小椋佳(27)年50カ所以上

請われるまま地方興行
哲学への熱は修士どまりに

自分が納得して歌いたくなる歌を自ら創り、一人歌って楽しむ。それが私の歌創りの始まりであり、そもそもはそれで完結であった。なぜか出会いの運に恵まれて、自分の詩曲に独創的なアレンジが施され、有能な演奏家たちの演奏による楽曲となり、私が歌入れするレコーディングとなる、という機会を得た。

そのプロセス自体、十二分に楽しいものである。けれど、レコード化されて街に売り出され、どのように売れていくかは私のあずかり知らぬことであり、私の力の及ばぬ世界のことである。事実、私は売ろうとする努力をしたことがなかったし、拡販の努力を強要されたこともなかった。

無論、誰も何もしなかったというはずはない。レコード会社の関係者諸兄の相当な工夫、努力はあったのだろうと思われる。発売されてみると徐々にではあるが、予想をはるかに超える評判をいただくようになった。しかし、ラジオやテレビへの出演あるいはステージ活動、それらには全て「かたくな」と言われるほど消極的なままであった。

銀行員であったという事情もあるが、何より私に「人前に出る顔ではない」「人前に出るのは恥ずかしい」という自覚があったことと、そもそも人前に出ることを好まない性分だったことによる。

一方、詩曲創りやアルバムの制作は年々継続して勧められもし、許されもした。自ら歌うアルバムのためばかりでなく、他の歌い手さんへの詩曲提供の依頼、CMや映画、舞台、テレビドラマの歌曲創りの要請も膨らんでいった。加えて学歌、校歌、社歌、市歌、団体歌等々。いつの間にか私の手から離れていった歌曲が2000を数えるほどになっていた。私の音楽活動は実に出無精で、横着で、ぜいたくなものであったと思う。

1994年、50歳になったところで、つまりは銀行を辞めて再度大学生になった頃、いきなり小椋佳としてのステージの依頼が増えた。私も年を取ってやや恥知らずになっていたのかもしれない。ご要請いただくままに、人前に出ることが多くなった。学生であったせいもあり、主に土日や祝日を使って、年に50カ所以上を訪れ、少人数の編成によるコンサートを行った。

全国に多々ある地方自治体所有のホールのほとんどが年に1度か2度、自主事業として何らかの興行をやるのが通例となっていたようである。その自主興行に小椋佳のミニコンサートは予算的にも集客的にも間尺に合うのだそうだ。以降、このミニコンサートは1000回を超えて何年も続く。私としてはこれまで「飽きるほどやった」という実感である。

こうしたコンサートを重ね、年に約50曲を創り続ける中で、私は96年、52歳の春、東大文学部思想文化学科哲学専修課程に学士入学し、翌年度の卒業論文は「正義」を主題にまとめた。54歳の春に大学院の修士課程へと進み、2年後に修士号をいただいたが、「価値」について論じた私の修士論文はいまひとつ不出来だったようで、博士課程への進級は認められなかった。これも私の挫折の一つとなった。

詩曲創りやコンサートで忙しすぎたというのは言い訳にならない。修士課程後半、学問としての哲学に対する私の中の情熱や緊張感、あるいは内的エネルギーといったものが、いつしか減退していたのだと思う。

(作詩・作曲家)

小椋佳(26)仮面の肉面化

退職、音楽のためならず
哲学を修めに東大再入学

私が銀行に就職すると決めたおよそ半世紀前は「1億総サラリーマン化」の時代であり、現代日本人の最大の問題は「人間の疎外、個の喪失」であると喧伝されていた。私は銀行に入って組織内存在として暮らしながらも、同時に何らかの創造的な作業を続け、表現者としても生きようと自分を納得させた。

