大村智(31)至誠惻怛

500の発見、微生物に感謝
幾多の支え、社会貢献で報恩

国内の恩人にも触れておきたい。フグ毒などの研究で知られた薬学の故津田恭介先生は私の研究を早い段階から評価し学士院賞に推して下さった。杉村隆先生には医学分野でいろいろご指導頂いた。有機合成化学の向山光昭先生は弟のように接して下さっている。生化学の山川民夫先生には学問とゴルフの両方でお世話になった。

企業からは元北里研究所理事で第一製薬(現第一三共)から来た岩井譲君、元北里大学教授で協和発酵工業(現協和発酵キリン)出身の田中晴雄君らが私の研究グループに加わり支えてくれた。私たちが発見した、微生物が作りだす新規化合物は500近くに達した。微生物にも感謝している。毎年1月5日には研究室の培養槽にお神酒を注ぎ、安全と新物質発見を祈念するのが恒例となっている。

北里研究所の改革では、事務部門の優秀な職員に助けられた。経理マンの上里雅光君や大蔵省(現財務省)を辞めて来て頂いた斉藤和男さんらには新規事業の実施など研究所の再建に尽力頂いた。赤字体質や、ワクチンの在庫問題などは彼らなしには明らかにできなかっただろう。

家族にも礼を言いたい。妻の文子は結婚生活の3分の2あまりの期間、がんと闘っていた。米国から戻り私が教授になって間もない1976年に乳がんの手術を受けたが、がんは子宮、肺、骨へと転移した。痛みや抗がん剤の副作用に悩まされながらも家事をこなし、ホームパーティーの料理の手をぬかなかった。

文子は北里研究所病院に入院すると、私が「経営が大変だ」と言うのを聞いて次々に友人や知人を病院に紹介した。点滴を受けながら受け付けやお見舞いを手伝い、予約手続きまでしているのには驚いた。

2000年4月、米科学アカデミーのイベントに外国人会員として出席するため渡米した際には小型酸素ボンベ、大量の鎮痛剤を持ち、娘の育代と秘書の鈴木陽子さんを伴って私に同行した。6月には女子美術大学の「大村智先生ご夫妻を囲む会」にも病院を抜け出して着物姿で出て、挨拶までこなした。そして9月に息をひきとった。

教育熱心で礼儀正しかった文子と、自由を好む現代っ子の育代は普段からあまり気が合わなかった。育代は家を飛び出した時期もあるが、文子が寝たきりになると病室で寝泊まりし、つきっきりで看病した。それを見て、二人の気持ちが通じ合ったのではないかと感じた。

育代には美術館や温泉の管理運営を受託する会社の仕事を任せている。私に対してあまり感情を出さず会話も少ないが、ノーベル賞授賞式の後には壇上に駆け上がって「お父さん、おめでとう」と言ってくれた。晩さん会などのイベントも一緒に出ることができ、よい思い出になった。

私は本当に多くの人に支えられてきた。お返しに社会貢献をといつも考えている。特許料をもとに始めた北里研究所の研究奨励金や、1995年に科学振興と人材育成をめざして設立した「山梨科学アカデミー」がその一助になればと思う。

最後に、北里研究所の伝統のさらなる発展を担う若い皆さんに「至誠惻怛」という言葉を贈りたい。誠を尽くし、いたわりの心をもって人に接する。そうすれば必ず道は開ける。

(北里大学特別栄誉教授)

=おわり

大村智(30)伝承

北里イズム、次の世代へ
内外の同志と手携え成果

私の居室は北里大学北里生命科学研究所の2階にある。この研究所は長年の願いがかなって実現した、従来の学部―大学院研究科の縦型の教育研究組織から脱した大学院大学の研究部門という位置づけだ。隣では北里研究所本部管理棟などの新築工事が順調に進んでいる。

これまで北里研究所の改革に力を注いできたのは、先人の残されたものをきちっと次代に引き継ぐためだ。研究所には北里柴三郎先生の抗体療法と並び、志賀潔、秦佐八郎、そして秦藤樹先生へと続く化学療法にかかわる研究の伝統がある。私はこの流れを秦先生から研究施設や多くの微生物とともに受け継いだので、自分の研究室、大村室をスムーズに立ち上げられた。

