松本紘(29)感謝と貢献

人間関係が最大の財産
未来つくる仕事これからも

先日、長男の英器を連れ、妻の倫子と一緒に大和郡山城に行ってきた。ツツジが美しく、英器が笑顔になったのがうれしく、楽しい休日になった。大和郡山市内のあちこちも巡ってみたが、昔住んだ家々は今は跡形もない。

京都大教授を退任する際、生存圏研究所の後輩らが記念誌を作製してくれた。100人近い人が思い出話を寄稿し、343の論文や492の国際学会発表、100の国際シンポジウム発表、多数の国内発表をまとめてある。退任前後にはロシア宇宙航行学協会のガガーリン・メダル、日本人では初となる国際電波科学連合(URSI)のブッカー賞を授与された。受賞は研究業績だけでなく、私の人間関係の産物だと思っている。

総長になった時、スケジュールの多さに驚いた。細かなものまで入れると年間4千件ほどあっただろうか。そのすべてを調整し、私の負担を減らす「前さばき」をしてくれた梶佐知子秘書室長、秘書の川又知己、川本順子さんの能力には舌を巻いた。京都大は普段はあまり表に出ない優秀な職員にも支えられている。

激務の総長在任中、理事、理事補、部局長、経営協議会の方々、健康管理をしていただいた方々に本当にお世話になった。半生を振り返ると、陰に陽に、いかに多くの人に支えられてきたかと思う。皆様には感謝するしかない。

関東にいる門下生から、東京で私との会合を開きたいという申し出があり、広く人のつながりをつくる機会になればと考え、「綾の会」という名で開催している。私が会長を務め、もう25年続いている。参加者が知人を連れてくるので数珠つなぎでメンバーが増え、リストには約千人が載っている。今や門下生は4分の1くらいで、多彩な人が集まる会になった。ほかに松紘会や松八会といった集まりも作っていただいている。

門下生が私の交友関係を分類して、恩師・先輩界、URSI界などの名を付け、顔写真を入れた曼荼羅を作製してくれた。この多様な人間曼荼羅が私の最大の財産だ。今後ここに「理研界」の人間関係が加わるのが楽しみである。

理研に着任し、この組織が世界の最先端の研究をしていると再認識した。最新で規模の大きい設備や機器があり、大学ではできないレベルの仕事をしている。手前味噌だが「国家の貴重な財産」と思う。さらに発展するように育てたいという気持ちが強まった。

2年後に創立百年を迎える理研は近年、生命科学に力を入れている。生命には謎が多い。今後はこれまでの科学の限界を超えた研究、社会に還元できるイノベーションにつながる研究をしていかねばならないと考えている。

宇宙を研究し、人間とは何か、どこに行くのかという根源的な問いに向き合うと、科学の側が思想や宗教に近づいていくような気がする。資源の浪費や環境悪化などに歯止めをかけ、人類が生存していくには欲望抑止の哲学が必要になる。自然との調和を大切にしてきた日本が世界に貢献できることは多いと考えている。私があこがれる空海が現代にいれば、何を考え、何をするだろうか。

私はかねて「未来は予測するものではなく、つくるもの」と言ってきた。その仕事をできる限りしていきたい。

(理化学研究所理事長)

=おわり

松本紘(28)四のガクリョク

対話で道開く「顎力」を
科研費維持、財務相に直談判

ものおじしない性格で、誰とでも上下関係をあまり意識せずに率直に話をし、形式ばらない行動をとってきた。親しみやすく面白い人と言われることもあれば、煙たがられることもある。自分でも分からないうちに目立ち、交渉事ではタフな相手とみられてきたようだ。

文部科学省には予算要望などで助教授の頃から出入りしていた。随分前のことだが、ロケットや衛星などの実験の関係で要望に出向いた際、後に文科相も務めた遠山敦子さんから「あなたがあの松本さんですか」と言われ、面食らったことがある。予算獲得は大林辰蔵先生が各方面に働きかけていたが、私もあちこち動き回って必要性を強調していた。その言動が省内で噂になっていたようだ。

