組み合わせくらいの威力を発揮していると思われる。

ちなみに、今は低迷している斎藤佑樹(日本ハム)のスライダーも、うまく使えば田中くらいのスライダーの効果を持ちうる逸品だ。苦しい時を過ごしているだろうが、斎藤よ、おまえは絶対やれる、とこの場を借りて伝えておこう。

■田中への注文「味のある大エースに」

田中はつくづく大きくなったなあ、と思う。大きくなったというのは気持ちの部分である。

「一生懸命過ぎない投球」というのは実は難しいことで、打者を見下ろすゆとりがなければできるものではない。絶対負けないというファイティングスピリットの一方で、ゆとりを持てるようになったところに、稲尾さんに通じる「負けない投手」の極意がある。

稲尾さんはあんなにすごい投手だったのに、普段は優しく、誰にでも愛される、ゆるくて温かい部分があった。カリスマには違いないけれど、周りに威圧感を与えない柔らかなカリスマだった。今でいう「ゆるキャラ」ぶりと実力のギャップが、底知れない人間の大きさを示していた。

連勝記録では上回った田中も、これからは大エースであるだけでなく、味のある大エースになってほしい。伝説の域に入っていくには記録だけではない“サムシング”が必要だ。これは田中だからこその注文である。

(野球評論家 権藤博)

朴 智星 パク・チソン 「日本人のイメージは良くなかった」

若くて右も左もわからなくて、とんがっている時に日本に来ました。
最初は学校で習ったように、日本人に対してのイメージは良くありませんでした。でも日々暮らしているうちに全然違うと気がつきました。

特に日本のクラブに来た日から毎日必ず声を掛けてくれて、悩んでいる時に相談を聞いてくれたカズさんは人生の師です。

「カズさんのようになりたいです。」
と言った時にカズさんが、急に真顔になり、話してくれた言葉は自分の人生を変えるものでした。

「いいかい、智星。
自国以外でサッカー選手として、生き残るのは本当に困難だ。
最後までサバイバルする選手に、一番必要なものは何かわかるかい?

技術じゃない。
そのクラスの選手の技術は、みんな同じくらい高いからね。

一番大切な事は、サッカーへの情熱。
一途の献身。
毎試合、今日死んでも悔いはないという思いで、試合に望むこと。

サッカーに人生を賭ける選手だ。

ブラジルでは、貧しくて一生スタジアムに来れない人が沢山いるんだ。
ブラジル人にとっては悲劇だよ。

智星、わかるかい。
ブラジルで、俺は試合前に、必ずスタジアム全体を見る。
この中でいったい何人の人達が、一生に一回だけの試合を見にきたんだろうと思うんだ。

すると全身にアドレナリンが溢れてきて、喧嘩した直後みたいに身体が震えてきて、鼻の奥がツーンとしてくる。
俺はそのまま試合開始のホイッスルが鳴るのを待つんだ。

うまく言えないけど、これが俺のサッカー人生だ。

智星が本当にサッカーを愛しているなら、とことんまで愛してやれ。
智星のプレーで、全然違う国の人々を熱狂させてあげるんだよ。
それは本当に素晴らしい経験なんだよ。」

—-

朴 智星(パク・チソン、1981年2月25日生)
韓国出身のサッカー選手。元同国代表、プレミアリーグ・クイーンズ・パーク・レンジャーズ所属。

DeNA中村の“懲罰二軍”に思う

DeNAの中村紀洋が8月半ばから2軍落ちしていたのは、自分の打席で盗塁をした内村賢介をベンチで叱責したことが原因だったと報じられた。中村の行為に弁護の余地はない。けれども中村がなぜそのようなことをしたかについて、中軸を打った経験のあるものとして解説しておきたい。

■怒りの矛先、盗塁した走者に

報道によると経緯はこうだ。8月15日のDeNA―阪神戦。DeNA4点リードの七回裏二死一塁で、打者は中村。このとき走者の内村が二盗を決めた。その後、三振して帰ってきた中村が「なぜ盗塁するのか」と内村にベンチで怒鳴りつけた。

しかし俊足の内村はベンチから「フリーで走ってよい」というお墨付きを与えられていたために、中村の行為は采配批判と受け止められた。その後、中村は右肘痛で2軍落ちしたが、実はこの時の言動も問題視されての2軍降格だった――。

8月31日付の各スポーツ紙の記事を総合すると、そういうことになる。

■いくつもの行き過ぎた行動も

報道の通りなら、全く中村に弁護の余地はない。「走ってよい」という指示が出されていたというのだから、不満があるなら内村でなく、監督かヘッドコーチに言うべきである。それも試合中でなく、試合後に監督やヘッドコーチと面と向かって話せばよかった。その点、中村にはいくつもの行き過ぎや落ち度があった。

ただ、そもそもこの問題は「なぜ中村が内村を叱責したか」という、主力打者ならではの話に関係してくる。特に最近、プロ野球がつまらなくなったとすればそれはなぜか、という問いかけにつながる問題をはらんでいるのだ。

七回裏二死一塁。4点差でほぼ勝敗が決した場面で3、4番となれば、当然狙うはホームラン。ファンもそれをみたいと望んでいるはず……。中村あたりの世代までの長距離ヒッターの多くはそういう考え方をしていたはずだ。

