葛西敬之(30)感謝とこれから

妻の存在、人生を支える
高速鉄道海外へ今後も疾走

振り返れば、私の鉄道人生は、常に新幹線とともにあったといえる。1995年から社長を、2004年からは会長を務めたが、東海道新幹線が開業50周年を迎えた14年に名誉会長となり、国内の事業は後輩たちに委ねた。現在は、培ってきたヒューマンネットワークや経験を生かし、高速鉄道の海外展開に取り組んでいる。

日本型高速鉄道システムの特色は、平面交差を排除した専用軌道と、自動列車制御装置(ATC)が作り出す「クラッシュ・アボイダンス(衝突回避)」原則にある。

海外展開により、このシステムが国際標準になれば、関連の製造業の市場が広がり、その足腰が強くなる。結果として高品質の資機材を安定的に調達でき、東海道新幹線の安全・安定性が確保される。

JR東海は、高速鉄道システムの技術とノウハウを提供し、運行・保守の指導を担う。この過程で技術者の国際性や自信が養われる。海外でのプレゼンスの向上は、優秀な人材を将来にわたり確保する意味でも有効である。

現在、米国のダラス―ヒューストン間(約400キロメートル)においては東海道新幹線N700系の導入が検討されている。民間主導の計画で、その事業主体が15年7月に当面必要な資金を調達するなど、着実に前進しつつある。

同じく米国では、東海岸のワシントンDC―ニューヨーク間への超電導リニアの導入を働きかけている。米国の大地をニッポンの高速鉄道が疾走するのも、夢ではないように思う。

私の鉄道人生は変化の連続で、その都度「この時しかなかった」という天の時と、「この人なしには」という人の縁に助けられてここまで来た。その中で終始一貫して家を守り、後顧の憂いを除いてくれたのが妻である。

子供たちのこと、家事家計はもちろん、両親への孝養も全て妻に任せきりだった。職場での閉塞感や切迫感を家では一切口にしたことがない。話せば気力が抜ける。だから日々詳細なメモを書き続けて闘志を温めたのである。

一度だけ「国鉄を辞めたら、塾の先生にでもなるか」と冗談めかして言ったことがあった。そのあと、妻は子供たちが通っていた近所の学習塾に行き、創立者で塾長の永瀬昭幸氏に「主人が国鉄を辞めたら塾の先生に雇ってくれますか」と尋ね、「いいですよ」という返事をもらったそうである。

妻は空気を感じ取り、何かせずにはいられなかったのだ。「その時には校長先生をお願いしようと思っていました」。後に永瀬氏ご本人から伺った。校長先生にはならなかったが、永瀬氏には、現在海陽学園を随分応援していただいている。

これまで妻には全て「以心伝心」で済ませて来た。しかし、今回私の履歴を語る以上、そのほとんどの期間を共に歩いて来た妻の支えに触れずに終える訳にはいかない。そう思い「妻への感謝」を表明して稿を終えることにした次第である。

2人が出会い、育んできた家族は、子供たち夫婦6人と孫5人の合わせて13人になった。ありがとう。心から感謝している。

(JR東海名誉会長)

葛西敬之(29)教育に危機感

理想の学校、設立に尽力
参画90社、全寮制で人間力育む

2000年に小渕恵三内閣が教育改革を打ち出したのにあわせ、経済界のシンクタンクが教育のあり方について提言を出した。私も1年半にわたって提言の議論に加わった。

痛感したのは、誰もが教育の被験者かつ関係者であるがゆえに、100人いれば100通りの考えがある、ということだった。

実践しかない。かねて危機感を抱いていた教育分野で現実的な貢献ができるとすれば、自らが理想とする学校をつくり、実績を示すことだ。支持を得られれば、おのずと輪が広がっていくであろう。

同じ思いのトヨタ自動車名誉会長の豊田章一郎さん、中部電力会長(当時)の太田宏次さんと3人で、学校作りに向けた勉強会を始めた。

現代は両親が共働きで、一人っ子という家庭が多い。まずは豊かな「人間体験」ができる環境をつくりたい。また、塾に通う必要がないように国語・英語・数学の基礎を効率的・徹底的に教え、空いた時間は友達と議論をし、スポーツをし、本を読む。学校であると同時に家庭であり、社会でもある――。