銀行員になって数年を経ぬうちに、「歌の創り手」という形で表現者としての場を持つ幸運に恵まれた。

40代の半ばに至った頃、そろそろ銀行を辞めるべき時期が来ていると感じ始めていた。平家物語の終盤に出てくる「見るべきほどのことは見つ」を実感したからである。

ところが、観察者であったはずの私にも「仮面の肉面化」現象は着実に起きていた。巧みに演じたと言うのがふさわしくないほどに、銀行員として一所懸命に生きてきてしまったと思われた。一所懸命の内実とは、組織の価値構造に身を染め、組織に高い評価を受ける振る舞いを心掛けていたということである。

そろそろ辞めようと思いながら、その意味での一所懸命さが1991年に47歳で浜松支店長となり、財務サービス部の部長として戻る49歳まで尾を引いた。それ以上居残れば、残されたエネルギーをサラリーマンとしてのさらなる栄達に費やすことになる。それは若い日私が意図した生き方ではないと自省された。49歳半ばでようやく退職の決意をした。相当優柔不断な人間だったということだろう。

退職してみると、マスコミは盛んに「小椋佳、銀行を早期退職。今後は二足のわらじの片方を脱ぎ、歌手稼業に専念」などと書き立ててくれた。本人は「二足のわらじ」を履いていたつもりも、以降、音楽活動に専念する気もさらさらなかったのに。

もう一度学生に戻り、若い日にやり残した感のある哲学を修めたいと考えていた。3年生に編入するにはどうしたらいいか、幾つかの大学に尋ねてみた。どの大学からも、そのためには学士入学試験があるとの答えが返ってきた。筆記試験があり、かつ外国語2種の試験が必須だという。

英語だけであれば銀行員時代に多用していたからOKなのだが、試験まで数カ月のうちにもう一つ外国語を習得するのは無理だと諦めかけていたところに、折よく東京大学の憲法の主任教授になっていた友人から連絡が入った。

「母校である東大の卒業した学部であれば、面接試験だけで学士入学は可能だよ」

「法学部に戻るんじゃ意味ないよ。僕は法律なんていまさら興味ないんだ」

「とにかく入学しちゃえば、文学部だって哲学科の教室にだって聴講に行けるよ」

世の中「持つべきものは友」である。翌94年の春、私は50歳で東大法学部の3年生になった。新しい学友はほとんど20歳そこそこである。

再入学してみてすぐに気付いたのは、法学嫌いは若い日の思い違いだったということ。どの科目も面白くて仕方がない。毎朝一番で登校し、どの教室にも精勤して、夕方からは図書館通いである。期末の成績は全て「優」となったが、それはある意味では失敗だった。1年間で単位オーバーとなり、卒業させられてしまったのである。

心改め、翌年の文学部学士入学試験に備えて1年間、フランス語などの独学に励むことになる。

(作詩・作曲家)

小椋佳(25)浜松支店長

開店60年初の業績表彰
怒鳴ったのは一度「早く帰れ」

第一勧業銀行(現みずほ銀行)国際財務サービス室室長を務めた後、次に回ってきた仕事は証券部の企画課課長だった。任期は3年。時の証券部は企画課、投資課、受託課、電信電話債券課の4課で構成されていた。

第一勧銀が全国銀行協会の会長職を担う時期にも当たっており、証券部企画課長は全国各行の代表がずらりと集まる議場で、証券に関する事案について議長の役割を果たさなければならないポストでもあった。善かれあしかれ、政治力やリーダーシップが要求される仕事といえた。

さらには、後にどちらかというと好ましからぬ仕事としてマスコミに取り上げられることになる、いわゆる「MOF担(対大蔵省折衝担当者)」の役割を一部背負う立場でもあった。

当然のように、当時の大蔵省の銀行局、理財局、証券局、国際金融局などに日参する日々であったし、毎夜とまでは言わないが、始終各局の役人をお座敷で接待するのも仕事のうちであった。この期間、何とか無難に演じ通したとは思うが、思い出して、決して心地よい時期ではない。

次のポストは事業情報部次長。主に携わったのは「新副都心」と呼ばれた東京湾第13号埋立地における用地落札や新規事業開発などのサポートだった。ただしこの職は1年足らずで終え、次の辞令は浜松支店の支店長であった。

