浅丘ルリ子(12)黄金期

活気満ちる調布撮影所
赤木さん事故死、白昼の悪夢

日活では「タフガイ」の石原裕次郎さん、「マイトガイ」の小林旭さん、「トニー」の赤木圭一郎さん、「ダンプガイ」の二谷英明さん、「エースのジョー」の宍戸錠さんら人気スターが次々と誕生。黄金時代を謳歌していた。

これには理由がある。5社協定――。戦後、映画製作を再開した日活が俳優や監督を引き抜くのを封じるため、松竹、東宝、大映、新東宝、東映の5社が協定を結んでいた。だから日活は自前で人材を育てる必要があったのだ。

私もこうした事情で日活に発掘された女優の1人だった。その後、和田浩治さん、浜田光夫さん、高橋英樹さん、藤竜也さん、渡哲也さんらも銀幕デビュー。アクション映画や青春純愛映画など多くのヒット作が公開される。

日活の調布撮影所は活気に満ちていた。敷地内にはみゆき通りなど銀座の町並みを再現したオープンセットもあった。私は撮影がないときは本館2階の控室で過ごすことが多かった。相部屋のパートナーは芦川いづみさん。5つ上の静かで優しい女性だった。

デビュー後、しばらくすると私は神田ガード下から調布に引っ越す。電車通勤が大変になってきたからだ。撮影所からクルマで5分ほどの便利な立地。最初は小さな戸建てを借り、やがて隣接地を買い上げて大きな屋敷を建てた。

周辺にはまだ緑の田園風景が広がっていた。敷地は200坪以上。2階建ての西洋風建築に何十畳もある居間やたくさんの座敷があり、居間に備え付けた特注のバーカウンターではお酒も飲める。台所は料亭や旅館の厨房のように広かった。

職場に近くて飲み食いは自由。翌朝の仕事が早ければ宿泊もできる。いつの間にか我が家は若手俳優やスタッフたちの格好のたまり場になっていた。父も母も世話好きなので大歓迎。若者と一緒に食べ、お酒を飲み、談笑するのを毎日の楽しみにしていた。

こうした常連の中で最もたくさんご飯を食べていたのが高橋英樹さん。61年にデビュー。ボストンバッグ片手に千葉県から出てきた純朴な青年だった。4つ下で弟みたいな存在。親戚の子と高校が同じだったので「私が面倒みなきゃ」と目をかけてきたのだ。

「こんにちは、高橋英樹です。メシ食いに来ました」

私がいなくても堂々と家に上がり、ご飯をパクパク食べている。我が家にはそんな食べ盛り、育ち盛りが合宿所のように集まっていた。だからいくらご飯を炊いても足りない。私の稼ぎの多くは飲食代に消えていたかもしれない。

そんなころ調布撮影所に悲劇が襲いかかる。61年2月14日昼。ドーンという不吉な音が響いた。趣味のゴーカートを試乗していた赤木圭一郎さんが運転操作を誤って倉庫の鉄扉に激突。頭を強打して瀕死の重傷を負ったのだ。赤木さんは直ちに病院に搬送。私たちも病院に向かった。

でも赤木さんはいっこうに意識を戻さない。それから1週間後。21歳の若さで非業の死を遂げた。赤木さんは裕ちゃんや旭さんに続く「第3の男」として期待された日活の希望の星だった。ファンや関係者の衝撃は計り知れない。

私も突然の死が信じられなかった。「拳銃無頼帖」シリーズなどで何度も共演した赤木さん。「元気で優しかったのに……」。あの白昼の悪夢は今も生々しく私の脳裏に焼き付いている。

(女優)

浅丘ルリ子(11)ひばりさん

周囲に気配り、繊細な人
もらったお年玉、今も大切に

歌謡界の女王、美空ひばりさん。天才少女として終戦直後から芸能界で活躍。「悲しき口笛」「涙の紅バラ」「リンゴ追分」……。私にとってずっと憧れの存在だった。

1962年11月5日。そのひばりさんと日活の看板スター、小林旭さんとの結婚披露宴が盛大に執り行われた。私は長門裕之さんに付き添ってもらって披露宴に出席した。

挙式後、ある週刊誌から妙な仕事が舞い込んだ。なぜか私がリポーター役としてひばりさんと旭さんの新居を訪問し、お節介にも熱々の新婚生活をインタビューさせてもらうという特集記事だった。