今日まで実に多くの仲間に支えられてきた。私がエバーメクチンを最初に発表した論文の共著者、大岩留意子君は本当によくやってくれたが、残念ながらがんで亡くなった。ノーベル賞授賞式に出発する前にお墓参りし、写真を持って式典にのぞんだ。

名誉教授で創薬資源微生物学寄付講座コーディネーターを務める高橋洋子君は高校卒業後、秦先生の研究室の研究補助員として採用された。本人は尻込みしていたが私は博士号をとるよう勧め、米国留学のお手伝いもした。見事に期待にこたえてくれた。やはり秦室以来の付き合いの増間碌郎君とともに、研究を発展させてくれた。

大村室からはこれまでに31人もの教授が出て、後を託せる人材も育ってきた。砂塚敏明教授は化合物の合成や化学変換で実績をあげている。若い人たちを引き付け、資金集めにも努力している。スクリーニング(探索研究)を担当する塩見和朗教授も研究室に欠かせないリーダーだ。

池田治生教授は微生物の遺伝子レベルの研究を引っ張る。放線菌の遺伝子操作による新規物質の創製は1985年、英ジョン・イネス・センターのデービッド・ホップウッド教授との共同研究により世界で初めて実現し、抗生物質メデルロジンを作った。池田君は同博士のところに留学後、エバーメクチンを作る放線菌のゲノム(全遺伝情報)解読の中心となった。

2001年にカナダのバンクーバーで開かれた国際シンポジウムで彼が解読結果を発表すると、主催者が思わず「ありがとう。そしておめでとう」と言うほどインパクトがあった。ゲノム解読には9億円かかった。半分を通産省(現経産省)の研究費で賄えたとはいえ、特許料収入がなければできなかっただろう。

この放線菌のゲノム上には30を超える物質を作る遺伝子が載っていることがわかった。無駄なものを作らないようゲノムの20%をカットしたものも作った。ここに、ほしい物質を作る遺伝子を組み込めば効率がいい。創薬革命につながる技術だ。そんな事に誰も気付かないうちから取り組んできたのが、私たちの強みだ。

海外の多くの研究者と友好を深め、広い分野の知識を得られたことも力となった。天然有機物化学の大家で69年のノーベル化学賞受賞者の故デレック・バートン教授は第1回マックス・ティシュラーメモリアルシンポジウムで講演して頂き、98年に亡くなるまで交流を続けた。01年のノーベル化学賞を受賞したバリー・シャープレス教授とは今も共同研究をしている。

(北里大学特別栄誉教授)

大村智(29)美術館を建てる

女性画家の作品一堂に
温泉・飲食店もアートづくし

女子美術大学の100周年記念事業では、1つの大きな出合いがあった。記念展「ヴィーナスたちの100年」に出品されていた、卒業生の岡本彌壽子さんの作品「暁の祈り」の前でぴたっと足が止まってしまったのだ。

矢を持った女性は心配事か何かで神社にお参りした帰りなのだろう。祈りの雰囲気が実によく描けている。男性の絵では、こうはいかないだろう。これを機に、理事長として卒業生の絵を集めてみようと思い立った。家内に「あとで売れなくて困るわよ」なんて言われながらも次々に購入した。

一点10万~20万円のものもあれば、100万円を超えるものもあった。素人にもかかわらず「よくこれだけよいものを集めたな」と褒められる。自分で言うのも何だが、眼識があるのだろう。

やがて置き場がなくなってきたので、美術館を作ってしまおうと考えた。日本にはない、女性画家の作品を集めた美術館にしよう。そう思って2007年10月、実家の隣接地に「韮崎大村美術館」を開館した。2階の一部屋だけは、私が好きな鈴木信太郎の作品を集めた。女性画家の常設展がある美術館は世界でも、米国に1つあるのみと聞く。

