倉本聰(18)サブちゃん

付き人に
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「地べた目線のドラマを」決意

「6羽のかもめ」の最終回のサブタイトルは「さらばテレビジョン」。もうテレビの仕事は打ち止めだと思っていたが、逆にぼつぼつと仕事が来た。僕は「札幌に腰を据えて、こつこつ書こう」と思った。

高度経済成長はまさにバブルを迎えんとしており、どんどん高いビルが建ち、拡大し続ける東京に戻るつもりはなかった。こんな繁栄はいつか壊れると思うと不安だった。

北海道放送(HBC)のプロデューサー、守分寿男さんには札幌に来た当初からお世話になり、仕事でもよく声をかけてくれた。1976年2月、HBCの制作でTBS系列で放映した単発ドラマ「幻の町」もそのひとつ。

主演は田中絹代さんと笠智衆さん演じる老夫婦。戦前、樺太(サハリン)の真岡(ホルムスク)に住んでいて懐かしい町の地図を記憶をたどってつくっている。父親が真岡にいたという娘を訪ねて小樽に来るが、つくりかけの地図をなくしてしまう。小樽の娘、桃井かおりとトラック運転手役で特別出演の北島三郎さんや室田日出男がからむ。

このドラマのヒントは札幌の行きつけの炉端焼きの店でもらった。ホルムスクからの引き揚げ者である店の姉妹から、思い出話を聞いていた。

小樽のロケに多忙な北島さんは東京から当日、加わる段取りになっていたが、あいにく大雪。千歳空港には着いたが大渋滞に巻き込まれた。一計を案じて主だったタクシー会社に車番を伝えて北島さんのハイヤーの所在を無線で知らせてもらった。

「サブちゃん、銭函インター通過」「小樽まであと15分」。ロケの見物に集まった地元の人たちがそのたびに歓声を挙げ、到着すると大喝采。錚々たる出演者を尻目に完全に主役だ。

「このサブちゃん人気って何だろう?」と考えるうちに思い立った。「付き人になろう」。「6羽のかもめ」で親しくなったフジテレビの中村敏夫さんがサブちゃんと親しいので彼を介してお願いすると「いいですよ」とのこと。

付き人は3人いて僕は「第4付き人」。その冬、函館、大畑、青森、黒石などを巡る演歌公演に中村さんと一緒に同行した。小さな町の体育館なんかを回る。午後1時からの公演に午前11時ごろから老若男女が集まり始め、開場と同時に満員。持参の座布団を床に敷き、毛布を膝に掛けて主役の登場を待ち構える。

さあ公演だ。第1部はヒットパレードで第2部がリクエストタイム。これがすごい。僕は心底感動して、目からうろこがガリガリとはがれる音が聞こえてくる気がした。

「俺は北海道を出て渋谷で何年も流しをしてた。リクエストされて歌えなかった歌はひとつもない」。サブちゃんはそう言って「さあ、何でも来い!!」。異様な興奮で、みんなが曲名を叫ぶと、小気味よくさばいて次々に歌う。

サブちゃんと客席のやり取りには垣根がない。年齢や性別、職業や身分など一切の区別がなく、人と人とが水平にぶつかり合っていた。

「俺はこれまで何をしてきたんだ」と恥じ入った。自分の中に無意識なエリート意識があって「上から目線」で仕事をしてきた、批評家や業界人の目ばかり気にして脚本を書いていた。テレビドラマは大衆のものだ。「地べた目線」でドラマを書くぞと心に決めた。

(脚本家)

「都立の星」の甲子園 国立高・元ナインに聞く 二塁手・村松氏 監督・市川氏

「都立の星」の甲子園国立高・元ナインに聞く

二塁手・村松氏「甲子園、試合出られず悔しい思い。今は輝く宝物に」

都立国立高校で背番号「4」をつけた村松一樹さん(53)の高校最後の夏は、予選の都大会3回戦で終わった。次の試合からレギュラーを外れ、甲子園ではベンチ入りしたものの一度も出番がなかった。この経験は野球少年だった村松さんが30歳をすぎるまで野球を観戦することができないほどのつらいものとなったが、帯広日産自動車の社長となったいまは「あの経験があったからこそ、経営者として自信がもてる」と語る。

――二塁手のレギュラー背番号「4」をつけながらも甲子園ではベンチを温めていました。

「監督から『代打の用意をしておけ』と言われ、三回からベンチ裏でずっと素振りをしていて試合を見ていない。結局、代打の機会はなく、夢の舞台は実感がないままに終わってしまった」

「高校最後の夏は予選の1回戦と3回戦に出たっきりで、その後は一度も試合に出ていない。あの夏は自分に対する反省の気持ちしかない。一時は寝ても覚めても思い出していたくらい強烈な記憶だ」