その日、私は派手なヒョウの毛皮が付いた目が覚めるような真っ赤なコートを着て、2人の新居を訪ねた。ひばりさんはそんな私の服装を黙ってじっと見ていた。そして、ポツリと私につぶやいた。

「ステキなコートね。私も同じのが欲しいなあ……」

ひばりさんとプライベートで親しくなったのは東京・成城の石原裕次郎さんの自宅でのパーティー。「ひばりさんと旭さんの結婚祝いをしよう」と裕ちゃんが企画したのだ。ひばりさんは私の姿を見るなり、陽気な笑顔を見せながらこう声をかけてくれた。

「ねえ、踊りましょう」

音楽に合わせて2人はチークダンスを踊った。肌と肌を合わせて濃厚に……。ひばりさんは、私と旭さんが恋人同士だったことをもちろん知っていた。だから私に気を使っていたんだと思う。そんな2人の様子を旭さんは遠くから静かに見守っていた。

以来、互いにすっかり打ち解けて「のぶちゃん」「ひばりさん」と呼び合う仲になる。ひばりさんは私より3つ上。その後も末永く私を妹のようにかわいがってくれた。

ひばりさんは周囲に気配りする繊細な人。ある晩、赤坂のナイトクラブでお酒を飲んでいた。メンバーは私、ひばりさん、裕ちゃん、勝新太郎さん。するとひばりさんはその間、ずっと皿に山盛りの巨峰の皮をむき続けているのだ。丁寧に種まで全部取って。

男たちが食べやすいようにとの配慮だった。あの天下の美空ひばりがブドウの皮むきに専念しているなんて……。私もボサッと見ているわけにはいかず、隣でブドウの皮むきをせっせと手伝った。

ひばりさんとの思い出は尽きない。ひばりさんの自宅にお邪魔したし、ひばりさんが私の実家に来たこともある。写真はお正月に私の実家で撮った秘蔵のスナップ。大原麗子さんの姿も見える。

この夜、ひばりさんは私の実家で泊まった。でも、明け方になっても寝ようとしない。私は疲れたので先に休んだ。するとひばりさんがだだっ子のようにこうささやく。

「ねえ、のぶちゃん、のぶちゃん。もう寝ちゃったの」

私は黙って寝たふりをした。ひばりさんはそんな寝顔をしばらく見つめていたが突然、腕をつかんで私の小指にガブリとかみついてきた。寝たふりがばれていたみたい。

翌朝。ひばりさんは親戚の子どもたちにお年玉を配り始めた。そして最後になんと私にまでお年玉をくれたのだ。すぐに子どもたちにこう言い含めた。

「これは一生の宝物だよ。絶対に使うんじゃないよ」

私の引き出しの中には、ポチ袋に短い手紙を添えたひばりさんのお年玉が今も大切にしまってある。

(女優)

浅丘ルリ子(10)蔵原監督

オシャレ、仏映画のよう
指導受けるうちに恋心抱く

1962年公開の「憎いあンちくしょう」は私が出演した映画158本のなかで一番好きな作品かもしれない。

石原裕次郎さんが超多忙な人気スター役。私はそのマネジャー兼恋人役だった。

阿蘇にいる恋人に「ジープ」を届けてほしいという依頼を引き受けた主人公。それを私がクルマで追い掛けるという筋書き。東京から熊本まで移動しながらのロケ。日本初のロードムービーだった。

最初の難関は自動車免許。私が運転できないと撮影にならない。これは集中勉強してなんとか合格することができた。でも私が運転するのは大きな「ジャガー」。小柄な私ではどうしても足がアクセルやクラッチまで届かない。

仕方がないので板を足にテープで巻き付けて運転することにした。だから撮影中にジャガーをあちこちにぶつけてばかり。ガソリンスタンドや駐車場の壁にガシャン、撮影用のカメラにガチャン……。

ヒヤヒヤの連続だった。

今から見直すと恥ずかしいのは下着姿の私が自分を鏡に写して「全然イカしちゃってるわ」とつぶやくシーン。ブラジャーもパンティーも古臭くてもう見ていられない。顔もぷくっと太っていて子どもみたいでとても嫌だった。

このとき22歳。できることなら30歳前後でもう一度撮影し直したかった。もっと色気のある大人の演技ができたらどんなに良かったことか。でもこの作品で映画の真の魅力を教えてもらった気がする。

