加賀見俊夫(21)両輪動き出す

世界観の変更 首振らず
TDS施策次々 5年で開花

2001年、東京ディズニーシー(TDS)は無事、開園にこぎ着けた。アトラクション23、物販ショップ32、レストランなど飲食施設33。海をテーマに冒険とイマジネーションで彩った。時間と手間をかけて造りあげた。

「大人も楽しめるテーマパーク」を標榜し、東京ディズニーランド(TDL)と違って一部のレストランではアルコールも飲める。アトラクションやショーの質の高さはTDLと同様だが、パークの異国情緒溢れる雰囲気など、また違った魅力を打ち出した。建築物やアトラクションに最新のハイテクを駆使しているけれど、ゲストをロマンと郷愁の世界に誘うため、わざわざローテクに見せている。

ディズニー社との長きにわたるコンセプトワーク、それを実現させるための創意と工夫。プレオープンを終えた後も、グランドオープンまで細かな改善と微調整を施した。

パークを歩く時は、入り口で入場を待つゲストのみなさんの様子、出口から出るときの表情をさりげなく観察する。長年の習慣だが、ドキドキする半面、楽しくもある。ゲストの笑顔を見ると心が弾む。パークの空気を肌で感じることができるのは、この仕事の醍醐味だ。

私には施設の一つ一つに愛着がある。ヴェネツィアの運河をゴンドラに乗って周遊する「ヴェネツィアン・ゴンドラ」。ゴンドリエと呼ぶ漕ぎ手が朗々と歌を歌う。「センター・オブ・ジ・アース」はフランスのSF作家、ジュール・ヴェルヌの作品の世界が広がるアトラクションだ。TDSの中央にそびえ立つプロメテウス火山の中を地底走行車に乗って探検する。

もう少し紹介したい。「ブロードウェイ・ミュージックシアター」では、格調高い劇場体験ができる。ここでしか見られない本格的な歌と踊りのライブショーを毎日公演中だ。

開園当初、テーマパーク=TDLという確固たるイメージが定着していたことから、TDSの持つ独自の世界観がなかなか浸透しなかった。入場者数は順調だったが、思っていた以上の伸びをみせない。TDLの延長ととらえられることも多かった。世界で唯一の海をテーマにしたディズニーパークとして、時間をかけて受け入れていただく必要があった。

経営会議などの席で「TDSのコンセプトを変えたらどうか」との意見も出た。だが私は頑として首を縦に振らなかった。コンセプトの変更は逆効果だと確信していた。苦労を重ねて創ったから変えないというのではない。トップの経営判断だ。長年パークを見続けてきた私の感性が、そう訴えていた。

「大丈夫。TDLとTDSの両輪は必ず確実に回り始める」と主張した。思った結果が出せなければ会社を辞めるとまで宣言した。本気でそう考えていた。

もちろん手は打った。04年に夜のエンターテインメントを入れ替え、05年7月にはTDS開園後、初めての大型投資となる「レイジングスピリッツ」を導入した。360度ループするローラーコースターだ。そして06年、開園5周年の年に入場者数は2パークで過去最高の2581万人にのぼった。両輪が確かに回り始めた。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

加賀見俊夫(20)TDS開園

天も祝福、空晴れ渡る
長く苦しい交渉、感慨無量

2001年9月4日、東京ディズニーシー(TDS)は開園の日を迎えた。「長くて曲がりくねった道だった」とつくづく思った。さまざまな感慨が浮かんでは消えた。テーマパークのコンセプトが海に決まってから開園までほぼ10年。振り返ってみると、私には10年間、公私の「私」がなかった。どうすればTDSを最高のものにできるのか。そのことがずっと頭から離れなかった。

オリエンタルランドもディズニー社も自社の利害だけを考えていたわけではない。ゲストのみなさんに喜んでいただくことを最優先に考えて果てのない、苦しい交渉を続けてきたのだ。苦労した甲斐があった。