京都大宇治キャンパスにある研究所やセンターが共通の課題などを話し合う会議では、規模の小さな私の組織が理不尽な不利益を被らないよう頑張った。後日、ある研究所の所長に就任した仲のいい研究者から「うちには松本さんは論破力があるので注意するように、という申し送り事項があったよ」と笑われた。

これまで「長」と呼ばれる役職に多く就いてきたが、自分が動いた方がいいと判断した時は積極的に動いてきた。時には「アポなし」で訪問し、直談判することもあった。みこしに乗って黙って見ているのは性に合わないのだ。

2013年6月、国立大学協会の会長に就任した。理事になった他大学の学長らと国会議員会館へ出向き、議員の方々にあいさつした。教育研究政策を決める議員には様々な課題を十分理解していただかねばならない。要望を文書で出すだけでなく、直接会って話すことで熱意を伝えられる。こういう行動は苦手な人が多いが、私は平気だった。

科研費を100億円減らす話が持ち上がった際には文教政策に詳しい国会議員を回った。最後は財務相に要望するしかないと思い、財務省に急行した。「5分でいいから」とお願いし、外出しようとしていた麻生太郎財務相に科研費の重要性を力説した。科学研究に対する予算は国の将来への投資ともいえる。5分が15分くらいに延びたが、最終的に「わかった」と言っていただき、削減はなしになった。

形式より実質、論だけでなく行動も重視、何事も迅速に、が私の信条だ。組織を把握するには自ら動いて多くの人と対話をするしかない。理化学研究所でも理事長就任後、1カ月余りで全国にある理研の16のセンターのほとんどを回り、研究者らの意見を聞いた。帰る際のあいさつから「おおきに理事長」と呼ばれているらしいが、意思疎通ができて、親近感を持ってもらえるのはうれしいことだ。

議論が低調で長引くだけの会議は嫌いなので、意見が出ない時は指名する。そうそうたる学者が集まる国大協の総会も発言が少ないので、どんどん指名した。意見がいくつか出ると、化学反応が起きたように議論が活発になった。

日本人はもっと議論、対話のコミュニケーション能力を高めるべきだと考えている。私はこれを顎の力・顎力と呼び、学力、額力(前頭葉の力、人の気持ちを感じ取り思いやる能力)、楽力(何事も楽しめる能力)と合わせ、「人間の力は四つのガクリョクからなる」と言ってきた。社会で成功する人はこの四ガクの力が優れているように思う。

(理化学研究所理事長)

松本紘(27)国際化

英語、大学の競争力左右
聞く・話す国内でも磨ける

理化学研究所に着任して以降、会議は英語でしている。所内ではほとんど公用語だ。最初に宣言した時は戸惑いが広がるかと思ったが、そうでもなかった。在籍する研究者の2割は外国人で、自然科学研究の世界で論文や学会発表は英語が当たり前になっているからだろう。グローバル化が進む中、大学や研究機関では今後、日本語を大切にしながら英語も普通に使いこなす二刀流が必要になると思う。今日は私自身の英語との付き合いの経緯を振り返り、なぜそう思うかも記してみたい。

英語に一生懸命取り組んだのは高校入学後だ。最初の英語の先生は奈良女子大を卒業されたばかりの美しい帰国子女風の女性だった。発音はネーティブ並みで男子生徒のあこがれの存在。一学期の試験で満点を取ったら、夏休みに「この調子で満点街道を行きましょう」と激励のはがきをいただいた。すっかり有頂天になって勉強に身が入った。

先生の見事な発音に感化されたわけではないが、勉強をするうちに英語で大切なのは発音と音節(シラブル)、イントネーションだと感じた。自ら正しく発音できない言葉は聞き取れないからだ。大学時代は大和郡山市の教会に通い、オーストラリア出身の神父に教えていただいた。

日本語が堪能で、通常の会話は日本語でしていた。そこで一計を案じた。教会を批判していた哲学者スピノザの本を読み、議論を吹っ掛けたのだ。興奮してくるとだんだん英語交じりになってくる。まじめな神父には申し訳ないことをしたが、聞き取る力を磨かせていただいた。