それまでの作品は主役が男性。私は添え物として出演しているだけ。でも「憎いあンちくしょう」では主役の裕ちゃんと渡り合う積極的な女性像を演じることができた。

監督は蔵原惟繕さん――。

フランス映画みたいにオシャレで斬新な作品に仕上げてくれた。私は才能がある人が大好き。尊敬できる人に魅力を感じる。蔵原さんの指導を受けるうちに私は次第に恋心を抱くようになっていった。

「今の場面。ムンクの『叫び』のように演じてみて」

蔵原さんの説明にはとにかく横文字やカタカナが多い。学校に行っていない私には意味がちんぷんかんぷん。でも直感的に「こうじゃないか」と思ってやると意外にうまくいく。日々成長できているという確かな手応えを感じた。

忘れられないのがロケ先の波止場。車の中で休んでいたら、蔵原さんがスタッフを大勢引き連れて颯爽と歩いていた。「なんて格好いいの……」。そのとき、私の胸の奥から熱い感情がこみ上げてきたのをはっきりと覚えている。

蔵原さんはフランスの映画運動ヌーベルバーグの名監督たちを敬愛していた。ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロル……。

蔵原さんが「僕がゴダール監督なら、浅丘さんは女優アンナ・カリーナかな」と話していたと聞いて私は小躍りした。ゴダールとアンナは芸術を作り上げようとした同志であり、情熱と絆で固く結ばれていた恋人だったから。

64年。私の映画出演100本を記念して蔵原監督が撮影してくれたのが「執炎」。因習を破って結ばれた男女の悲恋を叙情豊かに描いた作品。

高さ40メートルもある鉄橋が印象的。小雪が降るなか、私が番傘を落とすシーン。ハラハラと舞い落ちる光景が息が止まるほど美しい。蔵原さんの見事な演出と映像感覚が画面にみなぎっていた。

(女優)

浅丘ルリ子(9)裕ちゃん

明るい笑顔、太陽のよう
撮影中もビール「大丈夫さ」

ある日、日活の調布撮影所の2階から食堂の前を見下ろしていたら、1人の青年が立っているのが目に入った。

学生らしい若者で浅黒く日焼けした肌に太陽のような明るい笑顔がはじけている。

ちょうどデビュー作「太陽の季節」に出演していた1956年前後。「不良っぽいけど育ちのいいお坊ちゃん」。それが私が石原裕次郎さんを見たときの第一印象だった。

品の良さは天性のもの。裕ちゃんは誰であろうと自分から立ち上がり、手を差し出して相手の目を見てしっかりと挨拶する。育ちの良さが身についていて嫌みがまったくない。だから陰で裕ちゃんの悪口を言う人は誰もいない。

慶大生の裕ちゃんは兄の石原慎太郎さんの小説を原作にした「太陽の季節」で若者の風俗に関するアドバイザーとして雇われていた。でもプロデューサーの水の江瀧子さんの推しで端役として急きょ、出演することになったのだ。

私との本格的な共演は57年に公開した井上梅次監督の「鷲と鷹」。貨物船を舞台にしたサスペンス映画で私と裕ちゃんは恋人役。東京から清水までタンカーを借り上げての大がかりな撮影だった。

夏の盛り。紺ぺきの太平洋には太陽がきらめき、船べりに白い波が打ち寄せている。台風に見舞われ、船酔いに苦しむ日もあったが、嵐が過ぎ去った後の海は静まり返り、宝石をちりばめたように無数の星が夜空に輝いていた。

裕ちゃんは6つ上。「頼りがいのあるお兄さん」という感じでまだ恋愛感情はない。でもこの作品で裕ちゃんとの初のキスシーンがあった。

夕暮れの甲板。私は白と水色のリゾートドレスを着て心地よい潮風に吹かれている。裕ちゃんはオープンシャツを羽織り、ウクレレを弾きながら舟歌を朗々と歌っていた。

「名前は?」

「明子」

「いい名だ。恋人は?」

「いないわ」

「おあつらえ向きだ」

無言で見つめ合う2人。やがて裕ちゃんは私の体を引き寄せてゆっくりと唇を重ねてきた。爽やかで甘いロマンチックなキスシーンだった。

私は「渡り鳥」シリーズなど小林旭さんとの共演が増えるが、旭さんとの交際が終わると、今度は裕ちゃんとの共演が増えていった。裕ちゃんは「狂った果実」などで共演した北原三枝さんと60年に晴れて結婚。その代わりとして私が裕ちゃんの相手役を務めることが多くなったのだ。

