川村隆(30)シニアライフ

会社離れ気ままに生活
将来は教育で社会へ恩返し

最終回はシニアライフについて書いてみたい。今は、諸々の「残務処理」もあって東京・丸の内の本社に通う日々だが、なるべく早くそういう生活は終わりにしようと思っている。引退後にしたいことがたくさんあるからだ。

シニアライフについて考えていることは3つある。まず1つは心身ともにくたびれた自分を癒やすことだ。要は自分のしたいことだけして、気の進まないことはしない。言ってみれば、子供時代に戻るようなものだ。

私が好きなのは読書、スキー、ゴルフ、思索(はた目には何もせず、たんにボーッとしているだけ)、散歩、英語の勉強、小唄、能や文楽や美術の鑑賞、学問の先端調べなどなどだ。「学問の先端調べ」とは、人類学や分子生物学、宇宙物理学などの最先端の知識をウェブや本や学術誌で調べて悦にいることだ。

人類学を例にとると、チンパンジーは群れの間ですさまじい闘争を繰り広げ、同類殺しを辞さないことが最近の研究で分かってきた。しかし、チンパンジーと共通の祖先を持つ人類は、普段はそこまでの暴力衝動に駆られることはなく、協力して文明を発達させてきた。人類とチンパンジーを分かつものは何か、こんなことをネットで検索すると芋づる式に膨大な資料が現れるであろう。それを1つずつきちんと調べる時間が取れれば、これほどおもしろいことはあるまいと思う。

また、スキーや旅行でも欧米人のように1つの場所に腰を落ち着けて、長期滞在型のバカンスを楽しんでみたい。

2つ目は社会に出てから半世紀の間にたまった「浮世の垢」の洗濯だ。私の家は東京・吉祥寺の一軒家で、以前自宅まで取材に来た記者が「日立の会長なのに小さい家ですね」と率直すぎる感想を口にしたこともある。その小さな家に使い道の分からない道具やその他無数の役に立たないモノが堆積していて、それをきれいさっぱり片付けたい。要は断捨離である。

3つ目はこれまで苦労をかけた家族や、いろいろ心配してくれた友人たちをいたわりたい。まずは一緒に遊び、そしてその人の心配事に親身になって付き合いたい。そしてお世話になった社会への恩返しをしたい。例えば今ある教育関係のプロジェクトを応援していて少額ながら寄付もしているが、将来は自分の経験談なども講義してみたい。これもあまり無理せず、できる範囲でやることが大切だと思う。シニアライフで頑張りすぎても成果が上がらないし、本人にとっても有害だ。

かの兼好法師も世俗で起こる諸々のことに付き合っていると、「身も苦しく、心の暇もなく、一生は、雑事の小節にさへられて、空しく暮れなん」と言っている。1週間7日のうち1日を俗事に費やし、のこる6日を世俗を超越して仙人のように暮らす「一俗六仙」が私の願いである。シニアライフ、すなわち「日残りて昏るるに未だ遠し」の時期を有意義に過ごしてはじめていい人生だったと言えると思う。

最後になりましたが、これまで私を支えていただいた社内外の多くの方々に、そして妻や家族に感謝の念をささげて筆をおきます。

=おわり

(日立製作所相談役)

川村隆(29)学ぶ理由

寅さんのセリフに共感
孫娘と話すため英会話勉強

履歴書も残すところあと2回になった。これまで仕事の話題を中心に堅い話ばかりだったので、あとは趣味や孫娘のことなど日々の雑感について書いてみたい。

私の趣味あるいは下手の横好きとしているのは、スキー、読書、小唄などであるが、加えて山田洋次監督、渥美清さん主演の「男はつらいよ」シリーズの大ファンである。1983年夏に公開されたヒロインが都はるみさんの第31作「旅と女と寅次郎」を自宅近くの吉祥寺の映画館でたまたま見たのがきっかけで、以来、毎年盆と暮れに同じ映画館に通い、最終作の95年の第48作「寅次郎紅の花」まで欠かさず見てきた。それ以前の作品もDVDで全部見た。

