大村智(3)家族

地域を担う父、教員の母

5人きょうだい、祖母が世話

 

父は地域の世話役のような存在で、あちこち飛び回っていた。選挙運動にもかかわった。地元選出の衆院議員で、1949年に成立した第3次吉田内閣で労働大臣を務めた鈴木正文先生からは感謝状のようなものももらった。今も生家に飾ってある。

 

選挙違反で警察に拘留されたことも2度ある。ところが差し入れがたくさんあり、こっちが心配しているのに太って帰ってきた。地域に簡易水道を引くなどいいこともたくさんしたが、捕まったことがあるため叙勲は一つも受けていない。

 

簡易水道はその後、近代的になったが、今でも当時と同じ水源から引いた水が手に入る。私は故郷に戻るときにいつも大きな容器を用意し、東京の自宅まで水を持ち帰って大切に使う。これでご飯をたくと、とてもおいしい。

 

神山小学校とは県道を挟んで反対側の、現在の韮崎市立韮崎西中学校の近くに曹洞宗の願成寺がある。771年に開かれ、武田信玄などに連なる武田家の始祖、武田信義公が祈願所として再興した寺として知られる。

 

1930年代、寺は荒廃し修復費用もないため、檀家や村の長老たちは三尊像を売りに出そうとした。父は村の青年たちとともに反対運動を起こし、ほかの曹洞宗の寺や新聞社などに働きかけた。そのかいあって三尊像は売却されずに済み、39年に旧国宝(現重要文化財)に指定された。

 

随分後になって知ったのだが、父親(私の祖父)が早逝したため高等小学校しか出ていなかった父は通信教育で勉強していた。だから歴史に詳しく、三尊像の価値もわかったのではないか。

 

父は、後に数学の大家として学士院会員となった功力金二郎先生と小学校が同じだった。勉強で競い合っていたとよく話していた。

 

母は小学校の先生をしていた。「気性が激しく夫を不幸にする」という迷信がある丙午の生まれで、同級生の何人かが自殺したという。嫁に行けないのだから自活できなければと考えた親の勧めで高等師範学校に進み、教員資格をとった。

 

小学生の時、母の日記帳を見たことがある。「教師の資格は自分自身が進歩していることである」と書いてあり、いい言葉だなと思った。後年、教員生活をすることになってからもよく思い出した。

 

私には1歳年上の姉、淳子がいたが、39年に次男の朔平が、40年に3男の泰三が、さらに42年には次女の真知子が生まれた。

 

母は46年、私が小学校5年の時に教師を退職し、家で手掛けていた養蚕に専念するようになった。最初は近所の人に教えてもらいながらやり方を覚えた。蚕の状態や部屋の温度、作業内容などを細かく養蚕日記に記録し、実験ノートのようだった。それを見ながら年間の作業や仕事の手順を考えたので、生産効率は上がり量も増えた。

 

忙しい両親に代わり、同居していた父方の祖母の志ずが私たちの面倒を見てくれた。隣村の村長の娘で、よく勉強しており記憶力もよかった。小学校1、2年生の頃、青年たちに講談を聞かせたというエピソードが残っている。

 

私の考え方や行動は祖母の影響をもっとも強く受けた。なかでも、「人の振り見て我が振り直せ」「情けは人のためならず。めぐり巡りて己がため」という考え方が一番大切だと教えられた。

 

(北里大学特別栄誉教授)

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