川村隆(15)島根原発

原子炉国産1号に挑戦
「村社会」出て東京本社へ転勤

前回紹介した関西電力姫路第2発電所火力6号機と並んで、思い出深い仕事が中国電力の島根原子力発電所1号機だ。当時中国電力の建設本部に技術陣を率いる薬師寺薫さんという名物次長(後に同社副社長)がいて、彼の指揮のもとで「国産第1号の原子炉をめざそう」と両社が力を合わせて取り組んだ。

原発は何といっても米国企業が圧倒的にリードしており、日立は沸騰水型と呼ばれる方式の原子炉を米ゼネラル・エレクトリック(GE)社から技術導入していた。島根1号機も土台にあるのはGEの技術だが、中国電力の要望を受けて、中央操作室などに独自の技術を盛り込んだ。操作を機械任せにせず、人の手でより細やかに制御する仕組みを導入したのだ。

電力技術者の間には「インチをセンチに変える」という言葉がある。米企業の設計図面に忠実に、ただ単位をセンチに換算して、コピー製品をつくることだ。日立の原発事業はそれまで「インチを・・・」の段階にとどまっていたが、そこから一歩踏み出したのがこの島根1号機だった。同機は1974年3月に営業運転を開始し、約40年のつとめを終えて、今年3月に廃炉が決まった。長い間、無事頑張ってくれたと感謝している。

私の会社人生に大きな転機が訪れたのは、1981年、41歳のときだ。新入社員以来住み慣れた日立市を離れて、東京の本社の火力技術本部に転勤した。私は生産現場によく出入りし、大きな発電機に聴音棒を当てて中の異常音を探ってみる、といった作業が好きだった。生産現場の各部門を仕切る「組長」と呼ばれるベテランとも仲が良く、助けてもらったことも多い。

彼らに東京転勤を告げると、「また日立に帰ってくることもある。気を落とすな」とまるで左遷された人のような扱いだった。会社人生をずっと日立市近辺で過ごす彼らにとって、日立こそ世界の中心。私もそんな世界に愛着があっただけに、転勤は少々残念だったが、日立工場の金井務工場長(後に日立の社長)から「東京の技術本部強化のために行ってくれ」と言われ、逃げようがなかった。

同じ会社でも、工場と本社ではカラーがまるで違う。工場はしがらみが縦横に織りなされた「村落共同体」だが、本社は利益や機能を第一に追求する、ドイツ語でいう「ゲゼルシャフト」の雰囲気だった。工場時代は始終飲み会があり、飲み屋でも顔見知りが大勢いて公私の区別はないに等しいが、東京ではプライバシーがしっかりある。「村社会」のままではやっていけないと考え始めていた私にとって、東京の機能主義は意外にも心地よかった。

その頃、GEが日立に米東海岸の工場や中小型の変圧器事業の買収を持ちかけてきた。ジャック・ウエルチ会長(当時)による「選択と集中」の幕開けである。

ところが、日立サイドには事業をばらして売買する発想がない。「あんなことをやっていると、GEの製品群は歯抜けになって、競争力を失うぞ」とひそかにあきれていたが、時が経(た)つにつれて、競争力を失ったのはGEではなく、私たちであることがはっきりしてきた。日立が選択と集中にカジをきるのは、GEよりほぼ四半世紀遅れてのことだった。

(日立製作所相談役)

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