重久吉弘(27)生きる道

人に役立つ仕事、世界で
「利他主義」の心で共に発展

私は半世紀以上にわたってエンジニアリングの仕事に携わってきた。その経験から「エンジニアリングは日本人の天職」と考えるようになった。日本人は仕事への責任感が強く、困難があっても仲間と協調して粘り強く対応し、納期やコストなどの約束を守るからだ。これほどエンジニアリングに求められる資質を持った国民はほかにはあまりいないだろう。

だが、この連載で語ってきたように自分たちに適した仕事であっても様々な苦難、苦労の連続である。私の後を継いだ社長は森本省治、竹内敬介、八重樫正彦、川名浩一とすでに4人を数え、現在は川名社長、佐藤雅之会長の体制となっている。それぞれが懸命に社員や協力会社、プロジェクトのパートナー企業と手を携えて、努力してきたからこそ今日の日揮がある。

最近、中国や東南アジアなどを訪れると、大気や河川の汚染、道路や空港の渋滞、住宅や医療の不足、劣悪な衛生環境など深刻な都市問題を目の当たりにする。そうした問題の解決はまさにエンジニアリングの仕事であり、人の役に立つ仕事だ。これこそ日本や日揮の生きる道になると確信している。

日本全体を見渡すと、最近は少子高齢化、人口減少など問題ばかり指摘されるが、街の住みやすさ、便利さ、食の安全、治安など日本が世界トップクラスのよい社会であることは間違いない。私は今も年間十数回の海外出張に出かけ、外国の街を歩くのも好きだが、やはり日本はすばらしい国だと感じる。

日本のよさ、日本人の美質を経済や社会の活性化にどうつなげるかが、若い世代に与えられた課題だ。今の若い人たちをみていて一番気になるのは、耐える力の弱さだ。何か試練があると、折れてしまう人が多いようにみえる。

韓国に駐在していた30歳代の初め頃、私は中村天風を知った。結核にかかったのを機に真理を求めて世界の思想家を訪ね歩いた末、ヨガの聖者と出会い、悟りを得た人物だ。病や貧乏などに苦しむ人を救おうと「心身統一法」を考案、天風会という組織を設立し、多くの人に影響を与えた。

とりわけ私は天風の「利他主義」の考えに深く共鳴した。エンジニアリングを儲けるためだけにやるのなら、手抜きにも走りかねない。「人のために役立つものを提供しよう」という気持ちがなければ、企業や国家を長く繁栄させるよいプラントはできないし、誠実な仕事は必ず多くの人々の心に届くものだ、という信念を抱くようになった。

海外を飛び歩くハードな仕事を支え続けてくれたのは妻の圭子と娘の祐布子だ。最終回を借りて「ありがとう」と言いたい。幸い3人の孫にも恵まれ、時々訪ねてくる孫と遊ぶのが至福の時だ。今年の正月は娘夫婦、孫たちも一緒にしまなみ海道を旅した。家族あっての人生であり、家族あっての仕事だ。

横浜の本社のエレベーターでは驚くほど多国籍の人たちと乗り合わせる。「どこの国から?」と声をかけ、わずかな時間でも会話をするのは楽しい。世界の人々は共に生き、共に発展していくと感じる瞬間だ。そこにこれからもエンジニアリングが役立てばと思う。

(日揮グループ代表)

重久吉弘(26)プラント襲撃事件

人命救出の願い届かず
犠牲者の遺志 全社員で継ぐ

2013年1月16日、アルジェリア内陸部のイナメナスで日揮が建設していた天然ガスプラントが武装過激派グループに突如襲撃され、10カ国40人の貴い命が奪われた。うち10人の日本人、7人の外国人が日揮の関係者だった。

私たちは「エンジニアリングは国を変える仕事」と信じ、世界のどんな場所にも出かけ、プラントをつくりあげて来た。当然、過酷な条件の現場もある。それが自然環境や風土、習慣の違いだけでないと分かってはいた。安全確保に必要な手立ては講じていたつもりだったが、想像を超える事態が起きてしまった。危険とわかっていて送り出すことは絶対にない。イナメナスに迫っていた危険を察知できなかったのが悔やまれてならなかった。