問題は話す力で、こちらは普段から身の回りのものを英語で表現し、声を出して覚える勉強を続けた。今、英語には自信があるが、自分の英語力の8割ほどは大学生時代までの勉強で身についたと感じている。後は慣れと度胸だ。

学生時代は仲間と英語だけで会話する練習をした。「ええっと」と言うだけで罰金である。研究者になってからは部屋のドアに「No Japanese」と貼り紙をして意識的に使うようにした。国内の鍛錬だけで英語力を高められたと思う。米国の研究所でも特に苦労はしなかった。

大学の運営に関わるようになってからは、英語が大学の国際競争力に大きな影響を与えていることを実感した。

さきごろ英国の教育誌が発表したアジアの大学ランキングで、上位100校に入った大学の数で中国が日本を抜いて1位になったという報道があった。中国に限らず、韓国や台湾、香港、シンガポールなどの大学は着実に力を付けている。昔はアジアの大学を少し下に見ていたが、総長時代には、教育研究環境や教員層の充実、意欲や能力のある国外の学生を見て、「このままでは日本の大学は抜かれる」と危機感を持った。

国の教育研究予算のほかに、日本の大学は国際化で後れを取っている。ここに英語が深く関係してくるのだ。

ランキングでは論文の引用数、外国人教員や留学生の数などで日本の大学の評価が下がってしまう。例えば文系に多い日本語の論文は引用されにくく、引用率が低くなる。英語圏の大学が有利になるこうした指標を過度に気にすべきではないと思うが、中国は文系の論文の概要を英語にするなど発信を強化している。日本が手をこまぬいているわけにはいかないだろう。

(理化学研究所理事長)

松本紘(26)白眉と思修館

若手とリーダー育てる
専門性・広い知識両立めざす

総長在任中に若手研究者の育成とリーダーになる人材づくりで新たなプロジェクト、組織を立ち上げた。現状への問題意識を持つ人は多いのに、既存の枠を超える仕組みはなかなか生まれない。京都大から大学を変える発信をしたいと思った。

若手研究者の育成策「白眉プロジェクト」は、京都大出身に限らず博士号を取得した若手研究者を、分野を問わず年俸制の教員(准教授・助教)として採用する制度である。最長5年間の有期雇用で、給与のほか、年間最大400万円の研究費を支給する。教育や事務管理の仕事は免除し、中間評価も行わない。研究は世界中どこでやってもらってもかまわない。

これらは、若手が研究に集中し、多分野の研究者から刺激を受けながら研究に専心できる支援策だ。通常の有期雇用で採用された若手は最終年、事務管理や評価などに対応するため大量の書類作成を迫られる。落ち着いて研究をしていられないのだ。

5年間、身分と待遇を保証する自由度が高い制度は注目され、競争率30倍の狭き門になった。選考は産官学の有識者にも加わっていただき、かなり手間をかけた。最終面接は私が1人でした。専門分野だけでなく、多面的な能力をチェックし、当意即妙の受け答えができるかも判断した。

一般に博士はその分野の広範な知見・博識を持っていると思われるかもしれない。しかし、実際は狭い分野を深く研究した人という方が正確だ。分野を絞らないと論文が書けないからそうなる。

専門性を持ちながら広範な学識と柔軟な思考力、突破力と言われる程の実行力のあるリーダーを育成できないか。こうした問題意識で設立したのが5年一貫制の大学院・総合生存学館(思修館)だ。

カリキュラムは独特で、2年で専門研究の博士論文をだいたい仕上げてもらい、3年目は高度な教養科目を幅広く学ぶ。4年目は海外の機関などでの実践活動、帰国した5年目は学びの総仕上げとして自らプロジェクトを企画し実現してもらう、という密度の濃い内容になっている。

経済界などのリーダーを招いての特別講義(熟議)を組み込み、合宿型の研修施設(学寮)も設けた。才能ある若者が互いに鍛え合いながら成長し、大きな社会課題の解決に向けて活動する人材に育つことを期待している。

白眉は兄弟の中で最も優れている者を指す中国の故事成語。思修は「聞思修」という仏教用語から取った。聞いて得る知恵である聞慧、思索で得る思慧、実践によって得る修慧である。日本の教育は聞慧は優れているが、思慧と修慧が足りない。ここで習得してほしいという願いを込めた。ほかの事業もそうだが、私は名前にこだわった。短く切れのよいネーミングは印象に残りやすいからだ。

