重久吉弘(8)韓国赴任

事故対応で通じた誠意
納期遅れ最小限、取引先驚く

まばゆい青空を背景に高さ30メートルを超す銀色の金属製の塔がゆっくりと倒れていく。スローモーション映像を見ているような感覚だった。次の瞬間、大音響と砂煙とともに現実に引き戻された。

1967年10月、大韓石油公社(現SKエネルギー)の蔚山製油所で、常圧蒸留装置の建設中の出来事だった。蒸留塔は日本で製造、船で蔚山に運び込んだ。最後は蒸留塔を寝かした状態からクレーンで牽引、ゆっくりと立ち上げる作業だった。あと少しで垂直になるというところで金具が壊れ、地面に倒れた。下敷きになった現地作業員1人が亡くなった。

私はその2年前に開設されたソウル事務所の初代所長として現地に赴任していた。日揮にとって初の海外事務所であり、私はまさに日揮の海外市場開拓の最前線に立っていた。31歳だった。

当時の韓国は朝鮮戦争の混乱も収まり、朴正熙大統領のもとで経済成長に向かっていた。65年6月には日韓基本条約が調印され、工業化が加速しつつあった。日揮はプラント需要が盛り上がると読み、事務所を開設。実際、事務所開設で蔚山製油所の精製能力増強、蔚山、湖南両製油所の常圧蒸留装置新設など華々しい受注実績をあげた。

海外でビジネスをしようと思えば、現地の言葉をある程度習得しないことには話にならない。商談は恋愛と同じで、高度なコミュニケーションで相手の心をつかまなくてはならないからだ。ソウルに住み始めて、私が英語で客に話しかけると、相手が立派な品のある日本語で返事をされる。それではいけないと私は必死に韓国語を勉強した。今でも韓国語は英語に次ぐ私の外国語資産だ。

蒸留塔の事故で、私は3つのことを学んだ。ひとつ目は、誠心誠意。事故処理や遺族との補償交渉は、反日感情の強い時代だけに罵倒されたり、ネクタイをつかまれたりと激しかった。私はただただ忍耐し、誠意を尽くし続けるしかなかった。実は事件直後、私は現地責任者として警察の取り調べも受け、留置場で数夜を過ごした。「なんで自分がこんな目に遭うんだ」と恨む気持ちがなかったといえばウソになる。事故の処理が済むのに1年半かかった。遺族の方は最後には私の手を握って感謝してくれた。

2つ目は、組織の力量だ。倒れた蒸留塔はつくり直さざるを得なかったが、社内と協力会社が不眠不休で働いてくれ、納期遅れは1カ月未満ですんだ。これには先方が驚いた。米欧の会社なら遅れは当然だったのだ。仕上がりも評価された。組織は緊急時にこそ力量が試される。事故後も韓国で受注が続いたのは「禍を転じて、ブランド力となす」ことができたからだろう。

3つ目は、事故原因だった。蒸留塔の最上部にはクレーンをかけるための金具が用意されており、本来なら十分な強度があった。ところが現地に運び込んで、クレーンと合わせてみるとサイズが合わない。仕方なく現場判断で金具を削って穴を広げた。これで強度が低下したのだった。「安易な対応は致命的な失敗につながる」。エンジニアリング業界では常に肝に銘じなければならないことだ。

3年半のソウル勤務は私にとって厳しい経験だったが、それがなければ今はない。

(日揮グループ代表)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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