事件発生後直ちに私はアルジェリア政府に人命第一かつ迅速な救出を強く要請した。テロとの対決と人命優先の2つの課題に直面したアルジェリア政府は難しい対応に苦慮したことだろう。しかしながら、結果的には多くの貴い人命が失われることになった。誠に痛恨の極みであった。

様々な方が犠牲になった。高い技能を持ったベテラン、海外現場を知り抜いたスペシャリスト、フットワークのいい若者、そして私と幾度となくアルジェリアの様々な現場に立った同僚。日本人以外の犠牲者も同じように多彩な人たちだっただろう。多様な人たちがひとつのチームになり、大きなプロジェクトの完成に向け、働いていたのだ。それぞれの人生を中途で断たれた無念、遺された方の失意を思うと今も言葉が出ない。

事件直後から横浜みなとみらいの本社には弔問や献花のため、たくさんの方が足を運んでくださった。山のように積まれた白い花の中には、「遠い異国の地で資源国のために働いていた皆さんを誇りに思っています。安らかにお眠りください」と書き添えたものもあった。弔問に訪れた方々の気持ちは、犠牲者を慰めただけでなく、日揮の社員にもう一度立ち上がる勇気を与えてくれたように思う。事件直後、私は社員が海外の現場に赴くことに不安を感じるのではないかと懸念していた。だが、まったく違った。皆さんの励ましで、社員は海外プロジェクトに以前にも増して意欲を燃やすようになった。

事件にはまだ解明できていない点もある。だが、アルジェリア政府は犯人グループの追及、治安の回復、工事サイトの安全確保に全力で取り組んでくれている。日揮はイナメナスのプラントを必ず完成させる。アルジェリアの明日に不可欠な事業だからだ。

この事件では日本政府に全面的な支援を頂いた。外務政務官を現地に迅速に派遣し、アルジェリア政府との交渉に当たっていただいたことや、犠牲者や生存者の帰国に際し政府専用機を手配していただいたことなど、本当に有り難かった。

13年3月26日に合同慰霊祭を開いた。安倍晋三首相、アルジェリアのユスフィ・エネルギー鉱業相はじめ3500人が参列した。「犠牲者の遺志を継いで資源国のプロジェクトに貢献していくことが本当の供養になる」。私はこう弔辞を締めくくった。

犠牲になった方々には「皆さんの貴い命が失われたことは決して忘れない。私たちは皆さんを誇りに思っていますよ」と伝えたい。

(日揮グループ代表)

重久吉弘(25)江戸時代たどる

東海道を妻と徒歩旅行
日本橋から京都5年で踏破

2004年4月30日の午後、私たち夫婦は京都・三条大橋の上に立った。眼下を鴨川が流れ、川沿いの木々の新緑がまぶしかった。

「ようやく、ここまで来たなあ」と妻に語りかけた。妻はにこりとうなずいた。夫婦での「東海道五十三次徒歩旅行」のゴールだった。

東海道を歩いてみよう、と言い出したのは私だった。とにかく歴史に興味があり、江戸時代の人々が歩いた東海道沿線の風景、文物、各地の人々などを昔の人と同じペースで体験したいと思ったからだ。幸いなことに夫婦ともに健康で、500キロ超を歩き通す自信もあった。

スタートしたのは1999年11月3日。「お江戸日本橋」を2人で元気よく出立した。銀座や新橋、田町など普段からよく通る場所も、歩いてみると新たな発見がある。雑貨屋をのぞいたり、通りの奥にたたずむお社や初めて知った名刹などに立ち寄ったりしながら、初日は品川まで。

妻は旅のルールを「全行程を自分の足で歩く」「前回に到達した場所から次回は歩き始める」と決めた。何週間か後、品川まで山手線で行き、そこから旅を再開した。最初のころは1日25キロくらい歩いていた。健康のためと思って我ながら頑張ったものだ。