さあ、グランドオープンだ。気持ちが高ぶる。「平常心で臨もう」と自分に言い聞かせた。いつものように朝は和食を食べて出かけた。あいにくの雨模様だった。

大きなイベントのときはいつもそうだが、パークは慌ただしかった。今日は別格のビッグイベントである。キャストたちは落ち着いて最終的な準備を進めていた。TDSは見事に仕上がっていて、美しく清潔だった。

南欧の古くて風格のある港町をイメージしたメディテレーニアンハーバー、20世紀初頭のアメリカの港町を再現したアメリカンウォーターフロントなど7つの個性豊かな港を再現したテーマポートにさまざまなアトラクションを配置してある。メーンコンセプトには「冒険とイマジネーション」を掲げた。

「東京ディズニーシーの開園を宣言いたします」。私の言葉を合図にプロメテウス火山が噴火し、花火が盛大に打ち上がった。同時にS.S.コロンビア号が汽笛を鳴らし、チャペルの鐘が一斉に鳴り響いて祝福した。

セレモニーが始まると、上空の雲が切れて、間からさあっと太陽の光が差し込んできた。雲がだんだん消えていく。まるでファンタジー映画の演出のように、陽が輝き、パークがパッと明るくなった。魔法がかかったんだと思った。

マイケル・アイズナー会長、ロイ・E・ディズニー副会長をはじめ米国ディズニー社の幹部たちも駆けつけた。第2パーク構想を巡る日米交渉が難航を重ねた際、米国側の交渉責任者で、大変なご苦労をされたフランク・ウェルズさんの姿がないのが悲しかった。彼は1994年4月、米国でヘリコプターの事故で亡くなられていた。

奇跡のような天気の回復に、アイズナー会長たちは「ウォルトが来た!」と心の中で叫んだそうだ。新しいパークの門出を祝ってディズニー社の創業者、ウォルト・ディズニーが天から祝福に降りて来たと感じたのだろう。

私には別の人が天から見守ってくれていると思えた。セレモニーの後の記者会見を終えると、ひとりで車に乗り込んだ私は高橋政知さんが眠る東京・府中市の多磨霊園に向かい、墓前にしっかりと手を合わせた。

9月4日は高橋さんの誕生日だった。偶然の導きによってこの日になったのだが、最終的には社長の私が決めた。テーマパークの仕事は感性とハートが何よりも大事なのだ。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

加賀見俊夫(19)恩人逝く

「後は100%君に任せる」
夢の場所育てることで報恩

第2パークの名称は後に東京ディズニーシー(TDS)に決まった。力強くその建設をけん引してきた高橋政知相談役は、80代半ばにさしかかり、さすがに体力の衰えが目立ち始めた。持病の心臓病も悪くなっていた。だが、都内の病院に入院しても、TDSのことが頭から離れないようだった。

見舞いに行くと、必ず「どうだい、シーは?」と尋ねる。進み具合を説明して「大丈夫ですよ」と答えると安心したようにうなずいた。

ある晩訪ねた帰り際、高橋さんは「後は100%君に任せる。思う存分やってくれ」と笑顔で手を振った。2000年1月31日とうとう逝ってしまった。86歳だった。

通夜・葬儀は密葬だった。生前、告別式など盛大にやるな、と言っていたが、後日お別れの会を開くことを決めた。私は「高橋さん、骨身を削って造ったパークに行きましょう」と亡骸に語りかけて車を先導し舞浜に向かった。

到着したのは閉園後の東京ディズニーランド(TDL)。正面から車が入りワールドバザールを抜ける。高橋さんがよく座ってパレードを見ていたベンチ。シンデレラ城の上にあがる花火を見ている嬉しそうな笑顔。パークの中には思い出が詰まりすぎている。色々な姿を思い出して泣けてきた。

車は建設中のTDS外周を回った。海のテーマパークに夢を賭けていた高橋さんは、まだ夢の途中にあるこの場所を見ずに逝った。夜空は満天の星だった。与え続けてくれた人だった。こういう人にはもう二度と出会えない。思い出が次々に浮かんできた。

