高田賢三(30)挑戦

冒険心が人生の原動力
今年振り返り、また夢を見る

これまで計算も打算もなく、無我夢中でひたすら人生を走り抜けてきた。どうにかやってこれたのも、良き友人や仕事仲間と出会えたおかげである。

昨年9月。パリに渡航して50周年を記念し、500人を招待してパーティーを開いた。場所はブローニュの森にあるレストラン。にぎやかな和太鼓やフレンチカンカンのダンスが雰囲気を盛り上げる。

はかま姿の私は象を2頭従えて登場。ケーキの前で丸い箱を開くと300匹以上ものチョウが一斉に夜空に羽ばたいた。この日のために繭から育てて準備したのだ。

兄貴分カール・ラガーフェルドは白い陶器製の高級時計をプレゼントしてくれた。

私がケンゾーのデザイナーを退いたのと同じ99年。三宅一生君も自らのブランドを次世代に引き継いだ。イブ・サンローラン(2008年没)は02年に引退した。誰でも例外なく年は取るものだ。

でも夢は追い続けたい。

子どもっぽいと人から笑われてもいい。失敗を恐れず、果敢に挑戦する。何歳になってもイタズラ心を忘れない。そんな冒険心が私の人生と創造の原動力になっている。

今年9月。文化服装学院の恩師、小池千枝先生の故郷、長野県須坂市で生誕100周年を祝う式典が行われた。

その晩「花の9期生」のコシノジュンコさんや北原明子さんらと久々に食事をしながらゆっくりと語り合った。

「ケンちゃん。私の脇をハサミで切ったの覚えてる?」

ジュンコさんが切り出す。

学生時代。ジュンコさんに布を巻き付けたまま裁断する「立体裁断」を実習していた際、ハサミの刃先が脇辺りに当たってしまったらしい。

「あれには驚いた。ジュンコが痛がらないから……」

気がつくと布が血で赤く染まっていたので私は肝を冷やしたのだ。幸い大事に至らずに済んだが、一歩間違えば大ケガをさせるところだった。

連載ですべて紹介できなかったが「花の9期生」にはハラハラドキドキさせられた思い出が山のようにある。

「私が賢三と会社をいかに大事にしていたか。冷静になった今なら分かるだろう?」

ケンカ別れした2代目の共同経営者フランソワ・ボーフュメから今夏、こんな手紙が届いた。彼の奥さんが亡くなったので花を送ったら返事が来たのだ。うれしかった。

あれから23年。互いに年も取った。若気の至りで衝突したが、ケンゾーの黄金期を一緒に築いた仲間なのだ。「会って昔話がしたい」とも書いてあった。来年は会ってみようか。そんな気持ちでいる。

人生の伴侶グザビエと死別したのが90年8月12日。以来、大みそかの晩には欠かさず反省文を書いてきた。ベネチアでグザビエと一緒に買った革のノートに思いをつづる。

年末年始はプーケットでのんびり骨休めしている。さて今年の大みそかの晩は何について書こうか?病気、ビジネス、それに回想録……。

周囲からはそろそろ遺言を書けと勧められている。だがなかなか決心ができない。死後を考えたら「夢」が消えてしまいそうな気がするから。

最後にグザビエが亡くなる間際に書き残したこの一節で締めくくりたいと思う――

皆仲良く愛してください

人を許すことも必要です

(ファッションデザイナー)

=おわり

高田賢三(29)夢の矛盾

五輪制服 堅苦しさ払う
新事業 軌道乗らず自己破産

「2004年のアテネ五輪の日本選手団ユニホームをデザインしてもらえますか」

電話で依頼してきたのは知人の佐々木力さん。女優、萬田久子さんの事実婚の夫で米婦人服「セオリー」の社長、「ユニクロ」で知られるファーストリテイリング(ファストリ)の役員も務めていた。03年初めのことだ。

ファストリが生産を手掛ける。6月半ば。打ち合わせのために東京に向かった。グループ総帥、柳井正会長との初会合である。私はイメージを膨らませる素材として数枚のスケッチを描いてきた。

