川村隆(11)海外初出張

カナダの豊かさに驚く
商談敗北、欧州勢の強さ実感

日立製作所に1962年に入社し、1年半が過ぎたころ、海外出張のチャンスが巡ってきた。会社は当時、火力発電設備の輸出を増やそうとしていたが、それには海外の電力会社のもとに出向いて、他社製品との技術の違いを説明する必要がある。その説明要員の1人に選ばれたのだ。

私はその頃まだ一人前とは認められていない研修員の身分だったが、猫の手も借りたい忙しさの中で、ベテランを海外に長期出張させるわけにもいかなかったのだろう。ともかく若い時に自分の目で海外を見られたのは、たいへん幸運なことだった。

上司の西政隆課長(後に日立の副社長)のもとに行くと、私のつくった説明用の資料をざっと眺めて、「英検2級か、まあいいだろう。外国人と話すときは怖がらず、相手の目を見てきちんとしゃべるんだぞ」という程度で送り出されてしまった。

行き先はパキスタンとカナダで、生まれて初めて乗る飛行機に少し緊張した。最初に行ったパキスタンでは同僚がボイラーやタービンについて先に説明し、彼らの見よう見まねで自分の担当の発電機についてしゃべって、何とか無事終わった。仕事の合間に見たパキスタンの街並みは当時の日本に比べてもはるかに貧しく、心が痛んだ。

次のカナダはその逆で、豊かさに驚かされた。ティッシュペーパーというものの存在を知り、カクテル(マルガリータ)を飲んだのも、この時が初めてだった。飛行機で米国のグランドキャニオンの真上を飛んで、その広大さを実感した。「こんな国と太平洋戦争を戦ったのか」と感慨無量だった。

カナダではモントリオールにあったカナダ式原子炉をつくる重電メーカーを訪ね、アルゼンチン向けの商談の打ち合わせをした。先方の原子炉と、日立のタービンや発電機を組み合わせて、受注を狙ったのだが、結局ドイツのシーメンスに負けてしまった。

その頃、日立が意識するライバルは、国内企業では何といっても東芝だった。お互いのエンジニア同士も顔見知りで、私自身も「東芝の○○君がいい機械を設計したから、それを少しでも上回るものをつくらないと」と頑張ったものだ。

世界ではやはり重電市場の王者である米ゼネラル・エレクトリック(GE)が気になった。GEについてはライバルでもあり、特定の技術についてはライセンス導入をして教えを請うた師匠でもあった。そんな状況の中で、欧州勢についてはあまり関心がなかったが、カナダの失注を機に「欧州企業も手ごわい」と脳裏にすり込まれた。

この時の出張の体感は長く私の心に残り、「国内の仕事で手いっぱいというのでは情けない。無理をしてでも海外市場に出て行き、将来に備えないといけない」というのが持論になった。だが、現実は逆に進んだ。日本で高度成長が始まり、次から次に発電所をつくらないと、供給が追いつかない。

電力会社からも猛烈に尻をたたかれ、「海外は付録」という時代が長らく続いた。この時代にもう少し世界に種まきできていれば、日立のグローバル化はもっと早く進んでいただろう、というのが私の実感である。

(日立製作所相談役)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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