川村隆(12)結婚

社宅暮らし生き生きと
自然が多い日立市で子育て

日立製作所に入社してちょうど2年たった1964年3月に桑原祥子と結婚した。祥子は愛媛県松山市の桑原病院の院長の次女で、私と同年齢。当時お茶の水女子大学理学部専攻科(修士課程に相当)の学生だった。

彼女と知り合ったのは大学3年のときだ。きっかけは当時盛んになりかけていた合同ハイキング、略して合ハイである。東大教養学部時代の友人の池田君が同郷の友達のいるお茶の水女子大生物学科に声をかけ、一緒に奥多摩に出かけたのだ。このとき彼女は初めての山歩きだったらしく、ズック靴にスカートで御前山を下りる頃は疲労困憊、膝はガクガクの状況だった。

この後、次第に2人だけで会うようになり、神保町の「田園」という音楽喫茶で待ち合わせたり、多摩川べりや相模湖沿いを一緒に歩いて話しをしたりした。

2人とも世間知らずのまじめな学生で、「派手なものが嫌い」とか「まだまだ自分たちは未熟なので、学問や社会勉強をもっとしよう」とか、とにかく波長が合った。大学生になってからの知り合いだが、恋人というより、幼なじみのような存在で、ずっと一緒にいるのが当たり前という感覚だった。

結婚した当初は日立市成沢町にある団地型の社宅に入居した。当時の日立は社員が急増しており、社宅の用地も不足気味。そこで1戸当たりの面積がこれまでより一回り小さい新規格の社宅を整備しており、その最初の入居者夫婦が私たちだった。

周囲は全員日立の社員とその家族で、息がつまるような感じがないでもない。近くのスーパーマーケットは「供給所」という名前で、これも会社が経営していた。「供給所」とは奇妙な名前で最初は驚くが、そのうち慣れて何とも思わなくなる。そこで社員の奥様たちが一斉に夕食の買い物をするので、買い物カゴをのぞけば、互いに晩ご飯のメニューまで分かるのだ。

私は最初「こんな生活環境に祥子は嫌気がささないだろうか」と心配した。実際に同僚の奥さんの中には「東京に帰りたい」と文句を言う人も多かったと聞く。だが、幸いにも、杞憂に終わった。松山出身の妻は地方暮らしを苦にせず、荒っぽい茨城言葉にもすぐ慣れた。隣近所にもすっかり溶け込み、元気に生き生きと毎日を過ごした。

1966年には長男・肇、68年には次男・明と2人の男の子に恵まれた。その後、同じ成沢町に一戸建てを新築して移ったが、自然豊かな田舎で子育てできて本当によかったと思う。私の子供時代と同じく、兄弟はザリガニを捕まえたり、崖を登ったり、遊ぶところがふんだんにある幸せな子供時代を過ごせた。

祥子との「共同生活」は半世紀を超えた。一番びっくりしたのは、学生時代は体が華奢で、山歩きでは参るほどだったのに、今は大変元気で病気らしい病気をしないどころか、何かと頭が上がらないのだ。

反対に私は網膜剥離や白内障、肺梗塞で何回も入院した。だから水泳でも山歩きでもパソコン操作でも分が悪いのは全部私の方である。ゴルフやスキーはまだわずかに私が優位だが、これも風前の灯(ともしび)。50年の歳月はすべてを変えてしまうのだ。いやはや。

(日立製作所相談役)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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