加賀見俊夫(12)TDL開園

「本物を造れ」の大号令
人材、資金、技術全て総動員

米国での交渉は1週間続き、張り詰めた空気の中、さまざまな項目に関して緊迫したやり取りがあった。

合意に至ったのは1979年4月30日である。パークの設計、建設、運営に関する詳細な契約だ。プロジェクトの開発、メンテナンス、宣伝、商品、飲食、エンターテインメント、スポンサーなどについて、ディズニー社のノウハウ提供を柱とする全32項目に及ぶ。

ディズニー本社でカードン・ウォーカー社長とオリエンタルランドの高橋社長とが基本契約に調印した。後ろで正装し蝶ネクタイをしたミッキーマウスが「良かったね」という表情で見守っている。舞浜に決まってから4年5カ月が過ぎていた。長かった。

それから83年4月15日の開園までの4年間、今度は短く感じた。忙しすぎたのだ。私は81年6月に取締役総務部長兼人事部長、83年2月には総務部長兼開発部長になった。仕事は次々にわいてきた。

開園までにディズニーのあらゆる運営ノウハウを吸収しようと社員が1年から1年半、米国で研修した。日米両社で10人の社員を選抜した。実はそのなかに、私も入っていたが最終段階で外れた。高橋社長の意向だった。「私の考えを代弁できる人間をそばに置きたい」と待ったをかけたのだ。研修に赴いた9人を社内で「オリジナル・ナイン」と呼ぶ。私は落胆せず、かえって「日本にいて準備万端整えるぞ」と奮い立った。

中途採用などで社員もどんどん入ってきた。レジャー施設で働いたことのある人材は採らなかった。かつていた施設の接客のクセが顔を出し、ディズニーのスタイルをおろそかにしがちになる。白紙から育てたかった。

パークの建設も順調に進んでいた。ディズニー社のクリエーターやスタッフが来日して、日米協働で入念に造り込んでいく。彼らの想像力に目を見張った。高橋社長が「金を惜しむな、本物を造れ」と大号令をかけ、当初1千億円を見込んでいた総工費は結局、1800億円になった。

アトラクションには随所に日本メーカーの先端技術が生きている。形状、作動、快適性など多様な注文に見事に応えてくれた。ハイテク施設を懐かしいローテク設備に装うのも技術なのだ。

83年3月の竣工式で司会をした際、パーク建設に汗を流してくれた十数社の建設会社の代表者のうち、お二方の名前を読み飛ばしてしまった。翌朝一番に両社に謝りに行ったが、陰で支えてくださった方々への感謝を忘れるな、と肝に銘じた。

開園の日、1万8千人のゲストを迎えた。オリエンタルランドができてから23年の歳月が流れていた。晴れがましい笑顔が並ぶ来賓席で涙ぐんでいる初老の男性がいた。川崎千春さんだ。

夢と魔法の国の誘致の発案者である。高橋さんとともに幾多の難局を必死で乗り越えてきた功労者だが、実現を待たずに社長の座を退いた。私を京成電鉄に採用してオリエンタルランドに導いた恩人でもある。川崎さんの胸中を思って胸が熱くなった。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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