加賀見俊夫(10)ディズニー誘致

ライバル富士山に勝つ

上空から立地条件アピール

 

ディズニーランド誘致の準備は手探りで進めていたが、肝心の米国ディズニー社との交渉はまだ白紙だった。誘致の発案者の川崎千春が、オリエンタルランド創設の翌1961年に、京成電鉄社長として初めてディズニー社を表敬訪問した。だが、誘致構想はまだ夢のような話で、ビジネス交渉などできるはずもない。

 

当時、日本はビジネスパートナーとして認識されておらず、高度経済成長を経ても、著作権など権利関係に厳しいディズニー社は日本の会社を相手にしてくれなかった。

 

その後、埋め立て工事や都市計画策定など、誘致の準備は次第に整ってきた。オリエンタルランドなりの施設概要を固め、海外視察にも熱心だった。欧米の遊園地やレジャー施設を精力的に見て回った。だが「これだ」という候補は見当たらなかった。

 

例えばデンマークのチボリ公園は素晴らしいレジャーランドだ。昼間は親子連れの来園者の笑みがあふれる場所。だが、夕方以降は大人のパークに表情を変える。どの施設も日本に持ってくるには難点があると私たちには思えた。

 

やはりディズニーランドの魅力が圧倒的だった。第一、明るくて健康的だ。家族で楽しめる夢があふれるテーマパーク。でもディズニー社は振り向いてくれない。

 

潮目が変わったのは71年、フロリダのウォルト・ディズニー・ワールドが開園してからだ。ロサンゼルスのパークとの両輪が動き出して、やっと日本に目を向けてくれたのだ。

 

社内は「さあ、やるぞ」と勇み立った。ところが、強力なライバルが現れた。大手のデベロッパーが富士山の裾野にディズニーランドを誘致する計画という。「富士山じゃ、かなわないな」と社内に一転、悲観論が漂った。

 

74年12月にディズニー社のドナルド・テイタム会長、カードン・ウォーカー社長らの視察団が来日、まず富士山の裾野を見て翌日、浦安地区に来た。川崎社長、高橋専務らが午前中、帝国ホテルでプレゼンテーション。大型バスで舞浜にお連れした。

 

「都心から至近距離」がセールスポイントだが、まだ京葉道路はなく、昼間の一般道は渋滞する。何とか短く感じさせようと車中に豪華なサンドイッチを用意した。

 

私は舞浜にいて何日か前から浜辺の清掃に励んでいた。埋め立ては終わっていた。きれいな海を見てもらいたい。だが、波に吹き寄せられた瓦礫やゴミが浜辺を覆っていた。社員は当時50~60人。肩書に関係なく総動員で真冬の寒さの中、清掃に励んだ。

 

ヘリコプターで舞浜上空を飛び、立地の良さをアピールするなど懸命だった。後で分かったことだが、ディズニー社はすぐに「舞浜」と決めていた。

 

その決定要素の一つを知り「さすがだな」と思った。日本人にとって富士山は特別の山だ。パークに来ても富士山を見てしまう。見えないとがっかりする。富士山ばかり気にしてディズニーの魔法にかかりにくいのだ。

 

決め手はやはり立地条件。都心から約10キロ。可処分所得が多い人々が大勢住むエリアにある。決定の報に社内は沸き立ったが、それから開園までが長かった。

 

(オリエンタルランド会長兼CEO)

 

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Bubbles of river disappear rapidly.

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