■行動の裏に昔風の「4番の本能」

問題の打席で中村がどこまで意識していたかはわからないが、内村を叱った彼の行動には昔風の「4番の本能」があったように思う。

「つなぎの野球」が今はもてはやされて、走者を進める打撃ができる中軸がほめそやされる。マスコミもファンもそれがいい野球だと思っているフシがある。

「つなぐ4番」は聞こえはよいが、現実として、歴代の大打者につなぐ4番は存在しない。そして問題はつなぐ4番が本当に面白いかどうかだ。少なくとも昔のプロ野球の4番打者の仕事は走者をホームに返すことだった。

意識の上でも、つなぐのでなく、打点をあげることが4番の仕事というはっきりしたものを持っていた。誰もマネのできない飛距離とか打球の速さを持ち、勝負強く、一発で形勢を逆転できる力を秘め、周りのナインから信頼されている。だから俺は4番打者を任され、期待に応えるんだというプライドと責任感を持っていた。

■中軸のプライドと責任感

だから状況にもよるが、中軸が打席に立つと、走者は打撃の邪魔をしてはいけないという不文律があったのだ。

私のヤクルト時代の話だが、今回の中村と同じような状況で打席に入ったとする。たとえば一塁走者が飯田哲也で、七回で4点差。盗塁王にもなった(1992年)飯田だが、こんなときは「ヒロさんが集中できるように、走るのはやめておこうか」という気配りをしてくれた。また監督が「走るな」というサインを出して配慮してくれることもあった。打撃の邪魔にならないように、集中できるようにと周りのみんなが気を使ってくれた。それがうれしかった。

ここで盗塁がなぜ打撃の邪魔になるのかについても説明が必要だろう。特に右打者は一塁走者がよく見える。ゴルフをする方ならよく理解できると思うが、アドレスに入って初動動作を始めたとき、同伴プレーヤーが見えるところで動いたら気になる人は多いはず。野球の打撃でも、一塁走者の動きが目に入ると、どうしても集中力が阻害され、ボールをとらえることに支障がでる。絶好球を打ち損じるということが起こるのだ。

■「ちょろちょろするんじゃない」

走者の動きが気にならないという打者は少なく、左打者にも二盗の動きが目に入って気になるという打者がいた。

だから中軸打者は走者に動かれることを嫌うのだ。私も駆け出しのころに、塁上でリードを広げていた走者が主力選手に「ちょろちょろするんじゃない」とどやされるのを目の当たりにし、自重しなくてはと思ったものだった。

なまじリードをとっていると投手がけん制する。それも打者としては気が散ることだ。だから「黙ってベースについていろ」というわけだ。

もっといえば「俺の長打で返してやるから、余計なことはせんでいい」というくらいの気持ち。これが4番のプライドだった。

■あしき伝統か、魅力か

こうした意識は今の聞こえのよい「つなぎの野球」一色に染まった日本球界では「お山の大将」みたいなもので、あしき伝統といわれるかもしれない。

しかし、中村や西武や巨人などで4番を打った清原和博あたりの世代まではそういう意識で打席に立っていたはずだ。そこがプロ野球の魅力になっていたと思うのだ。

考えてみてほしい。たとえば問題のDeNAのケースで、内村二盗のあと、中村がちょこんと右打ちなどをして1点追加したとしよう。

それで面白いだろうか。ほぼ勝負が決した七回4点差の二死一塁。そこで打順は3、4番となったときに、ファンを魅了するには一発ということにならないか。

■一発を狙っていいケース

主力打者といっても、常に一発を狙えるわけではない。堂々と一発を狙える状況はそんなにないのだ。だが、あのケースはまさに一発を狙っていいケースだった。

問題のDeNA―阪神戦は途中まで9―5という乱打戦だったし、それでなくても七回時点の4点差はDeNAにとってセーフティーリードではありません、という人もいると思うが、相手が巨人ならともかく打撃低迷の阪神だ。

総合的にみると中村の2軍落ちはやむを得ない。しかしこういうことが重なって、ますます「4番打者」という種族が絶滅に向かうとしたら、寂しい話ではないか。ひと昔前なら「中村が怒るもの無理はない。内村、考えろよ」と逆に指導された可能性が高い。

今はつなぎの野球がもてはやされて、ファンの方も中軸の進塁打を「野球を知っているね」とほめる。

■ファンを引きつけるフルスイング

ただし、それも状況次第。今回のようなケースで打者中村となったら、走者の内村に「走るなよ」とスタンドから声が飛ぶようであってほしい。

そしてもし二死一塁から中村が当てに行ってつなぎの打撃をしたら、ファンも拍手を送るのでなく、ブーイングを浴びせてほしいのだ。「おまえのそんなスイングを見にきたんじゃない」と。

中村のフルスイングなら、たとえ空振りでもファンは満足というものではないか。

それが野球に目が肥えているということではないだろうか。そんな目で野球を見るファンが増えたら、プロ野球はもっと盛りあがるのではないだろうか。プロ野球とファンがともに成長していくことが、私の考える理想である。

(広澤克実・野球評論家)