重久吉弘(3)終戦

「米兵だって怖いんだ」
物音に驚く姿を見て親近感

戦争は日本のどんな街にも暗い影を落とした。宮崎市の繁華街で金物屋を営んでいた我が家でも終戦近くになって空襲が増えてくると、父が家の中に防空壕を掘った。サイレンがなると両親は私たちを連れて防空壕に飛び込んだ。上空を飛んでいくB29の爆音で店の棚に並んだ鍋などがカタカタと音を立てた。

当時、学校で嫌だったのは「弁当検査」。担任教師がクラス全員の弁当箱を開かせ、中身を点検、ぜいたくと判断したら「停止」と声をあげた。宣告されれば、お昼抜き。母が乏しい材料でつくってくれた弁当なのに。戦争の理不尽さを一番感じた瞬間だったかもしれない。

1945年8月15日、終戦は突然やってきた。玉音放送よりも消防団の人が「米軍の上陸作戦が始まるので逃げろ」と町内に言って回ったのが記憶に残っている。宮崎は海岸線が長く、米軍が集結していた沖縄からも近かったので、そんな噂が流れたのだろう。

母は私たちを連れて、山の中に隠れた。慌てて家を出ただけに食べ物は少なく、山の中でとにかくひもじかった。4日後に自宅に戻ったが、何事もなく、平和だった。

3週間くらいたつと、米兵たちがジープに乗ってやってきた。身体は大きく、小銃を構え、見た目にはそれは恐ろしかった。だが、数日後、子供ながらにあることがわかった。街中で歩哨をしていた米兵がちょっとした物音に腰を抜かさんばかりに驚いて、子供にまで銃を向けたのだ。

「米兵だって怖いんだ」。新鮮な感覚であり、発見だった。考えてみれば、彼らは数週間前まで戦争していた敵地に少ない人数で乗り込んで来ている。米兵もびくびくしていると思うと、何か親しみを感じるようになった。ずっと後になって、仕事で海外を飛び回るようになった時、さほど外国人に気押されず、相手の懐に飛び込めたのは、この時の経験、感覚があったからかもしれない。

戦後、学制がめまぐるしく変わるなかで、中学校に入学した。自慢ではないが、小学校からずっと勉強はよく出来た。今で言えばガリ勉タイプだっただろう。オールラウンドに成績はよかったが、数学は苦手で、文学への憧れが強かった。

高校は宮崎一の進学校、宮崎大宮高校に通った。勉強では誰にも負けたくない。競争心は強かった。夜半、自宅で勉強していると、同級生がどれくらい勉強しているのか、気になってくる。そんな時はやおら家を抜け出すと、ライバルの同級生の自宅まで走った。道から同級生の部屋を見上げ、灯りがついていようものなら、すぐに走って戻って、もうひとがんばりという塩梅だった。

3年間、クラスで1、2番の成績を続けていた。父親の期待も背中に感じ、東京大学を目指した。自信たっぷりだったが、受験の神様はそんなに甘くはない。自分より成績の悪かった連中が東大に合格しながら、自分は不合格。人生最初の大きな挫折。だが、東京でもう1年、勉強すればと上京した。お茶の水にあった大手の予備校に入学手続きをして、世田谷に下宿も決めた。捲土重来の勉強の日々が始まると期していた自分に想像もしなかった人生の転換点がやってきた。ある春の日の午後だった。

(日揮グループ代表)

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