「銀座の恋の物語」「憎いあンちくしょう」「何か面白いことないか」……。裕ちゃんとの共演にはまぶしい思い出がたくさん詰まっている。

「ルリ子。これからちょっとメシでも食いに行こうか」

撮影の合間によく誘ってくれた。2人は兄妹みたいにいつも一緒。裕ちゃんは撮影中でもビールを飲むのが決まり。その方がどうも調子が出るらしい。でも飲み過ぎると目の焦点がだんだん定まらなくなる。

「これ以上飲むと画面に映るわよ」

「大丈夫さ」

私は何度もたしなめた。顔は赤くならないが、酔うと目が寄ってしまうのだ。「夜霧よ今夜も有難う」のラストシーンでもお酒をだいぶ飲んでいた。だからよく見ると目の焦点が定まっていない。

でも「裕ちゃんなら仕方がない」と会社側も許していた。それも人徳。周囲を味方に付けてしまうのが裕ちゃんの天性の魅力だった。

(女優)

浅丘ルリ子(8)結ばれぬ恋

「お嫁にください」父拒絶
旭さんとの関係は自然消滅

小林旭さんとの恋愛はますます燃え上がってゆく。

でも映画の中ではなぜか2人が結ばれることはなかった。互いに強い恋心を抱いているのに最後は必ず別れてしまうのだ。実は日活の堀久作社長から社内にこんな厳命が下っていた。

「裕次郎には恋をさせろ」

「旭には恋をさせるな」

たとえば石原裕次郎さんには恋人役の北原三枝さんとの大胆なラブシーンがあったりする。でも旭さんと私はすれ違いばかり。馬や船で旅立つ旭さんを私が見送る場面で寂しく終わる。これには旭さんもかなり腹を立てていた。

「ぶう、おかしいよな。裕次郎や赤木圭一郎とは抱き合ったり、キスしたり、ベタベタしてるのにさ。なんで俺のときはなにもないんだよ!」

嫉妬の嵐だった。旭さんも裕ちゃんも赤木さんも日活を背負う看板スター。強いライバル意識があったのだろう。若かったから仕方がない。

ついにこんな事件が起きてしまった。ある日、撮影所の控室でばったり旭さんに出会った。そのとき私は胸が大胆に開いたスパンコールのドレスを着ていた。映画の衣装だ。すると旭さんが突然、血相を変えてそのドレスを無理やりはぎ取ろうとしたのだ。

「ひどいわ、旭。なんてことするの。やめてよ!」

私になじられて旭さんはハッと我に返ったようだ。自分の恋人にセクシーな衣装を着せられてつい頭に血が上ってしまったのだろう。でも私への愛情の強さも分かっていたので、それ以上、旭さんを責める気にはなれなかった。

後日談だが、旭さんから衝撃的な事実を知らされた。

実は父に「信子さんをお嫁にください」と直訴したことがあるというのだ。共演していた「渡り鳥」シリーズが徐々に終わりかけたころ。62年前後のことだったそうだ。

「残念ながら、うちの娘はまだ嫁にはやれません」

父ははっきり拒否したという。私は22歳で女優としてはまだ成長途中。身を固めるのには時期尚早と考えたのだろう。私の将来を考えたうえでの父の判断だった。でもそのことが旭さんの心を深く傷付けてしまったみたい。

「もし旭さんと結婚していたらどうなったかしら?」

今でも考えることがある。

それもひとつの人生だろう。でも旭さんは「結婚したら女性は家庭を守るもの」という封建的な考え方。今の女優としての人生はおそらくなかった。そう考えると、旭さんとは結婚しなくてやはり良かったんだと思っている。

父に求婚を拒絶されたことが影響したのだろうか。私と旭さんとの関係は徐々に疎遠になっていく。旭さんが美空ひばりさんと急速に仲良くなるのはその後のことだ。

ひばりさんがお弁当を差し入れているのを見ていたので「へえ、2人は付き合っているんだ」とうすうす感付いていた。だから私とは自然消滅。ひばりさんが私から無理やり旭さんを奪ったわけではない。

「北帰行より渡り鳥北へ帰る」は私が「渡り鳥」シリーズに出演した最後の作品。格別の思いが残っている。

「この街に来てくださるわね。お約束してくださる」

「します……。必ず」

函館港。汽笛が鳴り響き、船に乗り込んだ旭さんを悲しげに見送るラストシーン。見返すたびに自然と涙がこぼれてくる。だって、2人の心も本当に離れていった象徴的な場面だったから。

