加賀見俊夫(15)冒険に挑む

「映画」をテーマに始動
新機軸が失敗すれば経営傾く

1988年4月に高橋政知社長が第2パーク構想を公表したとき、社内からも驚きの声が挙がった。すでにディズニー社から提案があったのだが、一部の役員しか知らない極秘事項だった。

「公表するのは時期尚早ではないか」と私は思った。何をテーマにどんなものを造るのか、こちらに具体案はない。ディズニー社との交渉も先の話だ。高橋社長は当時74歳。先々を考え、早めに将来像を固めたかったのだろう。

開園5年目のゲストは1200万人にのぼった。日本で初めてのテーマパークが成長軌道に乗ったのは明かだった。新しいアトラクションをいくつか導入して、そのたびに話題になった。ショーなどエンターテインメントを充実させ、ショップやレストランもリニューアルを進めた。

「よく成長してくれたな」と実感したのがパークで働くキャストたちだ。丁寧でフレンドリーなアメリカ流の対応に繊細で気配りのきいた日本流を加味し、ゲストの方々に高い評価をいただいた。マニュアルだけに頼らない。それぞれがパークという舞台でゲストを満足させるパフォーマンスを自発的に演じている。

さらなる進化を目指す設備投資も決まっていた。90年にはJR京葉線が全面開通する。東京駅と舞浜駅が直結するとアクセスがぐんと良くなる。東京ディズニーランド(TDL)の来園者がますます増えるのは確実だった。

そんな中、もうひとつのテーマパークを造るのは冒険だ。失敗すれば累積債務を一掃し安定してきた会社の経営が傾くリスクさえある。だが我々は冒険に挑む道を選んだ。30万坪弱の未利用の遊園地用地にTDLとまったく違うパークを建設するのだ。

ディズニー社の提案は映画のスタジオパークだった。89年5月、フロリダに新しくできた「ディズニーMGMスタジオ」のオープニングセレモニーに、社長を退いて会長になった高橋、後任社長で日本興業銀行出身の森光明、常務の私が出席した。

華やかさ、華麗さに目を見張った。私の記憶では隣のテーブルにオードリー・ヘップバーンがいた。あこがれの女優だ。私はこちんこちんになった。あの名作「ローマの休日」の印象そのままに見えた。とても美しく神々しい。好奇心旺盛な私も近寄ることができなかった。

夢見心地でセレモニーを終え、パークを見学した。さすがはディズニーで魅力的なアトラクションが次々に現れる。だが「映画というテーマが日本で受け入れられるのかな」と感じた。もちろん日本にも映画ファンはいるが、米国の産業は桁違いに大きい。アメリカの人々にとって映画は特別な存在だ。文化の発信源であり心のふるさとだ。

高橋も森も同じように感じたそうだ。加えて、舞浜とフロリダでは環境が異なる。フロリダは「ディズニーの国」だ。マジック・キングダムやエプコットなどの施設と並んでMGMスタジオがあり、ゲストは長期滞在しながら何度も来園する。舞浜ではそうはいかない。

我々の腹が固まらないうちに90年7月、交渉が始まり、10月にディズニー社からプレゼンテーションを受けた。外堀はどんどん埋まっていく。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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