重久吉弘(13)LNGプラント

冷却技術で早期に参入
工期順守を武器に収益伸ばす

液化天然ガス(LNG)という用語は日本でもすっかり定着したように思う。ただ、LNGが実際にどのようなもので、それをつくる設備がどんなものかをご覧になる機会はほとんどないだろう。

気体である天然ガスをマイナス162度まで冷却すると液体になり、体積は600分の1まで縮小する。それを専用船で運ぶ。日揮は高度な技術を使って天然ガスを精製、冷却液化するLNGのプラントをアジアで最初に手がけた企業であり、世界のLNGの普及・促進の一翼を担ってきたと自負している。私にとってもLNGは大きなビジネスの舞台となってきた。

なぜ、日揮がLNG製造装置を手がけられたかといえば、エチレンプラントの経験があったからだ。石油化学の基礎素材であるエチレン製造の冷凍技術が生きたのだ。

LNGの歴史はまだ半世紀足らずしかない。商用では1964年にアルジェリア、69年にアラスカのLNGプロジェクトが輸出を開始、アラスカからは日本にも供給された。その翌年の70年に日揮はブルネイのLNGプラントを米プロコン社と共同で受注した。競ったのはベクテル・千代田化工連合で、手ごわい相手だった。

横浜・上大岡の事業所にプロジェクト拠点を置いた。始めてみると、大変な仕事だった。発注者のロイヤル・ダッチ・シェルの仕様が厳しかったからだ。当時、日本製の機材の評価は今ほど高くなく、欧米製を調達せざるを得なかった。しかし、プラントのできあがりには満足してもらえた。これで日本のLNG時代が本格化し、日揮にとってもLNG時代が始まった。

次に狙ったインドネシアのアルンLNG第1期工事。インドネシアは私が戦略的に取り組んでいた市場。日本から夜行便でジャカルタに飛び、何回プルタミナに足を運んだか思い出せないほどだ。当時、インドネシアは米ベクテルの牙城で、何とか突き崩したかったからだ。

「これで行ける」と受注をほぼ確信した瞬間があった。だが、それがいけなかった。土壇場でベクテルにさらわれた。インドネシアではその後もLNGの受注を2回逃した。受注失敗を意味する「失注」ほど営業担当者にこたえる言葉はない。だが、失注の悔しさがコスト競争力や提案力を磨き、「LNGの日揮」をつくったと思う。

LNGは製油所や石化プラントに比べ受注金額は1ケタ大きい。しかもLNGの供給先は電力・都市ガス会社で、需要の伸びをみながら調達計画を練っている。工期の遅れは電力や都市ガスの需給逼迫にもつながりかねない。発注者側にとっては納期の順守が大事だ。その点が日揮はじめ日本企業がLNGプラントでのし上がった理由だろう。何しろ海外の顧客には、日本企業と日本人の信用力は抜群に高い。安易な価格競争に陥りにくいことも実はありがたかった。日揮の収益力はLNG時代に入って、格段に伸びたのだ。

79年にはマレーシアのLNG第1期を受注、その後、マレーシアのLNGプロジェクトは日揮が独占する素地をつくった。80年代に入ると各地でLNGプロジェクトが起動した。84年にはインドネシアのアルンの第3期工事を受注、リベンジを果たした。

(日揮グループ代表)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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