3回目以降はだんだんスタート地点が自宅から遠くなる。小田原以西は新幹線を使うようになったが、そのうち一泊しないと時間が足りなくなった。たくさんの街を通り、多くの人たちと出会った。道を尋ねた老婦人に「家でお茶を」と誘われたり、お店の人に励まされたり。歩くのがこれほど爽快で、楽しいものとは予想していなかった。

私が社長から会長になる時期だっただけに週末でも時間はなかなかとれず、結局5年間もかかった。歩いたのはのべ37日間。京都に近づくにつれ、途中で立ち寄りたい旧跡、古戦場、資料館などが増え、1日10キロくらいしか進まなかった日もあった。

ゴールの三条大橋で、夫婦とも元気に歩き通せたことを神様に感謝した。

私は歴史というものにひかれてきた。経済人のファンも多い塩野七生さんの本は「ローマ人の物語」「海の都の物語」はじめ、かなりの作品を読破した。今の日本や世界にも通じる多くの課題が古代ローマ帝国にあったことに驚かされた。少子化、人口減少、人材起用などだ。その解決のためにローマが考え出した方法、政策は今でも通用しそうなものもある。ローマ人がエンジニアリングの才があったことも私には魅力だ。

世界に好きな街はいくつもあるが、ひとつはロシアのサンクトペテルブルク。ネヴァ河沿いのエルミタージュ美術館など建物は圧巻で、この街から帝政ロシアを倒す革命の狼煙があがり、世界初の社会主義国家が生まれたと考えると感慨深い。トルコのイスタンブールもボスポラス海峡を見渡す光景はアジアと欧州、イスラム教とキリスト教などが交わる場所ならではの歴史的感興をそそらされる。

ウィーン、チュニス、ミラノ……。言い出せば再訪したい街は数限りなくある。国内でも歩き始めたものの、横川までで中断している中山道の旅を妻とともに完遂したいと思っている。人生は旅であり、人類が歩んできた道が歴史になるのだろう。

(日揮グループ代表)

重久吉弘(24)国際会議

日本とアラブ 将来語る
技術伝承問題 シニアに期待

エジプトのアレクサンドリアは「歴史の宝庫」だ。目の前の地中海は古来、モノとヒトが行き交い、多くの戦乱の場にもなった。そのなかで特筆すべきは、紀元前300年ごろ、プトレマイオス1世が「知の殿堂」をつくろうと世界中から書物と学者を集め、図書館を建設したことだろう。

それを現代に再生した新アレクサンドリア図書館を会場に2007年11月、「日本・アラブ会議」が開催された。会長になっていた私も会議に加わった。小池百合子元防衛相、根本二郎中東協力センター会長(当時)ら多くの政治家、経済人、文化人らが参加し、日本とアラブ世界の将来を語った。

演壇に立った私はまず「日本とアラブは相互補完性があり、経済・社会両面で重層的関係を築くべきだ」と述べた。日揮はサウジアラビア、エジプトなど中東地域でプロジェクトを多く受注し、私も頻繁に中東に足を運んだ。多雨多湿で緑豊かな日本と、乾燥し砂漠が広がるアラブ世界では自然環境は大きく異なる。

だが、アラブが直面する人口や都市の問題の解決、産業育成のための技術移転では日本が貢献でき、逆にアラブ世界は日本に対し市場と労働力を開放できる。そのために会議のテーマだった“LookEast”に加え、「日本と日本人を肌で感じる“TouchJapan”を実践してほしい」と訴えた。

世界では経済(economy)、エネルギー(energy)、環境(environment)を「3E」と呼び、重視しているが、今のアラブ世界には雇用(employment)と教育(education)、そしてEngineeringのもうひとつの「3E」が必要だ、といささか我田引水ながらも強調した。これにアラブ側参加者は大きな拍手を贈ってくれた。

企業経営の最前線に立っていると、「儲かるか、儲からないか」という二元的な視点でものをみがちだ。だが、企業が活動する基盤は社会であり、人である。社会が安定し、人が充足しなければ、経済は成長せず、企業の発展も止まる。海外で様々な会議に出ることで、ビジネス以外の視点の必要性をますます感じるようになっていた。