富士山、桜、日の丸……。

柳井さんはスケッチを見るなり即座にこう指摘した。

「なんか外国人向けのお土産みたいですね。フジヤマ、ゲイシャはやめましょう」

おっしゃる通りだった。

さすがは世界的な敏腕経営者である。しばらく仕事から遠ざかり、私の感覚が鈍っていることを瞬時に看破したのだ。良い仕事には率直な意見交換が欠かせない。有り難かった。すごい感銘を受けた。

3カ月間、集中議論して色、素材、デザインなどを詰める。「多様な色、柄、素材の中から選手が好きな組み合わせを選ぶ」というコンセプトはその過程で生まれた。テーマは「個性と制服の両立」。

個々の選手はバラバラに見えるが、全体としての統一感がうまく演出できるデザインにした。堅苦しいユニホームの既成概念を崩したかった。

いよいよ本番――。

開会式はアテネで見学した。フィールドに涼しげな白を基調に芍薬などの花柄やうちわが揺れ、ゆったりしたシルエットの制服を着た選手がリラックスして行進している。爽やかな印象を受けた。

観戦した柔道では谷亮子選手が金メダルを獲得。ほかの競技でも日本のメダルラッシュとなり、金が東京五輪と並ぶ過去最多タイの16個、銀9個、銅12個と大躍進した。少しでも貢献できたとしたらこれほどうれしいことはない。

04年、私は本格的なビジネスに乗り出すために「五感工房」というブランドと会社を立ち上げる。だが自分の経営能力の不足に加えて、様々な困難に直面してビジネスがなかなか軌道に乗らない。

始めからトラブル続きだった。本来は「タカダ」というブランドと会社でやりたかった。だがなぜかその直前に何者かが同名の商標を登録していたことが発覚する。「タカダ」の名前が仕事に使えない事態になってしまった。

さらに超一等地に立地する店の建設工事や事務所開設、人件費に膨大な費用がかかり、服や宝飾の企画生産も思うように進まない。裁判を経て「タカダ」の名は使えるようになったが、まもなく資金繰りが悪化。とうとう07年に自己破産に追い込まれる。

プロの経営者には頼まず、素人だけで始動したかつての「ジャングル・ジャップ」の手法はまったく通用しなかった。その結果、グザビエと一緒に作った自宅や美術品などを手放さざるを得なくなった。

新しい「夢」を追いかけたがゆえにグザビエと作り上げた「城」が壊れてしまったのだ。悔しかった。寂しかった。だが資金繰りには一応のメドが付き、安堵する気持ちもあった。

身から出たさび――。08年にはパリ中心部の道路を飲酒運転で逆走し、警察に捕まる事件も起こす。完全に私の不注意である。世間を騒がせてしまい忸怩たる思いだ。

(ファッションデザイナー)

高田賢三(28)再出発

30年の締め お祭り騒ぎ
「ケンゾー」引退 充電生活へ

傷心は癒えない。

夢もうせてしまった。

1993年6月末。LVMHモエヘネシー・ルイヴィトンとの“紳士協定”をほごにされた私は即座に辞表を提出し、出社をずっと拒み続けていた。

様々な関係者が心配して自宅にやって来る。最初に来たのは有力ファッションコンサルタントのジャン・ジャック・ピカールとデザイナーのクリスチャン・ラクロワ。

ピカールはLVMH総帥アルノーの相談役でもあった。2人とも友人なのでうれしかった。だが「背後にアルノーの意向があるかも」などと考え始めると切りがない。

フランソワが同じLVMH傘下のケンゾー社長からクリスチャン・ディオール社長に異動するというニュースを新聞で読んだのは8月のこと。遅ればせながらアルノーが決断したようだ。だが私の心は簡単には晴れなかった。

秋のショーが迫ってくる。

「一緒にやりましょう」

長年、苦楽をともにしてきたアトリエの社員が自宅に説得に来た。こういうのに私は弱い。さすがに心が揺らぐ。仕方がないので嫌々だがショーだけこなすことにした。

99年10月7日。買収劇から6年後。とうとう私はケンゾーのデザイナーを辞める最後のショーを開く。実は決意は1年前から固めていた。

60歳、30周年、新世紀――

切りが良いので再出発のために区切りを付けたのだ。

30年前。ギャラリーの店をルソーの絵画「夢」をモチーフにペンキで装飾し「ジャングル・ジャップ」と名付けた光景がつい昨日のことのように脳裏によみがえってくる。

(涙は自分に似合わない。花火のように楽しくにぎやかなお祭り騒ぎで終わりたい)

