服部克久(14)パリで新生活

住む場所・先生お膳立て
下宿のおばあさんと仲良く

南仏のマルセイユ港までヴィニョー先生の弟さんが迎えに来てくれたが、彼の話す言葉がさっぱり分からない。東京で3年もフランス語を勉強したのに。僕はひどくショックを受け、一気に不安が募った。強い南仏なまりのせいだったと分かるのは、少し時間がたってからのことだ。

不安を抱えたまま鉄道でパリに向かう。花の都は灰色に曇り、プラタナスの落ち葉が舞っていた。「やあ、服部君だね」。日本語で声をかけられて我に返った。後に現代音楽の作曲家になる篠原真さんだ。まさに地獄で仏だった。

篠原さんは僕にパリ国立高等音楽院(コンセルバトワール)受験を勧めてくださった池内友次郎先生のお弟子さん。つまり僕の兄弟子に当たる。駅に迎えに現れたのは池内先生の計らいだった。

コンセルバトワールのどの科のどの先生に習うのか、どこに住むのか……。基本的なお膳立てはすべて整えられていた。池内先生と篠原さんが周到に手を回してくださったのである。

篠原さんに案内され、コンセルバトワールのアンリ・シャラン先生を訪ねた。世界的に名の知られた和声学の名教師で、日本の音楽学校でも先生の「380の和声課題集」や「24の和声課題集」が長く使われていると聞く。

「君、何か曲を書いてみなさい」。シャラン先生にそう言われて、僕は必死に音符を書き連ねた。先生は僕の譜面を眺め、何度かうなずいた。「よし。試験に受かったら私のクラスに来なさい」

池内先生が手配した下宿はパリ15区にあった。エッフェル塔の東南にシャン・ドゥ・マルス公園が広がっている。さらに東南が旧陸軍士官学校だ。士官学校の西南、ラオス通りに面したスクワール・テオドール・ジュドランの古ぼけたガス灯の前に立つアパルトマン。らせん階段を上った4階が僕の下宿である。

周囲にはアルジェリア人やモロッコ人が多く、みんないい人ばかりだった。アジア系ではインドシナ半島の人が多く、僕はよくベトナム語で話しかけられた。

下宿先はごく普通の家庭で、マダム・ドゥ・ヴィエスというおばあさんが食事から掃除、洗濯など、すべて面倒を見てくれる。おばあさんは大の日本びいきで、僕の前は島岡譲さん、その前は別宮貞雄さんを下宿させたという。2人とも有名な作曲家になられた。

僕のフランス語が上達したのは毎日おばあさんと話したおかげだ。「若いころは美人だった」が自慢で、ジュール・ベルヌの息子と付き合っていたというから驚いた。ベルヌは名作「海底二万里」や「八十日間世界一周」の作者だ。「汽車に乗っていて、トンネルに入った途端にキスされたのよ」と話してくれた。

おばあさんの言葉で印象に残っているのは「トゥ・パス、トゥ・カス、トゥ・ラス」。すべては過ぎ去り、すべては壊れ、すべては流れ去る。僕が落ち込んでいると、こう言って「これが人生よ」とほほ笑むのだった。「なるようになるさ」というわけだ。

「服部さん、受かってましたよ」。コンセルバトワールの受験を終えたはいいが、合格発表日がいつなのか知らずにいて、一緒に受験した人から合格を知らされた。僕は根がのんきなのである。だから「なるようになるさ」のおばあさんとウマが合ったのかもしれない。

(作曲・編曲家)