2008年4月にはローマで産油国とエネルギー関連企業が対話する国際エネルギービジネスフォーラムがあった。スピーチで私は日本の高齢化問題を採り上げ、日揮が65歳まで雇用期間を延長、シニアのエンジニアの技術、経験をいかしていることを説明した。

というのは、世界を見渡すとエンジニアリングの技術の伝承に問題が起きかけており、不安を覚えていたからだ。「エネルギーと環境がよくコインの裏表と言われるが、エンジニアリングでは技術の維持・進歩と人材の育成こそコインの裏表の関係になっている」と訴えた。技術を現場に具体化するエンジニアリングに携わるものとして痛切に感じていることだった。

会議が終わると主催者の一人が駆け寄って来た。「今日一番のスピーチだった」と握手を求められた。その後、会場を出て近くの遺跡を歩き回るうち、ふとローマの英雄、シーザーがエジプトを攻め、アレクサンドリア図書館が焼け落ちたとの説を思い出した。古代史で絡み合う2つの街で、アラブ世界と人類の未来を議論したのも何か感慨深い。

(日揮グループ代表)

重久吉弘(23)スピーク・アップ

思い切って首脳と話す
親しくなりアドバイス頂く

「スピーク・アップ(Speakup)」は私が常に社員に実行を求めていることのひとつだ。意味は「思い切って話しかけろ」とでも言ったらいいだろうか。日本人は真面目だが「沈黙は金」という発想が強く、言葉のコミュニケーションより以心伝心のような相互理解を重視する。これは国際舞台では「わかりにくい国民」とみなされ、不利に作用することが多い。

私は根が楽天的で、オープンなせいか、大きな国際会議でも初対面の大物にできるだけ「スピーク・アップ」するようにしている。

2010年11月に横浜で開催されたアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議。日本の経済人も招かれたレセプションには各国首脳が顔をそろえた。だが、会場は静まりかえり、誰も首脳に話しかけようとしない。私はこんなよいチャンスをと思った。その時、オバマ米大統領の姿が目に入った。

「ミスター・プレジデント」。私は引きつけられるように歩み寄り、思わず話しかけてしまった。大統領は一瞬、きょとんとしていたもののすぐに笑顔になり、「何のお仕事をされていますか?」と私に聞いてきた。私は「エンジニアリング会社で、アメリカで言えばベクテルのような会社です」と答えると、話は盛り上がった。米国大統領でもその場に話し相手がいなければ寂しいものなのだ。

同じ会場で、韓国の李明博大統領(当時)にも話しかけた。「日揮です」と名乗ると、李大統領は「昔、日揮の本社に行ったことがあります」と返されたのにはこちらがびっくりした。大統領になる前に現代建設のトップを務められたので、日揮ともビジネス上のおつきあいがあったのだろう。しばし昔話に花が咲いた。

宴も終わり、会場の出口で各国首脳の退出を見送っていると、なんとオバマ大統領が私を見つけ、握手を求めて来られた。私も驚いたが、周囲の人はもっと驚いた。これもすべて「スピーク・アップ」の効果なのである。

「アジアの知性」ともいわれるシンガポールのリー・クアンユー元首相とも国際会議で私から積極的にお話ししたことで、覚えて頂いた。来日されると度々、お目にかかり、様々なことを教えて頂いている。あるとき、中国ビジネスの要諦をお尋ねすると一言。「老朋友(親友)を持ちなさい」。その後、中国に友人をつくる努力をしたが、確かに信頼できる友人から様々な知恵と情報を得ている。非常に役に立つアドバイスだった。

「スピーク・アップ」が多国籍の企業・人が参加するプロジェクトで重要と認識させられたことがあった。

中国・広東省で大規模な石化プラントをイタリアのテクニモント社と共同受注した時のことだ。工期中、問題が起きると、日揮社員は発注側への細かな説明よりも黙々と解決を急ぎ、テクニモントは発注側への状況説明を優先し、解決策を一緒に探った。

