正範語録

実力の差は努力の差
実績の差は責任感の差
人格の差は苦労の差
判断力の差は情報の差

真剣だと知恵が出る
中途半端だと愚痴が出る
いい加減だと言い訳ばかり

本気でするから大抵のことはできる
本気でするから何でも面白い
本気でしているから誰かが助けてくれる

ラグビー日本代表はなぜ“強豪”になったのか

W杯勝利へのマネジメント術

――ラグビー日本代表ヘッドコーチエディー・ジョーンズ氏に聞く

日本のラグビーが躍進している。2014年11月までテストマッチ(国際試合)で11連勝を記録し、世界ランキングは一時9位と過去に例を見ない快進撃を遂げた。

その急成長を引っ張ったのが、2012年から代表のヘッドコーチ(HC)に就いたエディー・ジョーンズ氏だ。日本独自の戦い方「JAPANWAY」を掲げるジョーンズHCは、どのようにして日本を“強豪”に引き上げたのか。2015年にイングランドで開かれるラグビーW杯を前に、そのマネジメント術と、W杯での必勝策を聞いた。
(聞き手/週刊ダイヤモンド編集部 森川潤)

EddieJones/1960年豪州生まれ。96年日本代表コーチ。2001年豪州代表ヘッドコーチに就任し、03年W杯準優勝。南アフリカ代表のアドバイザーも歴任。サントリーGM兼監督を経て、12年より現職。日本人の母と妻を持つ。PhotobyHidekazuIzumi

──まず、11連勝や世界ランク9位入りなど、飛躍の年となった2014年の振り返りを。

もちろん、そうした成果を挙げられたのは嬉しいですが、全ては来年のW杯に向けて、4年間をかけて訓練している過程です。過去にフォーカスするのではなく、未来を見ています。

──とはいえ、W杯に向けて自信が付いたのではないですか?

チームには自信が生まれました。私が就任した2012年には、選手は世界で一番良いチームになれるとは心からは信じていなかったはずです。というのも、日本の選手たちはこれまで大学やクラブでの「日本一」にしか興味がなく、それで満足する、ドメスティックな考え方でした。私はそうした選手たちのマインドセット(考え方の枠組み)を、世界で通用するように変えようとしたのです。

三年間で、選手の考え方も変わり、今は世界の誰に対しても怖がることはありませんし、世界レベルの戦い方ができています。

これはビジネスも同じです。日本の国内市場は縮小していますが、企業は海外に出るのに苦労しています。それを変えるには、行動やふるまい方も含め、マインドセットを新しくしないといけません。

──思考の根本を変えるのは簡単ではないですよね。

何よりまず、大きな目的がないといけません。我々が取り組んできたのは、日本人が誇りに思えるチームを作ることです。

他の国のコピーではなく、日本独自の戦い方を作り上げることです。それは日常の全ての行動を通して、変えていくものです。単に「マインドセットを変える」と言うだけでは何も産まれません。

取り組んだことの一つは朝5時に練習を始める「ヘッドスタート」です。世界の誰もが寝ている時間に仕事に取り組み、前に進むという意味があります。それが結果につながり、自信になっていきます。

スペインのサッカーと似ている

──日本独自の戦い方とは?

例えばiPodはビジネスで成功していますが、それは製品がすごくユニークだったからです。だから、みんながコピーをしたのですが、それではiPodより良いものは生まれません。ラグビーでも同じで、一番良いものを真似てコピーするのではなく、今ある資源を最大限活用するのが大事です。

例えば、日本人は身体が小さいので、パスの回数を増やし、スペースを作ることが大事です。それが、私が提唱する「JAPAN WAY」というスタイルの根本です。

もう一つ「モダン武士道」という準備方法も取り入れました。ハードワークと規律を重要視し、スポーツ科学も取り入れています。要は1日に5時間も6時間も練習するのではなく、もっとスマートにトレーニングをするのです。

最後に大事なのは「価値観の転換」です。私が目指すラグビーでは、自陣の一番底からでもアタックする勇気が必須です。ところが今、日本のほとんどのチームでは「自陣の後方4分の1ではキックする」などと、チェスのように戦術が決まっています。