主人公の寅次郎と倍賞千恵子さん演ずる妹のさくらや団子屋のおじ夫婦の小気味よい掛け合いや悲喜こもごもの情感のやりとりが何とも言えず好きだ。セリフで気に入っているのは、第40作「寅次郎サラダ記念日」に出てくる寅さんと吉岡秀隆さん演じる甥の満男との会話だ。公式サイトを見ると、人生に悩む満男の「何のために勉強するのかな」という質問に、寅さんはおおよそこんなふうに答える。

「生きてりゃいろんな事にぶつかる。そんな時オレみてえに勉強してない奴は、サイコロの出た目で決めるよりしょうがないが、勉強した奴は自分の頭で、筋道を立てて考える事が出来るんだ」と。寅さんは風の吹くまま気の向くまま日本全国をふらつくフーテンだが、自分の意志で人生の方向付けができる人間の大切さや立派さをちゃんと分かっている。こんなところに作品の深みがあると思う。

ただ、太地喜和子さん扮する粋な芸者が登場する第17作の「寅次郎夕焼け小焼け」では私の好きな小唄のシーンがあるかと期待したが、そうした場面はなく、少し残念だ。寅さんのあの気風だと小唄も三味線も上手にこなせそうに思えるからである。

話は変わるが、「学び」の大切さについても触れておこう。私の3人目の孫は女の子で、ニューヨーク在住の米国籍。私の次男が父親で、母親は韓国系米国人。この子は英語しかしゃべれない。幼い頃はヤッキーとヤミーとかの幼児語を覚えれば会話も円滑だったが、今では10歳になり、厚さ5センチの「ハリー・ポッター」を読破するほどに成長した。発音も遠慮のない巻き舌と早口で、祖父母の私たちはろくろく会話もできない。私は30歳ごろに英検1級を取り、TOEICも870点まで進んだが、まだ足りない。

今もスマートフォンに英語のラジオニュースを録音し、通勤の車中でそれを聞いてリスニングの練習をしている。孫娘と仲良くしたい一心である。私の父親が北海道大学の英語の教授だったことは前に書いた。父親でも他の人でもいいが若い頃にちゃんとプロの先生について基礎をたたき込んでもらっていれば、歳をとってこれほど苦労することもなかったと思う。

これは語学に限った話ではなく、パソコン操作でもゴルフやスキーのようなスポーツでも同じだろう。私はこれらを全部自分流でやりこなしてきたので基礎が覚束なく、努力のわりに上達が遅い。老婆心ながら、今の若い人にはしっかり基礎を固めて、世界に羽ばたいてほしいと思う。

(日立製作所相談役)

川村隆(28)引き際

75歳を目前に会長退く
米IBM参考に後継者選ぶ

日立製作所の会長を退こうかと考え始めたのは2013年の夏ごろだ。会長兼社長として戻ってから5年近くになり、会社も再建から成長の段階に移りつつあった。1991年3月期に記録した過去最高益を、2011年3月期には純利益で更新し、14年3月期での営業利益の更新も見えてきた。年齢も74歳になり、ちょうど潮時だ。

仮に会長であってもグローバルに事業展開する企業のトップの椅子に75歳を超えて座るのはムリ、というのが私の持論だ。0泊3日の海外出張をこなして東京に帰り、その日のうちに企業買収のような重大な意思決定が正しくできる。そんな気力、体力の充実がグローバル企業の経営者には必要であり、若さがないと務まるものではない。

私は会社の現状に満足していない。世界の競合企業と比べると、日立の個々のビジネスはまだ弱い。世界展開に出遅れているし、他の追随を許さないダントツの技術や製品が少なく、それが収益力格差として数字にはっきり表れている。

だが、こうした課題の解決を含めて、あとは後進に譲るのが適当だろうと考えた。後任の会長には中西宏明社長が就任するとして、新社長を誰にするか。ここでは米IBMなどのサクセッション・プラン(後継者選び)を参考にして、新機軸を取り入れた。