日本人ならば「言葉で説明するより、早く解決しろ」と言いたくなる。だが、完工後、発注者側から「品質や出来栄えは日揮の方が上だが、仕事のパートナーとしてはテクニモントの方が安心感がある」と言われてしまった。「スピーク・アップ」は今後、ますます日本人にとって重要になるだろう。

(日揮グループ代表)

重久吉弘(22)会長に就く

政府会議 狭い視野痛感
広い視点で グループを経営

経営トップとして会社を率いていると、あっという間に時はたつ。1996年の社長就任から苦闘を続けるなかで業績は次第に上向き、2000年度に最終利益が47億円まで回復した。「天然ガスの時代」の到来が日揮に未来への扉を開いた。

70年にブルネイの液化天然ガス(LNG)プラントを受注して以来、日揮はLNGの実績を着実に積み上げてきた。だが、当時は日本と韓国、一部の欧州諸国がLNGの大半を調達する時代で、LNGはまだ特別なエネルギーだった。21世紀に入るとLNGの買い手は中国、インドなどにも広がり始め、プラントの建設計画も世界各地で花開いた。

このころからLNGが次第に日揮の中核分野になっていき、2000年以降エジプト、インドネシア、イエメン、マレーシア、オーストラリアなどで連続的に大型案件を受注した。

最近の話まで飛ぶと、洋上にプラントを浮かべるフローティングLNGや日本企業が主導する初のLNG事業である国際石油開発帝石の豪州・イクシスLNG、ロシアのヤマルLNGなどのプロジェクトを受注。シェールガスをベースにした米国、カナダのメガLNG、さらにはモザンビークのLNGの基本設計も手がけた。こうした新しい技術、困難な条件に挑戦する社風、社員こそが業績回復の原動力になったと私は感じた。

2001年に出した「成長へのシナリオ」では、事業分野を水平、垂直に拡大する方針も打ち出した。水平とは非鉄金属やライフサイエンスなど石油以外の分野であり、垂直とはプロジェクト受注だけでなく、油田、ガス田開発の基本計画への支援、概念設計の遂行といった上流志向を意味している。エンジニアリング会社も時代の変化に対応して業態を迅速に変えていかなければならないと感じたからだ。

社長時代に視野をより広げなければと思った出来事があった。経済産業省のある会合で、業界のあり方について意見を求められた時、「これまで我が社は政府のお世話になったことは一度もありませんが」と切り出した。正直な考えを言ったつもりだったが、経産省幹部の居並ぶ会議室は一瞬で、静まりかえった。

これが私の認識不足であることは、後ほど様々な技術開発、事業化調査などで政府、官庁の支援や協力を受けるなかでわかった。業界にどっぷりつかり、海外をトップセールスで回り、自社の収益しか考えないようでは経営者としては限界がある。そう感じてからは、できるだけ公的な会合に出席、政府との関係も深めるようになった。

そうしたなかで、後年私の意見を政府にも採りあげて頂いたのが「コア・ジャパン」だ。それまで日本の産業界は「オールジャパンで世界へ」という発想だったが、現地のニーズに沿った、コスト競争力のあるえりすぐりのものを世界から集めなければ海外勢との競争に負ける。事業のコア(中核)部分さえ日本企業であればいいのではないか、という趣旨だった。

2002年6月、私は会長兼最高経営責任者(CEO)に就任した。社長在任は3期6年だったが、より広く、よりグローバルに日揮グループの経営のかじ取りをし、さらに日本のお役にも立ちたいと考えた末の決断だった。

(日揮グループ代表)

重久吉弘(21)人材再開発

グローバル化 意識促す
公平・鳥瞰 習慣が人を変える

企業が成長するために最も重要な経営資源は間違いなく人である。モノや資金と違って人はそれぞれが意思を持つため難しさがある半面、意欲をうまく引き出し、能力を高められれば大きな可能性を企業にもたらす。社長になって改めて人を育てることを考えるようになった。

当時、すでに日揮は多国籍の人たちをまとめ、世界中でプロジェクトを展開するグローバル企業になっていた。だが、やはり横浜の本社の意識や空気にはグローバル化が不足しているように感じた。人に新しい能力を身につけさせる「人材開発」の方法は研修や実地経験など明確だが、グローバル化にはすでにできあがった社員の考え、意識を変える「人材の再開発」が必要だった。そのためにトップとして私が語り続けたことが3つある。

