大村智(7)就活

父が奔走、都立高校に職

東京生活、母校の縁に救われ

 

山梨大学を卒業したら教員になろうと、山梨県のほかに東京都、神奈川県、北海道の採用試験を受けた。神奈川は親戚がいたからだ。北海道はスキーができるという単純な動機で受けた。

理科の教員を採用しないことにした山梨県は、試験がなくなった。東京都の高校教諭の試験は倍率約30倍の難関だったが、ここぞという時に力が出て合格できた。

最初に採用通知を送ってきたのは三宅島の高校だった。父は喜んだが、私は「ちょっと待って下さい。地図を見て下さい。ここですよ」と。

両親のもとに帰ることを考え三宅島を断った後、父は東京に出て知り合いにいろいろ聞いて就職先を探してくれた。教育長のところまで行き、都立墨田工業高校に採用枠があるのを見つけ出した。父のこういうところは大したものだと思う。昼間と夜間から選べたので、自分の時間がより持てそうな夜間にした。

1958年3月に山梨大を卒業し、4月から墨田工業高校の教諭になった。埼玉県浦和市(現・さいたま市)の親戚の大きな家の一部屋を借り、都内に通った。

初めて故郷を離れて世話になったのが、ちょうど山梨大の学長を退官し東京に移った安達禎先生だ。卒業前に地質学の田中元之進先生が私を学長室に連れて行ってくれ、話す機会をつくってくれたのがきっかけとなった。

安達先生は第2次世界大戦中に旅順工科大学の学長を務め、戦後に文部省(現・文部科学省)を経て新制山梨大の初代学長になった。よく「何事も千畳敷のど真ん中でやれ」と言っていた。こそこそせずに堂々とやれという意味で、私も実践した。

卒業式ではこんなことがあった。県や文部省から来賓があったが、学生がざわざわと落ち着かず式がなかなか始まらない。安達先生が「静かにしろ、馬鹿野郎」と一喝すると会場は一瞬にして水を打ったように静まった。

東京に出てからは、大田区の池上にあった先生のお宅に一升瓶を持ってよくお邪魔した。先生は飲むと本当に冗舌になり、気楽に話せた。迷ったときや疲れたと思うときに行くと勇気づけられた。

数年後、先生は広尾の病院にがんで入院され、手術で輸血のためにO型の血液が必要になった。私はO型だったので、ほかの仲間も集めて病院に駆けつけ献血した。残念ながら亡くなったが、最後にお礼ができたと思っている。

ところで、田中先生がわざわざ私を学長室で安達先生に引き合わせてくれたのは、私がいた化学教室の隣に田中先生の地質学教室があったからだ。私は頻繁に出入りして気に掛けてもらっていた。

南アルプス市の夜叉神峠の林道工事の地質調査でアシスタントをするなど、先生のいろんな調査に同行した。ずっと先の話だが、この時の経験が自分の温泉を掘るのに役立ったのだから面白い。

墨田工業高校では理科のほかに体育も教えた。受け持ったのは30人ほどのクラス。昼間は働き、疲れても勉強したいという熱意をもって通ってくる生徒ばかりだった。

卓球部の顧問もした。高校時代にやっていたので自信があり、「私に勝つ部員が4人いれば都立の大会で優勝できる」と言って励ました。すると本当に3人が私に勝てる力を付け、準優勝できた。

(北里大学特別栄誉教授)

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