次期社長候補を何人か選び、それを本人にも取締役会にも伝えた。だから取締役会での審議や報告に候補者がやってきた時には、社外取締役も彼らの説明や質疑を聞いて、その後の人物判定の議論に参加することができた。外国人取締役からは「グローバルな視点が不足している」「改革意欲の表現が弱い」といった辛口の意見も飛び出した。これから日立のトップ層をめざそうという人はグローバルに通用する多様性と、自分から前へ踏み出す積極性を身につけてほしいと思う。

こうした選考プロセスを経て14年4月に東原敏昭新社長が就任し、中西新会長と二人三脚で日立をけん引することになった。私は相談役に退いた。川村、中西、東原の3人の共通点は、一度子会社のトップとして、規模は小さくとも、組織を引っ張った経験があることだ。今日立ではタフ・アサインメントと称して経営者予備軍を日立グループ内の他社に派遣して鍛える仕組みを導入している。小さい企業であっても、そこで「自分がラストマンだ」という気持ちで自ら鍛錬することが重要だ。

日立が進める「社会イノベーション事業」もまだ緒に就いたばかりだが楽しみなものも出てきた。例えば、英国都市間高速鉄道計画では単に約900両の車両を供給するだけでなく、車両納入後の保守サービスを日立が受け持ち、資金調達の枠組み作りにも日立が関与した。幅広い社会課題を解決するには、こうしたビジネスの仕組みそのものの転換が必要だ。

引退を決めた以上、身の引き方は潔くありたい、というのが私の考えだ。日立の社外取締役の3Mの元最高経営責任者、ジョージ・バックレーさんは引退したその日以降、一度も3Mに行ってないという。いずれ私も会社との関係を断って、個人としてのシニアライフを満喫するつもりでいる。

(日立製作所相談役)

川村隆(27)IR Day

部門トップ社外に説明
問い詰められる経験、鍛える

日立製作所は売上高10兆円近い巨大企業だが、巨大さゆえの弱さやもろさも併せ持っている。日立には売上高1兆円規模の社内カンパニーや子会社もあるが、そのトップは上場会社のように資金調達に苦しむこともなければ、業績や成長性に対して外部からの厳しい目でチェックされることもないので、発想がどうしても内向きになる。

こうした悪弊を是正するには、どうすればいいか。そんな発想から2010年に始めたのが「Hitachi IR Day」だ。情報通信システム、インフラシステム、鉄道システムといったカンパニーのトップが機関投資家や証券アナリスト、メディアに事業の見通しや成長戦略、利益目標などを自分の言葉で説明するのだ。

09年に増資のためのIRで訪米した私は「なぜ米ゼネラル・エレクトリックはもうかっているのに、日立は赤字なのか」と散々問い詰められた。この時のつらさや悔しさが私の経営改革の一つの原点だが、それと同じことをカンパニートップにも経験してもらいたい。売り上げや利益の目標を社外の投資家に提示することで、それが単なる計画値から、石にかじりついてでも達成しないといけないコミットメントに変わるのだ。

内向きを変えるという意味では、取締役会改革も進めた。日立は委員会設置会社であり取締役は経営を監視する立場であるが、12名の取締役のうち7名が社外取締役で、社内論理がまかり通らないようにしてある。また、うち3名が外国人で、彼らからは「こんな低い利益率では存続できない」とか「日立には攻撃的な人がいない。これで世界の競合にどう対抗していくのか」といった耳が痛くなるような意見を頂戴することもある。こうした率直な議論を活発に交わすことこそ取締役会のあるべき姿であろう。

では私たち経営者が果たすべき役割とは何だろう。社長ポストを出世競争のゴールと考えて、社内で権勢を振るうことではない。会社の「顔」として振る舞うこともときには必要だが、これを自分の仕事の中心と見誤ると、セレモニー的な仕事の多かった私の副社長時代のように表面上は忙しそうにしていても、中身は空っぽということになる。

私の意見は「社長機関説」と言えばいいのか、社長も会社の中の他のポストと同じくある役割を割り振られた「機関」の一つであり、その役割とはそれなりの業績を維持しながら会社を成長に導くことだ。経営のプロとして、企業価値の持続的向上を実現することだ。難しい任務だが、これを達成してこそ経営者の名に値する。

