福澤武(29)独立自尊

守る 変える
貫いた信念

社長職は丸ビル開業の1年前に退いていた。「どうして丸ビル開業を花道にしないのか」という声もあったが、後任の候補は考えていた。会社の経営も落ち着いていて、バトンタッチにちょうどいい。それに、丸ビル開業のときの社長なら、世間の注目も集める。丸ビルは次期社長への贈り物だった。

その後も丸の内は東京、そして日本を代表するビジネスセンターとして成長し続けている。一方、アジアの都市も台頭している。

人材は魅力的な街に集まる。丸の内は変わり続けなければならない。

曽祖父の諭吉は「一身にして二生を経る」と述べている。明治維新の前と後、まるで違う2つの時代を生きたという意味である。83年間の我が人生を振り返れば、3つの時代を生きた。戦前と戦後、そして戦後のアンシャン・レジーム(旧体制)が終わったと考える1997年以降である。いわば「一身にして三生を経る」体験をしたが、時代が移り変わっても忘れてはならないことがある。

守るべきものは守り、変えるべきものは変えることである。私自身、経営者として口癖のように繰り返してきた。

丸ビルの建て替えで初めて指名入札を導入したときは、建設業界に恨まれたと思う。それでも勇気をもって見直した。「変えることが道理にかなう」と考えたからである。

ならば、何を守り、次の世代に引き継ぐべきか。一つは、長きにわたって社会に貢献し続ける老舗の精神だと思う。

2009年の9月4日、「Spirits of SHINISE 協会」という団体を立ち上げた。前年のリーマン・ショックが示したように「カネのためのカネもうけ」を追い求めていては、企業社会は長続きしない。老舗の精神を研究しようと、今は50社ほどのメンバーとともに侃々諤々の議論を続けている。

老舗の理念や歴史に共通するのは、まずはお客様に良い物、良いサービスの提供を目指すことである。それを実現するために、従業員を大切にして従業員の価値を高める。そのうえで生まれた利益から株主配当を出していく。それこそ老舗の精神である。

我々の歴史は革新のヒントも教えてくれる。丸ビルは、法隆寺の五重塔の芯柱から着想を得た「耐震シャフト」を使っている。昔の知恵を取り入れ、大地震にも耐えられる構造になっている。学ぶべきことはたくさんある。

次の世代が良い社会をつくるには、まずは企業が健全にならなければならない。企業は社会の公器だからだ。日本企業は「企業戦士」や「モーレツ」を求めてきたが、一方で精神的な豊かさを置き去りにしてきたのではないか。それが社会のゆがみにつながったのではないか。

生きがいを持って毎日を過ごすには家庭が健全であることも大切だ。良い家庭づくりに努めるのは社会人の責務である。

ずっと寝たきりで、一族の落ちこぼれと思われたこともあったが、多くの人に支えられて今日まで来れた。特に、私が生きてこれたのは母のおかげであり、働いてこれたのは妻の支えがあったからだ。

本当に感謝している。そんな人たちに囲まれて、私の独立自尊がここにある。

(三菱地所名誉顧問)

福澤武(26)三綱領

取引先への虚礼は廃止
岩崎小弥太の精神、立ち戻る

海の家事件の後、メスを入れようとしたのは、甘さが残る企業風土そのものである。道理がないと考えていた虚礼は廃止した。

例えば、取引先へのお歳暮やお中元。古くからの慣習だったから、戸惑いの声もあった。担当部署に「取引先に説明できるよう、『今後は失礼させていただきます』という趣旨の手紙をつくりなさい」と命じても、なかなか手紙の文案を持ってこない。

社内には「営業上やりにくくなる」などといった意見が根強くあったらしいが、これでは何も変わらない。最後は「社長命令だ。今後は一切廃止」と言ってやめさせた。

節度を超える接待も禁じた。接待はビジネスマン同士の情報交換だから、どんどんやるべきだ。ただし、高級料亭で深夜まで飲んで食べて、カラオケならぬ、ギターの生演奏に合わせる「生オケ」に興じる午前様に理はない。ビジネスマンに大切な「心身の充電」が難しくなってしまうのではないかと感じていた。