2階には、3面に大きな窓を配した展示室兼用の展望カフェも設けた。自分で足場に乗り、八ケ岳や富士山が見えるように窓の高さを決めたので眺望には自信がある。

美術館建設の原資は私が構造を明らかにした抗生物質をもとに薬を開発した米製薬大手イーライ・リリーからの技術指導料と、規定に基づく北里研究所からの特許報償金などだ。最初の1年間は自分で運営して年間の維持管理費や人件費を計算し、市に示したうえで08年に作品ごと寄贈した。館長は私だが韮崎市立の美術館として運営している。開館10周となる来年、私の記念室を作ってくれるそうだ。

生家を「蛍雪寮」と呼び北里大学の学生たちとセミナーを開いたことは前にも書いたが、風呂は近くの温泉にバスで入りにいっていた。いっそ自分で掘ってしまおうと2年以上かけて掘削し、良質な温泉を掘り当てた。学生の頃に地質学の知識を身につけていたのでこの辺りは有望だと考えたが、地盤が強固で予定より難航した。

「武田乃郷白山温泉」と名前を付けた。億単位かかった。かつて訪れたスイスの洗練された観光地を思い出し、看板は控えめにしてある。温泉は好評で、静岡県あたりからも日帰り客がくる。要望に応えて隣に「そば処上小路」もつくった。両方とも私のコレクションから選んだ絵画をかけて、楽しんで頂いている。これだけの絵を鑑賞できる風呂屋さんやそば屋さんはなかなかないだろう。

故郷では仲間との再会も楽しみだ。実家の近くに住んでいた友人の田辺達之さん、彼の紹介で知り合った山寺仁太郎さんと私の3人で始めた飲み会がどんどん広がって「会」を作ることになり、私が「同事会」と名付けた。曹洞宗の教書「修証義」に出てくる言葉で、差別をせずみんな仲良くやろうという意味を込めた。

会員には地元の名士や財界人が名を連ねる。ノーベル賞受賞後も、ゴルフ仲間の「明日の会」とともにまっ先にお祝いの会を開いてくれ、500人も集まった。故郷の様子がわかってありがたい。

(北里大学特別栄誉教授)

大村智(28)女子美大理事長

創立100周年事業に奮闘
記念彫刻・版画集や基金残す

私の美術好きはゴルフ仲間もよく知っていた。その中に女子美術大学の職員だった鳴川洋一さんがいて、理事をしてほしいと打診された。1993年ごろのことだ。女子美大については1900年に設立が認可された歴史ある学校ということ以外、よく知らなかった。忙しいので迷ったが、遠縁の同大の関係者からも要請され引き受けることにした。

創立100周年記念事業の準備が始まると、今度は理事長を頼まれた。実は当時の理事長と教授会の衝突に嫌気がしていったん理事を降りたのだが、戻ってきてほしいといわれて97年に理事長に就任した。頼まれると「しようがないなあ」と受けてしまうのが私の悪いところだ。

記念事業では相模原キャンパスに美術館をつくった。10億円を目標に募金活動をし、卒業生や企業から9億円が集まった。10号館校舎の1階に広い展示スペースを設け、中庭を「ヴァンジ広場」と名付けた。現代彫刻の巨匠で客員教授(現名誉博士)のジュリアーノ・ヴァンジ先生の作品を置きたかったからだ。

ヴァンジ先生の作品はオリジナル1体のみしか作らないので、普通なら手が出ないほど高価だ。それを、小さいものでいいからと何とか引き受けて頂き、2014年に高さ165センチメートルの「金髪の娘」が完成した。女子美大生をイメージして作って下さったという。

女子美大は優秀な卒業生を多数輩出し、文化勲章受章者や文化功労者も多い。100周年記念事業では卒業生10人から作品を頂き、版画集を作ろうと考えた。さっそく何人かに相談すると、皆が「無理だ」という。いくつかの派があったし、女子美大と疎遠になっている先生も多かったからだ。でも、私は無理だと言われるとやりたくなるたちなので、やると決めた。

先輩方から片岡球子先生、堀文子先生のお二人が「うん」と言わない限り版画集はできないと助言を受けた。女子美大で教授もした片岡先生は折り合いが悪くなり他校に移っていたが、佐野ぬい先生を通して承諾頂いた。初めてお目にかかったのは00年になってからで、「富士山の絵を描き続けているが、一度も富士山にほめられたことがない」「いつかほめられるようこれからも描いていきたい」と、当時95歳で語っていたのが印象に残っている。