答えは「全寮制の中高一貫校」。3人の意見は一致した。

課題は、寮での生活が規律正しく、目の行き届いたものになるかどうかだ。モデルの一つとなる英国のパブリックスクール、イートン校を訪ね、校長(当時)のトニー・リトル先生からも話を聞いた。

イートン校では、寮(ハウス)にハウスマスターと呼ばれる先生が家族とともに住み、高学年の学生を自分の補佐役にして生徒の面倒を見ていた。経験のない私たちは、600年の歴史を持つイートンのようにはいかない。

企業がつくる学校だから、企業ならではの仕組みを導入しよう。考え出したのが、「フロアマスター制度」だ。1棟に60人の生徒がいるハウスを、専任教員でもある1人のハウスマスターと3人のフロアマスターで運営する。フロアマスターは私たちの学校に賛同する企業の独身男性社員。毎年、交代で派遣してもらい、各フロアの生徒20人と起居を共にし、生活指導や人間力の育成にあたる。

設立にあたり、約90社から200億円を超える寄付が集まり、06年春、愛知県蒲郡市に「海陽学園・海陽中等教育学校」が開校した。初代校長は開成中学・高校の校長を長く務めた伊豆山健夫氏である。現在、13歳から18歳までの約700人が共同生活をしながら学んでいる。最初は心細い様子の新入生も9月頃にはすっかりたくましくなる。今春、4回目の卒業生を送り出した。有名校への合格自体が目的ではないが、進学実績も着実に出ている。

フロアマスターは25社から28人。この制度は企業の側にも大きなメリットがある。20人の子どもたちを1年間にわたって面倒見続けた社員は、人間的に大きく成長して会社に戻ってくる。この間に得たヒューマンネットワークは本人にとっても大きな財産だ。

以前、この欄でも紹介したように、葛西家は代々、新潟・佐渡の漢学者で、私塾を開いて子どもたちに学問を教えていた。父も長年、都立高校の教壇に立った。

一方、私は国鉄に入り、企業経営の道を歩んできたわけだが、いまこうして学校教育にかかわっている。縁というべきかもしれない。

(JR東海名誉会長)

葛西敬之(28)未踏の世界挑む

リニア、自社負担を決断
健全経営と安定配当も堅持

1987年7月、「リニア対策本部」を立ち上げたことが、最初の一歩であった。

中央新幹線は全国新幹線鉄道整備法(全幹法)に基本計画路線と位置づけられており、名古屋を経由して東京と大阪を結ぶという経路からして、まさに第二東海道新幹線である。

一方超電導磁気浮上方式(超電導リニア)は、東京―大阪を1時間で結ぶ第二東海道新幹線での実用化を期して62年に開発が始まったもので、他に活用する路線はない。

その土木構造物(インフラ)は新幹線と大差ないが、走行システムは全く異質で、未知未踏の世界である。国鉄の開発成果を結集した宮崎リニア実験線7キロメートルを鉄道総合技術研究所が引き継いだが、それは模型実験レベルで、実用化への視界はゼロだった。

東海道新幹線の輸送力が限界に近づく中で、第二東海道新幹線のインフラ建設は政府に委ねるにしても、リニアシステムの開発は将来運行に携わる我々で、と考えた。

そこで、当社が自己負担1千億円で実用線の一部20キロメートルを先行建設し技術開発を主導することを発想、運輸省に提起した。1千億円の政府予算化はバブル期でも不可能だ。この呼び水が閉塞を破り、山梨リニア実験線の建設計画は90年6月、運輸大臣の承認を受けた。リニアシステム実用化へのエポックだった。

当社の技術者が高速鉄道の運行経験に基づき設計を主導した結果、リニアの実験線は山梨県においてそのまま実用モデルとなりうるものに一新された。その結果、宮崎実験線では頻発した超電導状態喪失現象は、97年4月の運行開始以降一度も発生せず、2009年7月に国土交通省の実用技術評価委員会から実用技術完成のお墨付きを得た。

