加賀見俊夫(11)基本交渉

難局に「こんちくしょう」

高橋社長、米帰り私に漏らす

 

やっとディズニーランドの誘致が決まったものの、第1次石油ショックの大波をかぶって日本経済は一気に不況のどん底に突き落とされた。親会社の京成電鉄と三井不動産の経営状況も大きく変わり、結果として弱小会社のオリエンタルランドがテーマパーク建設という大事業にほぼ単独で立ち向かうことになった。

 

米国ディズニー社との交渉は何度も困難にぶつかった。中でもロイヤルティー料率と長期の契約期間については、社内外からいろいろな意見が飛び交った。

 

不動産事業部長だった私は45年間の契約期間は決して長いとは思わなかった。契約期間中、ディズニー社は常に新しいノウハウで次のコンテンツを生み出す。それを吸収できるメリットは大きいからだ。テーマパークのように進化し続ける事業には長期的な関係が必要だ。

 

社内外の反対をクリアして交渉を前に進めなければ、これまでの苦労が水の泡になってしまう。「日米両社が納得できるまで粘り強く交渉をして、パーク建設を前進させよう」。消極論は次第に薄れ、社内では、そういう空気が優勢になってきた。

 

そんな折、衝撃的な出来事が起きた。ディズニーランドの誘致に情熱を燃やしていた川崎千春がオリエンタルランドの社長を退き、京成の経営に専念することになったのだ。1977年8月のことだ。巨額の投資が要るうえ、当座は利益を生まないテーマパークの建設より、京成の経営に専念すべき状況だった。「夢と魔法の国」の建設も大切だが、本業を立て直すのが先決だった。

 

これを受けて社長は当面、空席にして、専務の高橋政知が代表取締役に就きディズニー社との交渉に当たることになった。漁業補償交渉と埋め立て事業の調整を終え、高橋さんは「お役御免だよ」と話していた。しかし難局を打開できるのはこの人しかいない。「浦安の海を埋め立てて国民の幸せに貢献する素晴らしいものを創る、と僕は漁民たちに約束したからね」と言って面倒な役回りを引き受けた。

 

すでに77年3月に東京ディズニーランドの名称だけは決まっていた。だが交渉は暗礁に乗り上げたまま。高橋さんは事態の打開に向けて精力的に動き出した。社長に就いた翌月の78年9月、米国に交渉再開の打診に赴いたが、話はまとまらない。羽田空港に戻ったところを出迎えると「加賀見、飲もうよ」と誘われ帝国ホテルのバーで看板まで飲んだ。酒が無類に強い高橋さんが酔いを発して「こんちくしょう」とうめくのを聞いた。

 

契約条件などを巡って日本側の意見はまとまらず、ディズニー社からは優柔不断にみえたのだろう。一本気の高橋さんには耐えがたいことだった。社長は孤立無援に近かった。ここが東京ディズニーランド実現か断念かの分かれ目だ。調整の後、高橋社長に一任することでようやく日本側の対応がまとまり、実現に向けて舵が切られた。ロイヤルティーの範囲や45年の契約期間など交渉のテーブルに載せる条件が整ったのだ。

 

79年1月、日米両社がカリフォルニア州バーバンクにあるディズニー本社で最終的な詰めの交渉に臨んだ。緊迫した会議だった。

 

(オリエンタルランド会長兼CEO)

 

 

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Bubbles of river disappear rapidly.

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