30年の集大成。お世話になった方々に出演してもらい、テーマ別に300点もの作品を披露した。ショーは2時間も続く。ショーをお祭り騒ぎにしたおかげで感傷的な暗い気持ちにならずに済んだ。

「どうして辞めたの?張り合いがなくなるよ……」

憧れの存在だったイブ・サンローランが自宅のパーティーに来て大変残念がってくれた。ひどく寂しそうだったイブの横顔が忘れられない。

その後、充電生活に入る。

LVMHとの契約で2年間は仕事をしないという約束になっていたためだ。体操、語学、パソコン、絵画……。再出発に向けて自分磨きに精を出した。予定表が空白になってしまうことも怖かった。

ケンゾーからは引退したが、デザイナー自体を辞めるわけではない。仕事を再開するのは2002年のことだ。

高田賢三がLVMHの提携デザイナーに復帰する――

同年5月。こんな誤報を一部メディアが流す“珍事”も起きた。たしかにプロジェクトは進んでいたが、LVMHの宿敵、仏小売りピノー・プランタン・ルドゥート(PPR、現ケリング)との協業である。意味合いがまったく違う。

PPRの通販会社と提携してカタログ「夢」を発刊し、既製服やインテリア、雑貨を販売。さらにソニーグループと提携して音楽分野にも進出するという計画だった。

LVMHからの出資も僅かながら受けていたが、契約デザイナーになるつもりはさらさらない。私は一部メディアの報道をあえて否定する声明文を発表した。

何だか私は「夢」を追いかけるのがとても難しい不自由な状態に陥ってしまった。

(ファッションデザイナー)

高田賢三(27)紳士協定

「約束違反」逆上し辞表
共同経営者の解任ならず

共同経営者フランソワ・ボーフュメとの対立を悪化させたのが持ち株の行方だった。

以下が持ち株比率である。

高田賢三40%
グザビエ8%
近藤淳子8%

3人の結束がある限り、過半数は揺るがない。だが不幸にしてグザビエが病死し、近藤さんが脳梗塞で倒れてしまったのだ。

遺言でグザビエはすべての持ち株を私に譲渡してくれた。だが近藤さんの持ち株の行方は不透明。フランソワがこれに不安を募らせた。自分の持ち株をもっと増やしたいという野心もあったようだ。

歴史に「もし」はない。

ただ私とグザビエが家作りに投資しなかったら問題は起こらなかっただろう。資金捻出で計30%近い株を銀行に売ってしまっていた。「夢」を追う代わりに買収されるリスクを抱え込んだわけだ。

一度だけフランソワが和解を打診してきたことがある。だが頭に血が上っていた私は聞く耳をまったく持たなかった。こうして買収を避ける道は完全に途絶えたのである。

奇妙なことが起き始める。

1993年5月。持ち株をLVMHモエヘネシー・ルイヴィトンに売却する契約に署名する際、総帥のベルナール・アルノーにこう迫った。

「共同経営者を解任すると契約書に盛り込んで欲しい」

だがこれが拒絶される。

「個人名を契約書に書くのは道徳的じゃない。紳士協定ということでどうか?」

うかつなことに私はそこで「なるほど」と納得してしまった。私が雇った弁護士や経営コンサルタントもなぜか反論するそぶりはなかった。

さらに不思議だったのは売却額が想定より2割ほど少なかったこと。とはいえ、署名さえすれば新体制で再始動できるのだ。多少のことには目をつむるつもりでいた。

署名が終わり、労をねぎらおうと私は弁護士と経営コンサルタントを昼食に誘った。すると2人はレストランに入るやいなや「食事よりも先に手数料の小切手をくれ」と露骨に催促してきた。あぜんとした。友人だとずっと信じてきたのでショックだった。

私は正体の知れない巨大な力に飲み込まれてゆく。

フランソワの逆襲が始まった。自らの留任を求める署名運動を社内でひそかに進め、過半数から賛同を得ていたのだ。私の味方はアトリエの社員。社内がフランソワ派と賢三派の真っ二つに割れた。