堀先生は最初「関係ない」とおっしゃるので、知人に飲み会をセットしてもらって口説いた。意気投合してすっかり親しくなり、温泉や写生旅行にお供するまでになった。「追い詰められた人間でないと自分の領域を切り開くことができない」などの言葉に共感し、メモ帳に記してある。立派な版画集が完成し、題字「徳の華」は私が墨書させて頂いた。

卒業生との連携を深め、同窓会長を理事に迎えた。99年には同窓生などのための基金もつくった。名称は「大村智基金」が検討されたが、私は家内の内助の功への感謝を込めて「文子」の名を入れるよう提案した。こうして「100周年記念大村文子基金」ができ、パリに研究員として滞在できる「女子美パリ賞」や「制作・研究奨励賞」などを出している。理事長は03年に退いたが、創立110周年を前にまた要請を受けて07年に再度就任し、15年まで続けた後、名誉理事長となった。

(北里大学特別栄誉教授)

大村智(27)アートな病院

絵と音楽、癒やしの空間
作品展やコンサートに注力

出張に行くと時間をみつけては美術館に立ち寄る。そうせずにはいられないほど作品を見るのが好きだ。きっかけは子どもの頃、母が寝室や勉強部屋の壁に絵を掛けていたことだ。といっても絵の写真だったが、ミレーの作品などもあった。私もカレンダーの切り抜きなどをして絵を集めていた。

最初に絵を購入したのは、北里研究所に入ったばかりの頃だ。秦藤樹教授は絵が好きで「銀座の画廊でオークションをやっているから好きな絵を買ってきなさい」と30万円ほど渡された。麻田鷹司の「湖畔」を手に入れ、持ち帰って見せると「割高だ」という。冗談交じりに「土地が3分の1もないじゃないか」と。湖畔の絵で陸が少ないのは当たり前だ。

研究室には画商が出入りしており、家内の文子に叱られながらも自分のお金で少しずつ買うようになった。初めて月賦で購入したのが野田九浦の「芭蕉」だ。今も実家に大切に置いてあり、疲れたときなどに眺めると心が休まる。

研究で得た報奨金をほとんど絵につぎ込んだ時期もあった。文子は「絵なんか売れるものじゃないし、少しはお金も残しておかないと」と嫌がったが、私は自分が観て楽しむために買っていた。そのうち、病院の患者さんも絵で癒やされるのではないかと思うようになった。

幼い頃、病院に行くと薄暗いところで何時間も待たされかえって調子が悪くなりそうだった。絵で囲まれた病院で患者さんに心を休めてもらおうと、新しくできた北里研究所メディカルセンター病院(現北里大学メディカルセンター)には日本でまだほとんど知られていなかったヒーリングアートを取り入れた。21世紀は『心の時代』になると確信しており、それにふさわしい病院にしたかった。

少ないお金でよい絵を集めるため、作品コンクールを実施して優れたものには賞金を出し、病院が引き取って飾ることを思いついた。「人間讃歌大賞展」と名付けて1回目を1989年3月に開催すると、1000点を超える応募があった。大賞展で中堅どころの作品など数百点が集まり、病院が所蔵する作品は計1700点を超える。

廊下などに250点あまりが飾ってあり、1階の絵は誰でも見られる。ロビーにはグランドピアノも置き、定期的に「市民コンサート」を開いている。しばらくは文子がマネジャー役を務め、どのアーティストを呼び出演料をどうするかなどを決めていた。

病院に併設した、看護専門学校の講堂がある付属棟にもまるで美術館のように絵画が多数掛けてある。中国の王森然の書画や岡田謙三の絵の展示室もある。日ごろからよい作品に触れ、豊かな心を持った看護師に育ってほしいという願いからだ。2012年には大村記念館も開設してくれた。