この間に当社の財務状況は大幅に改善し、87年にわずか700億円だった年間可処分資金は今や5千億円にまで達している。最大の経営リスクだった5兆5千億円の債務は2兆円まで縮減され、それにゼロ金利政策の効果も加わって支払利息は3500億円から700億円まで減少した。

列車間隔4分、毎時15本(回送含む)が上限とされた東海道新幹線の運行列車本数も、車両の加減速性能向上等によって、それぞれ3分15秒、18本となっている。1日の営業列車本数は当社発足当初の231本から350本に増え、収入も1.6倍である。今や東海道新幹線はその限界を究めたと言える。06年4月には完全民営化が達成され、経営の自由度も高まった。

東海道新幹線の旅客から得た収入は、リニア中央新幹線を通じて将来の旅客に還元されるべきだ。これが07年に中央新幹線の東京―名古屋間を自己負担で建設する決断をした大義である。

全幹法の手続きや環境影響評価を経て、14年10月、東海道新幹線が50年を迎えたその時に国土交通大臣から工事実施計画の認可を受け、次なる50年の飛躍へ発進した。

国鉄改革で背負った過去債務は制御不能の経営リスクであり、その克服は「捨て身の積極的経営」と「デフレ・ゼロ金利の天祐」が織りなした奇跡だった。一方リニア中央新幹線建設のリスクは未然のものであり、回避可能である。経済状況の変化、工事の進捗などに柔軟に対応し、健全経営と安定配当を堅持しつつ建設を進める方針である。

(JR東海名誉会長)

葛西敬之(27)名古屋再開発

世界最大の駅ビル完成
在来線強化と相乗、商圏拡大

国鉄時代の名古屋駅ビルは、建設された1937年当時東洋一の威容を誇ったという。しかし、JR東海発足の時点では既に陳腐化が著しく、その建て替えが最初の大規模開発案件となった。

新たな駅ビル「JRセントラルタワーズ」は、JR東海の本社と名古屋駅舎に加えて、オフィス、百貨店、ホテル等が一体化した駅上の複合立体都市というコンセプトで、国鉄時代には思いも及ばぬ挑戦であった。

東京、大阪地区に開発用地のない当社にとって、名古屋駅は唯一の大都市型の開発案件であり、極力大規模なものを、という方針で案が練られた。92年に、高さ270メートル、床面積45万平方メートルという規模が定まり、百貨店は「ぜひに」と言う松坂屋との共同出資、ホテルは杉浦喬也全日空会長(元国鉄総裁)の要請もあり、全日空ホテルズと提携ということになった。そして残るは建築確認申請のみという段階でバブルが弾けた。

バブル崩壊に伴い、高さ245メートル、床面積42万平方メートルに縮小する決断をした。床面積を10%削減すれば建設費が15%減少するという施工会社の提案を容れたのだ。好意的に応援してくれていた地元に多少の失望感を与えたが、それでもギネスブックには世界最大の駅ビルと記載された。

また、百貨店については、松坂屋からの提携解消の申し入れを受け、新たに名古屋初進出となる高島屋と提携した。ホテルも、最終局面でマリオットホテルとのフランチャイズ契約に変更となった。振り返ってみればいずれも幸運であった。

着工が94年に延びたことも思わぬ幸運をもたらした。上昇の一途だった建築費がバブル崩壊で下落し、加えて2000年の全面開業までの6年間に金利が大幅に低下したのだ。この結果、総事業費は3300億円の予定が40%近くも少ない2000億円で済み、当初計画では、オフィス・百貨店・ホテルが単年度黒字となるのに5~10年かかると想定していたが、すべて開業初年度から黒字となった。

JRセントラルタワーズ成功の秘密は、規模の大きさと複合機能性である。加えて民営化後の在来線のサービス増強も駅ビルの賑わいに貢献した。国鉄時代にはもっぱら経費節減の対象でしかなかった在来線を、当社では東海道新幹線のアクセスネットワークと位置づけ、新車投入の上に列車頻度を約2倍に増やしたのである。その結果名古屋駅ビルの商圏は三重、岐阜、長野、静岡県にまで拡大した。

