重久吉弘(7)国外初出張

香港タンク商談、独断で
社内を拝み倒して正式受注

どんな組織でも新しいことを始めようとすると、否定したり、邪魔したりする人たちが出てくる。「これまで通りのことをコツコツやっていればいいんだ」というわけだ。

1960年代初頭の日揮(当時は日本揮発油)は製油所、石化プラントなどの新設ブームで、私の配属された海外営業を冷ややかな目で見る人が多かった。私はそんな空気に反発して、何か海外の仕事を取って、目にものみせてやろうとかけずり回っていた。

そんな時にモービル石油(現東燃ゼネラル石油)の日本法人を紹介してくれた人がいた。米欧の石油会社はすごいもので、大手のほとんどは明治時代のうちに日本に進出、戦中は別として営々とビジネスを続けていた。米スタンダードオイルに源流を持つモービルもそのひとつであり、日本や東アジアで幅広く事業を展開していた。

私は何とか、日本法人の米国人トップとの面会を取り付けた。日揮とはこんな会社で、技術があり、海外での仕事を拡大しようとしている、など説明するうちに、私の銀座仕込みのテキサスなまりの英語が気に入られたのか、モービルの香港法人を紹介してくれることになった。

生まれて初めて乗った飛行機は高いビル群と山の間を縫うようにして、香港・啓徳(カイタック)空港に着陸した。今はもう空港は別の場所に移ったが、香港と聞けば私は今もこの空港を思い出す。

入社2年目の社員にしてはいいホテルに泊まった記憶がある。日揮にとっても海外出張などほとんど初めてだったので相場というものがつかめていなかったのだろう。翌日、紹介されたモービルの香港法人を訪問。通された部屋には、テーブルを挟んで5、6人が並んでいた。

英語のプレゼンテーションなど初めてだったが、必死に日揮が石油関連設備で豊富な経験を持つことを説明した。手応えもあまり感じないまま、検討の約束だけは受け取った。翌日、オフィスを再訪すると「君のところはLPGタンクはつくれるか?」と問われた。LPGは常温高圧で液化させた石油ガスで家庭用のボンベなどでおなじみだ。

日揮がLPGタンクをつくった経験があるかなど入社2年目の私が知るわけはない。だが、躊躇すればモービルとの縁はなくなる。「Why not?(当たり前だ)」と口が勝手に動いていた。営業は現場の気合で決まることが多い。慎重さより顧客の求めには何でもこたえよう、という熱意こそ受注を決める。香港は私にとって海外営業の試金石だった。

ただ、失敗もあった。意気揚々と戻ったホテルで、エレベーターの扉が開き、乗り込もうとしたら身体が動かない。みると、私の背広の襟を後ろに立つ大柄の米国人がつかんでいた。何事かと思うと彼はニヤリとして「レディース・ファースト」。半世紀たった今もドアの前に立つと、女性が周囲にいないか見てしまう。

日本に帰ると設計部門からはさんざん怒られた。LPGタンクなど経験がなかったのだ。嫌がる設計部門と協力会社を拝み倒し、なんとか見積もりを作り、正式受注した。日本で半年かけて設計し、施工会社の人たちと香港に乗り込み完成させた。これこそ日揮の海外事業の嚆矢となるものだった。

(日揮グループ代表)

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Bubbles of river disappear rapidly.

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