大村智(12)米国留学

候補5大学、直感で選択

客員教授の待遇、高給に勝る

 

1971年3月に米国旅行から戻ると、留学先を決めるためにさっそく英文でタイプ打ちした手紙を5つの大学の教授に出した。研究者として雇ってもらえないか聞くとすべてオーケーの返事が来た。ただし、条件に違いがあった。

カナダのモントリオール大学のステファン・ハネシアン教授は私をポストドクター(博士研究員)として、年間約1万6000ドルで受け入れるという。スポンサー企業がついており、金額は5カ所で最高だった。ほかは年間1万4000~1万5000ドル程度だったが、1カ所だけ約半分の7000ドルと低かった。

最低額を提示してきたのは米コネティカット州にあるウエスレーヤン大学のマックス・ティシュラー教授だ。ただ、電報でまっ先に返事をくれ、ポスドクではなく「客員研究教授」として迎えるという。

妻の文子は「お給料が一番いいところにしましょう」と言ったが、私は「給料が低い分、何か別にいいことがあるのではないか」と思った。電報ですぐに応じてくれたのもうれしかったし、米国旅行で会ったときに「大人物だな」という印象を受けていた。

人を包み込むような雰囲気があり人間的な魅力も感じていたので、この時ばかりは妻の言うことを聞かずにウエスレーヤン大に決めた。今振り返ってみて、本当によい選択だったと思う。人生の分かれ道と言ってもよい。

71年10月、羽田空港から米国に出発した。海外に行くのはまだ珍しかった時代で、北里研究所の秦藤樹先生や、秦先生から所長を引き継いでいた水之江公英先生らが空港まで見送りに来てくれた。私たち夫婦は万歳三唱で送り出された。

ウエスレーヤン大は緑豊かなキャンパスが広がり、教職員用の立派な宿舎にほとんどタダで住めた。しかも出勤すると、客員研究教授として個室が用意されていた。給料こそ安かったが、日本の若い研究者の受け入れとしては破格の待遇だった。

ティシュラー先生は米製薬大手メルクの中興の祖とも言われる大物だ。大学の先生になりたいという夢をずっと持っていて、研究所長を務めた後、70年にウエスレーヤン大に移った。大学にかなりの寄付をして化学研究科を立ち上げ、そこに私を招いてくれた。何かあるとすぐにメルクのかつての部下に電話して情報を取り寄せていた。

先生は既に60代後半だったが、強靱な精神力があった。朝はまだ誰もいない6時頃に研究室に出てくる。昼間、いったん帰宅して、また大学に来て夜遅くまで仕事する。私も朝が早かったが、負けていた。

気さくで穏やかで声を荒らげることはないが、研究室のディスカッションは充実しており「サトシ、この化学反応については考えたのか」などと間髪を入れずに聞いてくる。すごいなと思ったのを覚えている。先生からは「薬化学」を学ぶことができた。

米国でも私は日本食しか食べなかったので、文子が毎日弁当を届けてくれた。宿舎からキャンパスを横切って研究室にやってくる。あるとき、部屋をノックする音がしたので見ると、ティシュラー先生が段ボールの箱を抱えて立っていた。後ろから文子が顔を出した。弁当を入れた箱を持って歩いていた文子を先生が見つけて声を掛け、半分ふざけて運ぶのを替わったらしい。そんなユーモアのある人だった。

(北里大学特別栄誉教授)

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