総長時代には多くの改革や新事業を手掛けたが、実務を担当したのは副学長である。組織改革は江崎信芳氏、白眉は吉川潔氏、思修館や入試改革は淡路敏之氏がそれぞれ苦労を重ねながら実現に向けて力を注いでくれた。

先日、白眉の若手が開いてくれた感謝の会のメーンは私への質問だった。最終面接のリベンジをするという。当然、切り返した。「生きてきた長さが違うからまだ無理やで」と田中耕司・前白眉センター長から指摘されていたが、誠にうれしい会だった。

(理化学研究所理事長)

松本紘(25)外とつながる

「群れない」のは言い訳だ
東京オフィスや同窓会に力

総長になって意識的に取り組んだことに企業や地域、卒業生とのつながりを深める改革がある。研究などに使う記念館を寄贈していただいた京セラの稲盛和夫氏、計測技術研究者を顕彰する賞を設けていただいた堀場製作所の堀場雅夫氏には就任後すぐに挨拶にうかがった。

堀場さんからは「東大が警戒しとるで」と耳打ちされた。私は副学長時代から競争的資金の獲得に力を入れていたので、その戦略を強化すると思われたようだった。大学にこもっていても情報は入ってこないし、人脈も築けない。できるだけ外部の人に会うよう心がけた。外部の目や声は気づきのきっかけにもなる。

京都大は「敷居が高い」と思われているようだった。法人化した今、何の努力も工夫もせずに予算が付き、企業が資金を出し、優秀な高校生が志願してくれるわけではない。企業の本社が関西から移って意思決定を東京でしているのに京都大の東京での存在感は想像以上に小さかった。

産学連携や寄付金獲得、政府や政党への要望、首都圏の高校との関係づくりなど様々な活動をする拠点として東京オフィスを設けた。経費がかかるため反対もあったが、将来への投資と位置づけた。首都圏の高校長が集まる会で京都大をPRしたり、東京都教委と連携して京都大を紹介するセミナーを開いたりした。

同窓会も強化した。学部の同窓会だけでなく、地区別の同窓会を増やし、海外にも設けた。卒業生のネットワークでは慶応大がしっかりしていて、同窓会の三田会が各地で会合を開いていた。東京大には経済界や官界に外部からは見えない人脈があった。

京都大は斜に構え、「群れないのが特徴」と自慢する人もいた。私は同窓会の会合で大学土壌論、大学基軸論を唱えた。大学は自分を育んだ土壌であり、人生の節目に再訪し自分の立つ位置を確認する軸のような存在と考えてほしいという意味だ。「群れないというのは人間関係を作れない言い訳だ。もう言わないでほしい」と強調した。

2010年には京都商工会議所が事務局になった「京都の未来を考える懇話会」のメンバーに選ばれ、30年後の京都のあるべき姿を話し合った。京都大には「舞台は世界」との意識があるためか、地域とともに歩み、地域に貢献するという姿勢が弱かったように思う。私は地域課題の解決も大学の重要な役割だと思い、府市との連携を強めた。

懇話会では、会頭の立石義雄オムロン名誉会長、山田啓二知事、門川大作市長、府観光連盟会長を務める柏原康夫京都銀行会長らと3年かけて議論し、世界の文化首都、双京構想の実現、留学生5万人の大学のまちといった将来ビジョンをまとめた。この議論を通じて、30年先を考えるのがリーダーの責務と改めて認識した。

総長就任後、反発を受けながら改革に取り組み外部への発信を続けていたら、京都大OBの企業トップの方々が支援組織・鼎会(初代会長・和田紀夫NTT相談役)を作ってくれた。総長を個人で応援するという趣旨だった。三井住友フィナンシャルグループ会長の奥正之さんが中心になって声をかけていただき、多額の寄付を頂戴した。誠にありがたく、教養図書の購入や優秀な学生の表彰などに使わせていただいた。

(理化学研究所理事長)