99年に竣工した白金の北里研究所病院の新棟にも絵画をたくさん飾った。私が好きな画家、鈴木信太郎の作品をヒーリングアートとして北里研究所でまとめて購入した。彼は「コロリスト」と呼ばれ色使いがきれいだ。大学で芸術教育を受けておらず、当初は注目されなかったが今はファンも多い。「変わり者」と呼ばれている点が私と似ているので、親近感を覚えるのかもしれない。

(北里大学特別栄誉教授)

大村智(26)ゴルフ

体の異変が契機 夢中に

芝生で交流多彩な人脈築く

 

抗生物質の研究、北里研究所の経営立て直し、新病院の建設――。よくこれだけのことをしてきたと思うが、体を壊しかけたこともある。北里大学の教授になり、大村室が独立採算で運営を始めた頃、目がさえて夜も眠れなくなった。検査を受けても体の異常はみつからなかったが、食欲がなくなり目まいもした。

家内が何度か温泉旅行を計画してくれたが治らない。最後は心療内科を受診し、医師から「このままでは体が参ってしまう。パチンコでもゴルフでもいいから、仕事以外に打ち込めることを見つけなさい」と言われた。教授がパチンコにはまるわけにもいかないので、ゴルフを始めた。

さっそく、家内のお母さんが伊勢原市に近いゴルフ場の会員権をプレゼントしてくれた。自分で車を運転して結構よく通った。ハンディキャップ18でスタートし、5年後にはシングルになるという「5カ年計画」を立ててのめり込んだ。

私のやり方の大きな特徴は多くの人がするようなプレーの前ではなく、終わってから必ず練習したことだ。たとえ飲んでも、帰りにどこかの練習場に寄った。ヘマをしたところを、その日のうちに振り返り、原因を突き止めるためだ。

もう一つは、どんな場面でも決して投げ出さなかった。バンカーに入ろうが何だろうが最後まできちんとプレーする。結果的に大逆転することもあり、「大村とプレーしたら風呂に入るまで勝負はわからない」なんて言われた。

へたな人とプレーしても仕方ないので、ハイレベルな人たちとやるようにした。教えるのが大好きな「教え魔」とも一緒に回らなかった。教えられすぎると、その人を超えられないからだ。

しばらくして本厚木カンツリークラブの会員になると、ハンディが0とか1の人ばかりの「練成会」に入らないかと誘われた。当時、私はハンディ12~13だったが、練成会でもまれたおかげで本当にゴルフを始めて5年ほどでハンディ5まで上達した。

年2回の検査入院の際に看護師さんを「キャディーさん」と呼んでしまうくらい、ゴルフに夢中だった。「クラブチャンピオンになれるかもしれない」と言ってくれる人もいたが、新病院建設のための医師会との交渉などが忙しくなり、ゴルフどころではなくなって実現しなかった。

ただ、ゴルフをやめたわけではなく、1990年には名門の霞ケ関カンツリー倶楽部の会員になった。北里研究所メディカルセンター病院がオープンした翌年で、北里研究所の理事・所長になった年でもある。北里研究所病院の河村栄二院長に副所長をお願いし、白金の病院建て替えを一緒に進めた。

大学を管轄する北里学園から2人、研究所側は私と河村先生が参加して「4者会談」を何度も開き計画を詰めた。一つ一つ学園の了解が必要で、手間も時間もかかった。社団法人の研究所と学校法人の学園の統合へ向けた話し合いも99年ごろに始め、2008年4月の学校法人北里研究所への統合を見届けて私は名誉理事長に退いた。

ゴルフを通して経営者、政治家などいろいろな職種の人たちと交流できたことが研究所の再建に本当に役立った。培った人脈のおかげで学者の世界だけではわからないような、経営や経済に関する貴重な情報が得られた。

(北里大学特別栄誉教授)

大村智(25)埼玉に新病院

地元医師会が強く反発

署名運動が奏功200床で開業

 

北里研究所の経営立て直しでは一つ一つ成果を出したので、私を生意気だと思って反対していた人も「大村の言うことは聞かざるを得ない」というように変わっていった。米メルクから特許料が入り始めたこともプラスに働いた。

ただ、研究所から寄付を受けていた大学側では、今まであてにしていた金が入らなくなり面白くないと思っている人たちがいた。副所長再任の際に彼らが画策して私を落とそうとしたこともある。あと一票、反対があったら降ろされるところだった。

