荒蒔康一郎(1)逆境の船出

傍流歩んで社長に就任
門外漢、ビール業界を客観視

「ビールの仕事をしてこなかったのに本当に大丈夫ですか。こんな時期に……」「技術屋さんですよね。そりゃ大変だ」。2001年春、キリンビールの社長となって取引先の卸店に挨拶に伺うと不安や同情の声ばかり。でもその通りだと思った。社長就任前までの約15年間は医薬部門にいた。実を言うと1964年(昭和39年)に入社後、ビールの営業・製造の最前線に立ったことが一度もなかった。この時、61歳。

株主はさらに厳しかった。3月末の株主総会。工場再編などの構造改革を断行し、社長を退く佐藤安弘さんには株主から労いの言葉が掛けられたが、私には「営業を知らなくてビール会社の経営ができるのか」と疑問の声が続く。「しっかりやっていきます」と言うのがやっと。

社長内定を発表した1月15日と翌日のキリンの株価は下落した。ビール業界も株式市場も「荒蒔って誰?」だったのだ。同時期にサントリーは創業家の佐治信忠さんが社長を継いだ。ますます影が薄い。

なぜ、これほど社長就任が不安視されたのか。それは当時、キリンが置かれていた厳しい経営環境のためだ。シェアトップを走り続けたキリンの数字は下がり続けアサヒビールが猛追。00年のシェアはキリンが38.4%、アサヒが35.5%。アサヒは01年春に発泡酒参入を控えていた。

勢いからすれば01年に「キリンが48年ぶりに首位陥落する」と言われ、キリン全従業員の自信と誇りであった歴史を途絶えさせることになる。

逆境の船出だ。

佐藤さんは01年から始まる「進攻の年」を合言葉にした3カ年計画を策定し、私はバトンを受け取る。社長内定の会見で勝算を聞かれ、こう答えた。「リーディングポジションを確保できるだろう」。社内には「僅差を確実な差にしよう」と檄を飛ばした。

とは言うものの、30代あたりから野球の万年控え選手のような感覚でビールの世界を見続けていた自分がいる。入社してから研究所、多角化事業の検討、米国留学、グループ会社の小岩井乳業への出向、医薬事業。仕事は転々とした。技術畑の上司は「おまえには生業がない」と不満げだった。ビール業界の流儀、ルールなんて知るよしもない。そんな自分が突如、「監督をやれ」と指名されたわけで、妙案などない。

営業も製造の現場も首位を死守しようと奮闘したが、月を追うごとに旗色は悪くなり、夏過ぎには「陥落」の文字が頭をよぎる。実際、この年はアサヒに首位の座を明け渡すという屈辱を味わう。経営者の責任であることを社内で言及したら「だったら辞めろ」の声も聞こえてきた。

だが、なぜ門外漢がビール会社の社長になったのかを考えた。傍観者のような存在が逆に状況を客観視できるのではないかと。長い社会人生活の中でいつしか「誰を向いて仕事に取り組むのか」という意識を持つようになっていたのは事実だ。それはキリンを飲んで下さる消費者であり、支持されるに足る品質に違いない。「お客様本位」「品質本位」だ。その強い気持ちで社長業に取り組む腹を括った。

私の歩みは明らかに傍流だ。でも誰もが本流に居続けるわけではない。そうした遠回り人生から学んだことをお話ししたいと思う。

(キリンビール元社長)

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