1983年9月4日、高橋さんの古希の誕生祝いを閉園後のTDLで開いた。奥様の弘子さんもお招きした。舞台は「蒸気船マークトウェイン号」。お2人はマーチングバンドの先導で船着き場に到着。特別な料理にショーでもてなした後、ご夫婦だけでアメリカ河を1周した。こういう派手な特別扱いを嫌う高橋さんだったが、はにかんだような笑顔を浮かべていた。

にこにこして楽しんでおられた弘子さんがおっしゃった。「高橋は家庭を顧みずに仕事ひと筋でした。こんなに素晴らしいものを命懸けで造ったのですね」。それを聞いて私は胸が熱くなった。

高橋さんは婿養子で弘子さんは資産家のお嬢さん。高橋さんはTDLのために、その資産を使って漁民との交渉をはじめ、さまざまな出費をまかなった。絵画や骨董品を売り、ついに渋谷の神山町の屋敷も手放した。現在のニュージーランド大使館だ。弘子さんはひと言も文句を言わなかったそうだ。高橋さんは弘子さんが入院されたとき、病室にベッドを運びこみ、泊まりこんで看病した。

私は理論武装をして、しばしば高橋さんに具申した。論争もしたが、後々考えると、たいがい高橋さんの方が正しかった。発想のスケールが大きかった。TDLの交渉がのるかそるかの正念場のとき「加賀見、仕事がなくなったら一緒に屋台でも曳こうか」と言った。

TDSと東京ディズニーリゾートをしっかりと育てる。恩返しはそれしかない。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

加賀見俊夫(18)社長就任

上場を目指し陣頭指揮
経理の経験生き、念願の1部

1995年6月に社長に就いた。京成電鉄との兼務時代から数えてオリエンタルランドに来て35年の歳月が流れていた。身に余る大役に責任の重さを感じたけれど「会社をつぶしてはならない」とまず心に誓った。社員を路頭に迷わせてはいけない。

第2パークのコンセプトづくりは佳境に入ろうとしていた。就任に際して「5つのプロジェクト」を発表した。舞浜エリアを都市型リゾートに育て上げる。21世紀に向けた経営方針を掲げたのだ。

具体的には第2パークの建設、舞浜駅前開発、ホテル事業への進出、新交通システムの導入、そして株式上場。どれも後に東京ディズニーリゾートと名付けたリゾート開発の重要な構成要件だ。

まず始動させたのが株式上場。社長としての最初の大きな仕事だった。90年ごろから水面下で準備を進めていた。今後、巨額の投資が見込まれる多くのプロジェクトを進めるには借入金だけではリスクが大きすぎる。何しろ第2パークだけで投資額は3千億円を超えるとみられていた。

社員持ち株会に新株を発行。94年には取引金融機関20社、スポンサー企業23社に第三者割当増資を行った。上場戦略を陣頭指揮しながら、かつて苦労した銀行回りの日々が胸によみがえった。

当座の運転資金を借りるため、私は銀行のほか全国各地の農協や信用農業協同組合連合会を行脚した。特産品を収穫した直後が資金が潤沢だと聞き、桃が終わると岡山、みかんが終わると静岡という具合だった。沖縄にも足を延ばした。

ディズニー社と東京ディズニーランド(TDL)誘致の基本契約を結んだ後、高橋社長はパークの建設資金・調達にも率先して動いた。当時、千葉県の副知事で、後に知事になられた沼田武さんは、一緒にある銀行に行ったとき、融資を渋る銀行幹部に「東京ディズニーランドの実現には県が全責任を持ちます。ご迷惑はかけません」と言い切ってくださった。

悪戦苦闘が続いた建設資金調達の救世主は日本興業銀行だった。重厚長大産業の育成に主眼を置いていた菅谷隆介副頭取が「心の産業ですね」とテーマパークに理解を示してくださり、興銀を中核として協調融資団ができた。

資金集めに苦心惨憺してきた貧乏会社が株式上場を目指しているのだ。私は東京証券取引所の第1部に上場したいと考えていた。だがハードルが高い。テーマパークを運営する会社の上場申請は過去に例がない。