松本紘(24)改革

教養教育は学びの根幹
企画・運営、一元化に踏み切る

総長に就任してすぐ組織の改革に着手した。総長室を設け、総長や理事を補佐する理事補、副理事というポストも新設した。法人化に伴い管理運営部門を充実させる必要があった。所属する部局だけでなく大学全体を見渡せる人、教学だけでなく大学全般の運営を考えられる人材を育てねばならないと感じていた。

京都大の校風は自由闊達、自主自立である。管理や束縛を嫌い、学部自治へのこだわりも強い。こうした伝統がうまく作用すれば、独創的な研究が生まれたりするだろう。しかし、時代の変化に合わせて全体の組織を見直し、身を切る改革もしなければならない時などには、各論反対、結論先送りが起きやすい。

教養教育の改革がその1つだった。教養教育のあり方を考える議論は1996年からずっと続いていた。14冊の報告書が出ていた。2003年に少し改革をしたが、企画をする組織と実際に教育を担当する組織が違うため、履修科目の需要と供給にズレが生じていた。1、2回生が履修できる教養科目は約千もあるのに、系統立てて学ぶ仕組みにもなっていなかった。

「いよいよ改革を実行する段階ではないでしょうか」と訴えた。会議を開いて意見を集約し、企画運営を一元的に行う国際高等教育院を設立した。伝統ある教養教育をつぶすのかという反発も起きたが、最終的には学内のほとんどの方に賛成してもらった。

私は教養教育は非常に重要だと考えている。学問の習得を樹木の成長になぞらえると、大学の教養教育は高校時代までに育った樹をしっかり伸ばす役割を担う。ここが揺らぐと、専門教育をしても枝の先端は伸びず、豊かな実りは生まれない。幅広い知識の積み重ね、深い教養がないと独創的な発想も出てこない。家庭教育や学校教育も含めた問題だ。一大学でできることは限られるが、先取の気風も京都大の伝統である。足踏みせずに前へ進もうと思った。

研究者が組織の壁を越えて交流する仕組みも手掛けた。学外の人には理解しがたいかもしれないが、同じ分野の研究者でも所属組織が違うと、学内で会うことはほとんどない。また、学問領域の細分化が進み、隣の人がしている研究が全然理解できないような状況も生まれていた。

そこで、部局横断的な研究を支援する学際融合教育研究推進センターを設立した。大きなテーマの研究を多角的に進めるため、様々な学部や研究所の教員らでユニットを作り、連携、協力するのだ。若手の研究者を中心に現在34のユニットが動いている。

海外の大学との交流事業も活用した。連携協定を結んだ英国のブリストル大学とのシンポジウムには様々な部局の卓越した教育研究グループから約90人が参加し、学内の研究者の交流の場にもなった。

部局の枠を越えた協力を進める教員組織の改革には反対も強かった。2年にわたる議論を重ね、2014年3月には、学域・学系制度という新たな仕組みの導入を決定した。様々な改革には批判も出たが、議論に費やした労力と時間、関係者の努力を考えると、今やらねばならないと強く感じた。

苦しい状況が伝わったのか、あるとき、総長室に昔ガキ大将だった幼なじみから電話がかかってきた。「松ちゃん、最近いじめられとらへんか。いじめられとったら俺に言いや」。電話で話しながら思わず笑ってしまった。

(理化学研究所理事長)

松本紘(23)ノーベル賞

iPS直ちに研究組織
知財保護、ゴア氏とやり合う

総長在任中に京都大関係者のノーベル賞受賞が相次いだ。2008年度の物理学賞の受賞者には益川敏英・京都大名誉教授、小林誠・高エネルギー加速器研究機構名誉教授が、南部陽一郎博士とともに選ばれた。小林さんも一時期、京都大理学部の助手をされていた。

理論物理学研究は湯川秀樹博士以来京都大がリードしてきた。その伝統が続いてきたことが示せて誇らしかった。益川さんには受賞記念に大学から懐中時計を贈ることになり、出向いてお渡しすると大喜びしていただいた。