自分の姿や行動を外から見るための「カメラ」を用意することも大切だ。自分はベストを尽くしているつもりでも、株式市場から高い評価を得るのは簡単ではないし、アナリストや投資家はこれで満足ということは決してない。社外取締役や投資家の発する辛口のコメントに私自身も多少めげた経験もある。

だがこんな時「あの連中は分かっていない」と怒ってはいけない。多くの場合は組織の外から客観的に会社を見ている彼らが正しいのだ。自分と会社の姿を正確に映し出すカメラを持つことが、健全な企業統治の出発点だと思う。

(日立製作所相談役)

川村隆(26)共同出資

火力発電三菱重と統合
似た企業文化世界を視野に

日立復帰から1年後の2010年4月に会長職に専念することになった。会長と社長の兼務は、緊急事態では威力を発揮したが、業績が回復してくると、例えば国内と海外の案件を同時に進めることも多くなり、会長と社長で業務を分担しないと機会損失が生じると考えたからだ。社長には中西宏明副社長が昇格。赤字の続いた米国のハードディスク駆動装置事業を立て直した豪腕の持ち主で、その後は彼と二人三脚で会社の指揮を執った。

これを機に「事業の集中と選択」の方針にも弾みがついた。なかでも最大のものが三菱重工業との火力発電設備事業の統合だ。これについてはさまざま世間の関心を集めたが、重電の技術者として30年のキャリアを積み重ねた私にとっても、あるいは日立製作所という企業にとっても、歴史を画する転換点だった。

事の発端は私と三菱重工会長だった佃和夫さんとの会談だ。二人でいろいろ語り合う中で、火力ビジネスの先行きについて認識が一致した。両社は戦後営々と技術や事業ノウハウを磨いてきたが、世界トップの米ゼネラル・エレクトリックなどとの差を埋め切れていない。さらに後ろを振り返ると、母国市場の電力需要の急拡大を背景に中国勢も力をつけ始めた。

東日本大震災による原発事故や電力自由化の加速で、発電設備の買い手である電力各社の経営にも変化が出てきた。日立や三菱重工の重電事業が本当に世界の列強と互角に戦えるか、容易ならざる状況であった。

そこで三菱重工が65%、日立が35%出資する共同出資会社を設立し、両社の火力事業を統合することにした。「三菱重工が運転席で日立は助手席。これでいいのか」。そんな議論が電力システム社や日立事業所だけでなく、多くの関係者から湧き起こったが、粘り強く説明し、最後は納得してもらった。

私たちの火力発電事業を世界で成長させるには、この選択肢しかない。その後も世界ではGEによる仏アルストムの部分買収など再編の風が吹いており、三菱重工との統合がなければ「日立はマイナープレーヤー」という感覚が強まっていただろう。

「なぜ三菱重工なのか」とよく聞かれるが、結婚と同じでやはり相性がよかったのだ。両社とも純朴な企業文化がよく似ている。ともにモノづくりに情熱を燃やし、巨大な鍋釜づくりが得意だ。両社の間で2000年に統合した製鉄機械事業は、統合会社の初代社長になった宮永俊一さん(現三菱重工業社長)の活躍もあって大きな成功を収めていた。それも火力統合へ背中を押した。事業統合の発表は12年11月、統合会社の三菱日立パワーシステムズ(MHPS)の発足は14年2月だ。

私が工場長を務めたこともある日立事業所を訪ねると、淡いグリーンとクリーム色のユニホームが入り交じって働いている。前者は日立の社員で、後者がMHPSの社員だ。人事交流の一環として、三菱重工の重電部門の拠点である兵庫県の高砂から北関東の日立まではるばる単身赴任してきたMHPS社幹部もいるし、その逆もある。事業再編を決断するのは経営者だが、その成否を左右するのは現場の社員の踏ん張りである。

(日立製作所相談役)