6月末。フランソワの退任日。ヴィクトワール広場に面した本店には中堅幹部以上の約百人が集まっていた。

「会社に貢献してきた私がこれから追放される。こんな仕打ちがあるだろうか!」

フランソワは私を激しく非難する演説を延々と続けた。

LVMH総帥のアルノーから電話で呼び出しがあったのはその日の昼すぎのことだ。凱旋門に近いアルノーの事務所でこう切り出される。

「フランソワを解任するのはやはり難しい。残留を求める社員が過半数もいるそうですね」

自分の耳を疑った。

「それでは明らかな約束違反。紳士協定はどうなるんですか?」

「紳士協定は紳士協定。だが現状も無視できない。一緒に働いてもらえますね」

今から冷静に考えればアルノーの立場もよく理解できる。だが私は精神的に追い込まれていた。逆上して力任せに扉を閉め、無言でその場を立ち去った。そしてアルノー宛てに辞表をたたき付ける。

(ファッションデザイナー)

高田賢三(26)最悪の事態

公私で翼失いぼうぜん
内紛終息かけLVMH傘下に

約10年ごとに共同経営者と衝突する運命にあるようだ。

2人目の共同経営者として迎えたフランソワ・ボーフュメは年商を急拡大させた立役者である。優秀な男だった。だが徐々に私への不遜な態度が目に余るようになってくる。

なぜ初代の共同経営者に続いて同じ軌跡をたどってしまうのか?

おそらく問題の大半は私にある。もともと他人を管理するタイプではないし、経理も大の苦手。甘く見られやすい隙があったのかもしれない。

さらに今回は服作りよりも家作りの方に時間も資金もエネルギーも費やしていた。その様子をフランソワは冷ややかに見ていたに違いない。彼がとりわけ懸念していたのが大資本による買収だった。

「デザイナーの高田賢三がいなくてもケンゾーという会社は立派に続けてゆく」

こんなことを社内で口走るようになったのは私が家作りに夢中になっていた時期である。その噂を聞いて、私もさすがにカチンと来た。以来、フランソワは私を公然と軽んじるようになってゆく。

「見てよあの態度。自分がオーナーのつもりかしら?」

一緒に会議やパーティーなどに出席すると、顔見知りの日本人女性がこっそり忠告してくれる。たしかに端から見れば、そう感じるのかもしれない。私は自分の心にさざ波が立っているのが分かった。

「人生最悪の事態」がそこに追い打ちをかける。

私生活のパートナーであるグザビエが90年に病死。91年には私の右腕として働いてきたパタンナーの近藤淳子さんが脳梗塞で倒れてしまう。

グザビエは人間として私を支えてくれた人生の伴侶だった。実は85年前後から体調を崩していたのだ。近藤さんはデザイン画を作品に仕上げてくれるアトリエの要。こうして私は両方の翼を失った。

不幸はさらに重なる。

91年に姫路の母も亡くなった。ちょうどその時、私は仲間と船を借りてコルシカ島を巡っている最中だった。兄が連絡を取ろうとしたが、外界との連絡を遮断していたので捕まらなかったらしい。

気がついたのは葬儀が終わった後。遊びに出ていて母の死に目に会えないなんて……。情けなかった。心がすさみ、自暴自棄になっていた。

フランソワとの衝突はさらに深刻さを増してくる。

身近に相談相手がいなかったことも厳しかった。兄貴分カール・ラガーフェルドやイブ・サンローランとは交流はあったがモード界ではライバル関係。経営問題など相談できない。ただグザビエを失った私を励まそうとカールは丁重な長い手紙をくれた。

(とにかくフランソワと決別して楽になりたい……)

わらにもすがる思いで株主の銀行に直訴してみたが、まったく相手にされない。そんなとき提示されたのがLVMHモエヘネシー・ルイヴィトンへの売却話だった。仲介したのは旧知の経営コンサルタント。最初の共同経営者ジル・ライスを電撃解任した際に働いてくれた人物である。

「経営問題でゴタゴタしたら大手に頼るのが一番だよ」

弁護士とともに株式売却をしきりに勧めてくる。経営権を完全に手放したらどうなるのか。あまり深く考える余裕もなかった。

「フランソワの解任は?」

「先方に頼めば大丈夫」

2人が力強くうなずく。

その言葉をすっかり信用した私は全株式を売る決断をした。93年4月のことだった。

(ファッションデザイナー)

高田賢三(25)暗雲

株売却し「自分の城」築く
室内プール・茶室…予算膨張

ビジネスは順調だ。

ショーの評価も悪くない。

どこに不満があろう?