1991年、47歳の時である。私は4つの支店で8年を過ごし、後は本店の各部を転々として16年を過ごしてきていた。浜松支店長に指名された理由について、多くの人は私が「小椋佳」でもあり、浜松支店が楽器や音響機器などを手がけるヤマハグループを主要顧客として抱えているからと受け止めたようだ。

全くの誤解である。この支店をよく知る人は「大変な店に送られるね。ご苦労さん」と言ってくれたものである。浜松支店は規模的には大店であり、静岡県内で母店と言われた支店でもあるが、その開設以来60年、本部から1度も業績表彰を受けたことがない店であった。それだけが要因と言うのは語弊があるが、常に労働問題でもめ事の絶えない店だったそうである。

着任早々、私はその種の問題の解消に意を尽くした。その懸念を払拭してからの支店経営は楽であった。80人の部下は総じてまじめで、特に個性的で愉快で一生懸命で優秀な副支店長が3人もいてくれたからである。

さらに「ハート会」なる顧客100社ほどの組織があるのだが、主だった8社の社長さん方がそろって第一勧銀ファンで、それぞれ支店長のつもりになって、店務運営についていろいろとアドバイスしてくださったことも大きい。私は図に乗って、本部のいぶかりを押し切り、奥様方のハート会を創設したりした。その年度の期末、浜松支店は開店以来初の業績表彰に加え、事務優良表彰を受けた。

浜松支店長時代に私が怒鳴ったのはたった一度だけ。期初に早帰りを指示したにもかかわらず残業する者が多かった日の夕方5時半、「俺の言うことがきけないのか! 早く帰れ!」と一喝した。

浜松支店在任中、私ばかりでなくマネージャーたる副支店長たちも辟易としたのは、講演依頼の多かったこと。100回を超えてからは数えるのをやめたほどであった。

(作詩・作曲家)

小椋佳(24) 創造作業

ミュージカル 果てぬ夢
たびたび企画するが納得は…

第一勧業銀行(現みずほ銀行)の合併10周年か15周年か記憶が定かではないが、また行内の記念論文募集があった。1~2年後輩の優秀な4人と組んで「DKB(第一勧銀)のあるべき将来像」をまとめた共著論文を提出した。

銀行の総合金融業化をいかに創造的に推進すべきか、情報化時代を迎えて総合金融業者としてハード面、ソフト面の体制をいかに備えるべきかといった内容だった。1等になったが、賞金10万円は5人で開いた一晩の飲み会で消えた。その後のDKBは5人が描いた理想像を具現化するということもないままだった。

「創造」ということで、話は私の米国留学時代にさかのぼる。時に26歳、休日を利用してニューヨークに旅した。初めてのブロードウェイに魅せられてミュージカルを見漁った。歌が喉元の音楽表現とするなら、ミュージカルは全身の音楽表現である。

特にハーレムに住む子供たちの詩や作文から脚本を起こして制作され、出演も子供たちのみのミュージカル『Me Nobody Knows』を見た時、その歌と踊りの素晴らしさに感動し、体が震えた。いつの日か日本の子供たちでこんなステージが創れたらいいなと思った。帰国して日本のミュージカルを幾つも見たが、ブロードウェイでのあの感動を得られるものは一つもなかった。総じて演じ手がお粗末だと感じた。

30代半ばのころ、ブロードウェイの子役たちを日本に連れてきて、日本語でミュージカルを演じてもらおうと企画した。『キッズ』と題したこのミュージカルの日本公演は準備期間も含めて3年がかりとなった。全体で4億円かかったが、収入は3億5000万円。5000万円の持ち出しで終わった。「創造作業」としての外国人を使ったミュージカルの日本公演は時期尚早だったかもしれない。

40歳を過ぎて、今度は日本の子供たちを育て、スタッフも含め全て日本人の手で少年少女ミュージカルを実現しようと考えた。『アルゴ』と総称することにしたこのミュージカル運動は、1年ごとに新作を用意し、毎夏の全国公演を20年続けた。