また「のぞみ」の導入は東京・大阪と名古屋のつながりを強め、名古屋駅地区のオフィス立地は優位性を増した。駅前にはトヨタ自動車のビルが建設されたほか、三菱地所や日本郵政のビルが完成間近である。当社の第二の駅ビルである「JRゲートタワー」もリニア中央新幹線の名古屋駅空間を地下に抱いて建設が終盤を迎えている。

鉄道には旅客の利便だけでなく、地域の潜在力を高める効果もある。東海道新幹線と在来線のサービスアップが名古屋駅の賑わいを呼び、その賑わいが更なる駅周辺の賑わいを呼ぶという相乗効果をもたらした。名古屋駅周辺の様相はJR東海発足時とは一変し、今や広域名古屋市圏の中心であり、東京・大阪などへの名古屋の表玄関となっている。

(JR東海名誉会長)

葛西敬之(26)輸送力強化

品川駅新設、増発へ態勢
全工費1000億円、2年で回収

「新幹線鉄道保有機構」(保有機構)の解体、「時速270キロ運転」と並ぶ新幹線強化のためのもう一つの離れ業が「品川駅の開設」である。それは国鉄時代からの懸案でもあった。

東海道新幹線の列車本数は東京駅のプラットホームと本線を結ぶ分岐路を列車が何分で通過できるかに制約される。当時それは4分、すなわち1時間に片道15本が上限であった。田町駅付近から大井車両基地に分岐する回送列車のために毎時4本を確保すると、営業列車は11本まで。すでに「ひかり」6本、「こだま」4本が運行されており、増発余力はあと1本だった。

品川駅を開設し、そこで4本を発着させれば品川以西では毎時片道15本の営業列車を確保できるとともに、積雪など自然災害時の列車遅延も早期に収束する。また品川で乗降可能になれば、多くの旅客にとって新幹線へのアクセス時間が20~30分は短縮される。輸送力増強と利便向上の切り札であった。

しかし実現の最大の困難は用地の取得であった。JR各社への用地分割を担当した国鉄経営計画室は保有機構に奪取された東海道新幹線には寸土の余裕も持たせず、そのうえJR東日本の「薄皮一枚」の用地で包囲するよう密かに処理していた。東海道新幹線の品川車両基地は国鉄清算事業団の債務返済用に差し出し、23ヘクタールに及ぶ在来線品川ヤード用地は簿価7億5千万円でJR東日本に引き継がれた。

当社は開業早々に「東京参与会」を発足させ、平岩外四経団連副会長、瀬島龍三行革審委員、亀井正夫日経連副会長、杉浦喬也元国鉄総裁、岡田宏鉄道建設公団総裁らを含む10人の有識者に基本問題を説明し、理解と助言をいただいてきた。国鉄改革に深く関わったこれらの人々は、品川駅設置には大賛成、ぜひ実現すべきだという意見だった。

用地問題については株式上場までのJRは「国有民営」であり、その資産は全て国家・国民の財産である。故に品川ヤード用地の活用方法は政府が国家・公共のためにどう使うべきかを大所高所に立って判断し、「民有民営化」される前に処理すべきだという見解であった。JR東海は品川駅構想を天下に周知したうえですべてを政府に委ねて静観すればよいと助言された。まさに正論だった。

東海道新幹線品川駅計画は公表と同時に世論の強い期待と要望を喚起し、実現は必須の流れとなったが、JR東日本首脳の強硬な反対で用地の協議は難航した。しかし、日本経済の大動脈機能を維持・増強するという大義は動かし難く、結局は株式上場を前にして、国鉄清算事業団およびJR貨物用地と例の「薄皮一枚」の買収で、なんとか品川駅の開設は決着した。

2003年10月1日、品川駅完成と全列車270キロ運転化を踏まえた、白紙ダイヤ改正が行われ、1時間に「のぞみ」7本、「ひかり」2本、「こだま」3本体制がスタートした。東京、品川両駅合わせての利用増は1日2万人、年間収入増は500億円に上る。品川駅の建設費は用地も含めて1千億円弱、全工事費を2年で回収した勘定だった。

荒涼たる空閑地であった品川駅港南口には完工までの5年間に巨大なオフィス街が出現した。その延べ床面積は東京ドームのグラウンド約100個分にあたるという。新幹線品川駅は極めて大きな外部経済効果をもたらしたのである。