歴史の長い企業には、たくさんの前例や慣習がある。社員には「守る必要がないものはどんどん壊していい」と繰り返した。虚礼廃止などは若手を中心に「社長のやることは明快だ」と支持された。社内は少しずつ変わっていた。問題は、これからの道しるべをどこに求めるか、である。

ヒントは三菱財閥の歴史にあった。三菱第4代社長の岩崎小弥太が残した「三綱領」は、所期奉公、処事光明、立業貿易を説いている。この3つを「パブリック」「フェア」「グローバル」と読み替え、三菱地所で働く者全員が大切に守る企業行動憲章をつくった。この憲章は今も社内の事務室や会議室、応接室に掲げてある。何より、我々一人一人が肝に銘じている。

それは三菱グループ共通の思いでもある。後に、グループ企業の社長や会長でつくる「金曜会」で三菱商事の槙原稔さんに相談を受けた。槙原さんは当時、金曜会の世話人代表。日本的な経営が揺らぐ時代に「我々の姿勢を示すメッセージは何か」と聞かれた。当時の世話人会メンバー全員が行き着いたのが三綱領である。なぜ、制定から70年近くたつ古い文言だったのか。

「小弥太は『三菱をどう守るか』を考えて三綱領をつくっていない。『三菱がどうあるべきか』という前向きな姿勢で考えているから、現代にも通じるのだ」。持論をぶつと、うなずいてくれた。

一方、グループの結束と各社の経営とは別だった。丸の内地区は三菱の企業が多く、「三菱村」とも言われていたが、三菱重工業が品川への本社移転を決めた。国鉄清算事業団の土地を買って自社ビルを建てるという。三菱重工の相川賢太郎さんに「思いとどまってほしい」とお願いしていたが、「自分のおやじは『若ければ、貸家もいいが、いずれは自分の家を持て』と言い残した。重工も自前のビルを持ちたい」とかわされた。

三菱商事は後になって丸の内へ戻ってきてくれたが、一時期は機械部門などが同じく品川へ移転した。

マスコミからは、ビルの老朽化やテナント流出などで「丸の内の黄昏」などと皮肉られていた。地所がよって立つところは街づくりにほかならない。社員たちと私は立ち止まってはいられなかった。

(三菱地所名誉顧問)

鈴木敏文・セブン&アイ会長辞任の「本当の理由」

子会社のセブン-イレブン社長人事をめぐり大混乱

コンビニエンスストアを産み出し、日本最大の流通グループを作り上げた鈴木敏文氏は、なぜ辞任しなければならなかったのか。鈴木氏本人をして「私以上に私を知っている」と言わしめたジャーナリストの勝見明氏が、その真相を分析する。

■なぜ鈴木敏文氏は世間から誤解されるのか

セブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文会長が辞任の意向を表明した。私はこれまで鈴木氏に数十回取材を行い、鈴木氏の発想法や仕事の仕方、生き方についていろいろな角度から質問し、その暗黙知を引き出し、言語化(形式知化)するという仕事を続けてきた。そのため、鈴木氏本人から「私以上に私を知っている」と評されたこともある。その私から見ると、今回の辞任劇についてのマスコミ報道や世の中の反応には、多分に「誤解」が含まれているように感じる。

鈴木氏の思考法の大きな特徴は、常に未来に起点を置いて発想することにある。過去や現在の延長線上で考えるのではなく、未来に目を向けて、可能性やあるべき姿を見いだしたら、そこから顧みて過去や現在を否定し、目の前の壁を打破して、実現していく。

鈴木氏が未来に目を向けるときは、既存の常識や過去の経験というフィルターは一切通さないで「見る」ため、われわれ凡人には見えないものが見えるのだろう。この「未来に起点を置く」という発想は、過去や現在の延長線上でものごとを考える人々からはなかなか理解されず、その都度、周囲から猛反対にあった。セブン-イレブンの創業も、おにぎりの発売も、セブン銀行設立もそうだった。