『アルゴ』には固定ファンも相当ついた。だが20年継続したとはいえ、制作陣には申し訳ない言い方だが、私が満足できる創造性豊かなミュージカルは一作もできなかったと反省される。人任せでは十分な仕事はできないと遅まきながら思い知らされた。

50歳になる頃、日本人が欧米風のミュージカルを演じるにはその喉、歌唱に無理があると思い至った。そこで和の世界の歌の達人たちに演じてもらう音楽劇制作を試みることにした。出演者を民謡、琵琶、浪花節、長唄などの世界で先生と呼ばれる人たちに求め、題材を「一休宗純」「紀伊国屋文左衛門」などに設定して台本を書いて歌芝居を上演した。これも数年、数回やってみたが、私自身が納得できる作品にはならなかった。

私にはそもそもプロデューサーとか興行師とかの才能はないのかもしれない。それなのに、これまでの一度ならずの挫折について、それぞれ全力投球ではなかったとか、片手間だったとか自分に言い訳をしている私がいる。性懲りもなく、まだ何らかの渾身の歌舞台創りに未練を残しているらしい。

(作詩・作曲家)

小椋佳(23)初物づくし

後でいうデリバティブ
若き精鋭と金融商品開発

合併してトップバンクになった効果だろうか、当時米国最大の百貨店だったシアーズローバックが日本で社債を発行し資金調達する際に、社債募集の代表受託銀行を第一勧業銀行(現みずほ銀行)にしたいとの話が持ち込まれた。

いわゆるサムライボンドである。この業務を第一勧銀が受けることになれば、普通銀行がサムライボンドを受託する第1号となる。その実務者として私が指名された。

なにせ「初物」である。契約書作成のために渉外弁護士事務所に半年ほど詰めたし、契約書の文言の正当性をオーソライズしてもらうべく、東京大学の商法の権威の元へ通ったりもした。

最後は米シカゴのシアーズローバック本社に赴き、約1週間、毎朝9時から夜9時まで丁々発止の会議を繰り返した。折しもシカゴは60年来の大雪に閉じ込められ、空港は閉鎖。誰かが何とかしてシカゴを脱出し、契約書類を東京に持ち帰らねばならない。

私はシカゴの大学院に留学していた頃の知り合いから、1本だけセントルイス行きの夜行が出るという情報を得た。書類を抱え、弁護士を連れ、その列車に飛び乗った。

初物といえば、その数年後、私が大企業相手の融資案件を審査する営業審査部にいた時、プロジェクトファイナンス(大型事業への融資)第1号の案件が持ち込まれ、その担当者として指名された。

プロジェクトは西オーストラリアの天然ガス開発。私は資料を集め、5日間ほとんど不眠不休で研究、検討した。プロジェクトの各技術の実効性、リスク回避の諸方策の妥当性、プロジェクトそのものの実現性や経済合理性等々。結局私は自らゴーサインを出し、常務会にかけ、プロジェクトファイナンスは完了、成立した。残念ながら、このプロジェクト、開発の途上でいったん頓挫したらしいという噂を聞くことになる。

さらなる初物として、1986年、国際部内に国際財務サービス室という新組織ができた時、初代室長として任命されたことを挙げなければならない。それまで日本の銀行はどこも同じような定型商品を提供してきたが、この頃から各銀行が独自開発の新商品を出す時代が始まる。国際財務サービス室とは、その新商品開発セクションである。

私の下に金融各分野の10名の若き精鋭が集まった。外国為替先物やインタレストスワップ、カレンシースワップといったテクニックを組み合わせ、常識的な銀行マンには理解しがたい新商品を生み出す。創造力勝負の世界である。

ここで生み出した商品を利用して、第一勧銀は少なく見積もっても、取引総額として数兆円の新規ビジネスを成立させたと思う。40代前半、室長として痛快な2年間であった。この種の商品は後年、デリバティブ(金融派生商品)と呼ばれるようになり、顧客が損失を被るケースも出て、一部から不評を買うことにもなったのだが……。