川村隆(25)投資家と対話

批判受け止め応援仰ぐ
米国行脚、3000億円調達に成功

自己資本の薄くなった日立製作所にとって、公募増資は会社の命運を左右する重大事だった。私たち経営陣も全員体制で取り組み、市場に強い影響力を持つ海外投資家を訪問することにして、私が米東海岸、副社長の八丁地が米西海岸、同じく三好が英国、常務の葛岡がアジアと欧州大陸に足を運んだ。各地の投資家に増資への理解を求めるとともに、新たに発行する日立株の購入をお願いするのだ。

私は11月17日にニューヨークに降り立った。機関投資家は東海岸だけでもマンハッタン、ボストンなど幅広い地域に点在している。私と財務担当の専務の中村や証券会社の社員が一つのチームになって用意された黒いバンに乗り込み、分刻みのスケジュールで投資家を訪ね、深夜のフライトで移動した。

彼らの言葉は具体的で容赦ない。「テレビの赤字垂れ流しは何年も続いているのに、なぜ放置したのか」「ハードディスク駆動装置事業が日立に本当に必要か」――。

どれもこれももっともな指摘であり、彼らが「なるほど」とうなずくような説得力ある返答は難しい。訪問する先々で、不出来な学生が口頭試問でこってり油を絞られているような心境だった。

ある時は西海岸の八丁地から緊急の連絡が入った。「こちらの投資家が川村さんの話を聞かせろといっています。かなりの剣幕です」という。そこでホテルのテレビ会議システムを借りて、ニューヨーク時間の夜遅くにロサンゼルスとつないでもらった。画面の向こうに現れた運用担当者は説明用に渡した資料をテーブルにたたきつけ、「株主の利益を損なうこんな増資は絶対認めない。全ての予定をキャンセルして日本に帰れ」とまで言われた。

激しい叱責と議論に何日も身をさらして精神的にかなり応えたが、こちらの発するメッセージは一つしかない。「今後はしっかり改革して株主の期待に応えるので、今回ばかりは増資を応援してほしい」というものだ。散々批判しながらも、最後に「増資は引き受ける」と言ってくれる投資家もいて、そんな時は目頭が熱くなった。

この増資行脚の最後にニューヨークと東京やその他地域をまわっているチームを結んで電話会議を行い、関係者の苦労をねぎらうとともに自分の考えを述べた。「皆さん、本当にありがとう。私は日立に入ってからいろいろなものを売ってきたが、日立の製品は品質や性能、納期を保証し、守れなければ罰金を支払うので、お客様は安心して買える。だが株式は違う。配当も株価も保証はない。この先どうなるかわからない株を日立を信じて買ってくれた投資家の方々の期待に応えなくてはならない」という趣旨だった。

こうした苦心惨憺の末に3千億円強の資金調達に成功し、自己資本はひとまず安心できる水準まで回復した。翌2010年は日立の創業100周年。半世紀前の創業50周年のときは当時の池田総理を招いて大々的な式典を開き、記念の大規模施設なども建設したが、今回は再建の途上であり、控えめなパーティーで済ませた。だが、その頃になると遂に月次決算が目に見えて改善し、私なりに日立再生に向けた手応えを感じ始めていた。

(日立製作所相談役)

川村隆(24)格下げ

増資計画で株価が急落
悩んで自己資本回復を優先

2009年4月の会長兼社長就任後、5人の副社長と経営改革の基本設計図ともいえる「100日プラン」を策定し、その第1弾として7月には上場子会社5社へのTOB(株式公開買い付け)を発表した。世間は「日立が大きく変わるのではないか」と好意的に受け止めてくれたが、その裏で解決しなければならない深刻な問題があった。

3度の巨額の赤字計上を含む10年以上続いた低収益によって「財務の日立」と呼ばれていた強固な財務基盤は見る影もなく弱体化し、ムーディーズなどの格付け会社が日立の格付けを相次いで引き下げたのだ。格下げされると、金利は上昇し、サプライヤーは「納入した部品の代金をちゃんと払ってもらえるのか」と取引をためらうようになる。官需関係の商談には、格付けの高い会社しか入札資格が与えられないことも多い。つまり格下げは経営全般にとって大きな重荷になるのだ。

