重久吉弘(19)社長就任

厳しい業績 試練と奮起
創業来初 やむなく人員削減

世間では、社長に指名された時の感想を求められると「青天の霹靂だった」「自分に社長が務まるのか悩んだ」と答えることになっている。だが、本当は多くの新社長はそんなことは考えていないのではないだろうか。

不遜と言われるのを百も承知のうえで告白すると、前任の渡辺英二社長から「次は君にやってもらう」と言われた時に私は「やっとこの時が来た」と思った。日揮のために自分のすべてを注ぎ込み、それだけの実績をあげてきたという自負もあった。

何より、メガコンペティション時代の渦中にあって受注競争は一層熾烈になっており、1993年度をピークに94、95年度と急速に業績が悪化し、副社長としていてもたってもいられない、という心境だったからだ。

だが、やはり神様はこの大きな人生の節目で私に試練を与えて下さった。96年6月に社長に就任したが、96年度の当期純利益は122億円の赤字。97年度も102億円の赤字だった。新規受注案件が減る一方、過当競争で受注案件の採算も悪化していた。85~88年度の「第1次エンジニアリング冬の時代」ですら営業赤字にとどまっていたのに、社長就任から2期連続の最終赤字。

厳しい時期に引き継いだと言ってくれる人もいたが、社長になったという高揚した気分に浸る余裕もなかった。これも自分に与えられた運命だと腹をくくるしかなかった。

さらに、盛り返そうと期待していた東南アジア市場にも異変が起きた。97年7月のタイ・バーツ暴落に始まったアジア通貨危機だ。各国の新規プロジェクトは中止され、仕掛かりの案件でも工事中断や代金未払いが多発した。日揮もタイ、フィリピン、インドネシアなどのプロジェクトが中断、窮地に立たされていた。エンジニアリング業界全体が同じ苦境にあえいでいた。

この時期に最もつらかったのは創業以来初の人員削減に踏み切ったことだ。選んだ人を呼ぶと、「なぜ、私なんですか」と怒る人、「まだ働きたい」と泣く人。こんなことをするために社長になったのかと思うと本当に情けなく、心のなかで涙を流した。

そんななかで明るい出来事がひとつあった。横浜・みなとみらいへの本社移転だ。36階建ての高層ビルの3分の2近いフロアを購入し、入居した。業績好調の時に決めた話ではあったが、経営状況が悪化していく中で進めることに迷いもあった。だが、後年になってみると、いい判断だったと思う。

よかったのは今まで横浜・上大岡に設計などの技術部隊、東京・大手町に営業や総務が分散しており、意思疎通がなかなか難しかったのが、一緒になれたことだ。

電話やメールでやりとりするのと、顔をつきあわせて話すのとでは効率も意思疎通の深さも違う。横浜の高層ビルに日揮のマークを掲げられたことで社員も改めて誇りを持てるようになった。新社屋にはフィリピン、インドネシア、サウジアラビアなど多数の国から日揮グループの社員が常駐し、共同でプロジェクトに取り組み始めた。多国籍で異文化の社員が自由に共同作業できる空間にもなった。不思議なものだが、新社屋とともに経営の先行きにも明るさが見え始めた。

(日揮グループ代表)

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