私はこれを変え、どこにボールがあってもスペースを作り、所有率を高める方法を目指しています。これは一時代を築いたスペインのサッカーと似ています。

日本はこれまで、1試合で最大225回のパスを回しました。世界では、1位のニュージーランド代表オールブラックスのパス本数が平均175回で、2位の南アフリカ代表は90回と、スタイルの違いが歴然です。パスの回数は重要なわけではありませんが、プレースタイルの違いは顕著です。

──サッカーでいうと、先日、独バイエルン・ミュンヘンの監督にアドバイスを求めたそうですね。

勝つ文化を作り上げるには、学ぶことが必要です。どのチームももちろん敗北を経験しますが、勝敗に関係なく学ぶことはできます。ヘッドコーチとして、自分より知識が豊富な人に会うことは、自らの知識を改良していくためにも、重要視しています。

50年間“鎖国”を続けた日本

──直接の知り合いではない人にも教えを請うのですか?

はい。もしかすると例えば、一人からは一つのことしか、学べないかもしれないが、それは貴重なのです。

特に、日本のスポーツは閉鎖的な側面がありました。外に開かれていなかったことで、ラグビー選手とコーチは50年前のことと同じことをやっても、国内で成功することはできる環境でした。

ですが、例えばトヨタは50年前のカロ—ラは作り続けていませんよね。なぜなら、欧米の自動車メーカーが新たに攻めこんでくる中で、新しい製品を持って対抗するのが競争だからです。スポーツも同じです。国内で完結していれば、変える必要がなくなってしまう。日本のラグビーはそういうことが起きてしまったのです。

そして、今テストマッチで、初めて、変わらないといけないと思い始めています。今、日本は全W杯に出場していますが、24年間勝てていません。日本のラグビーは孤立していたのです。

──世界の進歩から取り残されていたということでしょうか。

間違いなくそうでした。例えば柔道では、日本は世界で一番成功してきた国です。ですが、フランスなど大きくて強い選手がいる国が良いトレーニングをしてきたことで日本人は勝てなくなりました。柔道も変わらないといけないのです。

──日本企業の「ガラパゴス化」とそっくりですね……。

スポーツは一つだけ違いがあります。週に1回、試合という“株主総会”があり、全てがみんなに一般公開されることです。

原辰徳監督からも教えを請う

──“日本型”のチームを作る中で一番参考にしたスポーツは?

まず、日本で成功しているスポーツか何かを調べました。まず、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で優勝した原辰徳監督に会いにいき、女子バレーボールと女子サッカーの監督にも、教えを請いにいきました。

特にバレーとサッカーは、体格的なハンディを、頭を使い、運動量を上げることで補って、勝っていました。そして、この3人に共通していたのが、日本の「強み」を見つけていたことです。

それを参考に、私も、日本のラグビーの「強み」は何か考えました。ラグビーは、一番似ているアメリカンフットボールと比べてもさらにフィジカルが要求されるスポーツですが、だからといって身体の大きさがないと勝てないといけないわけではありません。

3年間でそれは証明できてきましたし、それが一番試されるのはW杯という、最も大きい“株主総会”と言えるでしょう。

代表の“背骨”は日本人で

──ラグビーでは、外国人も代表に入れますが、日本人との調和はどう考えているのでしょうか?

今やろうとしているのは、チームの背骨になる意思決定を担うポジションを日本人がやるということです。そして、それに加え、外国人のパワーも必要です。日本には195センチ、110キロ級のバックロー(フランカー、No.8)がいませんので、そこで外国人が必要になのです。

何もこれは恥ずかしいことではありません。ニュージーランド代表でも50%がサモア人です。彼らのパワーが必要なのです。オーストラリア代表でも、重要なポジションがトンガ人やフィジー人だったりします。

もちろん、各国とも本音は自国民で固めたいのかもしれません。ですが、世界の流れは、色々な国民をミックスする方向を強めています。ニューヨークやロンドンなどの大都市が人種のるつぼとなっているのと同じです。

ただ、日本人が外国人選手に圧倒されないことには気をつけています。スタイルは日本的であってほしいから、意思決定者は日本人でありたいと思っています。

──将来、日本人が外国の代表でプレーすることはあり得ますか?

選手たちが上達すれば、可能性はあるでしょう。例えるなら、テニスの錦織圭がアメリカ代表で大会に出たければ、私が監督ならきっと選ぶでしょう。彼は十分な力を持っていますから。

同じようにサッカーの本田圭佑選手をイタリア代表に選べるなら、きっとするでしょう。そういう形で、日本人が世界最高のチームに入れれば良いですよね。

W杯、五輪でブームに!