(JR東海名誉会長)

葛西敬之(25)「のぞみ」登場

初の全面刷新
時速270キロ
車両を軽量化、命名は一苦労

1987年の12月上旬、リヨン―パリ間でフランスの誇る高速鉄道TGVに乗車する機会があった。時速270キロは当時の世界最速である。しかし、その印象は重そうな客車の先頭と末尾に強力な機関車を配して、田園の中を大きな音を立てながら走行する長閑な高速列車という感じだった。

同行のエンジニアが言う。人口稠密地帯を走る東海道新幹線の場合は騒音・振動対策や耐震性強化が必要なうえに、カーブもTGVよりきつい。「それでも時速220キロから270キロには上げられると思いますよ」

帰国早々の88年1月、「新幹線速度向上プロジェクト委員会」を立ち上げた。新幹線運行本部長の副島廣海さんをリーダーに各分野の技術者が寝食を忘れて検討した結果、半年後の9月には成案を得た。その骨幹は、(1)時速270キロ運転のために新型車両(300系)を開発する(2)アルミ車体、交流モーター、軽量台車を採用して車両を25~30%軽量化し、沿線の振動を現状以下に抑える(3)車体の流線型化と表面の平滑化、パンタグラフ数の削減などにより沿線の騒音を現状以下に抑える(4)電力回生ブレーキの採用なども併用して消費電力を節約する(5)空調機器を床下に置くなどして車体の重心を下げ、半径2500メートルの曲線を時速255キロで通過する(6)地震の早期警戒装置を導入するなど、東海道新幹線開業以来初のフルモデルチェンジであり、あらゆる技術的挑戦を盛り込んだ画期的な計画であった。

直ちに経営会議で決定し、12月に300系一編成を発注、2年間の実証運転を経て92年3月に「のぞみ」がデビュー。東京―大阪2.5時間時代の幕が開き、高頻度輸送の利便性とあいまって対航空サービス優位が強化された。

「のぞみ」の命名には一苦労した。千を超える候補を20に絞り、最終決定の場が設けられた。外部の有識者として齋藤茂太、牧野昇、阿川佐和子の3氏を招聘し、部内からは須田寛社長と私を含めて5人が出席した。

「ひかり」「こだま」より速い列車を何と呼ぶか、悩ましいところである。阿川佐和子さんが、「日本を代表する列車だから『やまと言葉』でなければいけない。父は『つばめ』が良いと言っていました」と発言、これが基調となった。他に「すばる」「あすか」などもあったが、リストにあった「希望」を「のぞみ」に読み替えることで意見の一致を見た。馴染んでみると良い命名だったと思う。

300系車両の軽量化は土木構造物への負担を軽減し、高架橋や鉄橋などの寿命を延ばすという波及効果をもたらした。発足当初は20年後には取り換えが発生する可能性ありと言われていた土木構造物は、今日では適切な保全さえすればいくらでももつことが解明されている。

300系システムの導入を契機に、国鉄時代には抑えられていた新技術導入への衝動が解放され、あたかも堰を切ったかのように700系、N700系、そしてN700Aがほぼ7年おきに開発投入された。N700系・N700Aのエネルギー消費は時速220キロの0系と比較すると半分程度である。構造物の耐震化・長寿命化、地震時の車両脱線逸脱防止、架線の軽量高性能化など全ての面目をも一新しつつある。

(JR東海名誉会長)

葛西敬之(24)欠陥制度

保有機構の重荷と対峙
東証が「援軍」3年半で解体へ

「新幹線鉄道保有機構」(保有機構)は国鉄再建監理委員会の最終局面で、元運輸次官の住田正二委員から唐突に提起され、同じ運輸省出身の林淳司事務局次長の強い反対を押し切って答申案に盛られた。

保有機構は東海道、山陽、東北・上越新幹線の地上設備(車両以外のすべて)と、その時価評価額に相当する国鉄債務8兆5千億円を国鉄から引き継ぎ、地上設備をJR本州3社にリースして債務を返済する。その際に「各新幹線の収益力」を反映したリース料を設定することにより「本州3社の収益力」を平準化するのだと説明された。償還期限は30年間、2年ごとの輸送実績により各社の負担を見直すことになっていた。

