大村智(10)上京の誘い

北里研抗生物質を知る

構造決定で論文、注目集める

 

山梨大学で助手として働くうちに、再び東京に行きたい気持ちが頭をもたげてきた。刺激を求めていたのだと思う。家内も甲府ではそろばんを教えるアルバイトすらできず、東京へ行きたがっていた。そんなときに東京理科大学大学院の同窓の佐藤公隆さんから、山川浩司教授の研究室の助教授ポストが空くから来ないかと誘われた。

山川先生とも話し、「いいな」と思ったので、まだ先方が何も決めないうちに早々と山梨大に助手を辞めると伝えてしまった。ところが理科大の助教授が予定通り他の大学に転出できなくなった。しまったと思ったが後の祭りだ。佐藤さんから、山川先生の研究仲間で当時北里研究所にいた小倉治夫先生を紹介してもらい、会いに行った。

小倉先生に勧められて北里研究所の入所試験を、新卒の若い人たちと一緒に受けた。大学卒業から7年もたっており受かるか不安はあったが、東京に出てくるためにはほかに方法がない。どうにかなるだろうという気持ちで受けたら何とか合格できた。

ところが喜んでいると、もう一通手紙が届いた。レントゲン検査の結果、肺結核の可能性があるので再検査せよとある。私は動揺したが家内は腹が据わっており、「北里研究所はもともとは結核が専門なのだから入院して治せばいい」と平然としていた。

再検査後、北里研究所の秦藤樹所長に呼び出された。「これは駄目かな」と覚悟して出かけた。秦先生は大きなレントゲン写真を前に、「何でもないよ」と言う。ホッとした。恐らく山梨大の実験で四塩化炭素ガスを吸っていたので肺に炎症が起き、跡が残っていたのだろう。

1965年4月、北里研究所の中でも最大だった秦室の技師補に採用された。秦先生は当時、日本の抗生物質研究の先頭にいた。医者に特有の近寄り難いところもあり、最初に与えられた仕事は講義中の黒板ふきだ。「おい」と言われたら、黒板に書かれた文字や化学物質の構造式をサッと消す。その前にすべて私のノートにも書き写したので、すごく勉強になった。

秦先生が見つけた抗生物質にはマイトマイシンやロイコマイシンがある。ところが、微生物屋ばかりを集め化学がわかる人がいなかったので物質の名前は付けても構造を突き止められず、中途半端だった。構造がわからないまま薬として売られていたものもあったのだから、今にして思えばすごいことだ。

私は化学をやっていたので物質の成分を分離する技術があった。東京理科大の大学院生の時に核磁気共鳴装置(NMR)で物質の構造を調べる方法を習得していたのも役立った。たとえばロイコマイシンには10種類の成分があり、それを分けて一つ一つ構造を決めた。英語で論文を出し、国際的にもかなり注目されるようになっていった。

秦先生とは意見が合わなかった。学生を指導する際、化学をやっている私から見ると分析に使う物質の量や取り扱い方法に問題があり、すべて直すこともあった。最初、ペニシリンの構造式すら知らなかった私は2年ほどの間に必死で勉強し、日本化学会の雑誌「化学と工業」に「抗生物質の進歩」という総説を書けるまでになった。

(北里大学特別栄誉教授)

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