■未来が今を決めるのだ。

私が鈴木敏文という人間に強い関心を持ったのは、巨大企業のカリスマ経営者からだというだけではない。20世紀最大の思想家であるハイデガーの「未来が過去を決定し、現在を生成する」「過去が今を決めるのではなく、未来というものを置くことによって、過去が意味づけされ、今が決まる」という考え方を、鈴木氏が経営において実践していることへの共感からだった。

■過去から発想するか、未来から発想するか

鈴木氏はコンビニの経営においても、今どんなに売れている商品であっても、満足のいくレベルに達していなければ、「売れれば売れるほど、セブン-イレブンの商品はこんなレベルかと失望される」と、その商品を店頭から即刻撤去させ、ゼロからのつくり直しを指示する。これも、「過去が今を決めるのではなく、未来というものを置くことによって、過去が意味づけされ、今が決まる」という考え方からだ。

今回鈴木氏が提案したセブン-イレブン・ジャパンの井阪隆一社長を退任させる案も、まったく同じ発想から出てきたもののように私は感じる。一方で、同社の指名・報酬委員会において社外取締役が「5期連続最高益を実現した社長を辞めさせるのは世間の常識が許さない」と鈴木氏の案に反対したのは、過去の延長線上での発想であった。「世間の常識」は常に過去の延長線上で考えるものだからだ。

鈴木氏は、「この先、顧客のニーズがさらに変化していったとき、井阪氏が社長の体制では対応していくことは難しい」と未来から発想し、社長交代を考えたのだろう。もちろん、この点については井阪氏も「自分には対応する力がある」という言い分や反論もあるだろう。しかしいずれにしても、社外取締役による過去の延長線上の発想と、鈴木氏による未来からの発想では合意に至るわけがなかった。

鈴木氏は井阪氏の退任について、社外取締役の了解を得たうえで、取締役会で決議しようとした。その際、予想外だったのが、創業オーナーからの「NO」の回答だった。これまで創業オーナーは、セブン-イレブン創業も、セブン銀行設立も、本心では反対であっても、「会社の未来」を鈴木氏の経営手腕に託し、信任してきた。その歴史は、鈴木氏が30歳でイトーヨーカ堂へ転職してから半世紀以上に及ぶ。にもかかわらず、今回初めて鈴木氏への信任を拒否したのは、創業オーナーの側で「会社の未来」とは別に優先すべき何かの事情が生じたのだろう。それを、鈴木氏は「時代が変わった」「世代交代」と表現したが、具体的には触れなかった。

■「イオンと合併してもかまわない」

もちろん、井阪社長の退任案について、商品の撤去と生身の人間である社長の退任とは次元が違うという見方もあるだろう。ただ、鈴木氏のもう1つの一貫した考え方は、常に「顧客の立場で」考え、顧客を起点にして発想することにある。そのため、「会社の都合により、顧客の都合が損なわれるようであれば、会社の都合は否定されなければならない」という信念を持つ。

「5期連続最高益を実現したのだから、社長を辞めさせるべきではない」という考え方は、あくまでも「会社の都合」である。顧客が求めているのは、セブン-イレブンの店頭に並ぶより良い商品であって、「5期連続最高益を達成した社長」ではない。もし、「会社の都合」によって、セブン-イレブンの店舗の質を顧客がより満足するレベルに高めていくことが難しくなると判断されれば、「会社の都合」は否定されなければならない。そう考えるのが鈴木氏だ。

以前、鈴木氏は「もしお客様にとってそれが本当に好ましいのであれば、イオンさんと合併してもかまわないんだ」と幹部たちに話したことすらあった。もちろんそんな合併は現実にはあり得ないが、それほど売り手の都合より、顧客の視点でものごとを考えることが大切だと考えていたということだ。