だが何かが物足りない。

会社のビジネスを重視するあまり、自分の「夢」を少しばかり見失っていたのかもしれない。

(時代の波に乗り遅れている?)

こんな疑念も次第に渦巻くようになった。

黒の衝撃――。

山本耀司さんや川久保玲さんが相次いでパリに参戦してきたのが1981年のこと。

黒のモノトーンを基調に布が激しく引き裂かれたような左右非対称の前衛作品で世界を驚かせていた。華やかな色彩を特徴とする私の作品とはまったく異なる作風だ。

私が「家」作りに夢中になったのはこの時期とほぼ重なる。人生のパートナーだったグザビエが建築に詳しいという影響もあったと思う。

資金も十分にあった。

これは共同経営者フランソワの手腕のおかげだが、株式会社化したことで持ち株の資産価値が跳ね上がったのだ。

80年代。ファッション業界にはビジネス面でも大きな荒波が押し寄せてくる。大資本によるブランド買収である。

現在の仏LVMHモエヘネシー・ルイヴィトンがクリスチャン・ディオールの親会社を買収したのが84年。以来、セリーヌ、クリスチャン・ラクロワ、ジバンシィなども次々と手中に収めていた。

「ケンゾーも狙われているかも。気を付けないと」

フランソワや私の右腕のパタンナー近藤淳子さん、グザビエらと、皮肉にもこんな会話を交わしていたのだ。

敏感な嗅覚で商機をかぎ取った銀行や投資家たちが株式を買いたいと水面下で打診してくる。もちろん私は十分に警戒していた。だが僅かなら構わないだろうと思って試しに4%ほど売却してみた。

ビックリ仰天した。

ものすごい金額が手元に転がり込んできたからだ。

(もっと株を売れば、単に豪華なだけじゃなく、美意識をすべて詰め込んだ自分の「城」が作れるかも……)

新たな夢がみるみる膨らみ始めた。グザビエも話に乗ってきた。世界の建築物を見てきたグザビエが加われば鬼に金棒だ。資金も倍に増える。久々に心の底からワクワクするような高揚感を覚えた。

共同経営者のフランソワはそんな様子を冷ややかに見ていたに違いない。それが衝突を引き起こす遠因になる。

絶好の物件がバスチーユ広場近くにあった。区画全体が一つの建物になっていて、外から見れば何の変哲もないアパートである。だがその中に竹林や錦鯉が優雅に泳ぐ日本庭園や茶室があったら、さぞかしみんな驚くだろう。

私は人を驚かすのが大好きである。資金を湯水のごとくつぎ込んだ。2人の夢を実現するために――。建設中でも次々とアイデアが湧いてくる。現代建築や東南アジアの別荘風など多彩な要素を盛り込んだ。室内プール、見晴らしの良い居間、書斎、茶室……。

3階建てで延べ床面積1100平方メートル。欧米、アジアの美術品、骨董品、現代美術のほか有田焼や漆器、茶器など「自分の城」にふさわしい品々も吟味を重ねて買い集めた。予算は当初の3倍に膨張。工事は難航を極めて計3年も費やす。

竣工は90年3月。50人ほどを招いて盛大に祝った。

「人生最大の悲劇」が待っているとも知らずに……。

(ファッションデザイナー)

高田賢三(24)グザビエ

同じ夢追う人生の相棒
「見せたい」夕日に燃える宮殿

欧州には歴然とした社会階層が残っている。生まれながらに莫大な遺産を抱え、生涯あくせく働く必要がない恵まれた人間もいる。

グザビエがそうだった。正式名をグザビエ・ドゥ・カステラという。ルイ14世から伯爵の称号をもらったという正真正銘の貴族である。

出会いはパロマ・ピカソ(パブロ・ピカソの娘)の誕生日の夕食会。カール・ラガーフェルド、そのパートナーのジャック、そして私の正面に座ったのがグザビエだった。

俳優クリント・イーストウッドに似た風貌。照れると口髭を触る癖がある。最初はたわいもない会話を交わしたが、すぐに大変な教養の持ち主であることが分かった。

建築を学んでいて欧州の古城の歴史や構造などを熟知している。日本建築にも造詣が深く、桂離宮や龍安寺に込められた思想や様式についても分かりやすく教えてくれた。

私は好印象を抱いた。

美意識や感性が自分に合っている気がした。すぐにジャックら仲間たちと一緒にバカンスをカリブ海やエーゲ海、バリ島で過ごすようになり、やがて服作りやビジネスの助言も受けるようになる。