96年にまず東証第2部、98年に第1部に上場する目標を立てたが、思いがけない追い風が吹いた。ヒアリングを終えた段階で東証が上場の基準を緩和したのだ。さらに増資すれば、2部を経ずに1部に上場できるという。「経理畑で良かった」。私はそう思った。いろいろな会社の数字を吟味して意味を考える習慣が身についているのだ。それが上場実現の武器になった。

96年12月11日に東証1部に上場した。新基準の適用第1号だ。初値は8850円。売り出し価格が8050円だから投資家の評価は高く、順調な滑り出しだ。「苦しい時代をぐっと我慢してくれた京成電鉄と三井不動産に恩返しができた」。私の頭に最初に浮かんだのは、そのことだった。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

加賀見俊夫(17)コンセプト議論

「モア ロマンティック!」
妥協は許さぬ 思わず出た言葉

海のテーマパークのコンセプトを固める議論が始まろうとしていた。ディズニーらしさを前面に押し出しながら、どうやって日本人の琴線に触れる施設を造りあげるのか。これが一番の大仕事だ。何しろ90%以上のゲストが日本人なのである。

私は1993年6月に副社長に就任していた。94年6月、社内のさまざまなセクションから5人の社員を選抜して「コンセプトチーム」を立ち上げた。ディズニー社のクリエーターたちと侃々諤々の熱い議論を交わすのが狙い。大げさに言えば日の丸を背負っている。責任は重い。

高橋政知会長は「君たちは日本代表だぞ!」と檄を飛ばした。私も「とにかく全力を尽くして頑張ってこい」とエールを送った。それから1年8カ月間にわたって濃密な議論を繰り広げた。

チームがアメリカに渡って2カ月後、高橋会長と私も合流して、ディズニー側に我々の思うところを伝えた。議論を聞いていて、私は思わず言った。「モア ロマンティック!」。ゲストが何度も来たくなる本物のテーマパークのためには妥協は許されない。必死で真剣だった。

コンセプトチームの頑張りには目を見張るものがあった。日米両社でコンセプトを具体化する中で、最も時間を費やしたのがアイコン(パークを象徴する建造物)だった。はじめは「灯台でどうか」と話を進めていた。だが米国と日本ではイメージが異なる。アメリカでは灯台は冒険の守り神。でも日本では違う。船の航行の安全を守る重要な存在だけれども、孤独、哀愁、寂寥の印象も付きまとう。ディズニー社のスタッフを日本の灯台に案内したりして、時間をかけて検討を重ねた。

その結果、アイコンは大きな水の惑星をイメージした「ディズニーシー・アクアスフィア」に決まった。高橋会長の強い意向だった。宇宙から見た地球は宝石箱のように輝き、生命力に満ちているとのリポートを読んで「パークにも生命の輝きと感動を」というのだ。ロマンティストの会長らしい発想だ。直径8メートル。インパクトのある、素晴らしいものに仕上がった。

コンセプトをパークの具体的な計画に結実させていく作業は予想通り長引いたが、楽しい仕事もあった。東京ディズニーシー・ホテルミラコスタの建設だ。初めてのパーク一体型のホテルである。開園と同時の開業を目指した。

ミラコスタは「海を眺める」を意味するイタリア語。ホテルの目の前に広がるメディテレーニアンハーバーのモデルになったのはイタリアのポルトフィーノ。私も現地に赴いて品格ある高級ホテル、スプレンディードに泊まった。とても居心地が良く、のんびりと幸せな気分に浸った。

船で海に出て町並みを眺めた。古き良き時代のイタリアのたたずまいを守る港町だ。海沿いに暮らす人々のアパートの窓辺には色とりどりのハンカチが翻っていた。漁に出て戻ってきた夫を出迎える妻が飾るのだ。こういう素晴らしい雰囲気をパークやホテルの外壁に再現しようと、趣向を凝らした。