なぜ、セブン-イレブンの1店舗あたりの平均販売額が66万円と、他チェーンに10万円以上の差をつけるかといえば、未来を起点に発想し、顧客を起点に発想して変化に対応することを、40年間にわたって徹底して実行してきたからだ。セブン-イレブンの強みは、その“徹底力”にある。

鈴木氏と次男の鈴木康弘氏(セブン&アイ・ホールディングスの取締役CIO=最高情報責任者)の関係をめぐっては、「世襲」云々も取りざたされた。もちろん鈴木氏は記者会見で言下に否定したが、鈴木氏の発想の仕方からしても、世襲などという「自分の都合」を優先するはずはない。それは、本人の生き方にかかわる問題だ。

■部下に深々と頭を下げて「ご苦労さまでした」

「人間の中には、やるべきことがあったら何としても実現しようとする自分と、己を守ろうとする自分の二面があり、どこで妥協するかで、その人の人生が決まる。私の場合、自分で自分に妥協することができない」と鈴木氏は語っている。それが、鈴木敏文という人間だ。鈴木氏は「目の前の道に木が倒れていて、他の人はよけて通ったり、見て見ぬふりをしていても、自分はそれをどけないと気がすまない。自分でも損な性分だと思うが、それが自分だから仕方ない」とも語っている。今回、自分が辞任することになる可能性があることがわかっていながら、社長退任案を取締役会に諮った鈴木氏の行動は、自分の信念に従ったという意味で、きわめて鈴木氏らしかったと感じる。

いろいろ異論もあるだろうが、以上が「本人以上に本人を知る」人間としての所感である。なお、私は井阪社長とも、商品本部長時代から何度も会い、その実績も、人柄もよく知っているつもりだ。この所感は、あくまでも鈴木氏の判断と行動についてのものであり、井阪氏の経営者としての実力や適性について語ることを目的としたものではないことを付記しておく。

最後に1つのエピソードを紹介しておきたい。鈴木氏は仕事に対する厳しさで知られる。自身が常日頃から言っていることを実行できなかった社員を、きつく叱責するのは珍しくない。報告で質問に答えられなければ、それ以上の発言を認めないこともたびたびある。その厳しさから辞めていく社員もいる。

退職を決めた社員が最後の挨拶に行ったときのことだ。鈴木氏は椅子からすくっと立ち上がり、本人の前に進み出ると、腰を折るように深々と頭を下げたまま、こういって部下を送り出した。

「これまで本当にご苦労さまでした」

その姿に社員は初めてこの経営者の真意を知り、「偉大さ」に気づいたという。厳しく叱責を受けたかどうかは別として、社内にはこの経営者の本質に気づかない人たちもいるだろう。それを含めて、鈴木氏が「不徳の致すところ」と語ったとすれば、その言葉の意味は深い。

福澤武(23)バブル崩壊

テナントに「丸の内離れ」
営業畑から異例の社長就任

営業部長として競争の最前線にたつと、「転貸」と呼ばれる商売に翻弄された。バブル経済の時代だった。

転貸とは、オフィスビルのオーナーから三菱地所が丸ごと借り、テナントに貸す商売である。土地の値段がどんどん上がり、オフィス需要もどんどん膨らんでいた。自前の物件にこだわっていたら、チャンスを逃がす。「又貸しして稼げばいい」という発想で手を広げた。

戦後、日本の地価はずっと右肩上がりを続けてきた。多少の高値で取引しても、将来は上がるはずだ――。そんな土地神話を信じ切っていたし、ライバルの存在が拍車をかけた。

オーナーと転貸の話を進めていると、三井不動産や住友不動産なども割り込んでくる。我々も負けられない。こちらが引いたら、相手を利するだけ。オーナーに払う賃料はどんどん上がっていたが、バブル経済がはじけるまで競り合いを続けていた。