この制度には本質的な欠陥があった。まず、保有機構が受け取るリース料は全額債務償還に充て、地上設備の維持更新は借り手が行うことになっていた。ところが、借り物の地上設備については減価償却費を計上できない。だから借り手が借金して維持更新をやるか、やらずに資産を食い潰しつつ問題を先送りするかの二者択一だった。

さらに問題なのは、「新幹線」のリース料負担割合で「会社全体」の収益力を調整するという詭弁である。

JR東海の場合は文字通り東海道新幹線会社であり、会社の営業収益の約85%は新幹線である。ところがJR東日本の東北・上越新幹線は会社全体の営業収益の約20%に過ぎず、収益の大部分は首都圏の都市鉄道網から来る。それを除外して新幹線だけで会社全体の収益調整をやることは妥当だろうか?答えは明らかに否である。結局、東海道新幹線が東北・上越新幹線の建設費2兆円余りを肩代わりしただけだった。

保有機構提案者の本音は、国鉄債務の返済と本州3社の収益力調整を口実に東海道新幹線の収益力を運輸省の手中に収め、将来は整備新幹線建設の財源などに充当することだったのだろう。

東海道新幹線は鉄道の精華である。一部官僚の思惑のためにこれを劣化させてはいけない。そして鉄は熱いうちに打たなければならない。私は会社発足後直ちに、借金をしてでも東海道新幹線の改善・強化投資を続ける一方、保有機構を解体し、過重な債務負担を適正化する対策に着手した。合理性と大義名分を背にし、刺し違える覚悟でいたが全ては手探りだった。

しかし、二つの天祐が重なって1990年秋には保有機構の解体が決まった。一つはバブル経済のブームで本州3社の業績が思いのほか好調に推移し、誰もが10年以内には無理だと思っていた上場基準を3社ともクリアする見通しとなったことである。そして上場を審査する東京証券取引所が「保有機構の下では会社の資産・債務状態が不確定である。ゆえにこれを解散しない限り株主利益保護の観点から上場は認められない」という見解を示したのである。

もう一つは保有機構に反対した林淳司さんが、この時期に運輸次官という要のポストにいたことである。

30年間機能し続ける前提で設計された特殊法人がわずか3年半で解体と決まった類例はない。奇跡的に欠陥制度は消滅したが、過重な債務負担はそのまま残された。JR東海の実質的民営化はここが出発点だった。

(JR東海名誉会長)

葛西敬之(23)7社発足

JR東海へ高揚感なく
疲弊した新幹線、維持強化へ

1987年4月1日。国鉄は分割民営化され、JR7社が誕生した。私は6時発「ひかり」の初列車で、東京からJR東海本社のある名古屋に向かった。

私の胸にあるのは、決死の任務を終え、また次なる任務に向かう者の冷たい緊張感のみ。新しい7つの本社が習熟し機能するまでの数カ月間が一番脆弱な時期だ。事故が起こらないでほしい。高揚感はなく、祈るような気持ちだった。

取締役総合企画本部長に着任してまず実感したのは、東海道新幹線の「疲弊」「陳腐化」だ。東海道新幹線は64年の開業以来23年間にわたって酷使され、技術的にもほとんど進化していなかった。85年に投入され始めた100系車両が7編成、あとの91編成は開業時以来の0系で車齢も古かった。トンネル・橋梁などの土木構造物も、あと10年は保証するが、20年後には取替えが発生するかもしれないと言われていた。

JR東海にはドル箱の東海道新幹線がある。だからJRの中で、もっとも恵まれた会社としてスタートした。そう思っている人が多いが、現実はまったく違う。東海道新幹線には大きな足かせがはめられていたのだ。

分割民営化に当たっては東北・上越、山陽新幹線の工事費の約2分の1を肩代わりし、運輸収入の6年分を超える5兆円もの国鉄債務を背負っての出発だった。会社発足当時の年間可処分資金はわずかに700億円。バランスの取れた経営戦略の立てようはなかった。

