重久吉弘(9)南米3ジョブ

大型案件で会社が飛躍
課長に昇進、新たな市場探す

私は1969年初めに3年半の任期を終え、ソウルから帰国した。前回、お伝えしたように蔚山製油所での建設途中での事故もあり、波乱と苦労に満ちた駐在だった。だが、韓国の人は親しくなると徹底的にやさしい。「シゲ、もう帰ってしまうのか」と何回も何回も送別会を開いてくれた。「シゲ」はもちろん私の名字からきているが、韓国語では「時計」の意味。私の名前は韓国の人には忘れにくい名前だったのだ。

私がソウルにいた60年代後半の日本は57カ月も続いた「いざなぎ景気」に沸き、その勢いに乗って、多くの日本企業が海外市場に進出していった。日揮にとっても韓国だけでなく、国際的なエンジニアリング会社に脱皮するうえで重要な時期となった。

「南米3ジョブ」。日揮の社内では今もこう呼ばれるプロジェクトがある。その名の通り、南米の3つの大型案件で、ペルーのラ・パンピーヤ製油所建設、アルゼンチンのラ・プラタ製油所近代化、ベネズエラのモロン製油所拡張である。偶然だが、65年にそろって受注した。

日揮の海外事業は私が入社2年目の62年にモービル香港から受注した液化石油ガス(LPG)タンクの建設から事実上スタートした。それから3年ほどで、南米でこれほど大きなプロジェクトを立て続けに受注できたことで成長に弾みがついた。まだ国際舞台では名前もよく知られていない日揮がなぜ大型案件を獲得できたのか、不思議に思われる方も多いだろう。

エンジニアリングの国際商戦は、技術力や値段だけで勝敗が決まるものではない。顧客の納期や見積もり内容への評価、企業の国籍に関わる国際情勢も大きな要素になる。

「南米3ジョブ」ではまさにタイミングと政治情勢が日揮に大きく味方した。当時の中南米はキューバ革命の影響もあって、反米や社会主義への共鳴が広がっていた。一方で米国は「黄金の50年代、60年代」であり、石油、石油化学のプラントが次々に建設されていた。つまり、南米市場には強敵である米系エンジニアリング会社の空白が生じていた。日揮はその機会を逃さずつかんだのだった。人も企業もチャンスに出合った時にそれをつかめるかどうかで、運命が変わってしまうものだ。

日本に戻った私はほどなく海外営業の課長に昇進した。サラリーマンなら皆さんおわかりのことと思うが、異動で次の部署、任地に来ると、すでにそこには実績をあげている人たちがいて、“新入り”に「お手並み拝見」とばかりに少し意地悪な視線を向けているものだ。当時の海外畑では「南米3ジョブ」の実績を誇る人たちが少なくなかった。私もソウルでは誇れる実績を出していたが、それはもう過去の話。新しい場所で新たな実績をあげなければ評価されないし、何とも居心地がよくない。

自分が開拓できる、誰も手を付けていない市場はないか、そればかり考えていた。思い浮かんだのはインドネシアだった。産油国で、これからプラント需要が高まりそうな国だった。

海外営業の課長として、まず、通い始めたのはインドネシアであり、そこに自分を成長させる大きな舞台が広がっていた。

(日揮グループ代表)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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