(女優)

浅丘ルリ子(7)職場恋愛

「運命の人」小林旭さん
海外ロケの合間にデート

1958年。日活で「運命の人」と出会う。児童劇団の子役から人気スターに登り詰めた小林旭さん。私よりも2つ上。シャープな顔立ちに筋肉質の体。ヤンチャで武骨で危険な香りも漂っている。

一目会ったときから私は恋に落ちていた。最初に本格的に共演したのは「美しい庵主さん」。暑い夏。伊豆を移動する途中、道路沿いの雑貨屋で一緒に食べたソフトクリームの味を懐かしく思い出す。

旭さんは私のことを「ぶう」と呼んだ。これは本名である「信子」にちなんだ愛称。

「俺さ。ぶうのことが好きになっちゃったみたい……」

少しはにかみながら、本気とも冗談とも取れるような口ぶりで探りを入れてくる。「嫌ね。恥ずかしいわ」。こう答えながらも私はうれしかった。共演2作目の「絶唱」ではもう有頂天。恋心が画面ににじみ出ていて、演技をする必要がまったくなかった。

「木挽き唄」を掛け合いで歌う場面が忘れられない。山陰の大地主の一人息子と山番の娘との悲しく切ない恋の物語。たとえ離れていても、同じ時間に同じ唄を歌い合おうという約束を2人が果たす。

はあ~よしのよしの~とたずねてくればよ~

木漏れ日がまぶしく光る深緑の森。18歳の私は絣の着物を着て、学生服姿の旭さんを夢中で追い掛けていた。

以降、2人の共演作が急速に増えてゆく。59年公開の「南国土佐を後にして」が大ヒットしてからは「渡り鳥」「銀座旋風児」などの人気シリーズが相次いで公開。多くの作品で共演させてもらった。

一連のヒットで旭さんは押しも押されもしない日活の看板スターにのし上がる。

2人は1年のうちほとんどの時間を一緒に過ごしていた。だから“職場恋愛”みたいなもの。撮影の合間に談笑したり、散歩したり、食事したり。会っているだけで楽しかった。芸術を作り上げる共同の創造作業にはそんなエネルギーが絶対に欠かせない。

熱々の2人の様子を周囲はどう見ていたのだろうか?

当時の週刊誌やスポーツ新聞の番記者さんたちは寛大で見て見ぬふりをしてくれた。

「看板スターをつぶすな」

「良い映画作品を残そう」

役者や監督、スタッフたちと思いが1つだったのかもしれない。現場でいつも一番年下だった私はこうした周囲の支援に支えられながら仕事に打ち込むことができた。

ただ断っておくが、私は男性と同棲したり、外泊したりしたことはこれまで1度もない。両親が厳しかったので、そんなことをしたら勘当されていただろう。交際で男性に二股かけた経験もない。その辺りは意外に古風なのだ。

「渡り鳥」シリーズは地方ロケが多かった。函館、宮崎、佐渡、会津、釧路など観光地を巡業のように飛び回る。撮影のたびに見物人が押し寄せてすごい騒ぎになった。

私たちの乗ったクルマにファンが群がったり、特急を途中の駅で臨時停車させたり。おまわりさんが「ロケのせいで町中の家が空っぽになってしまった」と驚いたくらい。

海外ロケとなった「波涛を越える渡り鳥」は思い出深い作品。香港のビクトリア・ピーク、タイのエメラルド寺院やアユタヤ遺跡……。撮影の合間を縫って旭さんとつかの間のデートを楽しんだ。

青春真っ盛り。若い2人はほとばしる情熱を抑えきれずにいた。

(女優)

浅丘ルリ子(6)日活

助言くれた父、心の支え
ませた役、キスシーンも体験

デビューすると生活はガラリと変わる。仕事が忙しくなり、学校にはほとんど顔を出せなくなった。毎日のように父の付き添いで神田から調布の撮影所まで電車で通った。

日活の調布撮影所は1954年3月に完成したばかり。当時はまだ珍しい冷暖房施設を完備するなど最新機材を導入。米ワーナー・ブラザーズをモデルに建てられ「東洋一の撮影所」と呼ばれていた。