いよいよ建設の最終案をとりまとめる段階に入って、多忙な中、私の身辺はにわかに慌ただしくなった。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

加賀見俊夫(16)代案は七つの海

浦安に再び「海」を創る
日本のゲスト魅了する別世界

基本コンセプトを映画のスタジオパークにすることを前提に、1991年1月、オリエンタルランド社内に「第2パーク検討委員会」をつくり本格的な議論を始めた。

「東京ディズニーランド(TDL)に匹敵する魅力的なものにしたい。日本のゲストが満足できる、何度でも来園したくなるパークを造る」。それがメンバーの総意だ。結果、委員会が出した結論は「原点に立ち返ろう、白紙に戻し交渉をやり直そう」だった。前年から病気療養をしていた高橋政知会長が復帰したのが思い切った決断の背景だった。

91年9月、ディズニー社のフランク・ウェルズ社長を筆頭に幹部が来日し、帝国ホテルで会議を開いた。席上、高橋会長は突然の路線変更を率直に謝罪した。ディズニー社は驚き、落胆した。ウェルズ社長の表情が忘れられない。

彼はつぶやいた。「我々の努力はシシュポスの神話だったのか」。神の怒りに触れたシシュポスは罰として大きな石を山の頂上に運ぶよう命じられる。やっとの事で運び終えると石もろとも地上に突き落とされ、その苦役を何度も繰り返すのである。つまり壮大な徒労という意味だ。

第2パーク構想は一から練り直しとなった。「スタジオパークで決まりだろう」との観測が広がっていた社内には動揺が走った。追い打ちをかけるように、高橋の後任社長の森光明が心筋梗塞で急逝した。92年1月のことだ。突然の訃報に私は言葉を失った。高橋会長も衝撃を受けたが、自ら社長に復帰して陣頭指揮を執ることを決めた。

こうした混乱の中でも、ディズニー社の対応は素晴らしかった。2月にウェルズ社長が再来日して、新たな構想を提示した。「セブン・シーズ(七つの海)」。海を主役に据えたものだった。「海のテーマパーク」。高橋のほか、千葉県庁を退職して副社長に就いていた加藤康三、そして私も心を動かされた。

浦安沖の海を埋め立てて造成した土地に再び海を造るのだ。TDLとどちらに行くのか、ゲストが真剣に迷うようなパークにしたい。TDLでは体験できない別世界を創り上げるのだ。日本は海に囲まれ、ゲストに親しみやすい。「素晴らしいコンセプトになるぞ」と確信した。

ディズニー社とコンセプトやビジネス条件を詰める検討作業が始まった。92年7月、高橋社長と専務に就いていた私が渡米して臨んだ会談には、マイケル・アイズナー会長らが出席し、第2パーク構想の概要が示された。そこに今の東京ディズニーシーの根幹はすべて入っている。だが、そのアイデアに日本人の感性や日本的な文化の要素をいかに盛り込むかが大事なのだ。

そのためには、ディズニー社に日本のゲストが満足する「日本流」をより深く理解してもらうことが肝心だ。新しいパークの成功は、そこにかかっている。第2パーク構想はようやく具体的に動き始めた。アイデアをコンセプトにする議論は難航が予想された。コンセプトをパークの設計や施設に落とし込んでいくには、さらに時間と手間がかかる。「これからが本当の勝負だ」と気を引き締めた。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

加賀見俊夫(15)冒険に挑む

「映画」をテーマに始動
新機軸が失敗すれば経営傾く

1988年4月に高橋政知社長が第2パーク構想を公表したとき、社内からも驚きの声が挙がった。すでにディズニー社から提案があったのだが、一部の役員しか知らない極秘事項だった。

「公表するのは時期尚早ではないか」と私は思った。何をテーマにどんなものを造るのか、こちらに具体案はない。ディズニー社との交渉も先の話だ。高橋社長は当時74歳。先々を考え、早めに将来像を固めたかったのだろう。