この与えられた条件を金科玉条とし、その範囲内で設備投資もやり、借金の返済もやるということになれば、両方が不十分・不徹底で、東海道新幹線はジリ貧になる。大動脈が機能不全になったうえに、経営も破綻した時には胸を張ることはもちろん、弁解の余地すらない。

私は決心した。創業の使命、すなわち東海道新幹線の大動脈機能を守ることを最優先の課題にしよう。それは日本経済にとって死活的に必要であり、代替不能である。東海道新幹線の維持強化に必要な投資は着実に進める。それでも借金が増えていく。その事実を背にして経営者が政府と刺し違えて、欠陥制度を改めればよい。そう割り切ったのだ。基本方針をこのように定めたうえで、日々の現象にも対処していくこととした。

5月に入ると、収入が想定よりも大幅に上回ることが明らかになってきた。日本経済がバブルの膨張期に入ったのである。東海道新幹線も「ひかり」の座席がとりづらい、との声が高まってきた。

そこで、当面唯一の選択肢である100系を大量発注して即効的に内部留保増加を図るとともに、老朽化した0系を更新することにした。民営化によって発注が減ると考えていた車両メーカーは、製造設備を縮小していた。その製造能力を買い占めるつもりで早急に発注し、その後5年間で50編成を投入した。

この機会に「こだま」の16両化を行い、食堂車を廃止した。食堂車廃止には「旅情がなくなる」と反対する声が多かった。しかし新幹線に求められるのは旅情ではなく、安全・正確・安定・高速・高頻度・大量輸送である。当初反対していたJR他社もしばらくして食堂車を廃止した。

しかしながら、どうしても避けて通れない抜本策が残っていた。欠陥制度「新幹線鉄道保有機構」の解体である。

(JR東海名誉会長)

葛西敬之(22)国鉄改革法成立

民営化前日まで激務
僚友の顔見渡し、誇らしく

1986年7月の衆参同日選挙で、自民党は圧勝。この選挙の争点は「国鉄分割民営化」であり、選挙の結果は、国鉄分割民営化が国民の圧倒的な支持を得たことを意味した。

9月の臨時国会で、国鉄改革関連法案の審議が始まった。

法案の作成段階で難題となったのが、職員をJR各社と国鉄清算事業団へ振り分けるやり方についてどう書くかである。総裁の命令によって振り分けると書けば、憲法の職業選択の自由に抵触する。この難題を解決してくれたのが、法務課の法律専門家であった。「国鉄は法人格としては国鉄清算事業団と一体であり、職員は全員自動的に国鉄清算事業団に引き継がれる。分割により生まれる新会社は、必要な要員を採用して事業を行うのだから、これに応募し、採用試験を通って採用された職員のみが、新会社の社員となる」。彼はこの問題の唯一の現実的な解決策を示してくれた。「ああ、そういうことなのだ」と目からウロコが落ちる思いだった。

運輸省は、この職員の配置に関する条文が国会審議において問題になるのではと心配していたが、野党の関心事項は国鉄労働組合(国労)の存亡がほとんど全てであり、審議は順調に進捗し、11月に国鉄改革関連法は成立した。

一方、分割民営化に反対する国労の内部は大きく揺れていた。主流派は民営化賛成に舵を切ろうとするが、反対派の抵抗が強く、組織内をまとめられない。社会党や総評も仲介に入るが、その努力もむなしく、10月、静岡の修善寺で開いた大会をきっかけに、国労はついに分裂した。こうして分割民営化に反対する勢力は力を失っていく。

しかし、希望退職の募集や余剰人員の雇用対策は続き、新生JRに採用される候補者名簿の準備もある。私が局次長として率いていた職員局は、民営化前日の87年3月31日まで臨戦態勢だった。その激務の合間を縫って、前日に部下たちとささやかな慰労の会を催した。慌ただしく杯を上げ、ともに戦ってきた面々を見渡し、私は誇らしかった。