「マルチ・ナショナル・マインド」。人種、宗教、文化などを理解し、お互いに尊重し合い、卑屈になったり、見下したりすることのないオープンで公平な心を持て。

「ヘリコプター・ビュー」。専門分野に閉じこもらず、高い場所から全体を見渡す視点を持て。「鳥瞰」と同じだが、地上の動きも確認できる適度な高さのヘリコプターで社員に説明した。

「欧州版の地図で考えよ」。日本の地図は日本が中央に来て、ユーラシア大陸が左、太平洋が右に広がっている。この地図が日本人の世界観をある意味で規定している。だが、日揮にとって重要な市場は東南アジア、中東、アフリカ、北米、ロシアからさらに広がる。それらの地域に対し戦略的な視点を持つには、欧州で売っているユーラシア大陸が中央に広がる地図を眺める方がいい。

こうしたことは、単純なことかもしれないが、人は意識的に行動すること、習慣化することで、変化する。それが日揮の人材再開発なのだ。

世界で1万人を超える規模の日揮グループは今や日本人と外国人の比率が半々になっている。1974年にインドネシアにはペルタフェニッキ(現JGCインドネシア)を合弁で設立した。現地の人材の活用が目的だった。

80年代半ば以降の急激な円高で、配管や機器などプラントの詳細設計のコスト削減が緊急の課題となった。日揮は設計のグローバル化を一気に進めた。89年にフィリピンに設立したテクノサーブ・インターナショナル(現JGCフィリピン)はその先駆けとなった。

なぜフィリピンか、と問われれば、まずは英語が不自由なく通じる点、人の勤勉さ、さらに組織への忠誠心があげられる。当たり前だが、世界には優秀な人材は無数にいる。その人たちを見つけ出し、人材開発をすることで私たちにも先方の国にも大きなメリットをもたらす。JGCフィリピンは今では1300人以上を抱えるエンジニアリング会社に成長、マニラに10階建ての自社ビルを構えている。

サウジアラムコの求めに応じて設立したサウジアラビアのJGCガルフ社は800人、JGCインドネシアは800人、さらにシンガポールには700人、アルジェリアに400人、ベトナムに200人などグローバルに人材を育成、戦力化している。日揮の力はグローバルな人材にある。

(日揮グループ代表)

重久吉弘(20)黒字へ転換

7社の共同工事を統率
前倒し完成サウジの信得る

「陽が差し始めた」。そう感じたのは社長就任3年目だった。1996年に社長に就任してから2期連続の最終赤字だったが、98年度にはわずかながら最終黒字に転換した。アジアで山積していた不採算案件の処理が少しずつ進む一方、原油価格の長期低迷でビジネスが低調だった中東産油国にもプロジェクトが出始めていたからだ。

中東産油国は70年代の2回の石油危機を経て、原油価格の上昇と石油産業国有化で「豊かな社会」になっていた。サウジアラビア、クウェートなどは所得税はなく、教育、医療は無料。政府が国民全員に“ボーナス”を与えることもあった。安心できる社会では人口は急増する。

75年に737万人だったサウジアラビアの人口は95年には1856万人にまで増えていた。当然、電力や水道などの需要も伸びる。こうした点から原油生産や精製、石油化学だけではない事業機会が中東産油国に広がると私は考えていた。70年代から現地の事務所を通じて、情報収集と人脈構築を積み重ねていた成果が出たのは97年だった。

サウジアラビアが国内で電力と海水淡水化などに使う天然ガスを生産するハウイヤ・ガス・プロジェクトが国際入札にかけられた。私は現場に「必注(必ず受注する)」を命じ、自分もサウジ国営石油会社、サウジアラムコの本社のあるダハランに乗り込み、日揮の技術力をアピールした。