開園5年目のゲストは1200万人にのぼった。日本で初めてのテーマパークが成長軌道に乗ったのは明かだった。新しいアトラクションをいくつか導入して、そのたびに話題になった。ショーなどエンターテインメントを充実させ、ショップやレストランもリニューアルを進めた。

「よく成長してくれたな」と実感したのがパークで働くキャストたちだ。丁寧でフレンドリーなアメリカ流の対応に繊細で気配りのきいた日本流を加味し、ゲストの方々に高い評価をいただいた。マニュアルだけに頼らない。それぞれがパークという舞台でゲストを満足させるパフォーマンスを自発的に演じている。

さらなる進化を目指す設備投資も決まっていた。90年にはJR京葉線が全面開通する。東京駅と舞浜駅が直結するとアクセスがぐんと良くなる。東京ディズニーランド(TDL)の来園者がますます増えるのは確実だった。

そんな中、もうひとつのテーマパークを造るのは冒険だ。失敗すれば累積債務を一掃し安定してきた会社の経営が傾くリスクさえある。だが我々は冒険に挑む道を選んだ。30万坪弱の未利用の遊園地用地にTDLとまったく違うパークを建設するのだ。

ディズニー社の提案は映画のスタジオパークだった。89年5月、フロリダに新しくできた「ディズニーMGMスタジオ」のオープニングセレモニーに、社長を退いて会長になった高橋、後任社長で日本興業銀行出身の森光明、常務の私が出席した。

華やかさ、華麗さに目を見張った。私の記憶では隣のテーブルにオードリー・ヘップバーンがいた。あこがれの女優だ。私はこちんこちんになった。あの名作「ローマの休日」の印象そのままに見えた。とても美しく神々しい。好奇心旺盛な私も近寄ることができなかった。

夢見心地でセレモニーを終え、パークを見学した。さすがはディズニーで魅力的なアトラクションが次々に現れる。だが「映画というテーマが日本で受け入れられるのかな」と感じた。もちろん日本にも映画ファンはいるが、米国の産業は桁違いに大きい。アメリカの人々にとって映画は特別な存在だ。文化の発信源であり心のふるさとだ。

高橋も森も同じように感じたそうだ。加えて、舞浜とフロリダでは環境が異なる。フロリダは「ディズニーの国」だ。マジック・キングダムやエプコットなどの施設と並んでMGMスタジオがあり、ゲストは長期滞在しながら何度も来園する。舞浜ではそうはいかない。

我々の腹が固まらないうちに90年7月、交渉が始まり、10月にディズニー社からプレゼンテーションを受けた。外堀はどんどん埋まっていく。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

加賀見俊夫(14)新機軸

5周年「第2パーク」発表
運が味方 ゲスト数伸びる

「1千万人によく届いたなあ」。オリエンタルランドの社内には安堵感が広がった。

1年目には休園日が30日もあった。今と比べると、アクセスも悪かった。JR京葉線は開通しておらず、舞浜駅がない。電車で来るゲストは営団地下鉄東西線の浦安駅から専用バスに乗る。

こんな悪条件を吹き飛ばしたのは、時間とお金をかけて本物を造ったからだ。「運も味方してくれたなあ」と思う。ディズニー社との交渉が長引いて足かけ5年を費やしたことで、石油ショックの余波が消えて景気が上向いた。人々の意識が変わる潮目でもあった。政府の意識調査では、1983年を境に物の充足から心の充足に国民の欲求が変わった。安らぎや楽しさや心の満足を求めるニーズに東京ディズニーランドが応えた。

行政の支援も大きかった。70年代から千葉県は産業の活性化に精力的に取り組んでいた。成田空港、東京湾横断道路、幕張新都心計画、そして東京ディズニーランド。行政のバックアップがなければ、都心に近いフラットで広大な敷地は入手できなかった。

さあ、2年目だ。世間では「パークはそのうち住宅地に変わってしまうだろう」という冷ややかな噂が途切れなかった。あるシンクタンクは2年目の来園者は750万人、3年目は危機的なレベルになるという予測を出した。