約4万2900平方メートルの敷地にスタジオが4つ。田園に整然と立ち並ぶコンクリート造りの近代建物は「白亜の殿堂」。私にとっては毎日通う学校のような場所だった。

出演作はデビューした55年で4本。これが8本、9本、12本と毎年増えてゆく。ヒロインとはいえ主役はいつも男性。出演時間も短く、仕事は掛け持ちばかり。台本を何冊も抱えながらあちこちの撮影現場を忙しく飛び回った。

私が働き始めると父の体調はウソのように回復。すぐに頼りがいのあるマネジャーのような存在になっていた。

撮影で私のセリフのNGが何回も続いたことがある。私は完璧主義者でNGが続くと自分が許せなくなる。しかも貴重なフィルムが無駄になってしまうから責任重大だ。

「ルリ子ちゃん、だめじゃないか。セリフが違うぞ」

「ああ監督。ごめんなさい。もう一回お願いします」

そんなとき、心の支えとして私を受け止めてくれたのが父だった。昔から芝居に興味があったので役者の気持ちをよく理解できたのだろう。

撮影が終わった帰り道。NGを連発した私が不機嫌そうに黙り込んでいると、父がそっと声をかけてくれた。

「信子。誰でも失敗することはあるさ。でも演技がすごくうまくなってきているよ。自分に自信を持ちなさい」

私は仏頂面を作っていたが、内心では父にとても感謝していた。ストレスのはけ口に利用していたのかもしれない。父は演技から化粧にいたるまで気付いたことを細かくメモにして手渡してくれた。それが当時の私にとってどんなに心強かったことか。

デビューして2年目の56年。ちょっとした“事件”が起きる。「愛情」という青春映画の撮影で初めてのラブシーンを演じることになったのだ。相手役は長門裕之さん。

「どうしたらいいかしら?キスなんてプライベートでもしたことがないのに……」

まだ15歳。人前でキスをするのにはかなり抵抗があった。でも家族に相談するわけにもいかず、独りで悩んでいると、台本を読んだ父が穏やかな口調で助言してくれた。

「信子。女優を職業として選んだのだから、どんな役からも逃げちゃいけないよ。早く一人前になりなさい」

この言葉でなんとか気持ちに踏ん切りがついたのだ。温泉町で一高受験に備える男子学生と湯治に来た少女との心のふれあいを描いた作品。ぎこちなかったが、長門さんがうまくリードしてくれた。

ちなみに撮影で2人目のキスの相手は長門さんの弟の津川雅彦さん。57年公開の「青春の抗議」。この兄弟には不思議とご縁があるようだ。

映画では実年齢よりませた役を演じることが多かったので演技の勉強になった。学校の授業の代わりに台本を通じて様々なことを学んだのだ。

こうして忙しい撮影日程をこなしながら、私は女優として「大人への階段」を一歩ずつ上っていった。

(女優)

浅丘ルリ子(5)デビュー

憧れの銀幕に自分の姿
中原先生がメーク、輝いた瞳

「人気小説が映画になる。信子ちゃん。応募したら?」

父が経営するジャン荘の常連客が何気なくつぶやいたこの一言が私の人生の転機になった。1954年秋。今川中学2年のときのことだ。

読売新聞に連載された小説「緑はるかに」。挿絵は雑誌「ひまわり」を創刊した人気画家の中原淳一さん。憂いを帯びた瞳の大きな少女が主人公「ルリ子」だった。

父は4姉妹のうち1人くらいは芸能界に進んで欲しいと願っていた。そこで私は“ダメ元”でオーディションを受けてみることにした。向かったのは会場となった東京・日比谷の日活本社。応募者はなんと二千数百人。のっけから人数の多さに圧倒された。

私には当時、面接で着る上等な服がなかった。そこで学校の友人からセーラー服を借りて受験した。セーラー服など着てくる応募者はいない。それが目立ってかえって良かったのかもしれない。

1次審査、2次審査……。候補者がどんどん絞られていく。最終のカメラテストに残ったのは私を含めて7人。山東昭子さんもいた。みんな美人ばかり。自分が合格できるとは夢にも思わなかった。

最終のカメラテスト会場は日活の調布撮影所。私は4年かけて伸ばした長い髪を三つ編みにして水玉のリボンで結んでいた。すると審査員でプロデューサーだった水の江滝子さんからこう聞かれた。