■前向きさ欠き、気持ちで負けていた

――負傷をしたわけでもなかった。

「問題は努力を怠ったこと。小学校からリトルリーグに入り中学でも野球部だったので入部当初はそこそこの自信があった。2年時から背番号『4』をつけ幸先がよいスタートだったが、その後(市川)武史らと同じ努力とをしたかといえば決してそうではない。前向きに目標へ向かって熱く進む思いにおいて武史らと自分とでは確実に差があった」

――そんなに差がありましたか。

「私は甲子園に行けるとはまったく思っていなかったが、武史は自分の机の前に『目指せ甲子園』と書き、本気で甲子園を目指していたと聞く。雨天の練習で校内の階段を上り下りしたとき、私は嫌で嫌でたまらなく苦渋の一歩だったが、武史はトントンと跳びはねるように一歩一歩積み上げていった。下から見上げたその後ろ姿はまるで天に昇っていくようにも見えた。その光景はいまでもよく覚えている」

「もちろん自分も毎日練習はしていたから、見た目には差はなかったかもしれないが、自分を鍛錬する気持ちや技術を上げようとする気持ちは、最後までレギュラーになった選手に負けていた。これは当時はわからなかったが、その後メンバーと話して違いに気づいた」

――夏の予選でチームは勝ち進んでいきました。

「武史のピッチングも良かったが運の良さもある。決勝相手の駒沢大学高はシード校ではなかった。予選直前の練習試合で14点も取られた日大二高のような優勝候補といわれた強豪が途中で負けていたことは運が良かった。決勝でも九回表に武史の失敗にみえたスクイズを駒大高のピッチャーが捕れなかったなど、予選を通じて運がいいと思える場面が何度もあった」

「私がスタメンから外れた4回戦でシード校の錦城に勝ったあたりから、試合に勝つごとにバッテリーや野手の実力が着実に上がっていった。どんどんと自分の手の届かないレベルに選手がいってしまい、レギュラー選手以外のメンバーが入る余地がなくなっていた。ただ、守備はできなくても代打にでることはできただろうし、やりたかった」

――悔しい高校野球人生の締めくくりでしたね。

「甲子園出場後もレギュラーから外れたことを引きずり勉強に身が入らなかった。結果、大学受験に失敗し取り残された気持ちでいっぱいだった」

「しかし浪人中に『このままでは本当に俺はダメになってしまう』と気づき、『それでいいのか。俺もあの素晴らしい仲間の中にいたことがあるじゃないか』と自分を鼓舞した。問題は皆のように熱くなれなかったこと、努力を怠ったことにあるわけで、逆に自分も熱くなれば、努力すれば、また仲間に入って生きていけると思えるようになった。大学に入り社会復帰した感じだ」

――進学した早稲田大では野球はやりましたか。

「やっていない。とにかく、あの夏のことを思い起こすとつらかった。プロ野球や甲子園も30歳を超えるまで見られなかった」

■「武史らに追いつこう」で35年間努力

――甲子園出場は、その後の35年間の人生にどのように影響しましたか。

「あの夏が私の人生の原点だ。あの悔しい思いを二度としたくないと思って努力してきた。手を抜いたり要領よくやろうとしたりすると必ずしっぺ返しがくる。だから毎日前向きに頑張ろうと。いまの座右の銘は『前向き』だ」

「武史が幹事役を務めてくれている正月の野球部の同期会と、夏の予選前のOB会に出席することが、私のモチベーションの根幹になっている。彼らに堂々と向き合えるように1年間頑張る――という繰り返しだった」

――結果、いまでは北海道でも有数の自動車販売会社の社長になりました。

「車好きが高じて日産自動車に入社した。販売会社の代表になることが目標だった。社長公募に応募し合格し、2年前から家族と一緒に帯広で暮らしている」

「武史らに追いつこう、来年も彼らと笑顔で会おうという気持ちで35年間努力を続けてきた結果、自信をつけた自分がいる。努力していない高校時代の私は、いざ試合になると不安があるボールは飛んでこないでほしいと願ったものだが、いまなら自信をもって『さあ、来い』という姿勢になれる」

「逆に謙虚さを忘れないようにしないといけないと思うほどだ。高校時代にレギュラーのままだったら人生を甘く見て勘違いしているてんぐになっていたかもしれない。また、問題を抱えている社員のことを少し優しく、少し包容力をもって受け止めることができるのも、自分がつらい経験をしたからではないかと思う」

――カルロス・ゴーン社長からはどのような影響を受けていますか。

「ゴーンさんが1999年に日産に来たとき『皆さんを信じています』と語ったのが印象的だ。ゴーンさんは社員のモチベーションを上げて組織を動かすことにたけている」

「いま私も社長として、アンテナを高く張り経営環境をとらえて現場の状況も踏まえながら方向性を出し、320人の従業員のモチベーションをそのベクトルに持っていくことに注力している。その際に、ゴーンさんのやり方を一生懸命に思い出しながら対応している」