85年春から茨城県つくば市で国際博覧会が開かれることが決まっていた。つくば博(国際科学技術博覧会)だ。3月17日から9月16日まで半年間続く長期のイベントだ。

社内には「ゲストを奪われるのでは」との危機感と「イベントの性格が違うから大丈夫」という声があった。私は「共存共栄でゲストは増えるはず」と強気の読みをしていた。つくば博を目当てに全国から来る人たちがパークに立ち寄らずに帰るわけがない。

とはいえ博覧会に対抗する魅力アップの戦略は欠かせない。つくば博の開幕8日前の3月9日、その後長年にわたり人気を博す「東京ディズニーランド・エレクトリカルパレード」を導入した。光と音が彩る夜のパレードだ。

色とりどりの電飾と心が浮き立つ音楽に合わせて歌い、踊るディズニーのキャラクターを乗せたフロート(台車)が次々にやって来る。近くで見ようと、明るいうちから場所取り合戦が起きた。

開園以来、初めてアトラクションも新設した。「マジック・ジャーニー」だ。日本初の70ミリ大型プロジェクターを採用、3D映像が楽しめる。結局、パークも博覧会もにぎわった。やはり共存共栄だったのである。2年目、3年目のゲストも1千万人を超えた。

87年には大型アトラクション「ビッグサンダー・マウンテン」を登場させた。以後もショーの導入や改良を進めるなど毎年のように新機軸を打ち出して、ゲストの数を順調に伸ばした。

88年4月、開園5周年を迎えて開いた記者会見で高橋社長は第2パーク構想を発表した。それが東京ディズニーシーに結実するのだが、2001年9月のグランドオープンまでの道のりは長かった。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

加賀見俊夫(13)目標1千万人

「いける」と「無理」交錯
中傷よそに達成 どっと疲れ

開園の大仕事を終え、ひと安心したのもつかの間、いろいろな批判がわき起こった。まずメディアをにぎわした「お弁当禁止」へのさまざまな意見だった。「お母さんの楽しみを奪うな」との批判もあった。私たちは「お母さんも一緒にパークで楽しみ、レストランで食事を楽しんでください」と呼びかけた。

禁止したわけではない。正面入り口の隣にお弁当が食べられるスペースを用意したが、パークの中ではご遠慮いただくことにした。夢と魔法が彩る非日常の空間に、ビニールシートを敷いてお弁当を広げる日常の光景が現れては、魔法が解けてしまうからだ。

ゲストのみなさんの不満もメディアの批判も間もなく消えた。1度来ていただくと、おにぎりは似合わないと分かるのだ。

なかなか消えなかったのが「数年でつぶれる」との冷ややかな見方だった。「こんな大きな遊園地が長続きするはずがない」「同じ遊園地に何度も行く人なんかいない」との声だ。オリエンタルランドは「開園1年で1千万人」の来園者目標を公表していたので、冷ややかな声はよけいに大きくなった。

レジャー業界では破天荒な数字だ。何しろ当時、首都圏の主要遊園地の年間来園者を足しても1500万人程度。「鉛筆をなめて作った数字だろう」というメディアもあった。もちろん好意的な報道もあったが、広報担当だった私は辛口の批判の方をよく覚えている。

記憶にあるのは開園前の取材。写真週刊誌から高橋政知社長に依頼が来て、私も同席した。辛口の質問はなかった。カメラマンが社長にバンザイをしてくださいという。「開園バンザイ」と記事を締めくくるのだと思った。ところが……。

発売された週刊誌を開いて「うわっ」と叫んた。バンザイ写真とともに紙面に躍ったキャプションは「倒産宣言」。両腕を持ち上げてお手上げというわけだ。社長は面白がったが、私は激怒して発行元の出版社に抗議に行こうとして止められた。