理由ははっきりしていた。日立が過去から営々と積み上げてきた自己資本を巨額の赤字が食いつぶし、09年3月期には自己資本比率が11%まで下がったのだ。この比率が1桁台になると、企業存続の危険水域とされ、経営者は枕を高くして寝られない。そうなるまであと一歩だった。

危機を打開するには、公募増資を実施して自己資本の厚みを回復するしかない。財務担当の三好崇司副社長やIR(投資家向け広報)担当の葛岡利明常務らと相談しながら100日プランの項目の一つとして準備を重ね、11月に増資計画を公表した。市場は我々の予想を越える厳しい反応を示し、発表前は294円だった日立株価はみるみる下がり、2週間で238円になった。この大きな下落を目の当たりにして、正直「増資をやめようか」と心が揺れた。

考えてみれば、株価急落は株主から突きつけられた「不信任決議」のようなものだ。株の希薄化につながる大型増資を歓迎する株主はまずいないが、それでも日立の成長性に疑念がなければ、これほどは下がらない。「増資で手に入れた資金を成長分野に投資することで、収益力が向上し、株主へのリターンも増える」と期待するからだ。

ところが、日立経営陣への市場の信頼はなきに等しかった。「増資で資金を手にしても、それを借金の返済やムダな投資に使ってしまうだけだ。それなら売ってしまえ」と見切られたのだ。

どうすべきか悩んだが、ここで増資をやめたら、次はいつできるか分からない。当時リーマン・ショックから1年強たっていたが、欧州発の金融危機など二番底が来るという説も一部で有力だった。仮にそうなって再び大赤字を出せば、巨艦は今度こそ海に沈むかもしれない――。

私はやはり増資をするしかないと覚悟を決め、経営陣で手分けして世界各地の投資家に、成長に向けた新たなシナリオ、エクイティストーリーを説明して回ることにした。私自身はIRの経験に乏しく、海外の機関投資家がどんな人たちなのかよく知らなかった。ただ一つ分かっていたのは、発電機が売れなければ重電事業が赤字に転落するように、日立株が彼らに買ってもらえなければわが社の先行きに黄色か下手をすれば赤色の信号が灯るということだった。

(日立製作所相談役)

川村隆(23)事業リストラ

赤字のテレビから撤退
従業員や地元の経済に配慮

私が現役復帰する前年度の2009年3月期決算で日立は日本の製造業最大とされる7873億円の最終赤字を計上した。1日当たりの赤字額は21億円で、時計の針が1時間進むごとに1億円弱の赤字を垂れ流している計算だった。社長室に1人座っていると、おカネに羽が生えて、金庫から窓の外に飛び出していくような気がした。

早急にやるべきことの一つは赤字事業のリストラだ。社長交代会見では「遠ざける事業と近づける事業を峻別する」と述べた。「遠ざける」の本当の意味は「撤退する」とか「売却する」。最初から言葉が強すぎるとみんなが驚くので、「遠ざける」という婉曲話法を採用したが、私と5人の副社長は万難を排して事業構成の入れ替えを進める覚悟だった。

どの事業をやめて、どれを強化するかは前回紹介した「100日プラン」でひそかに決定した。副社長のだれがどの事業の撤退に責任を持つのか割り振りも決めた。だが、決定と実行は別である。長年赤字続きのテレビ事業から撤退することに異論はなかったが、工場の後始末や雇用をどうするかで散々苦労した。

テレビは海外では中国やメキシコ、チェコで生産していたが、閉鎖または他製品の工場に転換した。販売店への補償など一定の費用はかかるが、腹を固めれば迅速な撤退が可能だった。当初の契約がしっかりしていたおかげだ。

やはり難しいのは国内事業の整理である。長期雇用を前提に仕組みが作られている日本では、いきなり工場を閉めて社員を放り出すわけにはいかないし、地元経済への影響も考えなければならない。