「あなた、受かったらその髪を切る勇気がありますか」

「はい、大丈夫です」

私はきっぱりと答えた。主人公のルリ子は前髪から耳元まで緩いカーブに切りそろえたショートカットが特徴。髪をバッサリと短く切るのに何のためらいもなかった。

カメラテストの直前。私はなぜか中原先生に呼ばれてメーク室に入った。大きな鏡の前に座った私の目元に先生がサラリと目張りを入れる。するとどうだろう。瞳がみるみる輝き始めたのだ。自分の変貌ぶりに私は息をのんだ。

後で聞いた話だが、中原先生は私を見て「ルリ子はあの子だ」と決めていたそうだ。挿絵の主人公によく似ていたからだろう。「本当なの?」。合格を知らされたときはにわかに信じられなかった。

とんとん拍子でデビューが決まった。作品公開は55年5月。すぐに撮影が始まる。でも演技なんて勉強したことがない。見聞きすることすべてが初体験。だからスタジオでも緊張のしっぱなしだった。

「緑はるかに」は日活で初めてのカラー作品。青、赤、黄の三原色で撮影するため、カメラがいつも3台回っている。しかも照明をかなり明るくしないと画像が映らない。「とにかく照明が熱い」。真っ先に肌でこう感じた。

作品は科学者だった主人公の父が残した秘密のオルゴールを巡る冒険劇。映画「オズの魔法使い」を参考に歌を取り入れたミュージカル仕立て。公開されると、私はすぐに中学の先生や同級生らと一緒に神田日活まで見に行った。

普段から慣れ親しんだ映画館のスクリーンで自分の姿を見るのは不思議な気分。恥ずかしい気持ちもあったが、「私は憧れの銀幕に出ているんだ」と何だか誇らしかった。

芸名は主人公の「ルリ子」をそのまま生かし、本名の「浅井」から1文字取った。名付け親は井上梅次監督。

新人女優「浅丘ルリ子」はこうして誕生した。

(女優)

浅丘ルリ子(4)心の故郷・神田

妹連れて通った映画館
心に芽生えた江戸っ子気質

東京・神田は私にとって心の故郷。忘れられない大切な思い出が詰まっている。

まずは映画。神田神保町に映画館街があり、妹たちを引き連れてよく通った。必ず見たのが東映の時代劇。片岡千恵蔵、市川右太衛門、月形龍之介、大友柳太朗らが出演する作品のセリフや歌などを競うように覚えたものだ。

松竹映画の「君の名は」にも夢中になった。主演の岸惠子さんに会いたくて「追っかけ」をしたこともある。美空ひばりさん、若尾文子さん、北原三枝さん……。好きな女優を挙げたら切りがない。

洋画も大好き。「巴里のアメリカ人」「ナイアガラ」「グレン・ミラー物語」「ショウほど素敵な商売はない」など手当たり次第に鑑賞した。

こうした経験は、芸能活動を続けるうえで欠かせない自分の財産になっている。

自宅近くに5、6歳上のすてきな女性が住んでいて私のことをとてもかわいがってくれた。緑色に輝くメロンソーダを初めて飲んだのは小学4年のころ。近所の喫茶店でよくごちそうになった。当時は相当なぜいたく品。今も懐かしい思い出になっている。

初めて化粧を教えてもらったのもこの女性から。真っ赤な口紅やマニキュアを借りて塗ると大人になった気がしてワクワクした。お手本は映画「腰抜け二挺拳銃」に出演したグラマー女優ジェーン・ラッセル。あの色っぽい容貌にひそかに憧れていたのだ。

この女性には弟がいた。私より年上でさわやかな長身の男の子。実はこの人が「初恋の人」――。相手も私のことが好きだったみたい。目が合うとドキドキして胸がキュッと痛くなる。人を恋する切ない気持ちを初めて知った。

父は議員秘書をやめた後、茨城・土浦にある醸造会社の工場長になる。でも長距離通勤が長続きせずにまもなく退社。やがてガード下の自宅にマージャン卓を入れてジャン荘「五月荘」を開業した。家族の生活を支えるためだ。

ただ父も母も商売人としては人が良すぎたようだ。おいしい食べ物が手に入るとお客さんにサービスで気前よく振る舞ってしまう。家では4姉妹のヒナ鳥が空腹でピーピー鳴いているというのに……。

日々の買い物はもっぱら私の役目。母から渡されたわずかなお金で朝、昼、晩の献立を考えながら食材を選んだ。

(肉は高くて買えないけれど、アジを1匹だけ買って家族6人で分けましょう。塩辛く焼けばご飯もたくさん食べられる。それにタマゴと野菜も少し付けたらいいわ)