その社長も取材の甘い批判記事を載せた経済誌の取材には二度と応じなかった。ゆえなき誹謗や中傷に対しては闘うぞ、と私は燃えていた。

4月15日の開園からにぎやかな夏休みが過ぎ、秋が来た。来園者数は順調に伸びて、9月には500万人目のゲストを迎えた。アトラクション32、レストラン27、ディズニーのキャラクターグッズなどを扱うショップ39。コンテンツには自信があった。だが1千万人は非常に高いハードルだ。社内では「いける」との観測と「無理かな」という弱気な見方が交錯した。目標に届かないと、どんな批判を浴びるか分からないし、パークの先行きに暗雲が垂れこめる。

年が明けて84年になった。年末年始のイベントが終わり、寒さが厳しくなった。目標達成は微妙だった。

実を言うと私は社内の役職者に「休みを取ってお金を払って入場して」と呼びかけようと思っていた。ゲストの来園状況を日々確認しながら、じりじり、はらはら、緊張が続く。そして4月2日の午後、1千万人目のゲストが来てくださった。緊張が緩み、どっと疲れが押し寄せてきた。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

加賀見俊夫(12)TDL開園

「本物を造れ」の大号令
人材、資金、技術全て総動員

米国での交渉は1週間続き、張り詰めた空気の中、さまざまな項目に関して緊迫したやり取りがあった。

合意に至ったのは1979年4月30日である。パークの設計、建設、運営に関する詳細な契約だ。プロジェクトの開発、メンテナンス、宣伝、商品、飲食、エンターテインメント、スポンサーなどについて、ディズニー社のノウハウ提供を柱とする全32項目に及ぶ。

ディズニー本社でカードン・ウォーカー社長とオリエンタルランドの高橋社長とが基本契約に調印した。後ろで正装し蝶ネクタイをしたミッキーマウスが「良かったね」という表情で見守っている。舞浜に決まってから4年5カ月が過ぎていた。長かった。

それから83年4月15日の開園までの4年間、今度は短く感じた。忙しすぎたのだ。私は81年6月に取締役総務部長兼人事部長、83年2月には総務部長兼開発部長になった。仕事は次々にわいてきた。

開園までにディズニーのあらゆる運営ノウハウを吸収しようと社員が1年から1年半、米国で研修した。日米両社で10人の社員を選抜した。実はそのなかに、私も入っていたが最終段階で外れた。高橋社長の意向だった。「私の考えを代弁できる人間をそばに置きたい」と待ったをかけたのだ。研修に赴いた9人を社内で「オリジナル・ナイン」と呼ぶ。私は落胆せず、かえって「日本にいて準備万端整えるぞ」と奮い立った。

中途採用などで社員もどんどん入ってきた。レジャー施設で働いたことのある人材は採らなかった。かつていた施設の接客のクセが顔を出し、ディズニーのスタイルをおろそかにしがちになる。白紙から育てたかった。

パークの建設も順調に進んでいた。ディズニー社のクリエーターやスタッフが来日して、日米協働で入念に造り込んでいく。彼らの想像力に目を見張った。高橋社長が「金を惜しむな、本物を造れ」と大号令をかけ、当初1千億円を見込んでいた総工費は結局、1800億円になった。

アトラクションには随所に日本メーカーの先端技術が生きている。形状、作動、快適性など多様な注文に見事に応えてくれた。ハイテク施設を懐かしいローテク設備に装うのも技術なのだ。

83年3月の竣工式で司会をした際、パーク建設に汗を流してくれた十数社の建設会社の代表者のうち、お二方の名前を読み飛ばしてしまった。翌朝一番に両社に謝りに行ったが、陰で支えてくださった方々への感謝を忘れるな、と肝に銘じた。

開園の日、1万8千人のゲストを迎えた。オリエンタルランドができてから23年の歳月が流れていた。晴れがましい笑顔が並ぶ来賓席で涙ぐんでいる初老の男性がいた。川崎千春さんだ。

夢と魔法の国の誘致の発案者である。高橋さんとともに幾多の難局を必死で乗り越えてきた功労者だが、実現を待たずに社長の座を退いた。私を京成電鉄に採用してオリエンタルランドに導いた恩人でもある。川崎さんの胸中を思って胸が熱くなった。

(オリエンタルランド会長兼CEO)