私を支持する人たちからは「所長をやってほしい」という声も出たが、今度は病院長の河村栄二さんのところに「大村は所長になったら、あなたを院長からはずそうとしている」などとデマが流れた。でも、そうした情報を私に教えてくれる仲間もいた。

結局、所長の水之江公英先生と副所長の私のコンビは6年続いた。私は手狭な港区白金のキャンパスで、床が波を打つほど古くなっていた病院の東館を何とかしたかった。北里柴三郎先生が開いた病院をきちんと残したいが、新築する場所がなかった。

そこで、白金のワクチン製造工場を移転して跡地を利用する戦略を立てた。出入りの建設会社の営業マンが、埼玉県北本市によい移転先の候補地があると教えてくれた。ヘリコプターでゴルフ場用地を探していた知人に同乗させてもらい、上から見ると緑に包まれたよい土地だ。

農林水産省の農事試験場畑作部の跡地で、約9万坪あった。用途は大学か病院、研究施設等と定められていた。そこで、病院を作り、ワクチンの研究・製造施設は付属施設と位置づけることにした。

ところが、患者を奪われるのを恐れた地元医師会が病院建設を阻止しようとした。何十回も会合をもったが計画の一つ一つに難癖をつけ、いったん了承したことまで蒸し返した。新病院と地元の医師の診療所が連携する「病診連携」でやっていこうと説明しても通じなかった。

計画は遅れ気味だったが、家内が北本市に住んでいた北里大学の卒業生、大久保(旧姓・林)道子さんのお母さんをなぜか知っていて、協力して病院建設を求める署名運動を起こした。こういうネットワークはすごい。2万5000人もの署名を集め、ついに医師会は折れた。

ただ、病院の規模は600床とし、200床でオープンしろと条件を付けてきた。あとは医師会の了承を得ながら増やせという。これでは赤字経営になる。交渉の結果、440床の病院を作り200床から始めることになった。

1987年9月3日に着工し、89年4月に「北里研究所メディカルセンター病院」が開院した。土地代は50億~60億円、建設費は80億円くらいだったと記憶している。米メルクからの特許料収入でカバーした。多い時で年間16億円ほど入っていた。

その後93年にワクチンの研究・製造施設、94年に北里大学看護専門学校が完成した。本当は大学院大学を作りたかったが理解を得られなかった。特許料で研究する人はいるが、病院まで作ったのは初めてではないだろうか。2002年には増設して、念願の440床を達成した。

(北里大学特別栄誉教授)

大村智(24)副所長

経営改革、教授辞め専心

人事に大なた粘り強く説得

 

北里研究所の理事会は私の求める改革に対し、「そんなにいろいろ言うなら副所長をやってみろ」という感じだった。どうせ何もできないと踏んでいたのだろう。自分から役職に手を挙げたのは、後にも先にもこの時だけだ。

副所長になり本当に大学の教授を辞めると、皆にびっくりされた。「あいつは都合が悪くなればすぐに大学に帰るんだろう」と受け止められたら誰も言うことを聞かない。そう思って退路を断った。

給料はどーんと下がった。もともと研究者の妻になりたくて私と結婚した文子は、「ようやく教授になったのに経営者なんてやめて下さい」と反対だった。文子とは以前から、「何をするにしても研究だけは絶対に続ける」と約束していた。企業から北里研究所に頂いたお金で、独立採算でやっていた研究は続けると言ってわかってもらった。

当時の心境が手帳に記録してある。これから先を考えた場合、大学の教授を続けるよりも、研究所を立て直す仕事の方がはるかに大きなことができるだろうという思いが書いてある。北里研究所は日本にとっていわば宝だ。それを残すことは、大学の私の小さな教室の運営よりもはるかに大事だった。

病院とワクチンの製造部門を立て直したうえで新病院を作るのは、大変なエネルギーを要した。北里研究所は社団法人だったので、一つ一つ社員の了解をとらないと物事が進まない。社員は高齢で頑固な先生も多かったので納得してもらうのが大変だった。