政府は1990年春、不動産向け融資の伸び率を抑えることを金融機関に命じる。いわゆる総量規制がスタートすると、バブルはあっけなくしぼんだ。甘かった。

転貸ビルのオーナーに高い賃料を提案しながら、テナントが集まらない。空室を埋めようとテナントの賃料を下げると、大赤字になってしまう。転貸の部隊が契約見直しをお願いするために走り回った。

地所の本丸である丸の内でも異変が起きていた。バブル崩壊後は「一等地の丸の内にいたら、社員は危機感が持てない」と言い残し、丸の内を離れる企業も出てきたのだ。

実は、景気が良かったときも、仲介業者が長年のテナントに接近し、丸の内の外への移転を勧誘していた。セールストークは「こちらのビルは新しくてきれいですよ」だった。丸ビルなど丸の内のビルが老朽化してきたことを見透かされていた。

丸の内の外でも苦しかった。93年完成の「横浜ランドマークタワー」はテナント集めに困り果てた。開業時はなんとか事務所部分の6割(約57,000平方メートル)を埋めた。新聞には「6割しか埋まっていない」とたたかれたが、同業他社の知人からは「この不況でよく6割も埋めましたね」と感心された。

ビルの営業部門はずっと増収増益だったのに、とうとう減収減益に陥った。テナントを引き留めるための値下げの連続に社内はとまどっていた。収益予測を調べさせたとき、部下の返答に絶句した。

「ウチの情報システムは値上げしか想定しません。値下げのときは計算できません。手作業になります」

苦笑いしか浮かべられなかった。それまでの常識がバブル崩壊とともに崩れ去った。私は営業統括の専務。ビル営業の陣頭指揮をとっていた。

94年5月の連休明け。社長の高木丈太郎さんに突然、呼び出され、「社長をやってください」と告げられた。反射的に「ああ、そうですか」と相づちを打ったら、承諾の返事と受け取られてしまった。

地所の歴代社長は総務部出身。私はビル営業が長く、年齢も60歳を超えていた。

不適材不適所。あるいは、経営者として特筆すべきことなし。そう思われたのか、次期社長の人となりを紹介する記事は「福澤諭吉のひ孫」という話に焦点が当たっていた。

(三菱地所名誉顧問)

福澤武(16)年上の下級生

狐狸庵先生に講演依頼
読書合宿、E・H・カーに学ぶ

振り返れば、ぶしつけだったかもしれない。

慶応大学の2年生のとき、小説家の遠藤周作さんの自宅へ押しかけた。事前の約束なしの突撃訪問である。

「内容はお任せします。日吉のキャンパスまで来ていただき、学生に何かお話ししていただけないでしょうか」

狐狸庵先生は和服姿で現れると、二つ返事で引き受けてくれた。母校の後輩からのお願いだったし、主催が大学の「カトリック栄誦会」だったこともあっただろう。

栄誦会とは、カトリック信者の慶大生がつくったサークルである。大正時代に医学部で生まれた。遠藤さんのような著名講師を呼んで講演会を開いたり、託児所の子どもたちに勉強を教えたりした。

仲間からは「福澤さん」と呼ばれた。上級生たちにとっても、年上の下級生である。たぶん、「あの年寄りにやらせとけばいい」ということなのか、最後は全体をまとめる委員長を任された。

真面目な活動ばかりではない。ダンスパーティーやら、野球大会やら。とりまとめ役は忙しかったが、嫌ではなかった。仲間と過ごす学校生活は慶応幼稚舎以来である。最初は体調を考えて「午後9時には就寝すべし」という医者の厳命を守っていたが、大学生活3年目になると、ルール破りが常習になった。

キャンパスライフを満喫できたのは、厳しい体調管理のおかげで「にわかリッチ」になったからである。

1年生のうちは規則正しく自宅と大学を往復するだけ。やることは勉強しかなかったから、成績はよかった。奨学金の面接を受けると、担当の教授は、父の収入の金額を見て「これは苦しいね」と即断してくれた。

父は愚痴などもらさなかったが、家は戦争で焼け、戦後の混乱の中で家計は逼迫していた。私の成績表が大学から家に届くと、父は「成績優秀!」と言って渡してくれた。うれしかったんだと思う。

