萩本欽一(29)充電宣言

頂上到達 戸惑い大きく
予備校や後進育成 挑戦が夢に

週に3本のレギュラー番組「欽ドン」「欽どこ」「週刊欽曜日」がどれも視聴率30%を超え、足し算すると100%に達して、僕はテレビ界で「視聴率100%男」の異名をもらった。

光栄だなあ、と思う一方で、次の目標が見えなくなった。偉そうに言うと「エベレストの頂上に登っちゃった」感じ。僕の才能じゃあ視聴率40%の番組をつくるのは無理だ。第一、疲れた。「これダメ」「こういうの僕いやだ」って主張することもあった僕が「そうだね、それでいいよ」と物わかりが良くなった。「勤続疲労」のせいだろう。

1981年5月に不惑の40歳を過ぎたころから惑いが大きくなった。名峰を征服した登山家は頂上に長くいないで下りてくる。登るまでの挑戦は苦しく楽しい。でも到達すると、さっさと下山するしかない。僕は思った。「パラシュートで一気に下りたいな」

「休もう」。テレビからいったん消えて充電するんだ。「どうかしてますよ」と言われたけれど、「2歩下がって、これからを考えるんだ」と思って気にならなかった。85年3月のことだった。

唯一の例外が日本テレビの「欽ちゃんの仮装大賞」。「萩本さん、番組の主役は僕じゃなくて参加する人たちだって言ってましたよね」とプロデューサーに説得された。

暇になって始めたのが予備校通い。大人の言葉と常識を身につけたかった。新宿の予備校の夏季講習に通い出すと「生徒の気が散るんです」と言われ、日本史と英語の先生に家に来てもらった。

個人授業はつまらなかったので先生につっこみを入れた。「三分の一ぐらい面白い話を入れてよ」。ふたりは知恵を絞って話がだんだん面白くなって授業に身が入った。

参考書にも注文をつけた。重要なことが欄外の注に載ってたりするので「僕みたいな生徒向けに大事なことだけ書いた参考書つくって」とお願いすると日本史の先生がつくってくれた。自習もがんばって入試問題に挑んだ。そこそこの水準の文系私大に受かる学力はついたかなと思う。

半年間の充電期間中、いろんなことを考え、試みた。新しいことに挑戦する。それが新たな夢になった。

「出る」から「つくる」「つくりながら出る」へ。そして「育てる」。テレビに復帰しても模索を続けた。代表が野球。2005年1月創部の社会人野球の新球団「茨城ゴールデンゴールズ」は3月、日本野球連盟に加盟承認された。

さまざまな制約を相談しながら乗り越えた。試合中に僕がマイクパフォーマンスをして話題を集めた。本格的にテレビでやろうと考えていた。でも2006年7月、所属選手が暴行事件を起こして、チームは存続したものの、結局、僕は監督を退いた。

話は前後するけれど、1998年2月22日、長野冬季オリンピック閉会式の総合司会も思い出深い。手順も台詞も決まっていて最後に僕が「選手のみなさん、ありがとう」と言う段取りだった。僕は会場のみんなにアドリブで呼びかけて「ありがとう」の大合唱になった。

翌日、長兄の功から電話があって「母さんがね、欽一が立派になったって泣いてたよ」と言う。おふくろは僕の番組を見るたびに「欽一が笑われてる」とご機嫌斜めだった。やっと母親孝行ができたんだ。

(コメディアン)

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