93年に浜松支店長の任務を終えて本部に戻ると、この部署は財務サービス部と名称が変わっていた。私はその部長に就いた。陣容は海外の関係業務従事者も加え200名に膨らんでいた。しかしどうしたわけか新商品開発の精神は薄れ、単なる既開発商品のセールス部隊となっていた。残念だった。

(作詩・作曲家)

跳べない日の丸IT、富士通の「見えない足かせ」

日本のITを牽引してきた富士通に、いまひとつ元気がない。米IBMなど世界のIT大手を相手に戦ったこともあったが、もう遠い過去だ。かつて「野武士集団」とも呼ばれた攻めの企業風土は、経営陣が交代したからといって、取り戻せるとは限らない。富士通に何か足かせがあるのだろうか。

■条件は「リストラしないこと」

「あの会社を売りたいのか売りたくないのか、何を考えているか分からない。社長が代わっても、富士通さんは、きっと決断に時間がかかる。なかなか進まないんじゃないでしょうか」

今年1月下旬、富士通が決めた5年ぶりの社長交代のニュースを知ると、ある金融機関の幹部はこうぼやいた。

あの会社とは、富士通傘下のプロバイダー大手で、過去に何度も売却構想が浮上したことがあるニフティのこと。「モバイル・インターネット」の時代にプロバイダー再成長のシナリオは描けず、昨年以降、富士通が売却を再び検討しているとされるが、着地点はまったく見えない。

富士通は6月、副社長の田中達也が社長に就任し、経営陣が大きく変わる。親会社のトップが代われば、グループ全体で事業の見直しが進みそうだが、ニフティ売却の早期決着を期待する声は聞かない。

度重なる売却交渉で、富士通の経営陣が煮え切らない態度をとり続けていたため、交渉相手などから「優柔不断な会社」と考えられてしまっているからだ。

「リストラはしないでほしい」。関係者によると、富士通はニフティの売却交渉の席につくたび、こんな条件を相手に求めるという。

そんな富士通は、従業員の処遇を第一に考える「優しい会社」とみることもできる。しかし、富士通経営陣が社内の関係者だけでなく、OB、ニフティ経営陣とのコンセンサスを得ることを優先するあまり、交渉がうまくいかない。結果、ニフティは今も富士通傘下で、縮小均衡のサイクルにはまりこんでいる。

■幻のビッグ・ディール

事業を売る話だけではない。ある富士通幹部は「一気に攻めようとするタイミングでも、判断が鈍くなることが目立つ。ウチには、意外と“幻のビッグ・ディール”と呼ばれる話があるんですよ」と打ち明ける。昨年1月には、こんな痛恨事が起きたという。

「トップ会談は白紙にしてください」。当時、戦略担当の経営幹部に1本の連絡が入った。相手はIBMの関係者だった。

富士通は「パソコンサーバ」と呼ばれる高性能コンピューター事業をIBMから買収する交渉を水面下で続けていたが、突然、IBM側からふられてしまったのだ。

実現していれば、買収金額が約2千億円ともいう大型買収。しかも、相手は富士通のライバルであり、お手本でもあるIBMだった。富士通とIBMは過去に「メインフレーム」と呼ばれる大型コンピューターの知的財産を巡って訴訟を繰り広げた因縁もある。極秘交渉の進展を見守る関係者には、「あのIBMの事業を買うのだ」という高揚感があったという。

■「ウチは決める人がいない」

IBM側から断りの電話があったのは、富士通現社長の山本正已とIBMの最高経営責任者、バージニア・ロメッティとの電話会談が翌週にセットされるかどうかという最終局面。そこまで交渉が大詰めを迎えていたのに、一転、中国レノボ・グループにさらわれたのだ。

IBMのパソコンサーバ事業を巡り、レノボは富士通より前にIBMと買収交渉を進めていたが、条件が折り合わず、一度は破談していたという。しかし、「富士通とIBMが合意しそう」という話を聞きつけると、レノボは猛烈に巻き返す。富士通の提示額を上回る金額をIBMに示し、富士通に再提案する間も与えなかった。