──日本では野球やサッカーよりもラグビーの認知度はまだ低いですが、解決策はありますか?

ラグビーは、人気を得るのが難しいスポーツです。理由は、スポーツとして複雑だからです。野球が単純だと言っているわけではありませんが、少なくとも私が見ても試合が理解できます。

一方、ラグビーはボールが見えたり、見えなかったり、レフリーのジャッジの意味が分からない場合すらあります。とはいえ、眠っている人気はあるでしょう。

まず、日本代表チームが成功することが人気につながります。例えば、来年のW杯で準々決勝にいければ、その後4年間、人々の関心は高まるでしょう。

ラグビーW杯は世界で3番目に規模の大きなイベントですが、19年に日本で開催されますし、その翌20年のオリンピックも見据え、勢いをつけたいですね。

──ラグビーファンは熱狂的な人が多いですよね。

“病気”みたいなものです(笑)。一回はまると、抜けられなくなる。その代わり、すぐ感染する類の病気ではありません。

──来年のW杯の目標は?

日本が優勝するのは難しいけれど、大会の目玉となるチームにはなれます。とんでもなく素晴らしいラグビーをして、みんなが日本のラグビーを話題にするようなチームにはなりたいですよね。

──準備は順調ですか?

物事には必ず最終コーナーがあり、確実なことはありません。ですが、計画を立て、柔軟性を持って、細かく訓練することで対応していきたいと思っています。

──W杯の一番の見どころは?

最初の南アフリカ代表との試合ですね。日本は今まで南アフリカと対戦したことがありません。

彼らは世界で最もサイズが大きく、逆に日本は最も小さいチームです。勝つためには、戦い方を徹底しないといけません。9月11日、4万人が入る美しいブライトン(イングランド)のスタジアムには多くの南アフリカ人が来るでしょう。そこに、日本人のファンも大勢集まれば嬉しいですね。

荒蒔康一郎(24)特許係争

和解か控訴か迫る期限
「独自の道へ」GI社へ回答

「(キリンと合弁会社を設立した)アムジェンが訴訟に負けた」。1990年3月、米国から衝撃的な知らせが飛び込んできた。エリスロポエチン(EPO)の製造を巡り、同業のジェネティクス・インスティテュート(GI)との間で特許係争をしていて、ボストン地裁がGI社に軍配を上げた。対岸の火事ではいられない。

というのも、GI社は中外製薬と組み米国や日本などで透析患者向け新薬を開発していて我々と完全に競合したからだ。日本では地裁決定前の1月に厚生省から双方に新薬の認可が下り、近日中の発売が予定されていた。

当然、アムジェンは控訴したが、地裁は両社にある提案を示した。それはクロスライセンスに関する和解契約案で、GI社にはうまみのある和解案だった。

和解の受け入れは特許侵害を自ら認めるに等しい。回答期限が近づいた。私も米国に飛び、アムジェン首脳陣の協議に加わる。テーブル、電話、ファクスしかない殺風景な会議室。「和解を受け入れてビジネスを優先すべきだ」「妥協すべきでない」。意見は割れた。

回答期限は5月13日の深夜0時(西部時間)。その4時間ほど前、1枚の紙がファクスからはき出された。GI社からだった。「StillThinking?(まだ考えているのか)」。GI社の本社はボストンにあり時差は3時間早く、午後11時。「Yes」と返送する。

今度は「When(いつ決めるのか)」と書いてきた。「Still(まだ)」と送り返す。時間だけが過ぎる。11時45分ころだったと記憶している。創業メンバーの一人、ジョージ・ラスマンさんが口を開いた。その場にいた6人が彼を見る。

「我々は創業時に7人で何もないところから希望だけを持ってスタートした。今は200人の仲間がいるが、裁判に最悪負けても最初に戻るだけだ。徹底的に闘おう」。方針が決まる。大きく「OwnWay(独自の道を行く)」と書いてファクスで通告。先方はさらに大きな字で「Crazy(正気とは思えない)」と返してきた。

協議が終わり近くのホテルに戻って横になる。「やはり創業者は強い。これがベンチャースピリットなのだろう。サラリーマン社長では到底、こんな決断はできない」。興奮して眠れなかった。

