川村隆(21)スピード重視

意思決定は6人で行う
危機を逆手にぶれずに改革

社長就任にあたって、庄山悦彦会長に1つだけお願いしたことがある。緊急事態でもあり、経営のスピードが何より大切。「私が会長と社長を兼任し、素早く意思決定できるようにしたい」と要請して、受け入れてもらった。

こうして現役復帰が決まると、さっそく猛勉強を開始した。なにしろ子会社に出て6年たつので、日立本体の事情に疎くなっている。しかし、人事の正式発表の前で、おおっぴらに会社に出入りできない。本社隣の丸ノ内ホテルの部屋に資料を運び込んでもらって10日間ほど俄勉強した。

そこで浮かび上がったのは、バブル絶頂期の1990年度決算を頂点として、その後ジリジリと業績数字が悪化してきたことだ。途中何回か試みられた改革も徹底を欠き、効果を上げなかった。一言でいえば「緩慢なる衰退」の末にリーマン・ショックがやってきて、会社は沈没寸前にまで追い込まれたのだ。

私の会長兼社長就任が発表されたのは2009年3月16日の夕方。東京・お茶の水にあるビルの大会議室で、私と庄山悦彦会長、古川一夫社長が壇上に並んだ。

このときの会見では「赤字は悪。一日も早く赤字を止めるために、1年間は守り6、攻め4の比率で経営する」「総合電機の看板にはこだわらない。多岐にわたる事業のなかで近づけるものと、遠ざけるものを峻別する」「経験と勇気を持って日立を再生させていく」などと述べた。

こうして熱弁を振るっても、集まった報道陣の反応が冷ややかに見えたのは、私の僻目ではあるまい。それまで日立は何度も改革を口にしたし、日経ビジネスで「沈むな!日立」という特集が組まれるなど外からも応援してもらったが、実行が伴わず、計画倒れに終わっている。「まずはお手並み拝見」と記者が突き放すのも無理はなかった。

私自身が日立を離れて長く、若い記者には「川村って誰だ」という思いもあったのだろう。現役復帰は私のほか、元副社長でやはり子会社に転出していた中西宏明さんと三好崇司さん、八丁地隆さんも、副社長として復帰することになった。私を含めて3人の復帰組の名前が「たかし」であり、「三たかし、波高し」と先行きを揶揄する記事が日経新聞に掲載された。

4月1日に会長兼社長に正式に就任して、当日開いた最初の経営会議で決めたことは、意思決定の迅速化のための措置だ。23人いる専務と常務は意思決定の会議から外し、私と中西、三好、八丁地、森、高橋の5名の副社長、計6人で大きな方針を決めると申し合わせた。

会議の参加者が10人を超えると、とたんに意思決定の速度が鈍り、組織が停滞する。過去の日立もその轍を踏んでいたが、そうと分かっていても平時には改革は難しい。危機だからこそ、経営体制のモデルチェンジが実現した。

私たち6人は血判状こそ取り交わさなかったが、「ぶれずにやるぞ」と互いの覚悟を確かめあった。また、私自身も「社長というイスに座って会社の顔として働く」ということを越えて、「経営のプロフェッショナル(専門職)」の覚悟で事に臨むと心の中で確認した。社内外の様々な行事に時間をとられすぎた副社長時代の反省からくるものであった。

(日立製作所相談役)

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