加賀見俊夫(19)恩人逝く

「後は100%君に任せる」
夢の場所育てることで報恩

第2パークの名称は後に東京ディズニーシー(TDS)に決まった。力強くその建設をけん引してきた高橋政知相談役は、80代半ばにさしかかり、さすがに体力の衰えが目立ち始めた。持病の心臓病も悪くなっていた。だが、都内の病院に入院しても、TDSのことが頭から離れないようだった。

見舞いに行くと、必ず「どうだい、シーは?」と尋ねる。進み具合を説明して「大丈夫ですよ」と答えると安心したようにうなずいた。

ある晩訪ねた帰り際、高橋さんは「後は100%君に任せる。思う存分やってくれ」と笑顔で手を振った。2000年1月31日とうとう逝ってしまった。86歳だった。

通夜・葬儀は密葬だった。生前、告別式など盛大にやるな、と言っていたが、後日お別れの会を開くことを決めた。私は「高橋さん、骨身を削って造ったパークに行きましょう」と亡骸に語りかけて車を先導し舞浜に向かった。

到着したのは閉園後の東京ディズニーランド(TDL)。正面から車が入りワールドバザールを抜ける。高橋さんがよく座ってパレードを見ていたベンチ。シンデレラ城の上にあがる花火を見ている嬉しそうな笑顔。パークの中には思い出が詰まりすぎている。色々な姿を思い出して泣けてきた。

車は建設中のTDS外周を回った。海のテーマパークに夢を賭けていた高橋さんは、まだ夢の途中にあるこの場所を見ずに逝った。夜空は満天の星だった。与え続けてくれた人だった。こういう人にはもう二度と出会えない。思い出が次々に浮かんできた。

1983年9月4日、高橋さんの古希の誕生祝いを閉園後のTDLで開いた。奥様の弘子さんもお招きした。舞台は「蒸気船マークトウェイン号」。お2人はマーチングバンドの先導で船着き場に到着。特別な料理にショーでもてなした後、ご夫婦だけでアメリカ河を1周した。こういう派手な特別扱いを嫌う高橋さんだったが、はにかんだような笑顔を浮かべていた。

にこにこして楽しんでおられた弘子さんがおっしゃった。「高橋は家庭を顧みずに仕事ひと筋でした。こんなに素晴らしいものを命懸けで造ったのですね」。それを聞いて私は胸が熱くなった。

高橋さんは婿養子で弘子さんは資産家のお嬢さん。高橋さんはTDLのために、その資産を使って漁民との交渉をはじめ、さまざまな出費をまかなった。絵画や骨董品を売り、ついに渋谷の神山町の屋敷も手放した。現在のニュージーランド大使館だ。弘子さんはひと言も文句を言わなかったそうだ。高橋さんは弘子さんが入院されたとき、病室にベッドを運びこみ、泊まりこんで看病した。

私は理論武装をして、しばしば高橋さんに具申した。論争もしたが、後々考えると、たいがい高橋さんの方が正しかった。発想のスケールが大きかった。TDLの交渉がのるかそるかの正念場のとき「加賀見、仕事がなくなったら一緒に屋台でも曳こうか」と言った。

TDSと東京ディズニーリゾートをしっかりと育てる。恩返しはそれしかない。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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