――あす6日から始まる夏の甲子園大会に出場する球児に向けてひと言。

「熱い気持ちで野球に心底打ち込んでほしい。そうすれば、どんな結果であっても時間がたったら、その経験は必ず一生の輝く宝物になる。高校野球をやっていて成功する人はごく一部だ。私のように試合に出ていない人間もたくさんいる。しかし、どんな人にとっても宝物であることには変わりない。ただ、私はきちんと頑張らなかったから、野球体験をうまく消化できず宝物となるまでに時間がかかってしまった」

村松一樹(むらまつ・かずき)1962年5月4日生まれ。早稲田大学商学部卒業後、日産自動車入社。広報部、海外や国内のマーケティングなどを担当。東海日産自動車執行役員を経て、2013年4月から現職。家族は妻と娘1人、息子2人。

監督・市川氏「基本繰り返し、1球1打に集中。野球への姿勢よかった」

公立高校野球部の女子マネジャーが経済学者ドラッカーのマネジメント本を読んで甲子園出場を目指す人気小説『もしドラ』の中で、進学校として甲子園に出場した例として都立国立高校が紹介されている。しかし、捕手だった川幡卓也さんは「勉強の偏差値と野球の頭の良さは違う」とも語っていた。とかく頭でっかちになりがちな「偏差値の高い高校生」が「体育会系クラブの中の頂点に立つ」ともいわれる高校野球で甲子園出場までなし得たのには、指導者の力が大きい。とりは野球部OBで本業を持ちながら監督を務めた市川忠男さん(82)に飾ってもらった。

――甲子園に出場したチームはほかの教え子たちと違っていましたか。

「甲子園に出場したのは国立の野球部の監督に就任してから11年目だった。特にあの代のときだけ変わった練習をしたというわけではない。技術的には基本の繰り返し。ランニングにキャッチボール、トスバッティング、フリーバッティング、シートノックを繰り返して体で覚させた。体で覚えたことは忘れない」

「毎年、新入部員が入ってくると、在校生の2年と3年の選手の力をかねあわせて、今年のチームは守りで勝つチームか打力で勝つチームかある程度判断する。甲子園に出たときのチームは守りで勝つチームだった。もともと国立の場合はピッチングマシンもなく全部手投げでバッティングの練習をしていたから、1人3本しかフリーバッティングをしないというときもざらにあり、打撃練習にかける時間は極端に少なかった」

■投手市川、あんなに練習した選手は初

――それでも甲子園に行けた要因は。

「一番は集中力。3球しか打てなくても1球1打に集中する。スポーツも勉強も向上するのに共通しているのはそこではないか」

「あと、あの当時のメンバーは野球に対する姿勢がよかった。引退するまではとにかく野球漬け。休みも年末と正月三が日くらいしかなかったように記憶している。勉強面が心配で、練習を終えて帰宅後、居眠りしてからでもいいから机に向かえといった覚えがある」

――メンバーに聞くに、エースだった市川武史さんの練習量はかなり多かったようですね。

「アマチュアの試合は投手の出来不出来が勝負の7割を決める。武史はもともとコントロールがよかったが、努力していた。あんなに練習した選手は見たことがない。先発イコール完投という指導をしていたから、毎日250球以上は投げ込んでいた。黙っていると300球も投げそうだったから私がストップをかけたほどだ。そのおかげで夏の予選から甲子園まで、ノーシードで再試合を含めて完投できるほどの肩の筋肉ができあがった」

――ほかのメンバーはどうでしたか。

「中学のときに野球をやっていなかった部員も多く、ハンディがあったはずだが一生懸命に練習していた。武史は打たせて取るタイプのピッチャーだったが、バックがほとんどエラーをしない。とにかく野球が好きな部員ばかりだった」

――夏の予選会で印象的な試合はどれですか。

「一番きつかったのは初戦の都立武蔵村山高校だ。2年生のピッチャー(ヤクルトに入団した西沢浩一投手)には練習試合でシャットアウトをくらっていた。しかし当日は3年生がでてきた」

――選手は4回戦でシード校の錦城に勝つことを目標にしていたようでした。

「もともと私はバント攻撃は好きではなかったが、あのチームは錦城よりも打力が落ちるから足を使った攻撃を入れないといけないと思っていた。初回に4点を取った際には2回もスクイズして得点した」

――初回で勝負が決まり、結局4―0で勝ちました。その後、佼成学園との再試合などを経て決勝に進みました。甲子園は意識しましたか。

「まったく意識していなかった。決勝の駒沢大学高を格上だとも思わなかった。同じノーシードで上がってきたんだから。データなんか一切調べもしなかった。たとえ相手の4番打者がインコースが得意といったデータをもっていたとしても、そこに投げられないと仕方ない。しかも、そこを意識して投げたボールは逆に打たれることもある」