奨学金と家庭教師のアルバイト代で月8000円。大卒の初任給は当時1万円ほどだったから、懐は温かい。教科書はやっと人並みに買えるようになった。

3年生の夏休みは、友達と「読書に明け暮れるのもいいじゃないか」と話し合い、信州の禅寺に1カ月間、こもった。我が家が疎開したときにも使った革製のトランクに30冊ほど詰め、「チッキ」という鉄道便で寺に送った。

ヘーゲルの哲学書や古典も入れたが、すべて読めるはずがない。記憶に残る本は英国の国際政治学者、E・H・カーの「平和の条件」である。

カーが執筆したのは、英国がドイツの猛爆撃にさらされていたころだった。明日をも知れない状況で、戦後に世界平和を確立する条件について考えていた。いかなるときでも、長期的な展望を失わないことの大切さを知った。

この本を薦めてくれた先生が国際政治論の内山正熊教授である。太平洋戦争などを例に引きながら、戦略と戦術の違いも分かりやすく教えてくれた。短期目標も長期目標も大切だ、という考え方は後に会社経営で役立った。

4年生に上がると、避けては通れない関門が目の前に迫ってきた。

就職活動である。

(三菱地所名誉顧問)

福澤武(14)回復

諭吉自伝、知識欲を刺激
散歩できるまで回復、退院

本を読めるようになったのは、ラジオを聴いてから2、3年後だろうか。結核は症状が重いと、体力の回復には相当な時間がかかる。

本を手で持つことは負担が大きいので禁止されていた。ベッドに書見器をつけ、本をつるすようにして読んだ。最初は30分もすると、疲れて本を閉じた。1冊読むのに何カ月もかかったが、時間はたっぷりあった。

カトリック信者向けの雑誌から、西田幾多郎の「善の研究」まで。本に飢えていた。兄からもらって、曽祖父である諭吉の「学問のすゝめ」や「文明論之概略」を読んだのも、そのころである。

なかでも、諭吉の自叙伝である「福翁自伝」が傑作中の傑作だった。幼いときは「とてつもなく偉い人」「雲の上の遠い存在」としか思えなかったのに、読み進めるたびに身近な人物に感じてくる。

どこにでもいる若者と変わらない。ちゃめっ気たっぷりで、大の飲んべえでもある。緒方洪庵の適塾にいたころは、友人たちとイタズラ三昧だったらしい。

一つ紹介すると、「遊女の贋手紙」という一節がある。身持ちのよくない友人をこらしめようと、諭吉は「遊郭に出かけたら、坊主頭になる」という約束を彼からとりつける。面白いのは、その後である。いかにも遊女が書いたような内容のラブレターを諭吉が送ると、友人は見事にだまされてしまうのだ。

再び遊郭へ遊びに出たことをとがめられ、この友人は罰として仲間全員分の酒代をもたされる。これに懲りて遊びをやめ、更生したという。

仲間を導くにしても、楽しく、ユーモアたっぷりに。諭吉は、人間を尊ぶヒューマニストだったと思う。

実は、この話の教訓はもう一つある。諭吉は遊郭に足を踏み入れたことはないが、遊んできた連中の話を聞きながら、にせの手紙を書いた。つまり、自ら経験していないことでも、やり方次第で学べる、ということである。

裏を返せば、人が一生涯で実体験できることなんて、たかがしれている。やる気次第で知識は広がる。療養生活が長かった私に療養所は未知の世間を教えてくれた。

患者はサラリーマンから子供まで。様々な人がいた。慶応大学の助教授で「革命が起きる」と話していた先生も入院していた。理論の詳しくは分からなかったが、「共産主義っていうのは、そういう風に考えるのか」と知った。

