松岡功(24)「影武者」(下)

勝さん「しょうがないな」
作品はアカデミー賞候補に選出

黒澤監督の大作の主役は誰でもやれるものではない。勝さんが何としても「世界のクロサワ」が久々に手がける娯楽作品の主役を演じたいという気持ちはわかるのだが。

東京プリンスホテルの部屋を訪ねると、勝さんはきちんとした身なりでソファに座っていた。さすがにテーブルに酒はない。勝さんに「どうやったら戻れるんだ」と聞かれても「監督がどうしても嫌だと言うのなら、何もできません」と答えるしかなかった。

「なぜビデオカメラなんか持ち込んだんですか?」と何度尋ねても、勝さんは「うーん」とうなって言葉が出ない。あの彫りの深い顔に苦渋と後悔が張り付いている。

勝プロの作品なら勝さんが多少のことをやっても、監督は「社長」のすることに文句を言わない。それに慣れてしまっていたのではないかと思ったが、口には出さなかった。しばらくの沈黙。

「いやあれは、役者としてどうしたらいいかを勉強しようと思って撮影したんだ」「でも監督なら誰でも怒りますよ」「うーん」。同じ言葉が繰り返され、また沈黙。それが3時間続いた。「ではまたあした参ります」という言葉を残して部屋を辞した。

翌日、同じソファに対座して30分ほどたったところで、勝さんが吹っ切れたように「しょうがないな」とつぶやいた。一晩考えた末の結論だったろう。仮に代役が見つからなくて勝さんが続投しても、監督との間に生じた溝は埋まらず、ぎくしゃくしたまま作品の出来に影を落としたのではないか。考えれば、こうなるしかなかった。

主役を仲代さんに代えて撮影が再開された。山場となる合戦シーンは、北海道の苫小牧に近い河川敷で撮ることになっている。撮影に必要な60頭ほどの馬をそのために買っていた。私は現場に行った。しかし監督は「雲がもう少しないとだめだ」と言ってカメラを回さない。結局、その日は撮影中止になった。

こんなことが続いたら「赤ひげ」の二の舞いにならないだろうかと、かすかな不安がよぎったが、黒澤監督は予算と撮影期間を守り「影武者」は立派な作品に仕上がった。1980年に公開されると興行的にも大成功で、しかもその年、カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞した。

翌年には米映画界の最高峰、アカデミー賞の外国語映画賞にノミネートされた。私は監督の代理としてロサンゼルスに飛んだ。授賞式が予定されていた81年3月30日、就任間もないレーガン大統領がワシントンで銃撃される事件が起き、式は中止になった。

ところが大統領が致命傷ではないとわかると、授賞式を翌日開くことが決まった。関係者は様々な予定をキャンセルして出席し、テレビもレギュラー番組を飛ばして3時間以上も中継した。「影武者」は残念ながら受賞できなかったけれど、米国人の映画に対する愛情と誇り、そして映画産業の巨大さを知った。

ともかく日本映画の低迷が言われて久しい中で、東宝は「影武者」という世界に胸を張ることができる作品を世に出した。

仲代さんは名演技で監督の期待に応えたが、いまでもあの映画を思い出すたびに空想することがある。「もし勝さんが主演していたら、どんな作品になっただろうか」と。

(東宝名誉会長)

松岡功(23)「影武者」(上)

黒澤監督「勝を降ろす」
撮影開始後の主役交代劇

1979年、私は藤本真澄プロデューサーに「黒澤監督の作品をやりたい」と言った。藤本さんには意外だったかもしれない。というのも東宝と黒澤明監督との関係は微妙と言えば微妙だったからだ。

すでに書いたように監督は65年の「赤ひげ」で大幅に予算を超過し、撮影期間も予定をはるかに上回った。作品の出来栄えとは別に、映画会社としては見逃せないことだった。東宝は監督の専属契約を解除することになる。

その6年後に「どですかでん」で東宝作品に戻ってきた監督だったが、作品は娯楽映画ではなく、客の入りも良くなかった。しかし私がいたニューヨークでもローマでも「七人の侍」「椿三十郎」「用心棒」といった黒澤作品は一級の娯楽作品との評価が高く、再びそんな映画を東宝で撮ってもらいたかった。

藤本さんから連絡を受けた黒澤プロダクションの担当者がすぐに台本を持ってきた。監督が温めていた企画で、タイトルは「影武者」。読んで「いけるのではないか」と思い、すぐにプロデュースを田中友幸さんにお願いした。

田中さんは「日本沈没」を手がけた名プロデューサーで、それまで黒澤監督と何本か仕事をしている。気心も知れているのだろう。すぐに「やります」と言ってくれた。

撮影が始まったとの報告を受けていくらもたっていないのに、田中さんから急ぎの電話が入った。「監督が主役の勝さんを外すと言っていますので外します。代役は仲代達矢を考えています」

主役は勝新太郎さんと決まり、記者発表もしている。撮影が始まってからの交代など前代未聞だ。一体何が起きたのか。

田中さんの話によると、勝さん自ら撮影現場にビデオカメラを持ち込み、リハーサルの様子を撮影したらしい。そこには監督が考え抜いて配置した本番用のカメラが何台も置かれている。それなのになぜ俳優が勝手にビデオカメラで撮影するのか。「何だこれは」ということになった。

監督にとって俳優は自分の指導で自分のイメージ通りに演じればよく、それ以外のことをしてはならない。すれば監督の領域に踏み込むことになる。張り切り過ぎた勝さんは、そんな黒澤組の鉄則に触れたということだろう。

田中さんは「監督は勝さんに会いません。監督が心変わりする可能性は絶対にありませんので、そちらで処理してください」と言ってきた。東宝は黒澤映画を作りたいのであって、勝新太郎主演映画を撮りたいのではない。監督が「勝を降ろす」と言うなら、そうするしかない。

勝さんは勝プロを設立してから、座頭市シリーズを中心にたくさんの作品をプロデュースし、脚本を書き、監督の経験もある。そんな仕事が好きだった。才能もあった。悪気ではなくその延長でやったとしても、相手は黒澤監督だ。うかつだった。

だが勝さんは「まだやりようによっては脈があるのではないか」と思っていた。現場の問題を処理するのはプロデューサーの仕事だが、田中さんは勝さんとあまり面識がない。そこで勝プロとの提携以来、親しくしていた私が、東京プリンスホテルの勝さんの部屋に呼ばれた。

勝さんは「主役を降りろと言われたけれど、まだ未練があるんだ。どうやったら戻れるんだ?」と聞く。

(東宝名誉会長)