大村智(5)大学進学

父の勧めで発奮、猛勉強

山梨大で化学専攻、実験没頭

 

1951年に入学した山梨県立韮崎高校では、一番成績の悪い生徒ばかりのクラスにいた。どうせ農家を継ぐのだから良い成績をとってもしようがないと思い、勉強なんかしなかった。

父が偉かったのは、私にあれこれ指図するのをぴたりとやめ、一人前に扱ってくれたことだ。私はスキーに打ち込んだ。最初は卓球部に入ったが、部長たちがスキー部員でもあったため入部してみたのがきっかけだ。

3年生の時には県のスキー大会で、クロスカントリーの一般の部で優勝するほどのめりこんだ。韮崎スキークラブを主宰する山寺巌氏の指導を受けた。競技や練習がある時には山寺家の近くから早朝にバスに乗ったので、スキー仲間と一緒に前の晩から泊まり込んだ。夜は皆ですいとんの鍋を囲むこともあった。

転機が訪れたのは53年、高校3年になって間もない頃のことだ。虫垂炎で手術を受け、しばらく安静にしていなければならなかったので本をよく読んだ。それを見たおやじが「勉強をするなら大学に行ってもいいよ」と言う。やってみる気になった。私は名前すら知らなかった山梨大学を、とにかく受験することにした。

そうと決めたら、徹底的に勉強した。スキーで鍛えていたので勝負どころはわきまえていたし、限られた時間をうまく使う訓練もできていた。1日3、4時間くらいしか眠らずに勉強した。私は不思議なことに、いつもここぞという時にうまくいく。私には難しいと言われていた山梨大に合格できた。国立大学に受かったのは私のクラスで自分ともう1人だけだったのではないかと思う。

54年4月、山梨大の学芸学部自然科学科に入学した。大学でもスキーに明け暮れたが、遊んだ後には集中的に勉強した。「あの先生はここを試験に出すな」というヤマ勘もよく当たったので、ほかの学生が私のノートを見ようと周りに集まってきた。

単位を落としたことはないが、ドイツ語の授業で苦い思い出がある。先生は毎回、色の違う紙を配って出欠をとった。何色になるかはその時にならないとわからないので、あらかじめ友達に代返を頼むわけにもいかない。

たまたまスキーで出席できない日があって、3人の友達が別々に私の名前を書いてくれていた。しばらくして先生に呼ばれて行くと、3枚の紙を見せられて「大村君、これは何だ」とおとがめを受けた。試験で「不可」をとったのはこの時だけだ。

専攻は化学を選んだ。山梨大には「マイスター制度」があり、個人的に指導してくれる教官が決まっていた。私の場合、担当は有機化学の丸田銓二朗先生だった。

教育方針が素晴らしく、遊び歩いていても実験がしたくなって研究室へ行けば、いつでもできるようにしておいてくれた。スキーから戻ると装置の前で飯を食い、とにかく年がら年中実験をしていた。

理論に沿って計算し、実験すると予想された通りに変化が起きる。あるいは結晶ができる。失敗もしたが、面白かった。教科書通りではうまく行かないことも多いので原理を考え、どこをどう変えるか工夫した。実験装置も作った。研究室に出入りする企業の人から「そんなことよくできますね」とほめられ、自信もついた。

(北里大学特別栄誉教授)

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