長い交渉の末に宮崎県国富町にあったプラズマパネル工場は太陽電池メーカーに売却し、千葉県茂原市のテレビ向けの液晶工場はパナソニックに譲渡、さらに岐阜県美濃加茂市にあったテレビの組立工場は、金型などを製造する工場に転換した。引き続き日立での勤務を希望する人には再教育をするなどして制御システムなど成長が期待される分野へ転進してもらった。

最終的に日立がテレビの自社生産を終了したのは12年8月で、撤退を決めてから実際の撤退までに3年4カ月を要したことになる。時間がかかりすぎと見る向きがあろうが、「市況が回復すればよくなる」といった甘い観測に頼って事業を続け、結果として立ち行かなくなるよりも、従業員にも地元経済にも配慮したよい判断だったと思う。これら一連の仕事では現場の方々に非常な苦労をかけた。

経営者の重要な仕事の一つはそれぞれの事業が峠を越えたのかどうか、もし下り坂だとすればいつどんな形で店じまいするのかに常時思いを巡らせることだ。非常時ばかりでなく、平時でこそこの作業が大切だ。それを怠って、命脈の尽きたゾンビ事業を社内に残しておくと、それが他の事業の勢いをそぎ、ついには企業が丸ごとゾンビ事業の集団に変わってしまう。

米ゼネラル・エレクトリックは1980年から事業の入れ替えを続けてきた。米IBMも90年代初頭の大赤字を受けて、事業構成の見直しに踏み切った。米国の先達企業と日立との時差は20年から30年もある。私たちはようやく競争のスタートラインに立ったところにすぎないのだ。

(日立製作所相談役)

川村隆(22)100日プラン

5子会社の全株式取得
無駄省き収益・財務体質改善

日立製作所の会長兼社長に就任した2009年の大型連休明けに本社に所属する女性社員からメールをもらった。「日立製作所は2度の石油危機を乗り越え、不沈艦と呼ばれましたが、今は『沈みゆく巨艦』と言われます、何より哀しいのは、私たちがその呼び名に慣れてしまったことです」と書かれていた。

このメールほど当時の社内のムードを映し出したものはない。これで思い出したのは英国軍艦の話だ。軍艦は特に手を打たなければ毎年1センチずつ喫水が下がり、速度が遅くなって、使いものにならなくなるという。船体の経年変化や貝殻の付着のせいではなく、原因は人だ。乗組員が自室にこっそり本や服など私物を持ち込み、それが積もり積もって船が重くなり、水中に沈み込むのだ。

日立という巨艦も同じ。すいすい動いている間はみんな油断して小さなムダや非効率を積み重ねる。そしてふと気がつくと、会社が重くなり、しがらみやその他で身動きがとれなくなっているのだ。

自分たちは前と同じように仕事しているのに、うまくいかない。危機感はあるが、何をしていいか分からない。そんな焦りと無力感の入り交じったメールを読んで、「ありがとう。いつまでとは言えないが、だんだん立ち直っていくから見ていなさい。月次決算を見ていれば分かる。必ずよくなる」と返事するのが精いっぱいだった。

こんな沈滞ムードを吹き飛ばすためにも、改革を急いで、日立という船を前に動かさないといけない。私たち経営陣は「100日プラン」に着手した。近づける事業と遠ざける事業の選別や公募増資、日立本体の各事業のもたれ合い体質の改革、そして次世代事業を社内外に示すことなど「やるべきことリスト」を、4月から100日でまとめ、実行に移し始めたのだ。

最初の大仕事は、日立情報システムズなど上場していた5子会社に株式公開買い付けを実施し、完全子会社化したことだ。これは「近づける事業」というテーマに相当する。この計画を発表した7月28日は私が会長兼社長に就任して119日目だった。

日立は上場子会社が多く、それぞれが一定の自主権を持って経営しているので、事業の重複による非効率が目立った。日立の立場からすれば、子会社の全株式を保有し、彼らの利益を社内にとどめ置くことができれば、収益力や財務体質が改善する。

