松本紘(2)幼少時代

大陸生まれ、戦時映す名
現地の生活を基に父が小説

私は1942年、内蒙古、現在の中国河北省にある張家口で生まれた。父、熊次郎は奈良市近郊の農家の次男で、小学校を出た後、大阪の逓信講習所に通った。卒業後に働く条件で学費を支給する学校で、貧しい家庭の子弟が多く来ていたらしい。逓信省で働いた後、大陸に派遣され、現地で日本軍の通信機器の維持管理に従事していた。

奈良県郡山町(現大和郡山市)出身の母、芳子は大阪市の建設会社・浅沼組の幹部技術者だった安藤鶴吉の娘。比較的裕福な家庭で育ったが、「女に教育はいらない」という鶴吉の意向で小学校を出て逓信講習所に入った。その後、満蒙開拓に送られた若者に嫁ぐ「大陸の花嫁」にあこがれて渡航し、父が安藤家に婿入りする形で結婚した。

ゴビ砂漠の入り口にある張家口はほこりっぽい街で、母は現地の暮らしになじめず、私が生まれて1年ほどで郡山に帰ってきたという。帰国時、私は腸チフスにかかり、死んでもおかしくないほど弱っていたと母から聞かされた。

帰国後は鶴吉と祖母ハツヨ、母の妹の敏子が住む郡山町の家で暮らした。離れや蓄音機が置かれた洋間がある大きな家だった。大阪などへの空襲が激しさを増していた終戦前、奈良の田舎にも爆撃機B29が飛来することがあり、家の裏にあった防空壕に祖母と母、叔母、弟の4人と一緒に逃げ込んだ記憶がある。

私の名前、紘は祖父が付けたという。たぶん八紘一宇から取ったのだろう。2歳下の弟、勝(京都大名誉教授)の名前も含め、戦時下の雰囲気が反映した名前と思う。

父は戦後、電線などを製造する東大阪市のタツタ電線の社員になった。工員として働く一方、労働組合の活動にも熱心で、朝早く家を出て夜遅く帰る生活をしていた。子どもの頃「神童熊ちゃん」と呼ばれていた父は、本をよく読み、会社の仲間と俳句や演劇などを楽しんでいたという。組合では書記長を務め、その後は教育訓練担当の課長にしてもらったが、私が大学院に在籍している時に49歳で亡くなってしまった。

京都大総長になった後、京大出身のタツタ電線の木村政信社長とお話をする機会があり、父が勤めていたことを話すと、後日、当時の組合新聞などを送ってくださった。

創業65年の時の社友会に呼ばれて出向くと、高齢のOBから「熊ちゃんの息子かいな」と声をかけられた。それがきっかけとなり、OBの方から会社の文芸クラブの雑誌に父が寄稿した「蒙古高原」という106枚もある紀行文の肉筆原稿を送っていただいた。張家口での生活を基に描いた創作だった。ずっと昔の原稿を保管していただいたことに驚き、感謝した。

会社人間だった父のアルバムには会社や組合の催し、レクリエーションの写真は多く貼られているが、家族を撮った写真はほとんどない。会社で家族の話はあまりせず、家で会社の話題は出さないという方法で、2つの世界を切り離していたのだろう。祖母や母は「下手な小説を書いて」などと父への愚痴をこぼしていたから、家ではくつろげなかったのかもしれない。

今では考えられないが、中学生の頃、当時のタツタ電線の社長から個人的な奨学金をいただいたことがある。「息子、勉強できるらしいやないか」という理由だ。金額は忘れてしまったが、父母のうれしそうな顔は忘れられない。

(理化学研究所理事長)

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