遠い記憶

「昔、先生のお父さんを車でひいたのは、うちの親父なんです。」
私が初めて担任をしたクラスが卒業式を迎えた日、クラスの中の一人に告白された。
「俺の親父は元気だから、心配するなって、伝えといてくれ。」と答えるのが精一杯だった。

私の実家は、小さなラーメン屋を営んでいた。父は、よく客からビールを勧められ、酔いつぶれて店の奥で、いびきをかきながら寝ていた。そんな父を母は「また~。もう飲ませないで。ちょっとお父さんを起こしてきて。」と言い、ほとんど母一人で店を切り盛りしていた。

かと思えば、ある日突然父がいなくなり、母に「お父さん、どこ行ったの?」と聞くと、「いつもの病気よ。」と言って笑っていた。父は寅さんの映画をこよなく愛し、学生の頃から放浪の旅が好きだった。父が帰ってくると母は「お帰り。どうだった?」と聞き、父の話す土産話にいつまでも耳を傾けていた。

そんなある日、父が出前の途中でタクシーにひかれた。私はいつも、父のバイクの後ろに乗って、出前についていったのだが、その日だけは、たまたまテレビに夢中になっていて、店のカウンターに座っていた。幸い命だけは助かったが、後遺症が残り、いつも苦しんでいた。その苦しみを酒でごまかすような日々が続き、入退院を繰り返していた。

そんな生活が一年ぐらい続いたある日、「一緒に風呂に入るぞ」と、まだ小学生だった私を抱きかかえて、久しぶりに父と風呂に入った。ものすごい力で父に背中を流してもらった後に、私も父の背中をカ一杯洗ったのだが、その時父の肩が小さく震えていたのが分かった。父の泣いている姿を見たのは、それが最初で最後となった。

次の日の朝、母が泣きながら家の掃除をしていた。
「お父さん、もう帰ってこないよ」と言いながら、前の日に私の寝顔をしばらく見た後、「ちょっと出掛けてくる」と言い残して車に乗り、高速道路を走っている途中で、ガードレールを突き破って崖から落ちたらしい。ブレーキを踏んだ跡がなかった。まだ36才だった。

そんな父を追うようにして、母が子宮ガンでこの世を去った。体の異常を感じていたのだが、私の学費を稼ぐために深夜まで仕事をして、病院に行かなかったのが、手遅れになった原因らしい。中学生の頃、悪いことばかりして、母を困らせた日々が悔やまれた。親のありがたみは死んでからという言葉が、痛いほど身にしみた。それ以来、自分の身を犠牲にしてまで守ってくれる人がいなくなってしまった。

自分の親を邪険にしたり、邪魔扱いする人間を何人も見てきたが、その光景を見る度に、憤りを感じてしまう。一度でもいいから親と話ができるのであれば、全てを失ってもいいと思っているから。他人に迷惑をかけるな、と親から言われた事があると思うが、それは自分の親にも迷惑をかけてはいけないという事だと思う。

社会人として巣立っていく君たちにとっては尚更である。自分の責任は自分で取らないといけない立場になるのだから、そういう意味では、社会人になるという事は、親と他人になる始まりなのかもしれない。

情報技術科担任