ごく自然の成り行きでパリで一緒に暮らし始めた。

グザビエからは人間として素晴らしい刺激を受けた。多くの教養を学ぶこともできた。それが私のデザイナーの仕事にどれほど役立ったことか。共同経営者も紹介してくれたし、会社が困ったときには資金も援助してくれた。

忘れられない記憶がある。

ロールスロイスで南仏を2人で巡ったグルメ旅行。夏の日差しに輝く青い海をながめながら、隠れ家のように点在するレストランを食べ歩く。

ニース、サントロペ、アンチーブ……。どの景色も映画のように美しい。車内で流すオペラの選曲も完璧だった。2週間で体重が6キロも太ってしまったが、濃厚で充実した時間を過ごすことができた。

「ケンゾー。ぜひ見てもらいたい風景があるんだ」

夏のある日。グザビエから誘われたことがある。ベルサイユ宮殿に行こうという。

不思議に思いつつも一緒に出かけることにした。ベルサイユ宮殿はパリから西へ約20キロ。自動車なら30分たらずで到着する。迷路のように入り組んだ宮殿、幾何学模様の花壇や運河が広がる庭園……。

敷地をゆっくり散策したが、どこが絶景なのかなかなか教えてくれない。グザビエはしきりに時計を気にしていた。太陽が西に傾き、周囲が幻想的な色彩を帯び始める。その瞬間、グザビエが叫んだ。

「いまだ。振り返って!」

ベルサイユ宮殿の西側に立っていた私は息をのんだ。

なんという光景だろう。

西方に真っすぐ延びる運河の先に定規で測ったかのように大きな夕日が輝いている。その逆方向では宮殿の「鏡の間」が太陽光線を反射し、館全体が今にも燃え上がりそうなほど鮮やかな緋色に染まっていた。

寸分の誤差もない。

その時刻に庭の大運河と「鏡の間」が太陽光線で射抜かれるように建築家が設計していたのだ。

自然と科学の融合――

そこにはものづくりに心血を注いだ先人たちの心意気が込められていた。過去の知恵者との対話があった。

私は驚嘆を隠せなかった。

「ね、分かったかい?」

放心状態の私を見ながらグザビエが満足そうに笑った。

(ファッションデザイナー)

高田賢三(23)倍々ゲーム

改革当たり年商急拡大
作るワクワク感薄れ「割り切り」

(頼れそうな男だな……)

初対面でそう思った。

2人目の共同経営者フランソワ・ボーフュメの第一印象である。精悍なまなざし。エネルギーの塊のようながっちりした体つき。

クレージュやイタリアの繊維会社などを渡り歩き、業界の表も裏も知り抜く「経営のプロ」。私生活のパートナーだったグザビエが見つけてきた人材だった。

「任せていいんじゃない」

パタンナーで私の右腕である近藤淳子さんが一目見てこうつぶやく。私も同じ意見だった。そこで彼に経営を手伝ってもらうことにした。

1980年に入社したフランソワは改革策を打ち出す。

組織の株式会社化=81年
持ち株会社制移行=83年
メンズ部門開始=同
ニューヨーク店=同
社名をケンゾーに=84年
ロンドン・ミラノ店=85年
ジーンズ部門開始=86年
子供服部門開始=87年
香水部門開始=88年

これがズバリ当たった。

ブランドイメージを一気に高めて事業を多角化し、店舗網も国際展開する。そんな市場動向に合致したのだ。

「ライセンスを始めたい」

フランソワがこう言い出したときは、さすがに気がとがめた。ライセンスとは「ケンゾー」というブランドの使用料を取るビジネスのこと。

たとえばタオルやスリッパなど生活用品にブランド名を付けることを認め、その代わりに相手に生産を任せる。多額の使用料は入るが、生産には直接関与していない商品が市場に出回ることになる。