裁判の行方がいつ決着するかわからないまま、日本ではキリンが「エスポー」を、GI社と提携していた中外製薬が「エポジン」を同時に発売した。この2つの新薬は透析患者のために急速に普及した。透析分野の実績がある中外側のシェアはキリンの2倍以上だったと思われる。

吉報は91年3月にやって来た。米国控訴審でGI社の特許を無効にしてアムジェンが逆転勝訴したのだった。日本ではキリン側はその前から中外側とEPO特許出願合戦を繰り広げていたので、アムジェン勝訴が日本でも有利に働くのは間違いなかった。だがキリン側は日本での独占権を主張せず、中外側との共存の道を選んだ。

「大魚をみすみす逃した」と言われたが、医薬事業で新参者のキリンは、患者不在の争いで医療の現場をむやみに混乱させず、真面目にやっていく姿勢を示すべきだと考えたからだった。

(キリンビール元社長)

荒蒔康一郎(1)逆境の船出

傍流歩んで社長に就任
門外漢、ビール業界を客観視

「ビールの仕事をしてこなかったのに本当に大丈夫ですか。こんな時期に……」「技術屋さんですよね。そりゃ大変だ」。2001年春、キリンビールの社長となって取引先の卸店に挨拶に伺うと不安や同情の声ばかり。でもその通りだと思った。社長就任前までの約15年間は医薬部門にいた。実を言うと1964年(昭和39年)に入社後、ビールの営業・製造の最前線に立ったことが一度もなかった。この時、61歳。

株主はさらに厳しかった。3月末の株主総会。工場再編などの構造改革を断行し、社長を退く佐藤安弘さんには株主から労いの言葉が掛けられたが、私には「営業を知らなくてビール会社の経営ができるのか」と疑問の声が続く。「しっかりやっていきます」と言うのがやっと。

社長内定を発表した1月15日と翌日のキリンの株価は下落した。ビール業界も株式市場も「荒蒔って誰?」だったのだ。同時期にサントリーは創業家の佐治信忠さんが社長を継いだ。ますます影が薄い。

なぜ、これほど社長就任が不安視されたのか。それは当時、キリンが置かれていた厳しい経営環境のためだ。シェアトップを走り続けたキリンの数字は下がり続けアサヒビールが猛追。00年のシェアはキリンが38.4%、アサヒが35.5%。アサヒは01年春に発泡酒参入を控えていた。

勢いからすれば01年に「キリンが48年ぶりに首位陥落する」と言われ、キリン全従業員の自信と誇りであった歴史を途絶えさせることになる。

逆境の船出だ。

佐藤さんは01年から始まる「進攻の年」を合言葉にした3カ年計画を策定し、私はバトンを受け取る。社長内定の会見で勝算を聞かれ、こう答えた。「リーディングポジションを確保できるだろう」。社内には「僅差を確実な差にしよう」と檄を飛ばした。

とは言うものの、30代あたりから野球の万年控え選手のような感覚でビールの世界を見続けていた自分がいる。入社してから研究所、多角化事業の検討、米国留学、グループ会社の小岩井乳業への出向、医薬事業。仕事は転々とした。技術畑の上司は「おまえには生業がない」と不満げだった。ビール業界の流儀、ルールなんて知るよしもない。そんな自分が突如、「監督をやれ」と指名されたわけで、妙案などない。

営業も製造の現場も首位を死守しようと奮闘したが、月を追うごとに旗色は悪くなり、夏過ぎには「陥落」の文字が頭をよぎる。実際、この年はアサヒに首位の座を明け渡すという屈辱を味わう。経営者の責任であることを社内で言及したら「だったら辞めろ」の声も聞こえてきた。

だが、なぜ門外漢がビール会社の社長になったのかを考えた。傍観者のような存在が逆に状況を客観視できるのではないかと。長い社会人生活の中でいつしか「誰を向いて仕事に取り組むのか」という意識を持つようになっていたのは事実だ。それはキリンを飲んで下さる消費者であり、支持されるに足る品質に違いない。「お客様本位」「品質本位」だ。その強い気持ちで社長業に取り組む腹を括った。

私の歩みは明らかに傍流だ。でも誰もが本流に居続けるわけではない。そうした遠回り人生から学んだことをお話ししたいと思う。

(キリンビール元社長)