「ほとんどウチで決まり、と聞いていた。本当に残念だった」。ある富士通幹部は落胆を隠さないが、それが現実だった。レノボの経営スピードが富士通と比べて段違いにはやかったのだ。

富士通社内では、こんな声も漏れるようになっている。

「日立製作所やパナソニックは次々と事業の選択と集中を進め、V字回復した。ウチはどうなんだ。決める人がいないのか。社外の人は、昔の富士通のイメージから“野武士集団”と言ってくれるけど、今は違う」

富士通の歴史は「日の丸IT」の浮沈の映し鏡だ。個性的なエンジニア、気骨ある経営者に率いられた富士通は、ライバル企業から「野武士集団」と一目置かれた。

IBMに真っ向勝負を挑み、「日本のコンピューターの父」と呼ばれる池田敏雄だけではない。その後も、ソフト著作権の侵害を訴えるIBMとの知財紛争で一歩も引かなかった山本卓真らの経営者たちを輩出した。

「ケンカしながらも、いいものをつくろうと競い合う時代だった」。富士通に1956年に入社し、常務などを歴任した大物OBの大浦溥は振り返る。

■OBとしては物足りない

富士通は日本経済の成長とともに日本のIT企業の代表となり、1979年には売上高で日本IBMを追い抜き、日本のコンピューター市場でトップの座についた。世界がITバブルに踊っていた2000年度には、売上高が約5兆5千億円に迫った。

しかし、その後の富士通は縮小均衡の連続だ。2014年度の売上高の見通しは4兆8千億円。15年前と比べて増えるどころか、減ってしまう始末だ。もちろん、日本経済が右肩上がりだった時代と現在の経営環境は大きく違うが、大浦は「よくやっているがOBとしては物足りなさが否めない。成熟した会社になってしまった」と嘆く。

大浦は、その遠因が1990年代に導入した成果主義の人事制度と指摘する。今は欠点を補っていたとしても、目標の達成度が給与に反映される制度を取り入れたために、「社員が失敗を恐れるようになってしまったのではないか」というのだ。別の役員OBは、もう一つの原因を挙げる。

「野副さんの解任騒動ですよ。あの一件が経営陣や幹部社員にとって心理的な足かせになっているのではないでしょうか」

社内外で「野副問題」とも呼ばれる騒動が起きたのは、5年あまり前の2009年。当時、社長だった野副が病気を理由に突如退任したが、「病気による退任」は事実ではなかった。野副は反社会的勢力と関係があるというファンドとつきあいがあるとして、元社長の秋草直之や大浦、会長だった間塚道義らから社長を退くよう迫られたことが明るみに出た。

■「野副問題」の後遺症

その後、野副は秋草らを相手取り、損害賠償を求めて訴訟を起こすという「お家騒動」が起きた。訴訟は野副の敗訴が2014年に確定し、富士通側の主張が全面的に認められたが、富士通が被った痛手は大きかった。

対外的なイメージの悪化ではない。社内に「事なかれ主義」の温床を植えつけてしまったかもしれないからだ。

野副の社長就任はリーマン・ショック前の2008年6月。就任するや否や、ハードディスクドライブ事業の売却、独シーメインスとのコンピューター生産合弁会社の完全子会社化など、事業の選択と集中を進めていく。関係者によると、ニフティや半導体事業、祖業である通信機器事業の売却まで考え、富士通の長年の課題だった「システム開発事業への集中戦略」に突き進んだ。

ある経営幹部は「なりふり構わない野副さんの経営手法は社内に多くの敵をつくり、あんなもめ事も起きた。それを反面教師にすれば、強引に改革を進めて反感を招くより、みんなが納得して決めた方がいい、と考えて当然です。昔に比べて、“とがった人材”、“とがった発想”が出にくくなっているのかもしれない」と話す。

現社長の山本は2010年に社長に就任したが、当初は「野副問題後」の社内の混乱を収拾することに神経をすり減らしていたという。それから5年。富士通の業績は山本の社長在任中に回復軌道へ戻りつつあるが、就任当初の問題がすべて解決できているわけではない。

