浅丘ルリ子(5)デビュー

憧れの銀幕に自分の姿
中原先生がメーク、輝いた瞳

「人気小説が映画になる。信子ちゃん。応募したら?」

父が経営するジャン荘の常連客が何気なくつぶやいたこの一言が私の人生の転機になった。1954年秋。今川中学2年のときのことだ。

読売新聞に連載された小説「緑はるかに」。挿絵は雑誌「ひまわり」を創刊した人気画家の中原淳一さん。憂いを帯びた瞳の大きな少女が主人公「ルリ子」だった。

父は4姉妹のうち1人くらいは芸能界に進んで欲しいと願っていた。そこで私は“ダメ元”でオーディションを受けてみることにした。向かったのは会場となった東京・日比谷の日活本社。応募者はなんと二千数百人。のっけから人数の多さに圧倒された。

私には当時、面接で着る上等な服がなかった。そこで学校の友人からセーラー服を借りて受験した。セーラー服など着てくる応募者はいない。それが目立ってかえって良かったのかもしれない。

1次審査、2次審査……。候補者がどんどん絞られていく。最終のカメラテストに残ったのは私を含めて7人。山東昭子さんもいた。みんな美人ばかり。自分が合格できるとは夢にも思わなかった。

最終のカメラテスト会場は日活の調布撮影所。私は4年かけて伸ばした長い髪を三つ編みにして水玉のリボンで結んでいた。すると審査員でプロデューサーだった水の江滝子さんからこう聞かれた。

「あなた、受かったらその髪を切る勇気がありますか」

「はい、大丈夫です」

私はきっぱりと答えた。主人公のルリ子は前髪から耳元まで緩いカーブに切りそろえたショートカットが特徴。髪をバッサリと短く切るのに何のためらいもなかった。

カメラテストの直前。私はなぜか中原先生に呼ばれてメーク室に入った。大きな鏡の前に座った私の目元に先生がサラリと目張りを入れる。するとどうだろう。瞳がみるみる輝き始めたのだ。自分の変貌ぶりに私は息をのんだ。

後で聞いた話だが、中原先生は私を見て「ルリ子はあの子だ」と決めていたそうだ。挿絵の主人公によく似ていたからだろう。「本当なの?」。合格を知らされたときはにわかに信じられなかった。

とんとん拍子でデビューが決まった。作品公開は55年5月。すぐに撮影が始まる。でも演技なんて勉強したことがない。見聞きすることすべてが初体験。だからスタジオでも緊張のしっぱなしだった。

「緑はるかに」は日活で初めてのカラー作品。青、赤、黄の三原色で撮影するため、カメラがいつも3台回っている。しかも照明をかなり明るくしないと画像が映らない。「とにかく照明が熱い」。真っ先に肌でこう感じた。

作品は科学者だった主人公の父が残した秘密のオルゴールを巡る冒険劇。映画「オズの魔法使い」を参考に歌を取り入れたミュージカル仕立て。公開されると、私はすぐに中学の先生や同級生らと一緒に神田日活まで見に行った。

普段から慣れ親しんだ映画館のスクリーンで自分の姿を見るのは不思議な気分。恥ずかしい気持ちもあったが、「私は憧れの銀幕に出ているんだ」と何だか誇らしかった。

芸名は主人公の「ルリ子」をそのまま生かし、本名の「浅井」から1文字取った。名付け親は井上梅次監督。

新人女優「浅丘ルリ子」はこうして誕生した。

(女優)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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