念願かなって日揮は一番札(最優先の交渉権)を獲得したものの、サウジ側の予定金額より大幅に高かったため、異例の再入札になった。しかも全体を分割して発注する方式に変更された。私は横浜の本社で祈るような気持ちで再入札の結果を待った。

全体で最も大きく重要なプロセスを日揮は受注した。翌年から始まった工事は世界7社が各パートを分担し、日揮が全体を統括する形で、日揮のプロジェクト・マネジメント能力が問われる事業となった。打ち出したのは「OneTeamConcept」。「全員一丸」という日本的な考えだ。サウジアラムコによって各社の最高経営責任者(CEO)が現場に定期的に招集された。日揮のマネジメントが世界に通用し、有効であることを確認できた。

2001年10月に無事完成。36カ月の予定工期を2カ月前倒しした。これにはサウジアラムコが驚き、それ以降、日揮がサウジで大型案件を取れる信用の基盤にもなった。

東南アジアでは頭の痛い問題が残っていた。インドネシアの大型案件、TPPI社の芳香族・ポリプロピレンの石化プロジェクト、通称「トバン」だ。アジア通貨危機の影響を受け、98年1月末に工事中断に追い込まれていた。仕掛かり中のプラントは放置すれば建屋や配管などがたちまち劣化し、使用不可となる。「日揮の負担で構わないから再開可能な状態に維持せよ」と指示した。厳しい資金のなかで「インドネシアの将来のため」と自分に言い聞かせた。

私は日本とジャカルタを何度も往復し、再開の協力を各方面にお願いした。思い切って時の大統領にも面会、事情を説明し、協力をお願いもした。霞が関に通って公的融資のお願いもした。「成功とは諦めなかった者だけが得る」。トバンはなんと6年後に工事を再開し、その2年後に完成した。

(日揮グループ代表)

重久吉弘(19)社長就任

厳しい業績 試練と奮起
創業来初 やむなく人員削減

世間では、社長に指名された時の感想を求められると「青天の霹靂だった」「自分に社長が務まるのか悩んだ」と答えることになっている。だが、本当は多くの新社長はそんなことは考えていないのではないだろうか。

不遜と言われるのを百も承知のうえで告白すると、前任の渡辺英二社長から「次は君にやってもらう」と言われた時に私は「やっとこの時が来た」と思った。日揮のために自分のすべてを注ぎ込み、それだけの実績をあげてきたという自負もあった。

何より、メガコンペティション時代の渦中にあって受注競争は一層熾烈になっており、1993年度をピークに94、95年度と急速に業績が悪化し、副社長としていてもたってもいられない、という心境だったからだ。

だが、やはり神様はこの大きな人生の節目で私に試練を与えて下さった。96年6月に社長に就任したが、96年度の当期純利益は122億円の赤字。97年度も102億円の赤字だった。新規受注案件が減る一方、過当競争で受注案件の採算も悪化していた。85~88年度の「第1次エンジニアリング冬の時代」ですら営業赤字にとどまっていたのに、社長就任から2期連続の最終赤字。

厳しい時期に引き継いだと言ってくれる人もいたが、社長になったという高揚した気分に浸る余裕もなかった。これも自分に与えられた運命だと腹をくくるしかなかった。

さらに、盛り返そうと期待していた東南アジア市場にも異変が起きた。97年7月のタイ・バーツ暴落に始まったアジア通貨危機だ。各国の新規プロジェクトは中止され、仕掛かりの案件でも工事中断や代金未払いが多発した。日揮もタイ、フィリピン、インドネシアなどのプロジェクトが中断、窮地に立たされていた。エンジニアリング業界全体が同じ苦境にあえいでいた。

この時期に最もつらかったのは創業以来初の人員削減に踏み切ったことだ。選んだ人を呼ぶと、「なぜ、私なんですか」と怒る人、「まだ働きたい」と泣く人。こんなことをするために社長になったのかと思うと本当に情けなく、心のなかで涙を流した。

そんななかで明るい出来事がひとつあった。横浜・みなとみらいへの本社移転だ。36階建ての高層ビルの3分の2近いフロアを購入し、入居した。業績好調の時に決めた話ではあったが、経営状況が悪化していく中で進めることに迷いもあった。だが、後年になってみると、いい判断だったと思う。

