重久吉弘(15)プラザ合意

円高で赤字 海外調達へ
多国籍現場 率いる監督育成

1985年9月22日。多くの日本企業にとって、一夜にして世界が変わった。先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議が円高誘導で合意した「プラザ合意」である。海外営業を統括する立場にあり、前年に取締役になった私は、週明けの円相場の急騰に不安をおぼえた。ただ、「ついに来たか」という感じもあった。海外を歩けば、円がドルなどに対し、過小評価されている実感があったからだ。

それまで日揮はじめ日本のエンジニアリング会社は、設計はもちろん反応塔やタービン、コンプレッサーなどプラントの主要部分、さらには鉄骨や配管など細かな部材まで日本製で対応していた。海外現場での工事でも重要な部分は日本のゼネコンが担当し、溶接、配管、鉄骨組み立てなど技能が問われる作業には日本から人を送り込んでいた。1ドルが250~260円といった水準ならこれでも十分に競争力があったのだ。

だが、プラザ合意後の円高は驚くべきスピードで進んだ。87年の年明けには140円台まで上昇した。毎月の海外出張で、アジア、中東などを飛び歩いていた私は受注がみるみる厳しさを増すことを感じた。実際、日揮は85年度から88年度まで4期連続で営業赤字に陥ったのだった。

私たちが受注する仕事は、総コストのうち、部材や機器の調達すなわち「購買」が50%、現地での「建設」が40%を占め、設計や管理など「エンジニアリング」が10%といわれる。まず購買と建設を日本から海外に切り替えなければ、勝てない状況だった。

実はそれまでもグローバル調達、発注の努力はしていた。70年代にはパリやニューヨークに調達機能を持つ事務所を開設している。だが、あくまで米欧のメーカーからしか購入できない部材の調達が中心。円高に対応して、コスト削減を進めるにはアジアを含めた全面的な購買のグローバル化が必要だった。

問題はQCDだった。品質(Quality)、コスト(Cost)、納期(Delivery)である。このうち品質、納期では日本企業は圧倒的にすぐれていた。だが、ドルベースでの価格はプラザ合意で2倍に跳ね上がっており、とても使えない。私も含め、いい品質の部材や機器を期日どおりに納入できる企業はないか世界中を必死に探し回った。だが、長年の付き合いがあり、信頼もできる日本のベンダーから乗り換えるわけだから切なさも残った。外国為替とは無情なものだ。

建設では70年代から現地のゼネコンを使い始めており、それを全面的に現地の低コストの会社にシフトした。問題は工事を管理、監督する熟練のスーパーバイザーだった。

海外の部材を調達し、海外の建設会社を使えば、現場は30カ国、40カ国の国籍の人の集団になる。それをまとめあげ、工事を進捗させる“スーパーバイザー集団”は日本人を最小限にとどめ、外国人主体の混成部隊にしなければならない。日揮はそこから外国人スーパーバイザーの確保、育成に力を入れた。今では日揮のプロジェクトのスーパーバイザーはほとんど外国人で、購買も80~90%が海外調達になっているが、この間、多くの失敗と挫折を経験した。日揮の歴史は市場の環境変化に対応してグローバル化を必死に追求してきた歴史といってよいだろう。

(日揮グループ代表)

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