12年の山中伸弥氏(現京都大iPS細胞研究所長)の生理学・医学賞受賞は、私が副学長時代からヒト人工多能性幹細胞(iPS細胞)の研究体制の整備に関わったこともあり、特に感慨深かった。

07年度から文部科学省が始めた世界トップレベルの研究拠点プログラム(WPI)で、京都大学の物質―細胞統合システム拠点(アイセムス)は最初の拠点の1つに選ばれた。優れた研究環境を作り、高いレベルの研究者を集める事業である。研究担当の副学長として多くの関係者と力を合わせて実現したもので、今後の研究支援のモデルケースになると自負していた。

この年の11月、山中さんは人間の皮膚に4種類の遺伝子を入れるだけでES細胞に似た細胞を生成できたとの研究成果を発表した。マウスで成功した段階でもこの研究は再生医療の発展につながる画期的なものだと思っていた。世界が注目しており、研究競争が激しくなるのは明らかだ。

「すぐに動かねば」と感じた。iPS細胞に特化した研究組織を立ち上げるのだ。しかし、通常の手法では合意形成や手続きに時間がかかりすぎる。「普通は2年以上必要」と言われた。そこでアイセムスの中にiPS細胞研究センターを設置することにした。そこで成果が上がれば、独立した研究所にできるという青写真を描いていた。研究担当理事の権限で可能であり、2カ月足らずで実現できた。

iPS細胞では知的財産の保護、活用でも対策を練った。企業に特許で独占されたら幅広い研究が難しくなる。産学連携本部長もしていたので、知財の専門家を集め、適切な手法を検討した。京都大だけでなく他の大学や研究機関のiPS細胞に関する権利を一括管理し、企業や研究者に提供する会社を考えた。京都大が直接出資はできないので、まず中間法人を設立し、そこが全額出資して知財管理会社を設立することになった。

その過程では、権利を主張した米国のベンチャーキャピタルのパートナーである元米副大統領のアル・ゴア氏と電話で2回議論した。先方の主張に「それはダメだ」とやり合った。最後は京都大側の言い分が通って決着した。

山中さんは非凡な才能を持つ常識ある研究者だ。独り善がりの変人的な要素がなく、まじめで誠実。ナイスガイである。最初に研究概要を聞いた時、「非科学に潜む未科学を科学にする研究だ」と感心した。私も長い時間を要する宇宙太陽光発電の研究をしていたので、皆が無理と思う研究にチャレンジしている人は大好きなのだ。

今年2月15日に開かれた私の総長退任記念の会。山中さんは京都マラソンを4時間を切る自己ベストで走った後に会場に来て、あいさつをしてくれた。鉄人研究者の活躍は我が事のようにうれしい。

(理化学研究所理事長)

松本紘(22)京大総長に

学内投票まさかの1位
家庭の事情で悩むも決断

副学長の3年間、できる限りのことをした。というのも、京都大の運営、改革に携わるのはこれが最後と思っていたからだ。私の立場で総長になることはあり得ない。それが当時の常識だった。

京都大の総長選びは手続きが長い。まず大学の研究教育評議会が実施する5千人超の教職員による予備投票があり、学内外の有識者で構成する総長選考会議に候補者を推薦する。会議がそれを元に学外の人も含めた候補者を選定する。次に講師以上の教員らによる学内意向投票を行い、その結果を元に選考会議が総長を決める。

京都大には10の学部や14の研究所など多くの部局があるが、総長になるのは規模の大きな研究科・学部の長が多かった。近年は医、農、工、理学部出身の総長が続いていた。学内意向投票の有資格者は2100人以上いるが、私のいた生存圏研究所は40人程度。そもそも候補になることすら想定できなかった。

だから、投票で1位になったのは青天のへきれきだった。総長選考会議に出向き、最終的な意思の確認をされた。その時、私には正反対の感情があった。一つは多くの人から支持されたことへの感謝と選ばれた責任感。「よし、やるぞ」という強い気持ちだ。

もう一つは「もうええやろ」と自問するような気持ちだ。副学長の仕事に全力投球し、家庭をほったらかしにしていた。障害者の長男は35歳から施設で、当時88歳の母は様々な症状が出てグループホームで暮らしていて、持病を抱える妻の倫子に世話を任せきりにしていた。さらに6年も同じような生活を続けていいのかと悩んだのだ。

