川村隆(2)受け継いだもの

父が学んだ米国に憧れ
スキーを習い生涯の趣味に

私は父・米一、母・文代の長男として、1939年12月に北海道の函館で生まれた。元気な男の子の誕生に父母も札幌にいた祖父母もたいへん喜んだらしい。この年はノモンハン事件が起こり、双葉山の連勝が69で止まった年でもある。英語教師だった父が函館中学から札幌二中に転勤したので、我が家は札幌に引っ越し、その後は大学に行くまでずっと札幌暮らしだった。

当時の日本は日中戦争のさなかで、後に米英との戦争も始まるが、幼かった私にはほとんど戦争の記憶がない。かすかに覚えているのは、大空を悠々と飛ぶ米軍のB29の編隊を見て、大人たちが「これから東京に向かうんだ」「いや、軍需工場の多い室蘭かもしれない」という会話を交わしていた場面だ。幸いにも札幌の中心部は空襲を受けることなく終戦を迎えた。

父は北海道の西海岸、追分民謡で有名な江差に近い歌棄という寒村の漁師の末っ子だった。貧しいが学問のできる子の常として、官費で学べる函館の師範学校に進み、そこから東京高等師範(現筑波大)に進学した。もともと英語が好きで、生きた英語を学ぼうと東京では志願して米人宣教師の手伝いをしたりしていたが、戦争でそれも途絶えたという。

この東京高師の時代に祖父・川村文平の養子になり、卒業後に函館中学に赴任し、文平の娘の文代と結婚した。その後も精進し、戦後は北海道大学の文学部教授になった。1950年にはガリオア資金の支援で、1年間米オハイオ州立大学に留学した。

父は折に触れて絵はがきや写真を送ってきたが、そこに写っていたのは広々とした芝生の庭や大きな冷蔵庫などあふれるような豊かさだ。敗戦国の日本とは天と地の差の米国に憧れ、「いつかはアメリカに行ってみたい」という夢が生まれた。

父の帰国時には母と私、4歳下の妹・睦子、7歳下の弟・実の4人で函館まで迎えに行った。母は「本当は羽田まで行きたかったが、先立つものがないので函館が精いっぱい」と言っていた。

今でも残念なのは父に英語を教わる機会がなかったことだ。高校時代のほんの一時期、友達の発案でみんなで一緒に習ったことがあり、「熟語や慣用文の暗唱が効果的」と指導されたが、友人たちが長続きせず、父の都合も悪くなり、講義は中止された。

逆に父の影響で今も続けているのがスキーだ。冬になると藻岩山やニセコに出かけ、旧式滑走法ながらスキーのイロハを教えてもらった。おかげでスキーは私の生涯の趣味になり、家内や子供、孫も楽しむ。今年の冬も蔵王や安比など3回スキー場に出かけた。10年ぐらい前までは滑りも乱暴で、ゴーグルもろとも眼鏡が外れ、ついでに眼鏡のレンズまで外れるような大転倒もしたが、さすがに最近はおとなしく滑っている。

父は「君子の交わりは淡きこと水の如し」という警句を好み、「甘きこと醴(甘酒)の如し」のようなベタベタした付き合いを嫌った。私が父から受け継いだのは、こうした人付き合いの気質や口が少し重いこと、一度決めたら徹底的にやる性格だろうか。そういえば多少人見知りするのも、父に似たのかもしれない。

(日立製作所相談役)

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