そうと頭では分かっていても、やはり平時は思い切った手が打てない。以前から議論はあったが、子会社側が「自主独立で経営しているからこそ会社が大きくなった」「上場していないと採用に影響が出る」などと主張し、改革は頓挫していた。だが、危機は改革の好機でもある。私自身が子会社のトップと面談し、時には強引に彼らを説き伏せた。

年の功というべきか、子会社のトップより私のほうが年長であることも、幸いした。本体の社長が子会社の社長より若い場合、改革は進みにくいが、その逆は比較的スムーズに運ぶのが日本流年功序列組織のミソである。この計画の発表直後に日経新聞は「頑張れ!日立製作所」という記事を掲載した。メディアからたたかれっぱなしだった日立の社員にとって、久々に聞く応援歌であった。

(日立製作所相談役)

川村隆(21)スピード重視

意思決定は6人で行う
危機を逆手にぶれずに改革

社長就任にあたって、庄山悦彦会長に1つだけお願いしたことがある。緊急事態でもあり、経営のスピードが何より大切。「私が会長と社長を兼任し、素早く意思決定できるようにしたい」と要請して、受け入れてもらった。

こうして現役復帰が決まると、さっそく猛勉強を開始した。なにしろ子会社に出て6年たつので、日立本体の事情に疎くなっている。しかし、人事の正式発表の前で、おおっぴらに会社に出入りできない。本社隣の丸ノ内ホテルの部屋に資料を運び込んでもらって10日間ほど俄勉強した。

そこで浮かび上がったのは、バブル絶頂期の1990年度決算を頂点として、その後ジリジリと業績数字が悪化してきたことだ。途中何回か試みられた改革も徹底を欠き、効果を上げなかった。一言でいえば「緩慢なる衰退」の末にリーマン・ショックがやってきて、会社は沈没寸前にまで追い込まれたのだ。

私の会長兼社長就任が発表されたのは2009年3月16日の夕方。東京・お茶の水にあるビルの大会議室で、私と庄山悦彦会長、古川一夫社長が壇上に並んだ。

このときの会見では「赤字は悪。一日も早く赤字を止めるために、1年間は守り6、攻め4の比率で経営する」「総合電機の看板にはこだわらない。多岐にわたる事業のなかで近づけるものと、遠ざけるものを峻別する」「経験と勇気を持って日立を再生させていく」などと述べた。

こうして熱弁を振るっても、集まった報道陣の反応が冷ややかに見えたのは、私の僻目ではあるまい。それまで日立は何度も改革を口にしたし、日経ビジネスで「沈むな!日立」という特集が組まれるなど外からも応援してもらったが、実行が伴わず、計画倒れに終わっている。「まずはお手並み拝見」と記者が突き放すのも無理はなかった。

私自身が日立を離れて長く、若い記者には「川村って誰だ」という思いもあったのだろう。現役復帰は私のほか、元副社長でやはり子会社に転出していた中西宏明さんと三好崇司さん、八丁地隆さんも、副社長として復帰することになった。私を含めて3人の復帰組の名前が「たかし」であり、「三たかし、波高し」と先行きを揶揄する記事が日経新聞に掲載された。

4月1日に会長兼社長に正式に就任して、当日開いた最初の経営会議で決めたことは、意思決定の迅速化のための措置だ。23人いる専務と常務は意思決定の会議から外し、私と中西、三好、八丁地、森、高橋の5名の副社長、計6人で大きな方針を決めると申し合わせた。

会議の参加者が10人を超えると、とたんに意思決定の速度が鈍り、組織が停滞する。過去の日立もその轍を踏んでいたが、そうと分かっていても平時には改革は難しい。危機だからこそ、経営体制のモデルチェンジが実現した。

私たち6人は血判状こそ取り交わさなかったが、「ぶれずにやるぞ」と互いの覚悟を確かめあった。また、私自身も「社長というイスに座って会社の顔として働く」ということを越えて、「経営のプロフェッショナル(専門職)」の覚悟で事に臨むと心の中で確認した。社内外の様々な行事に時間をとられすぎた副社長時代の反省からくるものであった。

(日立製作所相談役)