高田賢三(16)無欲の勝利

偶然重なり思わぬ成功
2、3年ずれたら違う人生

先立つものはカネである。

浪費癖がたたって貯金はほとんどない。そこで日本に帰国し、商社や文化服装学院時代の友人、実家に頭を下げて500万円ほどかき集めた。

その資金で素材となる生地を買う。

浴衣地、染め見本、羽織の裏地、へこ帯……。安いが日本らしい素材を求めて浅草を歩き回り、下北沢では木綿のプリントを仕入れた。人絹も麻の葉や蝶の模様ですごく気に入ったデザインがあった。

それらにパリの市場で買ったリボンや木綿を組み合わせ、新しい感覚の洋服を作ることにした。夏物に使われる木綿をあえて秋冬物に使ってみる。違う柄同士を大胆に重ね、派手な原色も多用した。

まるで西洋の服作りの伝統に逆らうような作風である。資金不足のための苦肉の策にすぎなかったが、バイヤーやメディアの目には「新鮮」に映ったようだ。そのとき私は初めて「日本」を意識した。

どうして私が曲がりなりにもパリで成功できたのか?

何度も考えたことがある。たくさんの偶然が重なった産物としか言いようがない。

まず5月革命のように既成概念を壊し、自由を求める風潮が服飾界にも広がっていたこと。さらにパリが文化発信で劣勢に立たされていたこと。当時はビートルズやモッズ、ミニスカートなどロンドン発の文化が席巻していた。

日本への興味の高まりもある。戦後復興を成し遂げ、1964年に東京五輪、70年に大阪万博を開催。歌謡曲「上を向いて歩こう」が海外で大ヒットし、川端康成氏がノーベル文学賞を受賞。映画から自動車、家電製品まで日本文化が世界に広がっていた。

私のデザイン画を買ってくれた百貨店やブティックのフランス人が雑誌の編集長や記者になっていたことも幸運だった。これらの条件がもし2、3年でもずれていたら状況はかなり違っていたはずだ。

最後に忘れてはならないのが日本人の結束。パリには夢を追いかけて日本を旅立った若者が集まっていた。ひと声かければ手弁当で手伝ってくれる同志が大勢いたのだ。

私の右腕となるパタンナーの近藤淳子さんは文化服装学院デザイン科の同級生。実は装苑賞を獲得した作品を縫ってくれたのは彼女である。母校の先生や雑誌「装苑」パリ支局も助けてくれた。この紙面で紹介できないくらい多くの方にお世話になった。

準備には4カ月かけた。

深夜まで店内にペンキでアンリ・ルソーの「夢」のようなジャングルの絵を描き、床の上で眠る。店名については「ジャングル・ジャップ」と名付けることにした。語呂がいいし、遊び心あふれる雰囲気にピッタリだったから。

開店は70年4月。作品は約40点。2階のアトリエでモデルが着替え、階段を下りて1階のフロアで服を披露する。「ヴォーグ」「エル」「マリ・クレール」などの編集長や記者が続々とやって来た。

珍しさやメディアに知人が多かったこともあるだろう。最初に「エル」が麻の葉の和柄を使ったワンピースを表紙で華々しく紹介。それをきっかけに雑誌がこぞって私の特集を組むようになった。

予想外の大成功である。

無欲の勝利だった。パリ発のデザイナーとして日本人が初めて喝采を浴びたのだ。

だが……。「ジャングル・ジャップ」という店名がとんでもない騒動を巻き起こす。

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Bubbles of river disappear rapidly.

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