そんなときに思い出したのが、前にも紹介した元山梨大学長、安達禎先生の「何事も千畳敷のど真ん中でやれ」という言葉だ。それまで隠されていた研究所の実情を、わかりやすい資料を作ってすべてオープンにした。ワクチンの製造部門では、原価の半分以下の値段で売っている製品もあった。赤字の実態を目の当たりにして「これは確かにひどい」とわかってくれる人が増えていった。

製造部門はまず人員削減をした。といっても首を切るのではなく、誰かがやめても補充しなかった。ワクチンは麻疹やインフルエンザなど種類ごとに担当者がいたが、シーズンオフには掃除くらいしかすることがなかった。そこで1人当たり2、3の仕事を担当してもらった。すぐに3分の2の人員で足りるようになり、しかも売り上げは維持できた。

病院は外部の専門家に調べてもらい、院長を変えるべきだという結論に達した。新院長の候補には河村栄二外科部長の名が挙がった。カラコルム山脈の登山隊を率いて成功した実績があり、まじめで熱心、まっすぐなスポーツマンだ。誰も考えなかったような候補だったので社員のほぼ全員が反対したが、一人ひとり説得して了解を取り付けた。

河村さんは院長になると朝は誰よりも早く病院に来て、夜は一番遅く帰った。私からお願いしたことでもあるが、院内をくまなく見て回り現場の把握に努めた。

私が信条としている言葉に「実践躬行」がある。口先だけでなく自ら進んで実践することだ。河村先生はまさにそれをやった。すると、皆が「私も頑張りましょう」と付いてくる。時間になったら患者がいても帰ってしまうのではなく、最後まで診る。一人でも多く診れば収入も増える。研究所は赤字経営から徐々に脱した。

(北里大学特別栄誉教授)

大村智(23)北里研監事

財務学び経営実態調査

巨額赤字が判明、改革訴える

 

1981年、北里研究所の監事を拝命した。北里研究所は設立50周年記念事業として62年に学校法人北里学園を創立し、その下に北里大学があった。最初は衛生学部のみで、後に薬学部や医学部、そして北里大学病院ができた。

大学の設立に必要な費用の多くは北里研究所が負担していた。土地も建物も大学に寄付し、研究所は借金を抱えていた。理事会が大村室の閉鎖を求めてきたことがあったのも、そうした事情のためだ。

研究者の多くは大学の仕事を兼務し、研究所の実体はほとんどなくなっていた。これではいけない。大学に負けない研究所にしたい。理事会を黙って聞いて、判を押すだけの監事にはならない。そう思って、研究所の経営実態をつぶさに調べることにした。

当時、「経営を研究する」ことがはやっていたが、私は「研究を経営する」という言葉をよく使っていた。これには研究のアイデア、そのための資金導入、人材育成、得られた成果の社会還元の4つの要素がある。北里研究所の経営においても大切なことだ。

経営や財務はまったくの素人だったので専門書を読みあさったが、それだけではよくわからない。誰かに個人レッスンを受けたいと家内に相談すると、日本女子経済短期大学(現・嘉悦大学)の恩師に聞いてくれ、税金に関する本などを多数出していた井上隆司先生を紹介された。月1回、新宿の小田急百貨店のレストランで、食事をしながら基礎から教えてもらった。

監事には常任監事の私のほかに、社外監事の二宮善基さんがいた。日本興業銀行(現みずほ銀行)副総裁を経て、東洋曹達工業(現東ソー)の社長、会長を務めた人物だ。私は二宮さんの会社までお邪魔し、研究所の経営について話をした。大学の先生をしているだけではわからなかった経営の厳しさを知った。

やはり監事で東京海上火災保険(現東京海上日動火災保険)社長だった渡辺文夫さんからもいろいろとお話を伺った。勉強を重ねたうえで理事会に「北里研究所の財務諸表を出してほしい」と要求し、じっくり調べた。

気が狂うかと思うほど大変だったが、とんでもない赤字で倒産してもおかしくない状態であることがわかった。借入金残高は金融資産残高を上回っていた。唯一の収入源のワクチン製造部門は建物だけでなく、利益まで大学に寄付していた。ワクチンは在庫の積み増しによって黒字のように見えていた。しかも、実態を知っている理事は7人中、1人だけだった。

