大村智(25)埼玉に新病院

地元医師会が強く反発

署名運動が奏功200床で開業

 

北里研究所の経営立て直しでは一つ一つ成果を出したので、私を生意気だと思って反対していた人も「大村の言うことは聞かざるを得ない」というように変わっていった。米メルクから特許料が入り始めたこともプラスに働いた。

ただ、研究所から寄付を受けていた大学側では、今まであてにしていた金が入らなくなり面白くないと思っている人たちがいた。副所長再任の際に彼らが画策して私を落とそうとしたこともある。あと一票、反対があったら降ろされるところだった。

私を支持する人たちからは「所長をやってほしい」という声も出たが、今度は病院長の河村栄二さんのところに「大村は所長になったら、あなたを院長からはずそうとしている」などとデマが流れた。でも、そうした情報を私に教えてくれる仲間もいた。

結局、所長の水之江公英先生と副所長の私のコンビは6年続いた。私は手狭な港区白金のキャンパスで、床が波を打つほど古くなっていた病院の東館を何とかしたかった。北里柴三郎先生が開いた病院をきちんと残したいが、新築する場所がなかった。

そこで、白金のワクチン製造工場を移転して跡地を利用する戦略を立てた。出入りの建設会社の営業マンが、埼玉県北本市によい移転先の候補地があると教えてくれた。ヘリコプターでゴルフ場用地を探していた知人に同乗させてもらい、上から見ると緑に包まれたよい土地だ。

農林水産省の農事試験場畑作部の跡地で、約9万坪あった。用途は大学か病院、研究施設等と定められていた。そこで、病院を作り、ワクチンの研究・製造施設は付属施設と位置づけることにした。

ところが、患者を奪われるのを恐れた地元医師会が病院建設を阻止しようとした。何十回も会合をもったが計画の一つ一つに難癖をつけ、いったん了承したことまで蒸し返した。新病院と地元の医師の診療所が連携する「病診連携」でやっていこうと説明しても通じなかった。

計画は遅れ気味だったが、家内が北本市に住んでいた北里大学の卒業生、大久保(旧姓・林)道子さんのお母さんをなぜか知っていて、協力して病院建設を求める署名運動を起こした。こういうネットワークはすごい。2万5000人もの署名を集め、ついに医師会は折れた。

ただ、病院の規模は600床とし、200床でオープンしろと条件を付けてきた。あとは医師会の了承を得ながら増やせという。これでは赤字経営になる。交渉の結果、440床の病院を作り200床から始めることになった。

1987年9月3日に着工し、89年4月に「北里研究所メディカルセンター病院」が開院した。土地代は50億~60億円、建設費は80億円くらいだったと記憶している。米メルクからの特許料収入でカバーした。多い時で年間16億円ほど入っていた。

その後93年にワクチンの研究・製造施設、94年に北里大学看護専門学校が完成した。本当は大学院大学を作りたかったが理解を得られなかった。特許料で研究する人はいるが、病院まで作ったのは初めてではないだろうか。2002年には増設して、念願の440床を達成した。

(北里大学特別栄誉教授)

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