もの作りにこだわってきたデザイナーにとってはある意味の「割り切り」が必要だ。

だが年商は急拡大した。

3000万フラン=79年
3900万フラン=80年
6700万フラン=81年
1億3500万フラン=82年
1億9000万フラン=83年
2億4000万フラン=84年

まさに倍々ゲームである。

ブランドビジネスのうまみの大きさを思い知った。

(ライセンス先がきちんとしていれば心配は少ない。我が社の経営が安定するのは社員にとっても良いこと。年商規模は大きい方がいい)

そう考えることにした。

70年代と80年代は好対照。

70年代はそれほどお金がなかったが、次のシーズンにはどんな作品を作ろうかといつも心をワクワク弾ませながら働いていた時代だった。

一方、80年代はお金は稼げるようにはなったが、好きな服を作ってばかりもいられない。純粋な夢が徐々に変質していった時代だった。

創業期にはジル・ライスのような芸術肌の経営者が適していたし、急成長期にはフランソワ・ボーフュメのような経営のプロが適していた。

運命の巡り合わせである。

好き勝手ができた創業期の最後の“遺物”がある。

80年発売の香水「キングコング」と79~80年秋冬物の「漫画ルック」。どちらもパーティーの延長線で遊び感覚で発表したものだ。話題づくりにはなったが、商品としてはさっぱり売れなかった。

3つ目は黒の高級車ロールスロイス。ジルからサプライズでもらった私の40歳の誕生プレゼントだ。

だがこれにも落ちがある。

よくよく調べてみると代金がまったく支払われていない。結局、自分への贈り物を自腹で買う羽目になった。「これも運命さ」と自分には言い聞かせているのだが……。

(ファッションデザイナー)

高田賢三(22)大失敗

映画監督はもうコリゴリ
泣かせる場で劇場から笑い

拝啓高田賢三様

映画制作に興味をお持ちだとうかがいました。一緒に面白い作品を作りませんか――

1978年暮れ。女優の左幸子さんが一通の手紙を携えてパリにやって来た。

差出人は藤井浩明さん。大映出身で市川崑監督の「おとうと」「野火」などを企画。三島由紀夫氏と「憂国」も制作したことがあるという敏腕プロデューサーだ。

映画に興味があると私が話した雑誌の記事を読んで声をかけてくれたらしい。とはいえ共同経営者ジル・ライスとはちょうど冷戦のさなか。

正直なところ映画制作どころの話ではない。もちろん映画は好きだが、自分に監督の才能があるとは思えないし、撮影の基礎知識もない。ところが藤井さんは何度もパリまで来て熱心に説得を続ける。

「アイデアだけ出してもらえば我々が仕上げますから。『スタート』と『カット』の掛け声だけでいいんです」

ついに熱意に根負け。監督兼衣装兼美術として映画制作に参加することにした。

まずは原案づくりからスタートする。頭にすぐ浮かんだのは「雨月物語」や「羅生門」が描く幽玄の世界だった。

「織物師の青年が湖で美しい姉妹に出会う。名は姉が月、妹が雪。青年は姉妹の妖艶な肢体と精神に引き込まれ、翻弄される。そして青年を愛した報いで姉妹は鳥になって青い空に羽ばたく――」

こんな物語を考えてみた。

舞台に選んだのはモロッコ。バカンスでよく旅行に出掛けていたので土地勘があったし、東西のはざまで様々な文化がミックスしている環境が面白いと思ったからだ。

80年7月。サハラ砂漠に近いザゴラに向かう。茶褐色の山脈と砂漠が見渡す限り広がっている。日中はセ氏50度。1.5リットルのエビアン250本が1日ですぐ空になった。

撮影は困難の連続だった。

俳優はすべてフランス人。日本人スタッフとの意思疎通が障害になって物事が円滑に進まない。美術班が底なし沼にズブズブはまって動けなくなるという珍事件も起きた。

参ったのは主人公が連れた馬が疲労で倒れるシーン。

思うように倒れてくれないので麻酔薬を使うことにした。だがモロッコの馬は野生の大麻を食べつけているらしくて麻酔が全然効かない。

ドサッ!ようやく倒れたのは数時間後。すでに役者は演技をやめて木陰で休息中。カメラも回っていない。ガックリきた。そんなストレスが日に日にたまり、炎熱の太陽に目が回りそうだった。