選考会議の場で正直に家庭の事情を説明した。少しこみ上げるものがあり、涙を抑えられなかった。話したら吹っ切れ、最後は、多くの人に推していただいたことを理由に総長を引き受けると答えた。

2008年10月、第25代の総長に就任した。110年を超える京都大の歴史で、研究科・学部長でない総長は私が初めてだった。大きな組織票のない私が選ばれたのは、京都大の教職員に私と同じ危機感を持つ人が増えたからだと考えている。副学長の時に手掛けた改革はそれを訴えるメッセージでもあった。

大学を巡る環境は厳しくなっていた。経済の停滞が続く中で法人化した国立大には一層の経営感覚が必要になっている。少子化やグローバル化、ITの進化への対応も求められる。自由な教育・研究環境を守るためには、こうした変化を織り込んで発展していく戦略を描かねばならない。

だが、京都大には「東大と京大は別格。大丈夫」というような妙な安心感があった。一方で「京大は遅れている」という焦りの声が上がっていた。私に期待された役割は、建て直しだと思った。

就任時の記者会見で思わず口をついて出た「魅力・活力・実力のある京都大学」づくりに向け、走り出した。重視したのはスピード感だ。6年の任期を逆算すると、1年目に準備を始め、手を打たねばならないことは山のようにあった。

就任約3カ月後に開かれた新年会で改革方針を説明した。理事、副学長のほか、部局長らが出席し、多くの名誉教授、それに岡本道雄、沢田敏男、西島安則、井村裕夫、長尾真、尾池和夫の歴代総長も参加されていた。先輩総長から「思う通りにやればいい」と激励され、心強く感じた。

(理化学研究所理事長)

松本紘(21)副学長

資金獲得や運用に風穴
人と人の壁払い財務を改善

生存圏研究所の所長を最後に定年退官で京都大を離れると思っていた。しかし、尾池和夫総長から財務担当の副学長就任の打診があった。「財務なんか分かりません」と言うと、「何ができる」とおっしゃる。「研究担当ならやります」と答えると、「それじゃあ研究と財務、両方頼む」となった。

2005年10月、理事兼副学長に就任した。前年、国立大学は法人化された。国からの運営費交付金が毎年削減されるため、財務改革が急務になっていた。昔から何か問題があると引っ張り出されて解決に関わることが多く、「困った時の松本」などと言われていたので、そうした腕を見込まれたのかもしれない。

知らないことは勉強し、教えを請うしかない。財務の基本を学び、担当職員と議論すると、いくつか改善できそうな点が見えてきた。例えば、運営費交付金や補助金はいつでも引き出せるように寝かせてあった。そこで入出金の情報を迅速に把握し、支障が出ない範囲で短期で運用した。

こうすれば利子収入を得られるのを職員はよく分かっていた。しかし、これらは教員の研究資金であり、手は付けられないと思い込んでいた。逆に教員はこうした資金の運用を考えることなどない。「責任は私が取るから」と言って、実行してもらった。

後の総長時代までを通じて感じたことだが、教員と職員、部局の間にある壁がまさに障壁になって、アイデアが出ず、力を発揮できない状況が生じていた。そうした動いていない部分のスイッチを「切」から「入」に切り替えるだけで改革が進むことがある。

競争的資金の獲得にも力を入れた。私は科学研究費補助金(科研費)を得るのがうまかったと自負しているが、そうでない研究者も多い。個人の努力や才覚頼みでは限界があり、大学が組織として企画立案などを手助けする必要があると考えた。その担当として、プログラムオフィサー(PO)、POを束ねるプログラムディレクター(PD)というポストを設け、資金獲得のノウハウにたけた教授や准教授に就任してもらった。

産学連携も担当したので企業の視点を持つ方のご意見を聞いた。米国IBMの研究所に長く在籍し京都大教授になられていた村上正紀さんからは合理的な研究管理など改革のアイデアを出していただいた。「日本には無駄に時間を費やす会合が多すぎる。皆が不満を持っている」と意思決定の遅さの改善を促された。