54年に建設された港区白金の北里研究所病院も、老朽化して使い勝手が悪くなっていた。研究所の立て直しとともに病院も何とかしたかった。82年8月、吉岡勇雄所長に宛てた「北里研究所新病院建設に関する提案」を理事会の場で提出した。

そこには「北里研究所の繁栄は北里大学にとっても重要であり、両者の独立かつ健全なる運営はオール北里の相乗的発展への道である」「北里研究所における現行の事業をみるに先細りの感は免れない。これを建て直すには新しい事業計画が必要である」などと書いてあった。

これだけのことをするには自分が経営者としてやっていく必要がある。研究所の副所長に手を挙げ、大学教授を辞めることにした。

(北里大学特別栄誉教授)

大村智(22)特許交渉

「一時金3億円」断り正解

途上国で薬浸透 現地で実感

 

エバーメクチンをもとにした動物薬の発売へ向け準備が進んでいた頃、メルクと具体的なロイヤルティーの額を詰める交渉が始まった。メルクは3億円ですべての権利をもらえないかと提案してきた。教授が定年まで何の心配もなく研究できるだけの額だった。

北里研究所の担当理事は「3億円をもらった方がいい」と勧めてきた。しかし、私は売り上げのうちのある比率をメルクが北里研究所に支払う方式にすべきだと主張して譲らなかった。特別な理由があったわけではなく、さしあたってその時には緊急のお金はいらなかったからだ。

エバーメクチンの活性などのデータを見ていて、何年かのうちに受取額が3億円を上回るだろうと思えた。慌てずに売り上げが立つのを待った方がよいと考えた。結果的にそれがあたった。

メルクとの契約はエバーメクチンの最初の特許だけでなく、私たちが見つけた放線菌を使って作るすべてのものに関する特許を含んでいた。メルクが化学構造に手を加えて作った誘導体に関する特許料も、北里研究所に入るようにしておいた。

おかげで2003年まで特許料収入があった。79年にエバーメクチンの特許を取得してから20年以上も収入をもたらしたのだから、我ながら良い判断だったと思う。

エバーメクチンを改良したイベルメクチンの動物薬は世界の動物薬市場でトップの売り上げが20年間続き、メルクの全製品の中でも2位となった。得られた特許料収入の総額は200億円あまりに達した。3億円で契約しなくてよかった。

熱帯の寄生虫病のオンコセルカ症(河川盲目症)やリンパ系フィラリア症の薬メクチザンは、無償供与プログラムによって途上国の人々に提供された。年1回投与するだけでよい特効薬として普及している。ある試算によると、北里研究所の貢献は30億円相当だという。

04年に無償供与先の1つ、ガーナを訪れた。アズベンデという集落に入ると、子どもたちに手を引かれつえを付きながら歩く人がそこここにいた。オンコセルカ症で盲目になってしまった人たちだ。

一方で、メクチザンによって「足がかゆくなくなった」と喜ぶ人の声も聞いた。「私は目が見えないが、子どもはメクチザンを飲んでいるので病気をうつさずにすむ」という言葉も忘れられない。

学校に立ち寄り、日本の研究者だと紹介されたが子どもたちはぴんと来なかった。ところが、通訳を介して「メクチザンを知っていますか」と聞くと皆が口々に「メクチザン」と声を上げた。薬の名が浸透しているのを実感した。

世界保健機関(WHO)などはリンパ系フィラリア症を20年までに、オンコセルカ症を25年までにそれぞれ撲滅できるとみている。ただ、優れた抗生物質でも、それに打ち勝つ耐性菌ができる場合が多い。メクチザンもいずれ耐性をもつ線虫が現れ撲滅が難しくなるのではないかと思っていたが、幸いそうしたことがなく今日に至っている。

イベルメクチンは日本にも患者がいる糞線虫症や、小さなダニが寄生して起きる疥癬にも効果がある。マラリアや結核、リーシュマニア症などに効くという論文もあり、薬の可能性は広がりそうだ。

(北里大学特別栄誉教授)