制作費4億円。音楽は人気グループ、ジャーニーを起用する力の入れよう。欧州ツアーをやめて仕事を引き受けてくれたという。藤井さんの努力のたまものである。題名は「夢・夢のあと」とした。

不安を抱えたまま迎えたパリの試写会は最悪だった。

映画館に300人ほど集まったが、パリっ子の審美眼は厳しい。肝心の泣かせたい場面では会場がクスクスと笑い出し、ちぐはぐな空気が広がっているのが分かった。

揚げ句の果てに観客が途中で次々と席を立ち始める。大失敗だった。すべて自分の責任である。藤井さんをはじめ多くの関係者にご迷惑をかける結果になってしまった。

映画制作――。その言葉を聞くたびに、蕁麻疹が出そうなくらい憂鬱で恥ずかしい気持ちになってしまうのだ。

(ファッションデザイナー)

高田賢三(21)共同経営者

目立つ独断、許せず解任
家族雇い高い給与、破綻寸前

1980年1月23日。

フランス人の共同経営者ジル・ライスを電撃解任する。

独立して10年目のことだ。

会社の出資比率は私が55%、創設メンバーのパタンナー近藤淳子さんが15%。残り30%がジル。

こちらが多数派なので決定には有無を言わせなかった。

ジルはよく笑いよく泣く人情家。私とも馬が合った。特に芸能・文化関係に顔が広く、アンディ・ウォーホルやアントニオ・ロペスらと知り合えたのも彼のおかげである。

さらにトップモデルの妻キャロルは私の服のイメージにピッタリなのでよくモデルになってもらった。彼女のツテで人気モデルにもショーに出てもらった。波に乗れたのはジルと組んだことが大きい。

私は幸運だった。

関係がギクシャクし始めたのは77年前後のことだ。

ジルに会社を私物化するような横暴さが目立ってくる。たとえば勝手に家族や知人を雇い、高額の給与を払ってしまう。私に一切相談もなく。

社員は80年時点で六十数人。どう考えても40人もいれば足りる規模なのでこれでは利益が出るわけもない。後で経理を監査してみると破産寸前の状態だったらしい。

とうとう腹に据えかねてジルを部屋に呼び付けた。

「重要なことを勝手に決めないでくれ。そうでないと一緒に仕事できなくなるよ」

だが私の警告を真面目に受け止めようとせず、態度を改めるそぶりもなかった。

(ではやるしかない……)

私は弁護士と経営コンサルタントに依頼してジルを解任する準備を進めた。ジルには寝耳に水だったようだ。最初は抵抗していたが、渋々解任を受け入れた。だがその後とんでもない事件が起きる。

「会場に時限爆弾を仕掛けた。避難した方がいいぞ」

ショーの準備中に匿名の電話が入るようになったのだ。爆破予告である。会場は大騒ぎ。メーク中のモデルに急きょ避難してもらい不審物がないか会場をチェックした。

「大丈夫なの。ひどい仕打ちね。誰の仕業なの?」

いつもショーに出てくれる山口小夜子さんが困惑顔を浮かべている。「ジル派の仕業か」と疑ってみるが確証があるわけではない。皆に頭を下げてわびるしかなかった。

この時期はなにもかもが脱線気味だった。夜の社交場にも大きな変化があった。

私たちの毎日の遊び場はディスコ「セット」。そのオーナーに会うたびに私は繰り返しこうせっついていたのだ。

「ニューヨークの『スタジオ54』に負けない大きなディスコをパリに作ってほしい」

「セット」も面白い店だったが、スタジオ54に比べれば規模が全然小さい。そこで78年にオープンしたのがナイトクラブ「パラス」である。夜の社交の一大拠点となり、すぐに「パリの伝説」になる。

名誉なことに客が主催するパーティーの初回を私に任された。テーマは「女装・男装」。男性が女装し、女性が男装する。兄貴分カール・ラガーフェルドのアパートを借りて約30人の仲間と衣装も化粧もばっちり準備した。

「コンバンハ」

誰かと思ったら女装したミック・ジャガーだった。ミックが交際するモデル、ジェリー・ホールを通じての友人。意外にも素顔は地味でおとなしい。でもパーティーでの存在感は抜群に輝いている。

朝まで皆で踊り続けた。

“らんちき騒ぎ”も仕事になっていた良き時代だった。

(ファッションデザイナー)