改めて思うのは、信頼して任せきることができる「僚友」の存在である。私は何人もの良き僚友に助けられてここまで来た。

その不可欠な一人が山田佳臣君(現JR東海会長)である。81年4月に経営計画室に赴任した時、そこに同日付で新幹線総局から異動となった彼がいた。第二臨調の瀬島龍三委員に国鉄の分割民営化を説き、三塚博自民党交通部会長に労使関係是正の必要性を説明するところから表裏一体でやってきた。

それから分割民営化の労務・要員対策を成し遂げ、JR東海の創業に取り組んで今日に至るまでの34年間、彼とはいつも相棒であった。私心がなく、揺らがず、大胆にして細心な彼に実務を任せきって、私は外向きに注力したのである。

もう一人、分割民営化の実現に不可欠の存在だったのが、当時職員局労働課長の南谷昌二郎君(元JR西日本会長)である。彼もまた無私の人だった。

分割民営化は「まさにこの時しかない」という絶妙なタイミングだったからこそ可能だった。「もう一度やってみろ」と言われても二度とはできない。時の運、人の縁、そして僚友たちがいて、JRは誕生した。

(JR東海名誉会長)

葛西敬之(21)合理化提案

再雇用、主導権握り達成
協力拒んだ国労は力を失う

国鉄改革の主戦場である労務・要員対策を担うのは、私が職員課長(後に局次長)を務める職員局である。

「誰一人として改革により路頭に迷わせない」。国鉄の分割民営化に向け、政府は公約を掲げた。

政府が公的部門で採用すると約束していたのは3万人。霞が関では分割民営化に未だ懐疑的で、余剰人員対策についても様子見だったが、中曽根康弘首相と後藤田正晴総務庁(当時)長官が自らの退路を断つような強い決意を示す。後藤田さんの古巣の警察庁が国鉄の鉄道公安官3千人を警察官として採用すると決定したのだ。

一方職員局は、1985年10月、過去に例を見ない「10万人合理化計画」を各労組に提案した。最大労組の国鉄労働組合(国労)は断固反対だが、新規採用停止を契機に国鉄動力車労働組合(動労)は賛成にまわっていた。

合理化施策を推進する際の鍵は、大義名分と不動の意志である。労働法の原則に立ち返り、誠心誠意交渉はやるが、施策の内容や実施のタイミングは経営責任をとる者が決断することにした。それでも、国労と動労が束になって反対したら、立ち往生しただろう。

合理化提案に続いて全職員を対象に、どの会社に勤めたいかを聞くアンケートを実施した。分割民営化の法案さえ提出されていない段階での、異例のフライングだった。

さらに次の一手として、労使共同宣言の締結を申し入れた。「合理化に協力する」「職場規律を保つ」「ストライキはやらない」「お客様に不快感を与えない」――。共同宣言の内容は、1年前ならとても口に出せなかっただろう。

86年1月、まず国労を総裁室に招じ入れ、共同宣言を提案した。

「これはなんだね」。部屋に入って来た国労の委員長以下は、座ろうともしない。ポケットに手を突っ込んだまま、テーブルの上の共同宣言をじっと見つめている。

そこには、これまでやってきたことを「もうやりません」、やってこなかったことを「これからやります」と書いてあるのだ。「こんなもの受け取れるか」と言って、出て行った。一方、他の主要労組は民営化を容認し、共同宣言を結んだ。

続いて3月、北海道、九州の大勢の余剰人員を東京、大阪、名古屋の大都市圏に異動させる「広域異動」を募った。これにも国労は反対したが、他の主要労組は賛成し、約3800人が異動した。

5月には希望退職法が成立し、速やかに募集に入った。2万人の計画に対し4万人近くが応募する結果となった。再雇用については、最終的に、国や地方公共団体に2万2千人、民間に1万2千人、国鉄関連企業に1万2千人が就職した。不可能と言われた雇用対策は大成功をおさめた。

そのような中、国労の組合員の間には不安が高まっていく。国労を脱退するものも多数現れた。

彼らの意表をつく課題を投げかけ、それを受けて反撃に出ようとするころには、さらに次の課題が提起される――。経営側は終始、主導権を取り続けたのである。

労組の合意を得なければ施策の実施ができないという従来の姿勢で臨んでいたら、事は全く進まず、改革は頓挫していただろう。あのやり方しかなかったと思っている。

(JR東海名誉会長)