テキパキと考えながらお店に向かう。「やりくり上手」と母から褒められた。きっぷが良くて飾らない姉御肌――。そんな江戸っ子気質が私の心に自然に芽生えていた。

学校は地元の神竜小学校から今川中学校へと通った。

神田周辺は子どもの足でも歩ける範囲が結構広い。花見なら千鳥ケ淵、買い物なら銀座や日本橋まで足を延ばした。赤い靴が欲しくて日本橋の高島屋に遠出したこともある。

自宅の正面に住んでいた同級生のケンちゃんは神田駅南口の「次郎長寿司」で今もすしを握る現役の板さん。久しぶりにガード下を訪れても温かい雰囲気は変わらない。

神田は様々な文化が花開き、人情味にあふれる心のよりどころ。そんな空気をたっぷり吸い込みながら私の人格は形成された。

(女優)

浅丘ルリ子(3)引き揚げ

海岸で鉄くず拾い日銭
麦飯だけのお弁当、真っ茶色

日本に帰国してまず住んだのが茨城県の大津港。祖母がいたので一緒に暮らした。家の前に清流が流れており、鉄橋から飛び込んだり、水泳したりして遊んだ記憶がある。

続いて千葉県の館山へ移転する。兵舎のような施設での仮住まい。モノがない時代。4姉妹を抱えた我が家は特に生活が苦しかったようだ。海岸に落ちている鉄くずを拾い、日銭を稼いだりしていた。

当時の私は新品の服など着たことがない。誰かのお古が当たり前。でも家には生活を楽しむ知恵があった。母は毛布を染め直してコートを仕立てるなどあれこれ工夫しながら生活を切り盛りしていた。

そんな貧乏生活を経験したせいか、今でも私は贅沢が好きになれない。高額な買い物をすると不安になって仕方がないのだ。だから安いものをたくさん買ってしまう。「安物買いの銭失い」。貧乏性はなかなか治る気配がない。

さて、小学校でどうしても恥ずかしかったのがお弁当の時間。自分の家の経済状況が露骨に出てしまうからだ。白米がなくて麦飯だけのお弁当はふたを開けると中身が真っ茶色。おかずが梅干しだけの茶色い日の丸弁当になる。

私はいつも粗末な自分のお弁当をふたで隠しながら食べていた。隣に座っていた女子の名前はよく覚えている。フミコちゃん。良家のお嬢様で弁当箱は白米がギッシリ。卵焼きや鶏の空揚げが入っていておかずも豪勢だった。

「ああ、おなかが減った。あんなお弁当が食べたいな」

私があまりに恨めしそうな目で見ていたからだろう。フミコちゃんは私のお弁当をのぞき込み、しばらく考えてから黙ってお弁当を分けてくれた。そんな優しいフミコちゃんの横顔が忘れられない。

館山では浜辺でよく海水浴を楽しんだ。だから4姉妹は日に焼けて真っ黒。ただ南国暮らしが長かったせいか日本の気候に合わず、なぜか体中に原因不明のブツブツができてしまって困っていた。

「わあ、浅井は汚いぞ。そばに寄るな。あっちへ行け」

学校の悪ガキたちが盛んにはやし立てる。でも味方になってくれる友人も多かったのでまったく平気。もともと陽気で楽天的な性格だから決してめげることはなかった。

このころ父は東亜同文書院の後輩が経営する海運会社を手伝った後、1949年の衆院選に出馬した前尾繁三郎さんの秘書になる。大蔵省出身同士のつながりだろう。満州で秘書官をしていた経験も生かせると考えたに違いない。

やがて通勤に便利な東京・神田に引っ越し、鎌倉橋の小ぎれいな屋敷に住むようになった。だが人生はうまく行かない。父は政界の体質になじめず、急速に体調を崩してしまう。生来、生真面目で律義な気質なので人間関係も重いストレスになったようだ。

とうとう議員秘書をやめざるを得なくなり、同じ神田の鍛冶町にあるガード下に住居を移した。神田駅西口から南へ約250メートル。電車のうるさい走行音がガタンガタンとひっきりなしに鳴り響いているような飲み屋街の一角である。

酔っ払いが行き交う薄暗い路地裏。2階建ての狭い長屋は時代から忘れ去られたように今もひっそりと残っている。何度も転居を繰り返してきた父と母と4姉妹の6人家族は、そんな下町のガード下のわび住まいで新たな生活を踏み出した。

(女優)