よかったのは今まで横浜・上大岡に設計などの技術部隊、東京・大手町に営業や総務が分散しており、意思疎通がなかなか難しかったのが、一緒になれたことだ。

電話やメールでやりとりするのと、顔をつきあわせて話すのとでは効率も意思疎通の深さも違う。横浜の高層ビルに日揮のマークを掲げられたことで社員も改めて誇りを持てるようになった。新社屋にはフィリピン、インドネシア、サウジアラビアなど多数の国から日揮グループの社員が常駐し、共同でプロジェクトに取り組み始めた。多国籍で異文化の社員が自由に共同作業できる空間にもなった。不思議なものだが、新社屋とともに経営の先行きにも明るさが見え始めた。

(日揮グループ代表)

重久吉弘(18)国際事業を統括

アジア成長他社も関心
過当競争で急激に採算悪化

1988年7月、私の肩書は国際事業本部長となった。2年前に常務取締役で本部長代理になってはいたが、名実ともに自分が打ち込んできた国際事業を統括する部門トップとなったのは正直うれしかった。

時代はよかった。日本はバブル経済のただなかで、アジア諸国も高成長が続いていた。89年のオーストラリア北西大陸棚の液化天然ガス(LNG)プロジェクトに始まり、イランのアラク製油所、インドネシアEXOR-1、マレーシアのマラッカ製油所など大規模案件の受注ラッシュが始まろうとしていた。

日揮の受注高は、88年の2152億円が89年度には3倍近い6010億円に急伸。エンジニアリング業界は、85年~88年まで続いた冬の時代から一気に真夏に突入した様相だった。しかも私が苦労して開拓してきたアジア市場が牽引車となっていた。

89年11月に「ベルリンの壁」が消え、90年10月に東西ドイツの統一、91年12月にはソ連邦が解体された。冷戦構造の崩壊であり、世界の経済活動は刺激を受け、活性化した。その最中の90年8月にはイラクがクウェートに侵攻する湾岸危機が起きた。国際事業本部長として、各地でプロジェクトにあたっている日揮や協力会社の社員の安全確保という問題を強く意識するようになった。めまぐるしい世界の動きのなかで、バブル景気は終わり、日本は長期低迷に突入しつつあったが、すでに海外が主戦場となっていた日揮にとってはむしろ飛躍の時期だった。

活況のビジネス分野には様々な国や企業が関心を持つ。エンジニアリング業界にも韓国の現代建設、大林産業、サムスンエンジニアリングや、国内市場が縮小した日本の造船、重機メーカーなどが続々乗り込んできた。湾岸危機後のサウジアラビアなど中東市場の落ち込みを受けて、米欧系もアジアに軸足を移してきた。「エンジニアリング産業のメガコンペティション時代」の始まりであり「夏の終わり」だった。

アジアでの受注が泥沼の乱戦に転じたのは93年ころからだ。日揮が第1期工事を受注したマレーシアのマラッカ製油所の第2期の商戦はとりわけ激しい競争となった。私は現地に「必ず取れ」と厳命した。受注高が急激に落ち始めており、工事残高を維持するためには大型案件のマラッカ製油所第2期工事が不可欠だったからだ。入札金額は見積もりを削りに削った「無理を重ねた金額」だった。それでも失注した。

米カルテックスとタイ国営石油によるスター製油所の入札も激戦になった。カルテックスはソウル駐在時代に私が開拓した顧客で、93年に競争を勝ち抜き受注。途中、阪神大震災で神戸港からの機器輸送が止まる困難もあったが、納期を短縮して完成させた。ただ、利益は予想を下回った。

東南アジアで多くの競合相手と熾烈なコスト競争の末に受注したプロジェクトは、結果的には採算の悪いものが多かった。受注競争の激しさは「価格破壊」と形容してもいいほどで業界全体が熱にうかされていたような状態だった。日揮だけではなく、世界のエンジニアリング会社が案件の先細りの中で目先の受注にばかり目が向いていた時代だった。

(日揮グループ代表)