富士通社内には、こんな笑えないエピソードがある。

静岡県裾野市にあるトヨタ自動車のテストコース。1台のカローラが時速100キロのスピードで前を走る車を追い越していくが、ドライバーはハンドルやアクセルには一切ふれていない。

この映像を見たトヨタ社長の豊田章男は思わず、「なんだ、もう完成しているじゃないか!」と漏らしたという。

■眠らせてしまった「自動運転車」

豊田が実験の様子を目にしたのは、一昨年のこと。自動運転の技術そのものはもう驚くことではないが、実は、この実験が行われたのは、四半世紀も前だった。自動運転車の頭脳には、富士通が開発したクーラーボックス大のコンピューターが使われていた。

トランク搭載のコンピューターが車両前方のカメラで撮影した映像をリアルタイムで処理して車両をコントロールする。実際は道路上のバーコードを読み取りながら走っており、そのままでは公道を走れないが、こんな制御技術は当時、世界で富士通だけが持っていたとされる。

「開発を続けていれば、今ごろ、自動運転車が街中を走っていたかもしれない」。開発プロジェクトを率いていた富士通研究所常務の佐々木繁は悔やむ。富士通は、自らがリスクをとって最先端の技術を世の中に問うような突破力を失いつつあったのだ。

自動運転は世界中の自動車メーカーのみならず、米グーグルなどIT大手も技術開発競争にしのぎを削る有望分野になった。富士通は近く、「車とITの融合」を担う新組織を立ち上げるが、ある富士通首脳は「自動運転を積極的にやるつもりはない」と打ち明ける。

■「みんな仲良く」で渡っていけるか

攻めに出られるだけの体力は取り戻したのに、なぜか社内が萎縮してしまっている――。いったん縮み思考に陥った組織を変えるのには、時間がかかる。社長交代を決めた山本が最近、「これからは攻めだ」と繰り返すのも、このままでは縮小均衡のサイクルから抜けだせなくなってしまうと恐れているからかもしれない。

そもそも、富士通の大黒柱であるシステム開発事業には、「クラウドコンピューティング」という大波が押し寄せようとしている。クラウドとは、顧客企業にインターネットを介して情報システムを共同利用してもらうサービスで、その分、価格は手ごろだ。富士通などシステム開発を主力にしてきた企業には、大きな脅威になりうる。

競争相手はIBMなど従来のライバルだけではない。米マイクロソフトや米アマゾン・ドット・コムなど従来は直接ぶつかっていなかった企業こそ、クラウド時代の強敵になる。それらの経営スピードは格段に速く、経営判断は大胆だ。マイクロソフトなどはクラウド用のデータセンターを整備するため、毎年1千億円規模の投資競争を繰り広げている。

富士通で最高技術責任者をつとめる川妻庸男は「数年後に向けて準備中の次世代クラウドはマイクロソフトやアマゾンよりもサービスを安く提供できる。富士通グループの経理や生産管理などすべての社内システムをクラウドに移行し、それを顧客に売るから、原価はゼロに近い」と話す。

しかし、仮に競争力があるサービスができたとしても、日進月歩のクラウドの世界で富士通がライバルに追いつくには、相当な覚悟が必要だ。半世紀以上前の富士通は「会社の命運を大きく左右するプロジェクト。無謀ではないか」と言われる中、IBMが圧倒的に支配していたコンピュータービジネスに参入した。

現社長の山本の後を継いで富士通の経営トップにたつ田中は、実質的に戦後初の営業出身社長になる。エンジニア出身の社長が続いた富士通にあって、前例主義を打ち破った人選ではあるが、経営手腕は未知数だ。

クラウドの台頭などIT市場の動きは、「みんな仲良く」では渡っていけないほどダイナミックで激しい。このままなら、野武士集団のDNAは消えてしまう。富士通が再び、世界で「日の丸IT」の旗をはためかせることはあるのだろうか。