入院中に聞いたところでは、ある共産党員の患者は療養所の所長の官舎のゴミ箱をあさって「ぜいたくをしていないか」と調べていたという。

京都大学の哲学科を出た秀才の患者はベッドの周りをぐるりと哲学書で囲んでいた。まるで書斎のようだった。

療養所は戦時中は傷病軍人のための施設だったから、元軍人の患者も多かった。彼らは囚人服のような緑色の寝間着を着ていた。戦争が終わってからも、軍の貸与品を大切に使っていたんだと思う。

1955年の春、散歩が許された。畑道は素晴らしく気持ちよかった。丹沢の山々の緑がこれほどきれいだと思わなかった。半年後の11月、秦野の療養所から退院した。

16歳の春に入院して6年半。身長だけは不思議と伸びていた。親戚からもらった古着の背広を着て秦野の山を下りた。23歳になっていた。

(三菱地所名誉顧問)

福澤武(1)28歳の独り立ち

闘病13年「是々非々」培う
街づくりに曽祖父・諭吉の志

人生で一番うれしかったことを聞かれたら、迷わず答えられる。55年前の4月1日、晴れて社会人として独り立ちできたことである。

なんだ、就職が大喜びすることだったのか?

「丸の内の大家さん」と呼ばれる三菱地所に入り、安泰と思ったのか?

こう首をかしげる読者の方も多いかもしれない。

とんでもない。人並みに働いて生きていけるなんて、この上ない喜びであった。我が人生は通常ルートから外れっぱなしだったからだ。

11歳から23歳までは闘病生活。結核を患い、何度も生死の間をさまよった。結核は感染症の一種で、当時は「結核に特効薬なし」と言われた。怖い病気だった。中学校や高校は通えず、卒業もしていない。やっとのことで大学には進学できたが、就職活動のころは28歳になっていた。

同級生たちはバリバリと働いていたはずだ。かたや、こちらは社会人のスタートラインに立つどころか、出発地点もはっきり見えなかった。

就職試験を受けようとすると、年齢制限で引っかかる。門前払いである。そもそも、「結核既往症がある者は不可」という会社ばかり。「これは困った」と思ったが、不思議と悩まず、焦らなかった。闘病は私から青春を奪い、苦しめただけではない。大切なことを教えてくれていた。

くよくよしない。まず前を向く気力である。

16歳の春、療養所で知り合った先輩患者の一言は鮮烈そのものだった。

「親に迷惑をかけているなんて気に病むな。まずは病気を治すことだけ考えろ。エゴイストになれ」

我が家は当時、お金でも苦労していた。この一言で気分が楽になったし、結核と闘うファイトが胸にふつふつと湧いてきた。青春を謳歌する旧友たちをうらやむことがあっても、割り切った。「自分は自分。人は人」である。

前例や周囲の雑音に気をとられていたら、是々非々の判断は貫けない。地所の社長時代に、「丸の内の再構築」という難業の道筋をつけられたのは、このときの経験があったからかもしれない。

米ロックフェラー・グループの再建問題、総会屋への利益供与事件に直面したときも、そうだ。物事の本質だけを追い求めてきた原点は13年間の闘病生活にある。

療養中、感銘を受けたのが曽祖父が残したベストセラーだった。その論考は深く、題材は幅広い。近代日本を代表する啓蒙思想家らしく、日本が進むべき道を示していた。

ところが、彼の自伝を読んでみると、偉ぶらず、ちゃめっ気たっぷり。初めて曽祖父を身近に感じた。そう、私の曽祖父は、慶応義塾を創設した福澤諭吉である。

社長退任の前、縁あって諭吉の談話集「福翁百話」の現代語訳を監修した。驚いたことに、都会への人口集中を予想し、日照問題や空気の浄化を論じていた。そして、問題解決の担い手は民間であるべきだ、と唱えている。

諭吉が百話を書き起こしたのは1896年(明治29年)のことだ。100年以上も前に記された未来への宿題である。街づくりにたずさわる者として発破をかけられている気分にさせられた。

そんな自分は諭吉と比べるべくもないが、後世に何を残せるのだろうか。自問しながら、筆を進めていきたい。

(三菱地所名誉顧問)