「部員らも決勝だと意識して硬くなっていなかったと思う。ミーティングらしいミーティングもしなかった。とにかく試合前に帰りの切符を買わせなくてはと思っていた。しかし優勝し急きょ祝勝会のためにバスで地元に戻ることになり、その切符は使わなかったが……」

■立派な監督のいる箕島と対戦でき誇り

――甲子園球場よりも神宮球場が印象的だったと言っている選手もいます。

「予選ではそれまで昭島球場など市営球場ばかりで大きな球場は初めてだった。私は足を触ってサインを出していたが、神宮球場のベンチに座ったら前のネットで選手らがサインが見えないことがわかった。後ろにふんぞりかえって足を高くしてサインを出したりしてくたびれた。とはいえ、バッテリーを信頼して任せてあったからあまりサインを出す機会もなかった」

「ただ、捕手の川幡の肩がもともと弱かったことが気がかりだった。相手はおそらく走ってくるだろう。武史はクイックモーションで投げられるし、一塁へのけん制もうまい。川幡には、武史はそう簡単に一塁走者にスタートを切らせることはないだろうから、おまえがいくら山なりのボールを投げても、走者の足よりはボールのほうが速い。ちゃんとベースに投げればアウトをとれると繰り返し言った。駒大高はやはり走ってきて一度はセーフとなったが、2度目に走ったときには川幡が指した。そうしたらもう走ってこなかった」

――戦略勝ちでしたね。甲子園での箕島はどうでしたか。

「箕島が前の年の優勝校だけに選手らは『甲子園はコールドゲームがない』『何点とられたら終わるのかな』などと話していたのを聞いた(笑)」

「敗因は、箕島のような甲子園が自分の庭のようなチームと違って甲子園のグラウンドが初めてだったことで勝手がわからないことが多かったこと。たとえば甲子園風。風を読めずに守備で失敗した場面もあった」

「試合前に箕島の尾藤公監督と話す機会があった。尾藤スマイルとマスコミではいわれていたが、練習では逆で鬼の尾藤といわれているといっていた。私のような初めての、しかも都立の監督に対しても対等に接してくれた。あのような立派な監督のいるチームと対戦できたことは誇りだ」

――部員が少ないながらも、ベンチ入りできない3年生や出場できなかった控え選手もいました。

「甲子園メンバーは予選の18人から15人に絞らないといけない。一番つらいところだった。また甲子園では先発メンバーを1人も代えなかった。あとから控えの選手に気の毒なことをしたと思った」

「代えなかったのは信頼感があったからだ。たとえば、センターを守っていた2年生の関(現在、西武ライオンズ専務)は大会を通じてほとんどヒットはないが信頼感や期待感で使い続けた。足が速くて守備がいい。選球眼がよくフォアボールで結構出塁していた」

■強い相手、声大きく気力で負けない

――国立のように決して環境にも恵まれていないチームが勝利するためのアドバイスはありますか。

「強いチームと対戦するときには気力で負けてはいけない。試合前のランニングやキャッチボールなどで相手を意識しすぎると声がでない。しかし相手は声が大きいとなると、そこでハンディができてしまう。できるだけ大きい声を出す。さらに行動が伴わないといけない。だらだらしながら大きい声を出しても意味がない」

――国立では19年間、監督を務めました。

「私のように教員ではない監督の場合は高校が理解してくれることが大きい。ちょうど甲子園に出た年の3月に国立の校長を辞めた岡本武男さん(後に東京都高校野球連盟会長)が『とにかく徹底的に部員を鍛えてくれ。その結果、もし何かあったら全部私が責任をもつ』と言ってくれたことはうれしかった」

「私が国立で野球をしていたときの監督は軍隊帰りの体育教師で非常に厳しかった。自分が監督になった際には、中途半端を排して徹底的にやろうと思った。だから毎日練習をすることを課した」

――いまは中学生に野球を教えています。

「孫のような年代。野球だけを教えるのではなく、野球以前のこと、あいさつや返事といったことから教えている。監督やコーチがアドバイスしたらきちんと跳ね返ってくるものを持っている選手として育てたい」

市川忠男(いちかわ・ただお)1932年8月24日生まれ。都立国立高校(旧制東京府立第19中学校)在校時に野球部に所属しエースとして夏の大会でベスト4に。51年に卒業後、社会人野球の東京鉄道管理局野球部(現在、JR東日本硬式野球部)に入り投手として活躍。その後、家業の市川洋服店を継ぐ。69年から88年まで国立高野球部監督。一橋大学野球部監督を8年間務め、現在は国立中央リトルシニア野球協会監督。