京都大出身の企業幹部らの意見を聞く会も設けた。トヨタ自動車で将来の科学技術などの課題を探る研究所の所長を務めた井上悳太さんからは、京都大の産学連携施策が外部から全然見えないなどと厳しいご指摘をいただいた。

京都大は常に改革に取り組んできたし、私も少しかかわった経験があった。井村裕夫総長時代には私と医学部、法学部の教授らが呼ばれ、改革の議論をした。長尾真総長も運営体制の強化をされた。長尾総長の部屋には時々お邪魔していたが、あるとき、「京都大にはいろいろ問題があるんだ」とポツリと漏らされたこともあった。

私は副学長室に詰め、担当の業務に専念した。「法人化したのに、京大の意識は以前の国立大学のままだ」という危機感が強まっていた。

(理化学研究所理事長)

松本紘(20)壮大な課題

宇宙開拓の未来図描く
生存「圏」研究所を立ち上げ

宇宙を研究し、観測をしていると、自分が宇宙空間にいるような気分になることがある。宇宙からの視点で太陽系の一惑星としての地球を客観的に観察できるように思うのだ。この小さな星に人類は文明を築き、災害や疫病、戦争などを乗り越えて栄えてきた。しかし、20世紀以降、人類が経験したことのない困難が生じつつある。

欧州のシンクタンク、ローマクラブが1972年に発表した「成長の限界」は急激な人口増加と環境破壊、資源枯渇について警鐘を鳴らし、多くの人が衝撃を受けた。私もその一人だった。人類全体で解決すべき課題。とてつもなく大きなテーマではあるが、研究者は何らかの方向性を示す必要があるように思えた。

宇宙を利用する視点で研究してきた私は、教授になった頃から「太陽系を食べる」などの表現で宇宙開拓の必要性を強調するようになった。「限界」をポジティブに解決するには、宇宙太陽光発電だけでなく、宇宙に本格的に進出し、惑星の鉱物資源も使う未来図があると構想したのだ。

もちろんかなり長期的で、学問領域を超えて総合的に研究する課題である。私がセンター長に就任した超高層電波科学センター(後の宙空電波科学研究センター)にいる若手がこうした課題に、既存の学問の壁を越えて取り組めるような体制にすべきではないかという思いがしていた。

同じ宇治キャンパスにある木質科学研究所と統合して生存圏研究所が誕生したのは2004年4月。国立大学の法人化と同時だった。木質研は戦前生まれの伝統ある研究所で、森林研究やバイオサイエンスなどで優れた成果を挙げていた。宙空研の対象は宇宙と大気圏。木質研は森林や地上の生活圏。これらを合わせれば人類がこれまで生存し、今後生きていく圏域全体を研究対象にできると考えた。

統合は簡単にできたわけではない。木質研の則元京所長(京都大名誉教授)とぜひ実現させようと意気投合し、互いの組織内の説得は責任を持ってすることにした。宙空研からは私と津田敏隆教授(現生存圏研究所長)ら、木質研からは則元さんと川井秀一副所長(現京都大総合生存学館=思修館=館長)らが出て33回も協議を重ねた。私は少林寺拳法をやるが、ほかの面々も空手や少林寺拳法の高段者ばかり。多少の反対があっても後ろに引かないだろうという腕っ節の強さへの信頼感があって実現できたと思う。

研究所名を巡っては文科省の担当者とやり合った。新しい学問を創造するつもりで生存圏という名称を提案したが、理解できないという。「憲法25条に規定があるやろ」と突っ込むと、「先生、それは字が違います」。笑いを取った後で粘って説得し、何とか認めてもらった。

地球規模の課題解決では近年、持続可能な社会づくり、サスティナビリティという用語がよく使われる。ただ、人口増加の速さと資源残存量などを計算すると、生活水準を落とさず、環境を破壊せず、この先もずっと豊かな暮らしを持続させるのは相当難しいのではと感じている。「持続可能な社会」は、唱えていればあまり努力せずに実現できる免罪符ではない。私はもっと厳しく現実と将来を見て、サバイバビリティ、「生存学」の必要性を強調している。

(理化学研究所理事長)